五月の終わりのことである。とある県立高校の吹奏楽部新入部員である三輪雫の口は、思い切りへの字に曲がっていた。
「三輪、そんなアンブシュアじゃトランペットは吹けないぞ〜」
態とらしいほど明るい声が横から掛かると、三輪の眉間の皺が一本増えた。因みにアンブシュアとは、楽器を吹くときの口の形のこと。
現在、吹奏楽部は絶賛活動中で、校内のどこにいても色んな楽器の音が聞こえてくる。何かの曲の一部とかではない、基礎練習のハーモニー。
「一分前に休憩しようって言ったの先輩ですよ。俺が今休憩中で、トランペット膝に置いてるの見えませんか。目ぇおかしいんですか」
「見えてるわ!冗談交えて不機嫌なお前の悩みを聞いてやろうってんだよ!とっとと吐け!」
「不機嫌じゃないです」
「不機嫌だよ!パートの空気が悪くなるから、俺がお前連れ出して、マンツーマン状態で練習してんだろ!」
「よく喋るっすね」
「お前、俺が先輩ってわかってる?!」
「わかってますよ、丸井先輩でしょ?」
三輪の目に余る失礼な態度に全力でツッコミを入れるのは、トランペットパートの二年生である丸井だ。丸いメガネがトレードマークである。丸井は、このやっかいな一年生を押し付けられた上に、お悩み相談まで任されていた。
「もぉ〜〜、なんでコイツこんなに可愛くねぇの?!」
丸井が大袈裟に喚いても、当の三輪はトランペットのピストンを指で弄るだけで無視。
ふたりが並んで座っていたのは窓際だったので、気持ちの良い風が当たる。軽く俯く三輪の黒髪がサラサラと靡くのを見た丸井は、メガネをくいっとあげて「絵になりすぎてムカつく」と評した。
「やっほーーー。うちのひねくれ王子のご機嫌はいかが?」
「部長ぉーー!ヘルプ!そしてチェンジ!」
「おーおー、丸井よ。奴の相手はさぞ大変だったことだろう」
三輪と丸井が練習をしている教室に顔を出した女子生徒は、トランペットパートの三年生。そして、吹奏楽部の部長を務めている。部長である宿命により本名で呼ばれることはほぼない上、とうとう先日、小テストの名前欄に自ら『部長』と書いてしまったそうで落ち込んでいた。
そんな部長のあんまりな言いように、三輪は俯いた姿勢のまま、目線だけを前に向けた。
「うわ、三輪お前、なんて目で私を見るんだ。私先輩、そして部長」
「なんなんすか、みんな寄ってたかって。俺が不機嫌だと思うなら放っておいてくださいよ。練習は真面目にやってるんだから、それでいいでしょ」
うーん確かに正論。そうは思いながらも、隣に座っている丸井は、三輪の顔を覗き込んだ。
「確かにそうだけどさ。お前、元気ないんだもんなー。みんな、それがわかってるからさ」
「・・・別に、元気ありますって」
心配が滲んだ丸井の声に、流石の三輪も、すこし萎んだ返事をした。このクソ生意気な一年生は、こういうところがある。捻くれていて口も悪いが、本心を伝えれば、分厚い鎧を少し脱いでくれる。苦笑いをした丸井が視線を向けると、部長はそれに肩をすくめて応えた。
「ホントに・・・。可愛くないようで可愛いようで可愛くないよお前」
「部長、それどっちですか。俺、悪口言われてますか?」
「さて、そんな悩める三輪くんに朗報があります。心して聞けよ」
「は?」
勿体ぶった言い方をした部長は、「さっき、えーちゃんに教えてもらったんだけどね」と、吹奏楽部の朗らかな顧問の名前も付け足した。
「鳥海くん、保健室登校してるんだって。今日も学校、来てるみたいだよ」
「・・・え?」
部長が口にしたのは、吹奏楽部のもうひとりの男子新入部員の名前だ。
鳥海、という名前を聞いて、ポカンと口を開けた三輪の表情は、あどけなくて中々にレアだ。せっかく超がつくほどのイケメンなのだから普段からそんな顔をしていれば、もっと可愛がり甲斐があるのにと、ふたりの先輩はしみじみと思った。
さて、そんな後輩だが、不機嫌になる程の悩みを解決するチャンスだ。部長が持ってきた朗報に、少なからず丸井も驚いたが、そっとアシストしてやることにした。
「今、丁度休憩中だしさ、鳥海くんのところ、行ってみれば?お前、吹きすぎてそろそろ口が痛いだろ。ほら、早くしないと帰っちゃうかもだし」
「え、いや、急に会いに行くとかキモいでしょ。向こう、絶対俺のこと覚えてないし。てか、学校嫌なら、人に会いたくないかもだし・・・」
「お前、その思慮深さどこに隠してたんだよ。ホントに三輪か?」
「丸井先輩に発揮する機会が無いだけです」
「あ、良かった。いつもの三輪だ」
「良くない!マジで理由ないのに無理ですって!いきなり会いに行くとか!」
「でも、鳥海くんに会えないから落ち込んでたんだろ?」
「そっ、それはそうだけど・・・!」
「それはこの部長に任せなさい!」
滅多にない狼狽え方をする三輪に、割って入った部長はドンッと自分の胸を叩いた。
「うわ、アホな仕草・・・」
「この人、頭の良いアホだから・・・」
自分の胸を強く叩きすぎて涙目で咽せる部長が、持っていたクリアファイルから取り出したのはA4用紙である。
「このプリントを鳥海くんに渡してくるお使いを、三輪にお願いしよう」
「お、お使い?」
小学生時代ぶりに聞く言葉に、三輪は目を瞬かせた。
「なるほど。部活関連のお知らせなら、確かに三輪が持って行っても変じゃないですね」
丸井が漫画みたいにガッテンのポーズをする。
「でしょ!因みにこのプリントは、今捏造してきた!」
「何してんだ、アンタ?!」
「この人、能力の高いアホだから・・・」
破天荒な部長に、三輪は目を剥いた。慣れているのか、丸井はやはり諦めたような遠い目をしていた。
「三輪よ」
「な、なんすか」
タンッタンッと、室内履きのシューズとは思えない迫力ある音を立てながら、部長は三輪の目の前プリントを突き出した。
「嘘は書いていない。鳥海くんが部活に復帰してくれるなら、絶対に必要になる情報ばっかりだから。安心して」
三輪が受け取って見れば、『吹部通信』と題して、吹奏楽部の活動に関する最新の情報が綺麗な字でまとめられていた。絶対に部員に配るべきクオリティである。何故、今まで作らなかった。部員の多さが原因で情報が滞っては阿鼻叫喚に陥る音楽室が、三輪の脳裏をよぎった。
「私だって、鳥海くんに戻ってきて欲しいもん。その為の初手を、たまたま三輪にお願いするだけ。そんなに気負わずお使いしてきてくれればいいから、ね?」
部長は、急に部長らしいことを言った。突拍子もないことをするが、部長としては、三輪のことも鳥海のことも案じているらしい。
「ほら、一年に男子はふたりしか居ないんだから、三輪が行くのも自然だって。何も今から告白しろって言ってんじゃないんだからさ。三輪に下心があるなんて、鳥海くんは気づかないよ〜。それに、このままだとマジで脈ナシよ?」
「・・・・・」
前言撤回。
「部長、デリカシー死んだんですか?三輪の顔色ヤバいことになってますよ」
丸井は、部長の言葉に黙って顔を青くしたり赤くしたりしている三輪が可哀想になってきた。よく考えれば当たり前だろう。不登校になってしまった想い人に、いきなり会いに行くなんて。良い機会だと思ったが、流石に酷だ。しかし、今日、三輪が行けないとしたら、鳥海がさらに学校からも部活からも遠のいてしまう気がした。
「三輪、今日のところは俺が様子見てくるよ」
「いやっ、それはっ」
丸井が、代わりに鳥海に届けようと、プリントに手を伸ばすと、三輪が反射のようにそれを避けた。
「・・・俺、が行きます」
そんな三輪に、部長と丸井は目を見開いた後、微笑んだ。生暖かい眼は、正直ちょっと鬱陶しい三輪であった。
鳥海楽は三輪と同じ一年生で、吹奏楽部の新入部員ではあるが、現在は幽霊部員と化している。入部してわずか一週間ほどで、部活に来なくなってしまった。授業にも出席していない所謂不登校のようで、鳥海と同じクラスの部員ですらお手上げ状態だった。
「一ヶ月ぶりくらい・・・か?」
音楽室があるのは旧校舎の四階、最上階の端っこである。楽器ごとのパート練習も、その近辺の空き教室で行う。
「俺のこと、覚えてるわけない・・・」
そして、今、三輪がノックすら出来ずにいる保健室は、新校舎の一階にある。長い長い廊下を、三輪の長い脚にしては随分ゆっくりと歩いてきたが、緊張は解けなかった。だから、引き戸に嵌められた磨りガラスの向こうの人影に全く気づかなかった。
「どうしたの?」
「うわっ」
「ずっと立ってるから。一年だね。怪我?調子悪い?」
ガラガラと引き戸を開け、声を掛けてきたのは、まだ三輪が名前を覚えていない、この学校の保健医だった。当たり前だ。保健室には保健医がいる。鳥海にいきなり話しかけるわけではないことに気づいて、三輪は力が抜けた。
「吹奏楽部一年の三輪です。鳥海くん、いますか?部活のプリント、持ってきたんすけど」
「あっ!鳥海くんに!?」
保健医は嬉しそうに声を上げると、「入って入って!」と三輪を迎え入れた。
「・・・失礼します」
初めて入った高校の保健室は、中学の時と大差ない。独特な消毒液の匂いは、何故か懐かしいような気持ちにさせるが、三輪は保健室にお世話になるタイプではなかったので特に思い出はなかった。
鳥海は何処かとぐるりと見渡すが、誰もいない。三つあるベッドを囲うカーテンは全て開けられていてシーツはピンと伸びているから、寝ているというわけでもなさそうだ。
「あ、私は佐藤といいます。保健室にいない時は職員室にいるから。何かあった時は言ってね」
佐藤は、自己紹介をしながら保健室の壁に取り付けられた扉に向かった。どうやら、隣の教室と繋がっているらしい。扉にはプレートが掛かっていて、ポップな文字で『生徒相談室』と書かれていた。
鳥海はそこにいるのか。なるほど、学校での居心地が良くないのに保健室にポツンと居るのでは心配だったが、ちゃんとした空間があるのなら安心だ。
心の中で納得して胸を撫で下ろしたところに、いきなり佐藤が扉をノックしてドアノブに手を掛けたものだから、三輪はぎょっとした。
「ま、待ってください。いきなりだと、鳥海くん驚きませんか。ていうか、今の鳥海くんの状況とか、少しくらい説明とかするでしょ、普通。あんた、教師だろ。しっかりしろよ」
「えっ、生意気。そして過保護」
開きかけた扉を抑えながら詰る三輪に、佐藤は目を瞬かせた。そして、にっこりと笑った。ドアノブの手はそのままだ。
「・・・君、いい子だねぇ。口は悪いけど」
「は?」
「鳥海くんなら大丈夫だよ」
再びノックをした佐藤は、ドアノブを回して引いた。
「ちょ、あんた、話聞いてたのかよ?!」
「鳥海くーん。お客さんだよー」
「お客さん?」
中から、自分よりも高い、でも声変わりを終えた男の声がした。久しぶりに聞くその声を、三輪はしっかりと覚えていた。鳥海の声だ。
「吹奏楽部の三輪くん。わざわざ会いにきてくれたんだよー」
「あ、いや、会いにきたとかじゃなくて、ただプリントを渡しに・・・」
佐藤に釣られて勢いで入った生徒相談室は、奥行きはあるが狭い部屋だった。普通の教室の、三分の一くらいの広さしかない。部屋の奥、つまり窓際には、小さなソファとローテーブルが置かれていた。その向かいに椅子が二つ。ソファに座っていた男子生徒が、三輪を見て立ち上がる。
「三輪くん」
もしかしたら、初めて名前を呼ばれたかもしれない。
「・・・名前」
「ん?」
ぼそりと呟いた三輪に、鳥海楽がコテンと首を傾げた。
「・・・俺のこと、覚えてるの?」
「うん。だって、一年の男子部員、ふたりしかいなかったし」
「・・・そっか」
きっと、自分の顔は今、赤くなっている。わかっていたが、三輪はジリジリとする頬をどうすることもできなくて、気にせずに続けた。
「元気そうでよかった。ごめん、いきなり来て。これ、部長から」
三輪が、部屋の奥に少し進んでクリアファイルごとプリントを差し出すと、鳥海はソファとローテーブルの間から猫のようにするりと出てきて、三輪の前に立った。
「わざわざ嬉しいなぁ」
プリントを受け取った鳥海は、三輪の登場にも臆せず、本当に嬉しそうに笑っている。「ありがとね」と、目を見てお礼を言われてしまった。
不登校の生徒というと、もっと暗いとか、おどおどしていると思っていた。
三輪が心の中で偏見を正していると、佐藤が腕時計を気にし始めた。
「鳥海くん、三輪くん。私、職員会議があるから行くね。保健室は閉めちゃうから、帰る時は廊下側のドアから出て。鳥海くん、鍵の場所わかるね?」
「うん、大丈夫ですよ。いってらっしゃい」
「うん。じゃ、三輪くんも、来てくれてありがとね」
鳥海に戸締りの確認をして、最後に三輪に顔を向けた佐藤は、手を振りながら生徒相談室を出て行った。本当に、鳥海については大して心配していないらしい。むしろ、三輪の心拍数の方が心配だ。
密室に二人きりになった事実に動揺しながらも、軽く頭を下げて佐藤を見送った三輪は、ドアに向かって小さく手を振っている鳥海を盗み見た。
一八〇センチ近い背丈がある三輪から見ると、鳥海は小さい。ギリギリ、一七〇センチといったところだ。見下ろすと、まつ毛が長いのがよくわかる。三輪とは違ったタイプの美形で、部活に来ていた頃は、可愛い可愛いと持て囃されていた。今年入部した二人の男子部員が揃ってイケメンだったため、吹奏楽部の盛り上がり様は凄まじかった。
正直なところ三輪は、鳥海が不登校になった原因は、そこにあると思っている。
入部初日、鳥海は先輩たちに質問攻めにされていた。あたふたとした身振り手振りは、「困っています」と言わんばかりだった。この三輪ですら、気の毒に思うほどだ。
しかし、三輪は面倒ごとに関わりたくはなくて、遠目からそれを見ていた。だから、鳥海と目が合ってしまった瞬間、すぐに逸らした。それだと言うのに、鳥海は初対面の三輪の背中に逃げ込んできたのだ。怯えているのを突き放す訳にもいかず、代わりに先輩たちを追い払ってやった。
改めて後ろを覗き込むと、顔色悪く自分の背中のシャツを掴む鳥海がいた。そして、三輪は気づいた。
あれ、こいつ、可愛くね?
そう心の中で言葉にした途端、顔は真っ赤になったし、体も石みたいにカチコチになった。鮮やかに一目惚れをキメた瞬間だった。
先程まで鳥海に絡んでいた先輩たちも、恋が始まる瞬間を目撃して「あらあら」と口に手を当てていた。
そんな出会いの後、先輩や同級生の女子たちに囲まれては困っている鳥海をよく見かけた。三輪はといえば、鳥海とは担当する楽器が違うこともあって、上手く話しかけられずにいた。そして、気づいた時には鳥海は部活に来なくなっていたのである。
よって、女子部員たちに原因があると睨んでいる三輪の周りへの当たりは、若干キツい。まぁ、もともとキツい性格なのだが。
「ねぇ、三輪くん」
声を掛けられ飛んでいた意識を戻すと、鳥海が三輪を見上げていた。
「えっ、なっなに?」
上目遣いは破壊力がすごい。三輪よりもずっと色素の薄い目に見つめられて、三輪はたじろいだ。
やばい、俺ダサい。
だらしない顔にならないよう、三輪はぎゅっと眉間に力を入れた。しかし、そんな三輪に、鳥海は何か勘違いしたらしい。形の良い眉毛がへにゃりと下がってしまった。
「ごめん、時間取らせちゃったね。部活、戻んなきゃだよね」
鳥海は、三輪が時間を気にしていると思ったのだろう。確かに、三輪は部活を抜け出してきたが、先輩ふたりの応援を得ている。しかも、ほぼほぼ部長に仕組まれたようなものだ。きっと、しばらくここにいても問題はない。三輪は、何より少しでも鳥海と話がしたかった。
それに、鳥海の表情にも寂しさを感じるのは、三輪の願望だろうか。
「部長に頼まれたことだから、時間は気にしなくて大丈夫。もう少し、ここにいてもいい?」
部長の名前をありがたく使わせてもらうと、鳥海の瞳が輝いた。
「ホント?最近、先生たちとしか話してなかったからそろそろ誰かと話したくて。三輪くんがいいなら」
鳥海はいそいそとソファに戻ると、側に置いてある電気ポットのボタンを押した。横には紙コップと紅茶のティーバッグが並んでいて、それを手際よくセットしていく。
「座って座って」
立ったままだった三輪は、ローテーブルを間に挟んで置かれた椅子に座ろうとした。しかし、鳥海がソファの空いたスペースをポンポンと叩くので、ぎこちなく隣に腰を下ろすことにした。
鳥海が自習していたのだろう。テーブルの上には教科書やノート、筆記用具が広がっていたが、あっという間に片付けられてしまった。正直、鳥海の書いたノートなら見てみたかった。
「お茶、淹れるの慣れてるね」
「うん。もう一ヶ月くらいここにいるから」
ということは、部活に来てない間も鳥海は学校にいたのだ。
「もっと早く会いに来ればよかった・・・」
「ん?」
三輪の呟きは、電気ポットが沸騰を知らせる音を立てて掻き消した。
紙コップにお湯が注がれ、ティーバッグから茶色が滲み出てくる。「どうぞ」と、それを渡された時に鳥海の指に触れてしまい、三輪は危うく熱湯を溢すところだった。ことごとくダサい。
「・・・鳥海くんは、えーと」
挙動不審を誤魔化すように話し始めたが、そこから先が見つからない。他の人間相手には、失礼な言葉がボロボロ出てくるのに、鳥海のことは絶対に傷つけたくなかったし、何より嫌われたくなかった。
言葉を探すようにティーバッグのタグをイジる三輪に、鳥海が助け舟を出してくれた。
「みんなすごく心配してくれるんだけど、俺が不登校になった理由、そんな大したことないんだ」
苦笑いした鳥海に、「三輪くんって中学どこ?」と、急に聞かれて、三輪は頭にハテナを浮かべながらも「北中」と、高校と同じ市内にある中学を答えた。
「鳥海くんは、確か県外から通っているんだっけ?」
「そう!それなの!」
「ぅえ!?」
ぎゅんっと向けられた鳥海の顔に、三輪は思い切り仰け反った。
「俺の中学、いや小学校もそうだけど、本当に田舎で全校生徒二十人もいなかったんだよ?それが、こんなに人がたくさんいる学校に来て、もう、本当にびっくりしてびっくりして・・・」
「え、じゃあつまり、鳥海くんが学校に来れなくなった理由って・・・」
「ただ単に、たくさん人がいるのが緊張するからです」
「えーーーー・・・」
拍子抜けしてしまった三輪の反応がお気に召さなかったのか、鳥海は渋い顔で紅茶を啜っている。
「あ、いや、ごめん」
「いいよ、自分でも呆れてるから」
ぐーっと首を伸ばして、頭をソファの背に預けた鳥海は「そろそろ慣れなきゃとは思ってるんだけど」と溢した。瞳と同じく色素の薄い柔らかそうな髪から、ふわりといい匂いがした。
三輪はというと、段々と理解が追いついてきて、鳥海と同じように頭をソファに預けた。大きめの溜め息が出て、鳥海がこちらに顔を向けるのが視界の端に映る。
「結構ね、心配してたんだ。もし、もう部活来てくれなかったらどうしようって。良かった、これから慣れていくつもりなら」
「・・・うん。それは・・・ありがと」
ふたりの並んだ頭の向こうには、丁度窓があって開け放たれていた。色んな部活の音がする。運動部の掛け声や、ボールがバットに打たれる音。もちろん、楽器を奏でる音も。相変わらず、みんな真面目に基礎練ばかりしている。
「三輪くんは、トランペットだよね」
「うん、よく知ってるね」
トランペットの伸びやかな音が聞こえてきた。きっと部長の音だ。相変わらず、よく通る音だ。
なんだか、のんびりとした時間が流れている。なんだかんだずっと忙しない高校生活で、初めての体験だった。
「俺、ずっとこうやってみんなが練習する音を聞いてたんだ」
「うん」
「それで、どの音が三輪くんの音かなーって、ずっと考えてた」
なんだか、急に凄いことを言われている気がして、三輪は固まった。
「トランペットだってことは知ってたんだけど。吹いているところはしっかり見たことなかったから、どの音かまでは、わからなくて」
そう言った鳥海を正面から見たくて、とうとう三輪は顔を向けた。
鳥海は、まだ三輪を見ていた。
別に、お互いの顔が至近距離にあるわけではない。でも、この一ヶ月を想ったらあり得ないぐらい近い。急接近した心の距離に、三輪は紙コップを持つ手に力を入れた。
そんな三輪に気付いたのかそうでないのか、鳥海は
ふっと笑って「覚えてないと思うけど」と切り出した。
「初めて会った時、ありがとね。先輩たちから助けてくれて」
覚えているどころではない。恋に落ちた瞬間、なんなら初恋である。
「覚えてる。めっちゃ覚えてる。俺、あれが嫌で部活来なくなったんだと思ってた」
「んー、確かにすごい困ってたけど。さっき言った通り、たくさん人がいることに慣れてないだけだったから、嫌なわけじゃないよ?それより、三輪くんが庇ってくれたのが嬉しかった」
「えー、あんな庇い方で?」
三輪の言動は、お世辞にも良いとは言えない。あの時も、かなり失礼な言葉で先輩たちを追い払った。確か「下級生にそんな鼻息荒く迫らないでください。変質者がいるって通報されますよ」とかなんとか言った気がする。
「ふふっ」
鳥海も思い出しているのか、クツクツと笑っている。
「三輪くん、カッコよかったよ」
「えー、そう?」
あからさまに照れている声を出してしまった。
あの出来事をきっかけに、三輪の捻くれた性格が部内に知れ渡り、顔だけでチヤホヤされることがなくなった。鳥海に負けず劣らずウザ絡みされていたので、三輪としても助かっている。だが同時に、三輪の恋心まで一部の人間に気づかれているので、時折若干鬱陶しい。
「初対面の先輩相手にもあんな風に言い返せて、すごいよ」
三輪を見る鳥海の目は、キラキラしている。多分、本気で褒めてくれている。あまりに真っ直ぐに伝えられると、そんな出来た人間じゃないと言いたくなるから、やはり自分は捻くれている。
「俺ね、別に最初から物怖じしなくて口が悪いわけじゃないよ」
「そうなの?」
鳥海の目がパチクリと音を立てた。
「生まれた時からこんな感じかと思った」
「そんなわけないじゃん」
今、言うべきことでもない気がする。でも、今、言いたくなった。好きな人とふたり、非日常を感じているせいかもしれない。
「俺、ゲイなの」
また、鳥海の目がパチクリと音を立てた。
「見た目がこんなんだからさ、小さい頃から女子にすごいモテて。それで男子には僻まれて。興味があるのは男なのにさ。人間関係、面倒臭く思うようになった。全部馬鹿馬鹿しくなって、愛想とか気遣いとかする気も失せて、こんな風になっちゃった」
三輪はへらりと笑った。すごく久しぶりに笑った気がする。あまり笑い慣れていないから、下手くそだろう。
「俺のことも、面倒臭かった?」
鳥海が思わぬ角度から質問を投げて、今度は三輪の目がパチクリと音を立てた。
「面倒と思ったら、俺、ここに来ないよ。心配だったから会いに来た」
カミングアウトした上にここまで言えば、大体の人間は好意を察する。ちょっと心は痛むけど、黙ってしまった鳥海に重く受け取って欲しくないから、やっぱり下手くそに笑った。
「・・・この体勢さ」
鳥海は、変わらずソファに頭を預けたまま三輪を見ている。
「うん」
「なんか、添い寝してるみたいでドキドキする」
「・・・うん?」
「俺、言ったじゃん。三輪くんのことカッコいいって」
鳥海は色白だから、頬が赤く染まっていくのがよくわかる。
「好きな人に、好きになってもらえる可能性があるってわかって、浮かれてる」
浮かれてる、と言いながらも鳥海は赤い顔を顰めている。
「なんで、険しい顔してるの」
「ぬか喜びだったら辛いから」
一体、何が起きている。
フワフワと飛んでいきそうな意識を何とか捕まえて、三輪はゴクンと唾を飲み込んでから「ぬか喜びじゃないよ」と掠れた声で言った。
「初めて会ったあの時から好きです」
三輪がやっとの思いでそう言うまでには、鳥海の眉間の皺は消えていた。
「俺も、初めて会った時から好きです」
くしゃり、と笑った鳥海は死ぬほど可愛かった。顰めた真っ赤な顔だって、死ぬほど可愛かった。
しばらくの間、ふたりでぼんやりしていた。
「俺、初恋で恋人出来ちゃった」
「俺も」
「え、マジ?」
穏やかな時間の収穫としては、鳥海も三輪が初恋だということが発覚した。めちゃくちゃ嬉しい。
「ねぇ、鳥海」
そして、お互いを呼び捨てすることで落ち着いた。三輪も鳥海も、君付けする質ではないのだ。
「今から、部活に顔だけ出してみない?」
「え?」
「多分、トランペットとホルンが、一緒の教室で練習してると思うんだ。人数も多くないし、俺も居るし、どうかな」
鳥海はホルンパートだ。トランペットと同じく金管楽器で、音域は少し低め。柔らかい音を出すカタツムリのような形の楽器である。トランペットとホルンは、先輩たちの仲が良いため、最近はよく同じ教室で練習している。
「い、行く!」
ホルンの音色だって、ずっと聞こえていたはずだ。吹きたくてうずうずしていたのだろう。鳥海は三輪の提案に、前のめりで乗ってきた。
「よし、行くか」
ふたりでテキパキと片付けをして、鳥海は通学カバンを持ち、佐藤との約束通りしっかり戸締りをした。
三輪が、職員室に鍵を返しに行った鳥海を廊下で待っていると、中から佐藤や他の教師の嬉しそうな声が聞こえてきた。どうやら、鳥海が部活に参加することを喜んでいるらしい。
「髪の毛、ぐしゃくしゃになってない?」
「先生たちにすごいワシャワシャされたから・・・」
戻ってきた鳥海の頭は、ボサボサになっていた。随分可愛がられているようだが、三輪としてはあまり面白くないので、念入りに整えてやる。
「鳥海の髪、フワフワだな」
歩き始めても髪を触るのをやめない三輪に、鳥海はむずかるように頭を振った。
「寝癖すごいから、毎朝大変なんだよ。三輪の真っ直ぐの髪の方が羨ましい」
「へぇー、寝癖、見てみたいな」
何気なく返したが、会話が止まるぐらいには、お互い意識している。寝るとか、その手の話題には敏感なのだ。年頃なので。
「早く見れるといいね」
「・・・是非お願いします」
むず痒い会話を繰り返していると、楽器の音が大きくなってきた。混ざって、部員の笑い声も聞こえる。
鳥海が立ち止まった。両手で持った部長お手製プリント入りクリアファイルが、ぐにゃりと曲がっている。
「鳥海」
三輪は軽く呼んで、左手を差し出した。
「うん」
強く握り返してきた鳥海の手は、ひんやり冷たかった。三輪はもっと強く握って、廊下を進んで行った。
「戻りましたー」
いつも通り、覇気も敬意もない敬語と共に戸を引いた三輪に、教室にいた全員が振り向いた。
「どうだった?!」
トランペットパート、八人。ホルンパート、五人。計十三人。吹奏楽部全体では六十八人いるので、それよりはマシだが、十分姦しい。三輪が鳥海に会いに行ったことを、部長と丸井だけではなくここにいる全員が知っているようだ。逆に都合が良い。
「鳥海」
いつかと同じように、三輪の背中に隠れていた鳥海を呼んで、今回は前に出した。
「鳥海くん・・・」
教室の、全ての目が点になった。
「あ、お、お久しぶりです」
人数が少ないからか、背中をぴったり三輪に預けているからか、鳥海はしっかりと顔を上げていた。
「来てくれたんだー!」
「でかした、三輪ー!」
弾けるような歓声の後、喜びあまり、鳥海の手を握り締めようとする先輩たちの手をはたき落としながら、三輪は経緯をざっと説明した。
「つまり、鳥海は大人数が苦手なんで、段々慣らしていくそうです。あと、前みたいにウザ絡みしないように」
「よ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる鳥海に、みんな、うんうんと頷いている。
「グイグイ行きすぎて本当にごめんね。戻ってきてくれて嬉しいよー」
「あっ、全然それは。俺、人がたくさんいることに慣れていないだけで。先輩たちがフレンドリーで、すごい嬉しかったですよ」
「鳥海くーん!」
鳥海が部活に来なくなったことに責任を感じていたのか、思い当たる節があったのか、ホルンパートの面々に至っては涙ぐんでいる。
「鳥海、この人たちつけ上がるから、ガツンと言った方がいいよ」
「あ゛ぁ?三輪、てめぇ、なんだと?」
「ふふっ」
「鳥海くん笑った!可愛い〜」
「見ないで下さい。可愛い鳥海が減ります」
「お前ホンット可愛くないな?!」
「あははっ」
ホルンパートと茶番を繰り広げる三輪の両側に、ニュッとふたつの頭が生えた。
「随分と仲良くなったようだな、三輪よ」
「ナイスアシストだったようだな、三輪よ」
部長と丸井が、爽やかにサムズアップしながら三輪の肩に腕をかけた。
「うわ、メンドクセー」
根掘り葉掘り探られる気配を感じとり、三輪は速やかに脱走を選択した。
「鳥海、音楽準備室行こ。ホルン、取りに行こ」
「うん」
先輩たちに「ちょっと行ってきます」と会釈する鳥海の手を引いて、三輪は教室から抜け出した。
「いってらっしゃーい」
三輪が肩越しに見ると、教室から顔を出した十三人全員がサムズアップしている。
そういえば、三輪の恋心を知っているのはトランペットとホルンのメンバーだ。
これから散々揶揄われるだろうと、三輪はげんなりしたが、繋いだ手の先の鳥海が嬉しそうに見上げてくるので、全てどうでもよくなった。
その日から、鳥海は部活に毎日顔を出すようになった。少人数のパート練習から始めて、二週間が経つ頃には全体練習にも参加できるようになった。
反省したのか、女子部員たちが群がってくることもなく穏やかに過ごしている。常に三輪が隣にいるので、腫れ物扱いも特にされず、気さくに喋りかけられては、鳥海は嬉しそうにしていた。
「三輪くん三輪くん」
本日最後の合奏が終わると、グランドピアノの陰から声が掛かった。
「瑛二先生」
大きな体を何故か小さくしているのは、吹奏楽部の顧問だ。上級生からは「えーちゃん」と呼ばれている通り、みんなに好かれる優しい顧問である。
「こっちこっち」
手招きされるまま、えーちゃんと同じようにグランドピアノの陰にしゃがみ込む。
「なんで小さくなってるんすか?」
「僕、大きいからね。怖がらせちゃ悲しいし」
ついさっきまで、背筋を伸ばして指揮棒を振っていたのに。百キロ超えの顧問は繊細である。
「鳥海くんのこと、ありがとね」
ここ数週間で、幾度と言われた言葉である。えーちゃんからは三回目。だが、今回は続きがあった。
「親御さんとも話して、本人のペースに任せようってことになってたんだけど。やっぱり、一歩踏み込むって大事だね。こんなに早く、楽しそうな鳥海くんが見れちゃった」
えーちゃんが視線を向けた先に、ホルンの手入れをする鳥海がいた。ここからでも、ご機嫌なことがよくわかる。鳥海は、音楽室でも大分リラックスできるようになった。
「鳥海、明日からは教室に行ってみるそうです」
「本当に?!担任の先生も喜ぶよ〜」
「朝のホームルームでギブアップしそうって言ってたけど」
「いいよいいよ、すごい進歩だよ〜」
えーちゃんは、嬉しそうに大きな体を揺らした。だが、三輪は手放しに褒められることに、居心地の悪さを感じていた。
「・・・別に、俺がいなくても鳥海は大丈夫でしたよ。元々、明るいやつだし」
少し拗ねたよう口調になってしまったのは、誰かに吐き出したかったからだ。
鳥海の進歩は本当に著しい。三輪が手を貸したことは、小さなきっかけにすぎない。三輪はいじけて、えーちゃんを真似して丸めた体を揺らした。
そんな三輪に、えーちゃんは目を細めた。
「不登校ってね、小さな理由で始まっても、時間が経つと、どんどん戻ってくるのが難しくなっちゃうんだよ。辛い理由じゃなくて良かったけど、鳥海くんだってどうなっていたかわかんない。高校は、退学もあり得るしね。この部でも、三年生の代の子がひとり、退学してるし、退部者だって何人かいる」
部長が鳥海に話しかけている。部長は、予め部員全員に、鳥海についてそれとなく説明してくれていた。今までの言動が、三輪を面白がっているのか、鳥海を心配しているのかどちらか怪しかったが、どうやら後者が本心だったようだ。いや、今現在三輪を揶揄って遊びまくってはいるが。
「部長もホルンの上級生もね、結構気にしてたから。本当によかったよ。みんな、三輪くんに感謝してるよ」
「俺、ホントにそんな良いことしたんすか?」
「手を引っ張ってくれる誰かがいるって、すごいことよー」
そう言って立ち上がったえーちゃんは、まだしゃがんでいる三輪に手を差し出した。巨大なクリームパンのような手を掴むと、グンッと凄い力で三輪を引っ張って立ち上がらせた。
立ち上がると身長は大して変わらないが、横幅が全然違う。
「ほらねー!」
「いや、こんな馬鹿力で引っ張ってないよ、俺」
でも、いじけた気持ちが和らいだ気がした。
次の日の早朝、三輪は学校の最寄駅にいた。自転車通学をしている三輪がこの駅に来るのは初めてである。
数分して、駅に電車が停車した。
「鳥海!」
「三輪!」
改札の向こうに、鳥海を見つけた。三輪は駆け寄りたかったが、いかんせん自転車あるので鳥海が来る方が早い。
「おはよう」
「おはよ!」
「電車、大丈夫だった?」
「うん、スカスカだった」
鳥海の苦痛のひとつに、電車通学があった。県外から山を越えて通学しているので、電車に乗らねば通学出来ない。田舎といえど、通勤通学の時間帯はそこそこ混むのだ。今までは、それを避けるために遅刻確定の時間に登校していたらしい。だが、今日の鳥海の目標は、朝のホームルームに出席することである。よって、思い切って始発。
「三輪まで早起きする必要なかったのに」
「嬉しくないの?」
「嬉しいけどさ」
早朝すぎて、小さな駅には誰もいない。
鳥海は人の多さに目を回していたが、生徒数こそ多いが三輪たちが通う高校があるこの街は、そこそこ田舎である。この駅に至っては無人駅だ。
学校は、ここから歩いて五分ほど。おそらく、まだ教室は鍵がかかっている。
「ちょっと時間潰そうよ」
鳥海も同じことを考えたのか、駅前のベンチに腰掛けた。三輪も自転車のスタンドを立てて、隣に座った。
「隣に三輪がいないの、初めてだから緊張する」
「ホームルームが終わったら、すぐに鳥海のクラスに行くよ」
鳥海の手を軽く握りながら、三輪は言った。相変わらず、三輪よりも一回り小さくて冷んやりしている。
「不安?」
「うん。そりゃあね」
鳥海は、三輪の指を弄り出した。落ち着かないのだろう。さらに、ずるり、と鳥海の体重が三輪に掛かった。身体の左側が暖かい。
六月も中盤だが、早朝はまだ涼しくて、鳥海の体温は心地よかった。肩に乗せられた鳥海の頭に顔を寄せて深呼吸した。
「ちょっと、嗅がないでよ」
「だって鳥海、いい匂いするから。今日は、ちょっと寝癖残ってるね」
「早起き、苦手じゃないけどそこまで余裕なかったの」
嗅ぐなと言う割に、鳥海は三輪の肩から頭をどかさなかった。
「ねぇ、三輪」
「ん?」
「キスしていい?」
「ん。え?」
「今日、結構勇気必要だから。パワーちょうだい」
むくりと、身体を起こした鳥海の顔は真っ赤だ。
「ふふっ。三輪、顔真っ赤」
どうやら自分の顔も真っ赤らしい。
「い、いいの?」
これだけ側にいて、何も考えなかった訳ではない。それどころか、もっと先のことまでひとりで想像しては慰めている。
「それはこっちの台詞。していいの?ダメなの?」
答えなんて決まっている。
三輪が両手で頬を包むと、鳥海がさらに三輪の手を包んだ。全てが未経験なので、唇に唇を命中させる自信がなく、ひとまず額を合わせる。
「ふふっ。心臓潰れそう」
至近距離で鳥海の笑顔を喰らって、三輪は堪らない気持ちになった。多分、少し勃っている。
「するよ」
「どうぞ」
お互い、目を閉じることなく唇を合わせた。
馴染ませるようにくっつけていると、鳥海が目を閉じた。
「んっ。ちょっと、タイム」
「やだ、もっと」
肩を押されたが、弱い力だった。鳥海の唇は、三輪の動きに応えるように少し開いた。恐る恐る舌を入れると、ちょん、と柔らかいものに当たった。鳥海の舌だと気づいた瞬間、身体が勢いよく離された。
「ちょっと、これ以上は・・・」
言い淀む鳥海は、ベンチの上で膝を抱えてしまった。膝がもじもじと動いている。涙目で睨まれて、三輪は自分の有様にも気がついた。
「ああー。学校サボりたーい」
全く同感である。
膝に顔を埋めて呟く鳥海に、三輪は声出して笑った。今度は、三輪が鳥海に寄りかかって、ふたりの熱が治るまで、他愛もない話をしていた。
担任の計らいにより、鳥海の席は一番後ろの廊下側になっていた。人数の圧を感じにくくて、マシらしい。それもあって、鳥海が授業に参加する日も増えた。ただ、ギブアップする日も多く、そんな時鳥海は、音楽室で時間を潰している。
音楽室は吹奏楽部が占拠していて、授業では使われない。吹奏楽部部員なら、鍵さえあれば出入り自由なため、これ幸いと鳥海は入り浸っていた。
今日の鳥海は、午前は頑張って授業を受け、昼休みを三輪と過ごして、午後は音楽室にいる。最近の三輪は、帰りのホームルームが終わった瞬間、音楽室へと走り出すのが日課になっていた。
もちろん、早く鳥海に会いたいから。でも、ここ数日は、もうひとつ理由があった。
「チッ。遅かった」
音楽室に到着すると、中から鳥海以外の人間の気配がする。出遅れた。
「あ、三輪じゃん。おーす、早いね」
「・・・そっちこそ、今日も早いね」
「うちの担任、ホームルーム爆速だから。ねー、鳥海くん」
「ふふっ、やっぱり今日も短かったんだね」
鳥海と談笑していたのは、フルートパートの皆川だ。鳥海と同じクラスで、何かと気にかけてくることが多かったが、近頃は部活前にふたりでいる光景をよく見かける。これも、ホームルームを一瞬で終わらせることで有名な、鳥海と皆川の担任のせいだ。
「三輪、三輪。さっきぶり」
自分に話しかけてこない三輪に痺れを切らしたのか、鳥海に袖を引かれた。可愛いことこの上ない。三輪の袖を引いた手を、掬うように軽く握る。
「うん。さっきぶり」
「うわー、三輪デレデレじゃん」
三輪の態度の変わりように、皆川はべぇっと舌を出した。
「あ、鳥海くん。午後の授業の分のノート、あとで渡すね。今日は野郎どもが書いてたから、めっちゃ汚いかもしれないけど」
「いつもありがと〜!すごい助かる!」
皆川に向かって手を合わせている鳥海は、当たり前だが三輪の方を向いていない。
段々と、音楽室に部員が集まってきて、部活の準備が始まる。皆川と鳥海の会話が終わってから、三輪はようやく自分のトランペットケースに手を伸ばした。
元来、明るくて素直な性格の鳥海は人に好かれる。
吹奏楽部員はもちろんのこと、クラスメイトも鳥海の事情を理解して協力してくれるようになった。
鳥海は、周りの協力を得ながら、確実に学校生活を取り戻している。
他ならぬ三輪が、何より願っていたことだ。
それなのに、自分はこんなに焦っている。
鳥海の心の中を占める三輪の割合が、どんどん減っていく。三輪が、生徒相談室にひとりでいる鳥海を外に引っ張り出したのに、鳥海は三輪の腕の中だけに居てくれない。
ふたりだけだった世界が広がった時、鳥海は三輪を必要としてくれるだろうか。
「皆川、鳥海は?」
「開口一番それかい。挨拶しろよ、挨拶」
「こんにちは、皆川さん。鳥海くんは、いないのですか?」
「こんにちは、三輪くん。鳥海くん、六限から授業抜けたから音楽室に居ると思ったんだけど。帰っちゃったのかな」
「帰るなら、俺にメッセージ送ってくるはずだから。それはないな」
「そうなん?私、鳥海くんの連絡先、そういえば知らねーわ」
「ずっと知らなくていいよ」
「うるせーよ。部長に言っておいてやるから、とっとと彼氏探してこい」
皆川が中指を立てて送り出してくれたので、三輪はありがたく彼氏を探しに行くことにした。しかし、鳥海が行く場所なんて、ひとつしかない。
音楽室は旧校舎の四階の端。そして目指すは、新校舎一階保健室、の隣の生徒相談室。
長い長い廊下を、三輪の長い脚が駆け足で進む。あっという間に着いた生徒相談室は、既に懐かしさを感じる。
佐藤が留守なのか保健室は閉まっていたので、廊下側のドアからノックした。だが、返事がない。
もう一度ノックをしても返事がないので、仕方がなくドアノブを回すと、あっさりドアが開いた。
中にはひとり、鳥海がいた。小さなソファで、丸くなって寝ていた。通りで、メッセージも、ノックの返事もないはずだ。
くぅくぅと寝息を立てている鳥海を、三輪はしゃがみ込んで見つめた。
ここで鳥海と再会した時の、ふたりきりの時間を思い出す。最近は、そんな時間もめっきり減ってしまった。
頬をつついたり、髪を撫でたり、唇をなぞったり、ひとしきり寝ている鳥海を堪能したが、反応がなくて物足りない。部活の時間もあるので、いい加減起こすことにした。
「鳥海ー、起きて」
「・・・んぅ、みわぁ?」
「そう、三輪だよ。部活始まるから起きな。起きないとちゅーするよ」
「んぇー、部活行きたい・・・。でもちゅーもしたい・・・」
目を擦りながら可愛いことを言うので、腕を引っ張って起こしてやった。勿論、ちゅーもした。
「なんか、学校でふたりきりって久しぶりだね」
「んー?んー。外だときすできないもんねー」
恐らく、毎日一緒にしている登下校の時のことを言っているが、頭がまだ寝ているようでポヤポヤしている。
少し、この寝坊助に付け込ませてもらおう。
「最近の鳥海は、友達がたくさんいるから寂しくないんじゃない?」
冗談めかして言っているが、割と本音である。三輪は鳥海に関しては、器が極小だ。
「ともだち・・・ともだち、いっぱいできたなー。三輪のおかげだねー」
「鳥海がいいやつだからだよ」
「うん。でも、やっぱり三輪のおかげだよ」
「じゃあ、俺は自分のせいで寂しいんだ」
「寂しいの?」
「寂しいよ。どんどん鳥海が遠くなっちゃう。俺だけの鳥海じゃなくなってく。いつか」
鳥海がもうほとんど覚醒していることには気づいていたが、三輪の口は止まらなかった。
「俺が居なくても平気になるんだ」
ソファに座っている鳥海の脚の間で、三輪は床に膝をついて鳥海の顔を見上げている。
鳥海は面食らった顔をしていたが、唐突に三輪の鼻をつつき出した。
「・・・なに?」
「鼻、赤い。あとちょっとで涙も出そうだね」
「鳥海のせいだよ」
「うん、俺のせいだね」
むっすりとした三輪とは真逆で、鳥海はご機嫌だ。
「ねぇ、真面目に聞いてよ」
「聞いてるよ」
鳥海は徐に三輪の顔を両手で包むと、ぶちゅっとキスしてきた。
「んー!ちょ、はなし、途中・・・」
鳥海からのキスに、三輪が抵抗したのは初めてだ。鳥海は気にせず唇押し付けてきて、三輪の理性は段々役に立たなくなっていく。
そのタイミングを見計らったのか、鳥海は三輪の唇をべろりと舐めた。
その刺激が思い切り腰に来て、三輪は唇を開けてしまった。それを今の鳥海が見逃すはずもなく、三輪の口内に舌が差し込まれた。ここまで来ると三輪も理性の限界で、鳥海の舌を押し返すように絡め取っていく。今度は三輪が鳥海の口内に舌を這わせると、攻守が逆転して、鳥海の喉から喘ぎ声が漏れた。
キスなら何度もしきてたが、間違いなく今までで一番エロいキスをしている。
三輪はソファに乗り上げて、鳥海を背もたれに押さえつけた。背もたれに頭を乗せた鳥海は真上を向いているからか、受け止めきれなかったらしい唾液が口の端から垂れていく。
抱いてしまおうか。
三輪が本気でそう思った時、スマホの着信が鳴った。
「・・・出ないの」
「出なきゃダメ?」
「っていうか、これ以上はここじゃダメ」
「チッ。そっちが仕掛けてきたくせに」
スマホを確認すると、丸井からだった。「三輪に初めて舌打ちされた・・・!」と変な感動をしながら口元を拭う鳥海を尻目に、仕方なく電話に出る。
「もしもし、なんすか」
『お前、電話の出方直したら?』
「じゃあ先輩も掛け直してください。切りますね」
『待て待て待ちなさい。鳥海くんは見つかった?』
「あー、見つかりましたよ」
見つけたどころか、致していたが。
『なんだよ、その間。見つけたところ悪いんだけどさ、今日、部活中止ね。鳥海くんにも伝えて』
「は?なんでですか?」
『えーちゃんが昼休みに足捻っちゃって病院。体でかいから大変だよな』
「・・・それだけで部活休み?」
『それだけって言うなよ。最近みんなハードワーク気味だから、休めってさ。鳥海くんにも、そう伝えといて』
「あ、はい」
『んじゃねー』
丸井との電話はあっさりと切れた。
「えーちゃん、大丈夫かな?」
鳥海にも、内容は聞こえていたようだ。
「大丈夫でしょ」
「あの体なんだよ?」
「それは、確かにそう」
さっきまでの空気はすっかり霧散している。
三輪は、鳥海の隣に座って脱力した。
「なんでキスしたの?」
「なんでって、嬉しかったから。三輪って、結構ちゃんと俺のこと好きなんだなーって」
「え、知らなかったの?」
これだけアピールして、その程度だとしたらあまりに虚しい。
「知ってたけどさ。三輪が俺のことを好きなったのって、一目惚れみたいな感じでしょ?見た目が決め手ってことじゃん」
鳥海は、案外自分の見た目の良さを理解している。そしてその事実に意外と冷めている。そういうところも好きだが、三輪と同じく見た目で苦労した過去があるのだろう。
「最初はそうだけど。今は、見た目以外で好きなところ百個は言えるよ」
「ふふっ、ありがと。うん、三輪がね。そうやって、俺の内面も好きになってくれるように、俺、頑張ったんだよ?」
「・・・?」
初めて会った時から、好きを更新し続けているから、三輪には、鳥海が何を頑張ったのかわからない。
「部活出るのも、授業出るのも、友達作るのも、俺にとってはすごい気力が要るんだ。でも、三輪に頑張ってる姿見せたいなって思ったから、頑張れた」
鳥海が、三輪を抱き寄せた。
「三輪が寂しいなんて、びっくり!全部全部、動機は三輪なんだよ?頭の中、三輪でいっぱいなの、俺」
鳥海のシャツに、三輪の涙がジワリと染みた。
「・・・好き。好きだよ、鳥海。顔も体も中身も心も大好き」
「うん。俺も。俺も大好き。俺をここから外に出してくれてありがとう」
本当は、泣き顔なんて見せたくないけど、鳥海の顔を見たかったからしょうがない。
泣き顔を晒してまで見た鳥海も、しっかり涙目だった。
「俺、頑張るから、これからも一番近くにいてね」
「近くどころか、もう混ざってひとつになりたい・・・」
「そうだ、それもあった」
「どれ?」
「最近、三輪とふたりきりの時間が少なすぎる」
三輪の心からの言葉が、下ネタに受け取られている気がするが、三輪も気にしていたところではある。
「今日、鳥海家全員居るけど、うち来る?」
「普通は誰もいないんだよ、誘う時って」
「じゃあ、俺とセックスできなくてもいいんだ?」
「う゛っ」
三輪の身体は正直すぎて、一度治ったモノが期待で既に膨らんでいる。
「よし、決まり!家に連絡する!」
「ひとのちんこ見て決断するな・・・」
泣いて笑って興奮して、忙しない日だ。
全部全部、鳥海のせい。
「なんで生徒相談室にいたの?」
「音楽室のスペアキー、いつものところに無かったんだよ。あ、えーちゃんが病院に持っていっちゃったのかな」
「親御さんにはなんて言ったの?」
「ん?普通に。三輪が泊まりに来てもいい?って。是非是非、だってさ。あ、三輪の家は大丈夫?連絡した?」
「うちは全然大丈夫だけど。え、親御さん、俺のこと知ってるの?」
「知ってるどころか、会いたがってるよ」
「俺のこと、話してるの?!」
「佐藤先生とか、えーちゃんが先に話しちゃったんだよ。三輪、我が家で好感度カンストしてるから」
「うわ・・・。逆に緊張する」
これから一度、三輪の家に寄って荷物を取りに行く。
明日は土曜日で午後から部活だから、鳥海の家から一緒に登校するつもりだ。
「あ、俺が抱く方でいい?」
「いいよ。全然そのつもりでいた」
「鳥海、後ろイジったことある?」
「ある。けど、上手くできなかったから、今日手伝って」
「めちゃくちゃ喜んで。なんなら全部任せて」
きっと、明日の俺は、君をもっと好きになっている。
「三輪、そんなアンブシュアじゃトランペットは吹けないぞ〜」
態とらしいほど明るい声が横から掛かると、三輪の眉間の皺が一本増えた。因みにアンブシュアとは、楽器を吹くときの口の形のこと。
現在、吹奏楽部は絶賛活動中で、校内のどこにいても色んな楽器の音が聞こえてくる。何かの曲の一部とかではない、基礎練習のハーモニー。
「一分前に休憩しようって言ったの先輩ですよ。俺が今休憩中で、トランペット膝に置いてるの見えませんか。目ぇおかしいんですか」
「見えてるわ!冗談交えて不機嫌なお前の悩みを聞いてやろうってんだよ!とっとと吐け!」
「不機嫌じゃないです」
「不機嫌だよ!パートの空気が悪くなるから、俺がお前連れ出して、マンツーマン状態で練習してんだろ!」
「よく喋るっすね」
「お前、俺が先輩ってわかってる?!」
「わかってますよ、丸井先輩でしょ?」
三輪の目に余る失礼な態度に全力でツッコミを入れるのは、トランペットパートの二年生である丸井だ。丸いメガネがトレードマークである。丸井は、このやっかいな一年生を押し付けられた上に、お悩み相談まで任されていた。
「もぉ〜〜、なんでコイツこんなに可愛くねぇの?!」
丸井が大袈裟に喚いても、当の三輪はトランペットのピストンを指で弄るだけで無視。
ふたりが並んで座っていたのは窓際だったので、気持ちの良い風が当たる。軽く俯く三輪の黒髪がサラサラと靡くのを見た丸井は、メガネをくいっとあげて「絵になりすぎてムカつく」と評した。
「やっほーーー。うちのひねくれ王子のご機嫌はいかが?」
「部長ぉーー!ヘルプ!そしてチェンジ!」
「おーおー、丸井よ。奴の相手はさぞ大変だったことだろう」
三輪と丸井が練習をしている教室に顔を出した女子生徒は、トランペットパートの三年生。そして、吹奏楽部の部長を務めている。部長である宿命により本名で呼ばれることはほぼない上、とうとう先日、小テストの名前欄に自ら『部長』と書いてしまったそうで落ち込んでいた。
そんな部長のあんまりな言いように、三輪は俯いた姿勢のまま、目線だけを前に向けた。
「うわ、三輪お前、なんて目で私を見るんだ。私先輩、そして部長」
「なんなんすか、みんな寄ってたかって。俺が不機嫌だと思うなら放っておいてくださいよ。練習は真面目にやってるんだから、それでいいでしょ」
うーん確かに正論。そうは思いながらも、隣に座っている丸井は、三輪の顔を覗き込んだ。
「確かにそうだけどさ。お前、元気ないんだもんなー。みんな、それがわかってるからさ」
「・・・別に、元気ありますって」
心配が滲んだ丸井の声に、流石の三輪も、すこし萎んだ返事をした。このクソ生意気な一年生は、こういうところがある。捻くれていて口も悪いが、本心を伝えれば、分厚い鎧を少し脱いでくれる。苦笑いをした丸井が視線を向けると、部長はそれに肩をすくめて応えた。
「ホントに・・・。可愛くないようで可愛いようで可愛くないよお前」
「部長、それどっちですか。俺、悪口言われてますか?」
「さて、そんな悩める三輪くんに朗報があります。心して聞けよ」
「は?」
勿体ぶった言い方をした部長は、「さっき、えーちゃんに教えてもらったんだけどね」と、吹奏楽部の朗らかな顧問の名前も付け足した。
「鳥海くん、保健室登校してるんだって。今日も学校、来てるみたいだよ」
「・・・え?」
部長が口にしたのは、吹奏楽部のもうひとりの男子新入部員の名前だ。
鳥海、という名前を聞いて、ポカンと口を開けた三輪の表情は、あどけなくて中々にレアだ。せっかく超がつくほどのイケメンなのだから普段からそんな顔をしていれば、もっと可愛がり甲斐があるのにと、ふたりの先輩はしみじみと思った。
さて、そんな後輩だが、不機嫌になる程の悩みを解決するチャンスだ。部長が持ってきた朗報に、少なからず丸井も驚いたが、そっとアシストしてやることにした。
「今、丁度休憩中だしさ、鳥海くんのところ、行ってみれば?お前、吹きすぎてそろそろ口が痛いだろ。ほら、早くしないと帰っちゃうかもだし」
「え、いや、急に会いに行くとかキモいでしょ。向こう、絶対俺のこと覚えてないし。てか、学校嫌なら、人に会いたくないかもだし・・・」
「お前、その思慮深さどこに隠してたんだよ。ホントに三輪か?」
「丸井先輩に発揮する機会が無いだけです」
「あ、良かった。いつもの三輪だ」
「良くない!マジで理由ないのに無理ですって!いきなり会いに行くとか!」
「でも、鳥海くんに会えないから落ち込んでたんだろ?」
「そっ、それはそうだけど・・・!」
「それはこの部長に任せなさい!」
滅多にない狼狽え方をする三輪に、割って入った部長はドンッと自分の胸を叩いた。
「うわ、アホな仕草・・・」
「この人、頭の良いアホだから・・・」
自分の胸を強く叩きすぎて涙目で咽せる部長が、持っていたクリアファイルから取り出したのはA4用紙である。
「このプリントを鳥海くんに渡してくるお使いを、三輪にお願いしよう」
「お、お使い?」
小学生時代ぶりに聞く言葉に、三輪は目を瞬かせた。
「なるほど。部活関連のお知らせなら、確かに三輪が持って行っても変じゃないですね」
丸井が漫画みたいにガッテンのポーズをする。
「でしょ!因みにこのプリントは、今捏造してきた!」
「何してんだ、アンタ?!」
「この人、能力の高いアホだから・・・」
破天荒な部長に、三輪は目を剥いた。慣れているのか、丸井はやはり諦めたような遠い目をしていた。
「三輪よ」
「な、なんすか」
タンッタンッと、室内履きのシューズとは思えない迫力ある音を立てながら、部長は三輪の目の前プリントを突き出した。
「嘘は書いていない。鳥海くんが部活に復帰してくれるなら、絶対に必要になる情報ばっかりだから。安心して」
三輪が受け取って見れば、『吹部通信』と題して、吹奏楽部の活動に関する最新の情報が綺麗な字でまとめられていた。絶対に部員に配るべきクオリティである。何故、今まで作らなかった。部員の多さが原因で情報が滞っては阿鼻叫喚に陥る音楽室が、三輪の脳裏をよぎった。
「私だって、鳥海くんに戻ってきて欲しいもん。その為の初手を、たまたま三輪にお願いするだけ。そんなに気負わずお使いしてきてくれればいいから、ね?」
部長は、急に部長らしいことを言った。突拍子もないことをするが、部長としては、三輪のことも鳥海のことも案じているらしい。
「ほら、一年に男子はふたりしか居ないんだから、三輪が行くのも自然だって。何も今から告白しろって言ってんじゃないんだからさ。三輪に下心があるなんて、鳥海くんは気づかないよ〜。それに、このままだとマジで脈ナシよ?」
「・・・・・」
前言撤回。
「部長、デリカシー死んだんですか?三輪の顔色ヤバいことになってますよ」
丸井は、部長の言葉に黙って顔を青くしたり赤くしたりしている三輪が可哀想になってきた。よく考えれば当たり前だろう。不登校になってしまった想い人に、いきなり会いに行くなんて。良い機会だと思ったが、流石に酷だ。しかし、今日、三輪が行けないとしたら、鳥海がさらに学校からも部活からも遠のいてしまう気がした。
「三輪、今日のところは俺が様子見てくるよ」
「いやっ、それはっ」
丸井が、代わりに鳥海に届けようと、プリントに手を伸ばすと、三輪が反射のようにそれを避けた。
「・・・俺、が行きます」
そんな三輪に、部長と丸井は目を見開いた後、微笑んだ。生暖かい眼は、正直ちょっと鬱陶しい三輪であった。
鳥海楽は三輪と同じ一年生で、吹奏楽部の新入部員ではあるが、現在は幽霊部員と化している。入部してわずか一週間ほどで、部活に来なくなってしまった。授業にも出席していない所謂不登校のようで、鳥海と同じクラスの部員ですらお手上げ状態だった。
「一ヶ月ぶりくらい・・・か?」
音楽室があるのは旧校舎の四階、最上階の端っこである。楽器ごとのパート練習も、その近辺の空き教室で行う。
「俺のこと、覚えてるわけない・・・」
そして、今、三輪がノックすら出来ずにいる保健室は、新校舎の一階にある。長い長い廊下を、三輪の長い脚にしては随分ゆっくりと歩いてきたが、緊張は解けなかった。だから、引き戸に嵌められた磨りガラスの向こうの人影に全く気づかなかった。
「どうしたの?」
「うわっ」
「ずっと立ってるから。一年だね。怪我?調子悪い?」
ガラガラと引き戸を開け、声を掛けてきたのは、まだ三輪が名前を覚えていない、この学校の保健医だった。当たり前だ。保健室には保健医がいる。鳥海にいきなり話しかけるわけではないことに気づいて、三輪は力が抜けた。
「吹奏楽部一年の三輪です。鳥海くん、いますか?部活のプリント、持ってきたんすけど」
「あっ!鳥海くんに!?」
保健医は嬉しそうに声を上げると、「入って入って!」と三輪を迎え入れた。
「・・・失礼します」
初めて入った高校の保健室は、中学の時と大差ない。独特な消毒液の匂いは、何故か懐かしいような気持ちにさせるが、三輪は保健室にお世話になるタイプではなかったので特に思い出はなかった。
鳥海は何処かとぐるりと見渡すが、誰もいない。三つあるベッドを囲うカーテンは全て開けられていてシーツはピンと伸びているから、寝ているというわけでもなさそうだ。
「あ、私は佐藤といいます。保健室にいない時は職員室にいるから。何かあった時は言ってね」
佐藤は、自己紹介をしながら保健室の壁に取り付けられた扉に向かった。どうやら、隣の教室と繋がっているらしい。扉にはプレートが掛かっていて、ポップな文字で『生徒相談室』と書かれていた。
鳥海はそこにいるのか。なるほど、学校での居心地が良くないのに保健室にポツンと居るのでは心配だったが、ちゃんとした空間があるのなら安心だ。
心の中で納得して胸を撫で下ろしたところに、いきなり佐藤が扉をノックしてドアノブに手を掛けたものだから、三輪はぎょっとした。
「ま、待ってください。いきなりだと、鳥海くん驚きませんか。ていうか、今の鳥海くんの状況とか、少しくらい説明とかするでしょ、普通。あんた、教師だろ。しっかりしろよ」
「えっ、生意気。そして過保護」
開きかけた扉を抑えながら詰る三輪に、佐藤は目を瞬かせた。そして、にっこりと笑った。ドアノブの手はそのままだ。
「・・・君、いい子だねぇ。口は悪いけど」
「は?」
「鳥海くんなら大丈夫だよ」
再びノックをした佐藤は、ドアノブを回して引いた。
「ちょ、あんた、話聞いてたのかよ?!」
「鳥海くーん。お客さんだよー」
「お客さん?」
中から、自分よりも高い、でも声変わりを終えた男の声がした。久しぶりに聞くその声を、三輪はしっかりと覚えていた。鳥海の声だ。
「吹奏楽部の三輪くん。わざわざ会いにきてくれたんだよー」
「あ、いや、会いにきたとかじゃなくて、ただプリントを渡しに・・・」
佐藤に釣られて勢いで入った生徒相談室は、奥行きはあるが狭い部屋だった。普通の教室の、三分の一くらいの広さしかない。部屋の奥、つまり窓際には、小さなソファとローテーブルが置かれていた。その向かいに椅子が二つ。ソファに座っていた男子生徒が、三輪を見て立ち上がる。
「三輪くん」
もしかしたら、初めて名前を呼ばれたかもしれない。
「・・・名前」
「ん?」
ぼそりと呟いた三輪に、鳥海楽がコテンと首を傾げた。
「・・・俺のこと、覚えてるの?」
「うん。だって、一年の男子部員、ふたりしかいなかったし」
「・・・そっか」
きっと、自分の顔は今、赤くなっている。わかっていたが、三輪はジリジリとする頬をどうすることもできなくて、気にせずに続けた。
「元気そうでよかった。ごめん、いきなり来て。これ、部長から」
三輪が、部屋の奥に少し進んでクリアファイルごとプリントを差し出すと、鳥海はソファとローテーブルの間から猫のようにするりと出てきて、三輪の前に立った。
「わざわざ嬉しいなぁ」
プリントを受け取った鳥海は、三輪の登場にも臆せず、本当に嬉しそうに笑っている。「ありがとね」と、目を見てお礼を言われてしまった。
不登校の生徒というと、もっと暗いとか、おどおどしていると思っていた。
三輪が心の中で偏見を正していると、佐藤が腕時計を気にし始めた。
「鳥海くん、三輪くん。私、職員会議があるから行くね。保健室は閉めちゃうから、帰る時は廊下側のドアから出て。鳥海くん、鍵の場所わかるね?」
「うん、大丈夫ですよ。いってらっしゃい」
「うん。じゃ、三輪くんも、来てくれてありがとね」
鳥海に戸締りの確認をして、最後に三輪に顔を向けた佐藤は、手を振りながら生徒相談室を出て行った。本当に、鳥海については大して心配していないらしい。むしろ、三輪の心拍数の方が心配だ。
密室に二人きりになった事実に動揺しながらも、軽く頭を下げて佐藤を見送った三輪は、ドアに向かって小さく手を振っている鳥海を盗み見た。
一八〇センチ近い背丈がある三輪から見ると、鳥海は小さい。ギリギリ、一七〇センチといったところだ。見下ろすと、まつ毛が長いのがよくわかる。三輪とは違ったタイプの美形で、部活に来ていた頃は、可愛い可愛いと持て囃されていた。今年入部した二人の男子部員が揃ってイケメンだったため、吹奏楽部の盛り上がり様は凄まじかった。
正直なところ三輪は、鳥海が不登校になった原因は、そこにあると思っている。
入部初日、鳥海は先輩たちに質問攻めにされていた。あたふたとした身振り手振りは、「困っています」と言わんばかりだった。この三輪ですら、気の毒に思うほどだ。
しかし、三輪は面倒ごとに関わりたくはなくて、遠目からそれを見ていた。だから、鳥海と目が合ってしまった瞬間、すぐに逸らした。それだと言うのに、鳥海は初対面の三輪の背中に逃げ込んできたのだ。怯えているのを突き放す訳にもいかず、代わりに先輩たちを追い払ってやった。
改めて後ろを覗き込むと、顔色悪く自分の背中のシャツを掴む鳥海がいた。そして、三輪は気づいた。
あれ、こいつ、可愛くね?
そう心の中で言葉にした途端、顔は真っ赤になったし、体も石みたいにカチコチになった。鮮やかに一目惚れをキメた瞬間だった。
先程まで鳥海に絡んでいた先輩たちも、恋が始まる瞬間を目撃して「あらあら」と口に手を当てていた。
そんな出会いの後、先輩や同級生の女子たちに囲まれては困っている鳥海をよく見かけた。三輪はといえば、鳥海とは担当する楽器が違うこともあって、上手く話しかけられずにいた。そして、気づいた時には鳥海は部活に来なくなっていたのである。
よって、女子部員たちに原因があると睨んでいる三輪の周りへの当たりは、若干キツい。まぁ、もともとキツい性格なのだが。
「ねぇ、三輪くん」
声を掛けられ飛んでいた意識を戻すと、鳥海が三輪を見上げていた。
「えっ、なっなに?」
上目遣いは破壊力がすごい。三輪よりもずっと色素の薄い目に見つめられて、三輪はたじろいだ。
やばい、俺ダサい。
だらしない顔にならないよう、三輪はぎゅっと眉間に力を入れた。しかし、そんな三輪に、鳥海は何か勘違いしたらしい。形の良い眉毛がへにゃりと下がってしまった。
「ごめん、時間取らせちゃったね。部活、戻んなきゃだよね」
鳥海は、三輪が時間を気にしていると思ったのだろう。確かに、三輪は部活を抜け出してきたが、先輩ふたりの応援を得ている。しかも、ほぼほぼ部長に仕組まれたようなものだ。きっと、しばらくここにいても問題はない。三輪は、何より少しでも鳥海と話がしたかった。
それに、鳥海の表情にも寂しさを感じるのは、三輪の願望だろうか。
「部長に頼まれたことだから、時間は気にしなくて大丈夫。もう少し、ここにいてもいい?」
部長の名前をありがたく使わせてもらうと、鳥海の瞳が輝いた。
「ホント?最近、先生たちとしか話してなかったからそろそろ誰かと話したくて。三輪くんがいいなら」
鳥海はいそいそとソファに戻ると、側に置いてある電気ポットのボタンを押した。横には紙コップと紅茶のティーバッグが並んでいて、それを手際よくセットしていく。
「座って座って」
立ったままだった三輪は、ローテーブルを間に挟んで置かれた椅子に座ろうとした。しかし、鳥海がソファの空いたスペースをポンポンと叩くので、ぎこちなく隣に腰を下ろすことにした。
鳥海が自習していたのだろう。テーブルの上には教科書やノート、筆記用具が広がっていたが、あっという間に片付けられてしまった。正直、鳥海の書いたノートなら見てみたかった。
「お茶、淹れるの慣れてるね」
「うん。もう一ヶ月くらいここにいるから」
ということは、部活に来てない間も鳥海は学校にいたのだ。
「もっと早く会いに来ればよかった・・・」
「ん?」
三輪の呟きは、電気ポットが沸騰を知らせる音を立てて掻き消した。
紙コップにお湯が注がれ、ティーバッグから茶色が滲み出てくる。「どうぞ」と、それを渡された時に鳥海の指に触れてしまい、三輪は危うく熱湯を溢すところだった。ことごとくダサい。
「・・・鳥海くんは、えーと」
挙動不審を誤魔化すように話し始めたが、そこから先が見つからない。他の人間相手には、失礼な言葉がボロボロ出てくるのに、鳥海のことは絶対に傷つけたくなかったし、何より嫌われたくなかった。
言葉を探すようにティーバッグのタグをイジる三輪に、鳥海が助け舟を出してくれた。
「みんなすごく心配してくれるんだけど、俺が不登校になった理由、そんな大したことないんだ」
苦笑いした鳥海に、「三輪くんって中学どこ?」と、急に聞かれて、三輪は頭にハテナを浮かべながらも「北中」と、高校と同じ市内にある中学を答えた。
「鳥海くんは、確か県外から通っているんだっけ?」
「そう!それなの!」
「ぅえ!?」
ぎゅんっと向けられた鳥海の顔に、三輪は思い切り仰け反った。
「俺の中学、いや小学校もそうだけど、本当に田舎で全校生徒二十人もいなかったんだよ?それが、こんなに人がたくさんいる学校に来て、もう、本当にびっくりしてびっくりして・・・」
「え、じゃあつまり、鳥海くんが学校に来れなくなった理由って・・・」
「ただ単に、たくさん人がいるのが緊張するからです」
「えーーーー・・・」
拍子抜けしてしまった三輪の反応がお気に召さなかったのか、鳥海は渋い顔で紅茶を啜っている。
「あ、いや、ごめん」
「いいよ、自分でも呆れてるから」
ぐーっと首を伸ばして、頭をソファの背に預けた鳥海は「そろそろ慣れなきゃとは思ってるんだけど」と溢した。瞳と同じく色素の薄い柔らかそうな髪から、ふわりといい匂いがした。
三輪はというと、段々と理解が追いついてきて、鳥海と同じように頭をソファに預けた。大きめの溜め息が出て、鳥海がこちらに顔を向けるのが視界の端に映る。
「結構ね、心配してたんだ。もし、もう部活来てくれなかったらどうしようって。良かった、これから慣れていくつもりなら」
「・・・うん。それは・・・ありがと」
ふたりの並んだ頭の向こうには、丁度窓があって開け放たれていた。色んな部活の音がする。運動部の掛け声や、ボールがバットに打たれる音。もちろん、楽器を奏でる音も。相変わらず、みんな真面目に基礎練ばかりしている。
「三輪くんは、トランペットだよね」
「うん、よく知ってるね」
トランペットの伸びやかな音が聞こえてきた。きっと部長の音だ。相変わらず、よく通る音だ。
なんだか、のんびりとした時間が流れている。なんだかんだずっと忙しない高校生活で、初めての体験だった。
「俺、ずっとこうやってみんなが練習する音を聞いてたんだ」
「うん」
「それで、どの音が三輪くんの音かなーって、ずっと考えてた」
なんだか、急に凄いことを言われている気がして、三輪は固まった。
「トランペットだってことは知ってたんだけど。吹いているところはしっかり見たことなかったから、どの音かまでは、わからなくて」
そう言った鳥海を正面から見たくて、とうとう三輪は顔を向けた。
鳥海は、まだ三輪を見ていた。
別に、お互いの顔が至近距離にあるわけではない。でも、この一ヶ月を想ったらあり得ないぐらい近い。急接近した心の距離に、三輪は紙コップを持つ手に力を入れた。
そんな三輪に気付いたのかそうでないのか、鳥海は
ふっと笑って「覚えてないと思うけど」と切り出した。
「初めて会った時、ありがとね。先輩たちから助けてくれて」
覚えているどころではない。恋に落ちた瞬間、なんなら初恋である。
「覚えてる。めっちゃ覚えてる。俺、あれが嫌で部活来なくなったんだと思ってた」
「んー、確かにすごい困ってたけど。さっき言った通り、たくさん人がいることに慣れてないだけだったから、嫌なわけじゃないよ?それより、三輪くんが庇ってくれたのが嬉しかった」
「えー、あんな庇い方で?」
三輪の言動は、お世辞にも良いとは言えない。あの時も、かなり失礼な言葉で先輩たちを追い払った。確か「下級生にそんな鼻息荒く迫らないでください。変質者がいるって通報されますよ」とかなんとか言った気がする。
「ふふっ」
鳥海も思い出しているのか、クツクツと笑っている。
「三輪くん、カッコよかったよ」
「えー、そう?」
あからさまに照れている声を出してしまった。
あの出来事をきっかけに、三輪の捻くれた性格が部内に知れ渡り、顔だけでチヤホヤされることがなくなった。鳥海に負けず劣らずウザ絡みされていたので、三輪としても助かっている。だが同時に、三輪の恋心まで一部の人間に気づかれているので、時折若干鬱陶しい。
「初対面の先輩相手にもあんな風に言い返せて、すごいよ」
三輪を見る鳥海の目は、キラキラしている。多分、本気で褒めてくれている。あまりに真っ直ぐに伝えられると、そんな出来た人間じゃないと言いたくなるから、やはり自分は捻くれている。
「俺ね、別に最初から物怖じしなくて口が悪いわけじゃないよ」
「そうなの?」
鳥海の目がパチクリと音を立てた。
「生まれた時からこんな感じかと思った」
「そんなわけないじゃん」
今、言うべきことでもない気がする。でも、今、言いたくなった。好きな人とふたり、非日常を感じているせいかもしれない。
「俺、ゲイなの」
また、鳥海の目がパチクリと音を立てた。
「見た目がこんなんだからさ、小さい頃から女子にすごいモテて。それで男子には僻まれて。興味があるのは男なのにさ。人間関係、面倒臭く思うようになった。全部馬鹿馬鹿しくなって、愛想とか気遣いとかする気も失せて、こんな風になっちゃった」
三輪はへらりと笑った。すごく久しぶりに笑った気がする。あまり笑い慣れていないから、下手くそだろう。
「俺のことも、面倒臭かった?」
鳥海が思わぬ角度から質問を投げて、今度は三輪の目がパチクリと音を立てた。
「面倒と思ったら、俺、ここに来ないよ。心配だったから会いに来た」
カミングアウトした上にここまで言えば、大体の人間は好意を察する。ちょっと心は痛むけど、黙ってしまった鳥海に重く受け取って欲しくないから、やっぱり下手くそに笑った。
「・・・この体勢さ」
鳥海は、変わらずソファに頭を預けたまま三輪を見ている。
「うん」
「なんか、添い寝してるみたいでドキドキする」
「・・・うん?」
「俺、言ったじゃん。三輪くんのことカッコいいって」
鳥海は色白だから、頬が赤く染まっていくのがよくわかる。
「好きな人に、好きになってもらえる可能性があるってわかって、浮かれてる」
浮かれてる、と言いながらも鳥海は赤い顔を顰めている。
「なんで、険しい顔してるの」
「ぬか喜びだったら辛いから」
一体、何が起きている。
フワフワと飛んでいきそうな意識を何とか捕まえて、三輪はゴクンと唾を飲み込んでから「ぬか喜びじゃないよ」と掠れた声で言った。
「初めて会ったあの時から好きです」
三輪がやっとの思いでそう言うまでには、鳥海の眉間の皺は消えていた。
「俺も、初めて会った時から好きです」
くしゃり、と笑った鳥海は死ぬほど可愛かった。顰めた真っ赤な顔だって、死ぬほど可愛かった。
しばらくの間、ふたりでぼんやりしていた。
「俺、初恋で恋人出来ちゃった」
「俺も」
「え、マジ?」
穏やかな時間の収穫としては、鳥海も三輪が初恋だということが発覚した。めちゃくちゃ嬉しい。
「ねぇ、鳥海」
そして、お互いを呼び捨てすることで落ち着いた。三輪も鳥海も、君付けする質ではないのだ。
「今から、部活に顔だけ出してみない?」
「え?」
「多分、トランペットとホルンが、一緒の教室で練習してると思うんだ。人数も多くないし、俺も居るし、どうかな」
鳥海はホルンパートだ。トランペットと同じく金管楽器で、音域は少し低め。柔らかい音を出すカタツムリのような形の楽器である。トランペットとホルンは、先輩たちの仲が良いため、最近はよく同じ教室で練習している。
「い、行く!」
ホルンの音色だって、ずっと聞こえていたはずだ。吹きたくてうずうずしていたのだろう。鳥海は三輪の提案に、前のめりで乗ってきた。
「よし、行くか」
ふたりでテキパキと片付けをして、鳥海は通学カバンを持ち、佐藤との約束通りしっかり戸締りをした。
三輪が、職員室に鍵を返しに行った鳥海を廊下で待っていると、中から佐藤や他の教師の嬉しそうな声が聞こえてきた。どうやら、鳥海が部活に参加することを喜んでいるらしい。
「髪の毛、ぐしゃくしゃになってない?」
「先生たちにすごいワシャワシャされたから・・・」
戻ってきた鳥海の頭は、ボサボサになっていた。随分可愛がられているようだが、三輪としてはあまり面白くないので、念入りに整えてやる。
「鳥海の髪、フワフワだな」
歩き始めても髪を触るのをやめない三輪に、鳥海はむずかるように頭を振った。
「寝癖すごいから、毎朝大変なんだよ。三輪の真っ直ぐの髪の方が羨ましい」
「へぇー、寝癖、見てみたいな」
何気なく返したが、会話が止まるぐらいには、お互い意識している。寝るとか、その手の話題には敏感なのだ。年頃なので。
「早く見れるといいね」
「・・・是非お願いします」
むず痒い会話を繰り返していると、楽器の音が大きくなってきた。混ざって、部員の笑い声も聞こえる。
鳥海が立ち止まった。両手で持った部長お手製プリント入りクリアファイルが、ぐにゃりと曲がっている。
「鳥海」
三輪は軽く呼んで、左手を差し出した。
「うん」
強く握り返してきた鳥海の手は、ひんやり冷たかった。三輪はもっと強く握って、廊下を進んで行った。
「戻りましたー」
いつも通り、覇気も敬意もない敬語と共に戸を引いた三輪に、教室にいた全員が振り向いた。
「どうだった?!」
トランペットパート、八人。ホルンパート、五人。計十三人。吹奏楽部全体では六十八人いるので、それよりはマシだが、十分姦しい。三輪が鳥海に会いに行ったことを、部長と丸井だけではなくここにいる全員が知っているようだ。逆に都合が良い。
「鳥海」
いつかと同じように、三輪の背中に隠れていた鳥海を呼んで、今回は前に出した。
「鳥海くん・・・」
教室の、全ての目が点になった。
「あ、お、お久しぶりです」
人数が少ないからか、背中をぴったり三輪に預けているからか、鳥海はしっかりと顔を上げていた。
「来てくれたんだー!」
「でかした、三輪ー!」
弾けるような歓声の後、喜びあまり、鳥海の手を握り締めようとする先輩たちの手をはたき落としながら、三輪は経緯をざっと説明した。
「つまり、鳥海は大人数が苦手なんで、段々慣らしていくそうです。あと、前みたいにウザ絡みしないように」
「よ、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる鳥海に、みんな、うんうんと頷いている。
「グイグイ行きすぎて本当にごめんね。戻ってきてくれて嬉しいよー」
「あっ、全然それは。俺、人がたくさんいることに慣れていないだけで。先輩たちがフレンドリーで、すごい嬉しかったですよ」
「鳥海くーん!」
鳥海が部活に来なくなったことに責任を感じていたのか、思い当たる節があったのか、ホルンパートの面々に至っては涙ぐんでいる。
「鳥海、この人たちつけ上がるから、ガツンと言った方がいいよ」
「あ゛ぁ?三輪、てめぇ、なんだと?」
「ふふっ」
「鳥海くん笑った!可愛い〜」
「見ないで下さい。可愛い鳥海が減ります」
「お前ホンット可愛くないな?!」
「あははっ」
ホルンパートと茶番を繰り広げる三輪の両側に、ニュッとふたつの頭が生えた。
「随分と仲良くなったようだな、三輪よ」
「ナイスアシストだったようだな、三輪よ」
部長と丸井が、爽やかにサムズアップしながら三輪の肩に腕をかけた。
「うわ、メンドクセー」
根掘り葉掘り探られる気配を感じとり、三輪は速やかに脱走を選択した。
「鳥海、音楽準備室行こ。ホルン、取りに行こ」
「うん」
先輩たちに「ちょっと行ってきます」と会釈する鳥海の手を引いて、三輪は教室から抜け出した。
「いってらっしゃーい」
三輪が肩越しに見ると、教室から顔を出した十三人全員がサムズアップしている。
そういえば、三輪の恋心を知っているのはトランペットとホルンのメンバーだ。
これから散々揶揄われるだろうと、三輪はげんなりしたが、繋いだ手の先の鳥海が嬉しそうに見上げてくるので、全てどうでもよくなった。
その日から、鳥海は部活に毎日顔を出すようになった。少人数のパート練習から始めて、二週間が経つ頃には全体練習にも参加できるようになった。
反省したのか、女子部員たちが群がってくることもなく穏やかに過ごしている。常に三輪が隣にいるので、腫れ物扱いも特にされず、気さくに喋りかけられては、鳥海は嬉しそうにしていた。
「三輪くん三輪くん」
本日最後の合奏が終わると、グランドピアノの陰から声が掛かった。
「瑛二先生」
大きな体を何故か小さくしているのは、吹奏楽部の顧問だ。上級生からは「えーちゃん」と呼ばれている通り、みんなに好かれる優しい顧問である。
「こっちこっち」
手招きされるまま、えーちゃんと同じようにグランドピアノの陰にしゃがみ込む。
「なんで小さくなってるんすか?」
「僕、大きいからね。怖がらせちゃ悲しいし」
ついさっきまで、背筋を伸ばして指揮棒を振っていたのに。百キロ超えの顧問は繊細である。
「鳥海くんのこと、ありがとね」
ここ数週間で、幾度と言われた言葉である。えーちゃんからは三回目。だが、今回は続きがあった。
「親御さんとも話して、本人のペースに任せようってことになってたんだけど。やっぱり、一歩踏み込むって大事だね。こんなに早く、楽しそうな鳥海くんが見れちゃった」
えーちゃんが視線を向けた先に、ホルンの手入れをする鳥海がいた。ここからでも、ご機嫌なことがよくわかる。鳥海は、音楽室でも大分リラックスできるようになった。
「鳥海、明日からは教室に行ってみるそうです」
「本当に?!担任の先生も喜ぶよ〜」
「朝のホームルームでギブアップしそうって言ってたけど」
「いいよいいよ、すごい進歩だよ〜」
えーちゃんは、嬉しそうに大きな体を揺らした。だが、三輪は手放しに褒められることに、居心地の悪さを感じていた。
「・・・別に、俺がいなくても鳥海は大丈夫でしたよ。元々、明るいやつだし」
少し拗ねたよう口調になってしまったのは、誰かに吐き出したかったからだ。
鳥海の進歩は本当に著しい。三輪が手を貸したことは、小さなきっかけにすぎない。三輪はいじけて、えーちゃんを真似して丸めた体を揺らした。
そんな三輪に、えーちゃんは目を細めた。
「不登校ってね、小さな理由で始まっても、時間が経つと、どんどん戻ってくるのが難しくなっちゃうんだよ。辛い理由じゃなくて良かったけど、鳥海くんだってどうなっていたかわかんない。高校は、退学もあり得るしね。この部でも、三年生の代の子がひとり、退学してるし、退部者だって何人かいる」
部長が鳥海に話しかけている。部長は、予め部員全員に、鳥海についてそれとなく説明してくれていた。今までの言動が、三輪を面白がっているのか、鳥海を心配しているのかどちらか怪しかったが、どうやら後者が本心だったようだ。いや、今現在三輪を揶揄って遊びまくってはいるが。
「部長もホルンの上級生もね、結構気にしてたから。本当によかったよ。みんな、三輪くんに感謝してるよ」
「俺、ホントにそんな良いことしたんすか?」
「手を引っ張ってくれる誰かがいるって、すごいことよー」
そう言って立ち上がったえーちゃんは、まだしゃがんでいる三輪に手を差し出した。巨大なクリームパンのような手を掴むと、グンッと凄い力で三輪を引っ張って立ち上がらせた。
立ち上がると身長は大して変わらないが、横幅が全然違う。
「ほらねー!」
「いや、こんな馬鹿力で引っ張ってないよ、俺」
でも、いじけた気持ちが和らいだ気がした。
次の日の早朝、三輪は学校の最寄駅にいた。自転車通学をしている三輪がこの駅に来るのは初めてである。
数分して、駅に電車が停車した。
「鳥海!」
「三輪!」
改札の向こうに、鳥海を見つけた。三輪は駆け寄りたかったが、いかんせん自転車あるので鳥海が来る方が早い。
「おはよう」
「おはよ!」
「電車、大丈夫だった?」
「うん、スカスカだった」
鳥海の苦痛のひとつに、電車通学があった。県外から山を越えて通学しているので、電車に乗らねば通学出来ない。田舎といえど、通勤通学の時間帯はそこそこ混むのだ。今までは、それを避けるために遅刻確定の時間に登校していたらしい。だが、今日の鳥海の目標は、朝のホームルームに出席することである。よって、思い切って始発。
「三輪まで早起きする必要なかったのに」
「嬉しくないの?」
「嬉しいけどさ」
早朝すぎて、小さな駅には誰もいない。
鳥海は人の多さに目を回していたが、生徒数こそ多いが三輪たちが通う高校があるこの街は、そこそこ田舎である。この駅に至っては無人駅だ。
学校は、ここから歩いて五分ほど。おそらく、まだ教室は鍵がかかっている。
「ちょっと時間潰そうよ」
鳥海も同じことを考えたのか、駅前のベンチに腰掛けた。三輪も自転車のスタンドを立てて、隣に座った。
「隣に三輪がいないの、初めてだから緊張する」
「ホームルームが終わったら、すぐに鳥海のクラスに行くよ」
鳥海の手を軽く握りながら、三輪は言った。相変わらず、三輪よりも一回り小さくて冷んやりしている。
「不安?」
「うん。そりゃあね」
鳥海は、三輪の指を弄り出した。落ち着かないのだろう。さらに、ずるり、と鳥海の体重が三輪に掛かった。身体の左側が暖かい。
六月も中盤だが、早朝はまだ涼しくて、鳥海の体温は心地よかった。肩に乗せられた鳥海の頭に顔を寄せて深呼吸した。
「ちょっと、嗅がないでよ」
「だって鳥海、いい匂いするから。今日は、ちょっと寝癖残ってるね」
「早起き、苦手じゃないけどそこまで余裕なかったの」
嗅ぐなと言う割に、鳥海は三輪の肩から頭をどかさなかった。
「ねぇ、三輪」
「ん?」
「キスしていい?」
「ん。え?」
「今日、結構勇気必要だから。パワーちょうだい」
むくりと、身体を起こした鳥海の顔は真っ赤だ。
「ふふっ。三輪、顔真っ赤」
どうやら自分の顔も真っ赤らしい。
「い、いいの?」
これだけ側にいて、何も考えなかった訳ではない。それどころか、もっと先のことまでひとりで想像しては慰めている。
「それはこっちの台詞。していいの?ダメなの?」
答えなんて決まっている。
三輪が両手で頬を包むと、鳥海がさらに三輪の手を包んだ。全てが未経験なので、唇に唇を命中させる自信がなく、ひとまず額を合わせる。
「ふふっ。心臓潰れそう」
至近距離で鳥海の笑顔を喰らって、三輪は堪らない気持ちになった。多分、少し勃っている。
「するよ」
「どうぞ」
お互い、目を閉じることなく唇を合わせた。
馴染ませるようにくっつけていると、鳥海が目を閉じた。
「んっ。ちょっと、タイム」
「やだ、もっと」
肩を押されたが、弱い力だった。鳥海の唇は、三輪の動きに応えるように少し開いた。恐る恐る舌を入れると、ちょん、と柔らかいものに当たった。鳥海の舌だと気づいた瞬間、身体が勢いよく離された。
「ちょっと、これ以上は・・・」
言い淀む鳥海は、ベンチの上で膝を抱えてしまった。膝がもじもじと動いている。涙目で睨まれて、三輪は自分の有様にも気がついた。
「ああー。学校サボりたーい」
全く同感である。
膝に顔を埋めて呟く鳥海に、三輪は声出して笑った。今度は、三輪が鳥海に寄りかかって、ふたりの熱が治るまで、他愛もない話をしていた。
担任の計らいにより、鳥海の席は一番後ろの廊下側になっていた。人数の圧を感じにくくて、マシらしい。それもあって、鳥海が授業に参加する日も増えた。ただ、ギブアップする日も多く、そんな時鳥海は、音楽室で時間を潰している。
音楽室は吹奏楽部が占拠していて、授業では使われない。吹奏楽部部員なら、鍵さえあれば出入り自由なため、これ幸いと鳥海は入り浸っていた。
今日の鳥海は、午前は頑張って授業を受け、昼休みを三輪と過ごして、午後は音楽室にいる。最近の三輪は、帰りのホームルームが終わった瞬間、音楽室へと走り出すのが日課になっていた。
もちろん、早く鳥海に会いたいから。でも、ここ数日は、もうひとつ理由があった。
「チッ。遅かった」
音楽室に到着すると、中から鳥海以外の人間の気配がする。出遅れた。
「あ、三輪じゃん。おーす、早いね」
「・・・そっちこそ、今日も早いね」
「うちの担任、ホームルーム爆速だから。ねー、鳥海くん」
「ふふっ、やっぱり今日も短かったんだね」
鳥海と談笑していたのは、フルートパートの皆川だ。鳥海と同じクラスで、何かと気にかけてくることが多かったが、近頃は部活前にふたりでいる光景をよく見かける。これも、ホームルームを一瞬で終わらせることで有名な、鳥海と皆川の担任のせいだ。
「三輪、三輪。さっきぶり」
自分に話しかけてこない三輪に痺れを切らしたのか、鳥海に袖を引かれた。可愛いことこの上ない。三輪の袖を引いた手を、掬うように軽く握る。
「うん。さっきぶり」
「うわー、三輪デレデレじゃん」
三輪の態度の変わりように、皆川はべぇっと舌を出した。
「あ、鳥海くん。午後の授業の分のノート、あとで渡すね。今日は野郎どもが書いてたから、めっちゃ汚いかもしれないけど」
「いつもありがと〜!すごい助かる!」
皆川に向かって手を合わせている鳥海は、当たり前だが三輪の方を向いていない。
段々と、音楽室に部員が集まってきて、部活の準備が始まる。皆川と鳥海の会話が終わってから、三輪はようやく自分のトランペットケースに手を伸ばした。
元来、明るくて素直な性格の鳥海は人に好かれる。
吹奏楽部員はもちろんのこと、クラスメイトも鳥海の事情を理解して協力してくれるようになった。
鳥海は、周りの協力を得ながら、確実に学校生活を取り戻している。
他ならぬ三輪が、何より願っていたことだ。
それなのに、自分はこんなに焦っている。
鳥海の心の中を占める三輪の割合が、どんどん減っていく。三輪が、生徒相談室にひとりでいる鳥海を外に引っ張り出したのに、鳥海は三輪の腕の中だけに居てくれない。
ふたりだけだった世界が広がった時、鳥海は三輪を必要としてくれるだろうか。
「皆川、鳥海は?」
「開口一番それかい。挨拶しろよ、挨拶」
「こんにちは、皆川さん。鳥海くんは、いないのですか?」
「こんにちは、三輪くん。鳥海くん、六限から授業抜けたから音楽室に居ると思ったんだけど。帰っちゃったのかな」
「帰るなら、俺にメッセージ送ってくるはずだから。それはないな」
「そうなん?私、鳥海くんの連絡先、そういえば知らねーわ」
「ずっと知らなくていいよ」
「うるせーよ。部長に言っておいてやるから、とっとと彼氏探してこい」
皆川が中指を立てて送り出してくれたので、三輪はありがたく彼氏を探しに行くことにした。しかし、鳥海が行く場所なんて、ひとつしかない。
音楽室は旧校舎の四階の端。そして目指すは、新校舎一階保健室、の隣の生徒相談室。
長い長い廊下を、三輪の長い脚が駆け足で進む。あっという間に着いた生徒相談室は、既に懐かしさを感じる。
佐藤が留守なのか保健室は閉まっていたので、廊下側のドアからノックした。だが、返事がない。
もう一度ノックをしても返事がないので、仕方がなくドアノブを回すと、あっさりドアが開いた。
中にはひとり、鳥海がいた。小さなソファで、丸くなって寝ていた。通りで、メッセージも、ノックの返事もないはずだ。
くぅくぅと寝息を立てている鳥海を、三輪はしゃがみ込んで見つめた。
ここで鳥海と再会した時の、ふたりきりの時間を思い出す。最近は、そんな時間もめっきり減ってしまった。
頬をつついたり、髪を撫でたり、唇をなぞったり、ひとしきり寝ている鳥海を堪能したが、反応がなくて物足りない。部活の時間もあるので、いい加減起こすことにした。
「鳥海ー、起きて」
「・・・んぅ、みわぁ?」
「そう、三輪だよ。部活始まるから起きな。起きないとちゅーするよ」
「んぇー、部活行きたい・・・。でもちゅーもしたい・・・」
目を擦りながら可愛いことを言うので、腕を引っ張って起こしてやった。勿論、ちゅーもした。
「なんか、学校でふたりきりって久しぶりだね」
「んー?んー。外だときすできないもんねー」
恐らく、毎日一緒にしている登下校の時のことを言っているが、頭がまだ寝ているようでポヤポヤしている。
少し、この寝坊助に付け込ませてもらおう。
「最近の鳥海は、友達がたくさんいるから寂しくないんじゃない?」
冗談めかして言っているが、割と本音である。三輪は鳥海に関しては、器が極小だ。
「ともだち・・・ともだち、いっぱいできたなー。三輪のおかげだねー」
「鳥海がいいやつだからだよ」
「うん。でも、やっぱり三輪のおかげだよ」
「じゃあ、俺は自分のせいで寂しいんだ」
「寂しいの?」
「寂しいよ。どんどん鳥海が遠くなっちゃう。俺だけの鳥海じゃなくなってく。いつか」
鳥海がもうほとんど覚醒していることには気づいていたが、三輪の口は止まらなかった。
「俺が居なくても平気になるんだ」
ソファに座っている鳥海の脚の間で、三輪は床に膝をついて鳥海の顔を見上げている。
鳥海は面食らった顔をしていたが、唐突に三輪の鼻をつつき出した。
「・・・なに?」
「鼻、赤い。あとちょっとで涙も出そうだね」
「鳥海のせいだよ」
「うん、俺のせいだね」
むっすりとした三輪とは真逆で、鳥海はご機嫌だ。
「ねぇ、真面目に聞いてよ」
「聞いてるよ」
鳥海は徐に三輪の顔を両手で包むと、ぶちゅっとキスしてきた。
「んー!ちょ、はなし、途中・・・」
鳥海からのキスに、三輪が抵抗したのは初めてだ。鳥海は気にせず唇押し付けてきて、三輪の理性は段々役に立たなくなっていく。
そのタイミングを見計らったのか、鳥海は三輪の唇をべろりと舐めた。
その刺激が思い切り腰に来て、三輪は唇を開けてしまった。それを今の鳥海が見逃すはずもなく、三輪の口内に舌が差し込まれた。ここまで来ると三輪も理性の限界で、鳥海の舌を押し返すように絡め取っていく。今度は三輪が鳥海の口内に舌を這わせると、攻守が逆転して、鳥海の喉から喘ぎ声が漏れた。
キスなら何度もしきてたが、間違いなく今までで一番エロいキスをしている。
三輪はソファに乗り上げて、鳥海を背もたれに押さえつけた。背もたれに頭を乗せた鳥海は真上を向いているからか、受け止めきれなかったらしい唾液が口の端から垂れていく。
抱いてしまおうか。
三輪が本気でそう思った時、スマホの着信が鳴った。
「・・・出ないの」
「出なきゃダメ?」
「っていうか、これ以上はここじゃダメ」
「チッ。そっちが仕掛けてきたくせに」
スマホを確認すると、丸井からだった。「三輪に初めて舌打ちされた・・・!」と変な感動をしながら口元を拭う鳥海を尻目に、仕方なく電話に出る。
「もしもし、なんすか」
『お前、電話の出方直したら?』
「じゃあ先輩も掛け直してください。切りますね」
『待て待て待ちなさい。鳥海くんは見つかった?』
「あー、見つかりましたよ」
見つけたどころか、致していたが。
『なんだよ、その間。見つけたところ悪いんだけどさ、今日、部活中止ね。鳥海くんにも伝えて』
「は?なんでですか?」
『えーちゃんが昼休みに足捻っちゃって病院。体でかいから大変だよな』
「・・・それだけで部活休み?」
『それだけって言うなよ。最近みんなハードワーク気味だから、休めってさ。鳥海くんにも、そう伝えといて』
「あ、はい」
『んじゃねー』
丸井との電話はあっさりと切れた。
「えーちゃん、大丈夫かな?」
鳥海にも、内容は聞こえていたようだ。
「大丈夫でしょ」
「あの体なんだよ?」
「それは、確かにそう」
さっきまでの空気はすっかり霧散している。
三輪は、鳥海の隣に座って脱力した。
「なんでキスしたの?」
「なんでって、嬉しかったから。三輪って、結構ちゃんと俺のこと好きなんだなーって」
「え、知らなかったの?」
これだけアピールして、その程度だとしたらあまりに虚しい。
「知ってたけどさ。三輪が俺のことを好きなったのって、一目惚れみたいな感じでしょ?見た目が決め手ってことじゃん」
鳥海は、案外自分の見た目の良さを理解している。そしてその事実に意外と冷めている。そういうところも好きだが、三輪と同じく見た目で苦労した過去があるのだろう。
「最初はそうだけど。今は、見た目以外で好きなところ百個は言えるよ」
「ふふっ、ありがと。うん、三輪がね。そうやって、俺の内面も好きになってくれるように、俺、頑張ったんだよ?」
「・・・?」
初めて会った時から、好きを更新し続けているから、三輪には、鳥海が何を頑張ったのかわからない。
「部活出るのも、授業出るのも、友達作るのも、俺にとってはすごい気力が要るんだ。でも、三輪に頑張ってる姿見せたいなって思ったから、頑張れた」
鳥海が、三輪を抱き寄せた。
「三輪が寂しいなんて、びっくり!全部全部、動機は三輪なんだよ?頭の中、三輪でいっぱいなの、俺」
鳥海のシャツに、三輪の涙がジワリと染みた。
「・・・好き。好きだよ、鳥海。顔も体も中身も心も大好き」
「うん。俺も。俺も大好き。俺をここから外に出してくれてありがとう」
本当は、泣き顔なんて見せたくないけど、鳥海の顔を見たかったからしょうがない。
泣き顔を晒してまで見た鳥海も、しっかり涙目だった。
「俺、頑張るから、これからも一番近くにいてね」
「近くどころか、もう混ざってひとつになりたい・・・」
「そうだ、それもあった」
「どれ?」
「最近、三輪とふたりきりの時間が少なすぎる」
三輪の心からの言葉が、下ネタに受け取られている気がするが、三輪も気にしていたところではある。
「今日、鳥海家全員居るけど、うち来る?」
「普通は誰もいないんだよ、誘う時って」
「じゃあ、俺とセックスできなくてもいいんだ?」
「う゛っ」
三輪の身体は正直すぎて、一度治ったモノが期待で既に膨らんでいる。
「よし、決まり!家に連絡する!」
「ひとのちんこ見て決断するな・・・」
泣いて笑って興奮して、忙しない日だ。
全部全部、鳥海のせい。
「なんで生徒相談室にいたの?」
「音楽室のスペアキー、いつものところに無かったんだよ。あ、えーちゃんが病院に持っていっちゃったのかな」
「親御さんにはなんて言ったの?」
「ん?普通に。三輪が泊まりに来てもいい?って。是非是非、だってさ。あ、三輪の家は大丈夫?連絡した?」
「うちは全然大丈夫だけど。え、親御さん、俺のこと知ってるの?」
「知ってるどころか、会いたがってるよ」
「俺のこと、話してるの?!」
「佐藤先生とか、えーちゃんが先に話しちゃったんだよ。三輪、我が家で好感度カンストしてるから」
「うわ・・・。逆に緊張する」
これから一度、三輪の家に寄って荷物を取りに行く。
明日は土曜日で午後から部活だから、鳥海の家から一緒に登校するつもりだ。
「あ、俺が抱く方でいい?」
「いいよ。全然そのつもりでいた」
「鳥海、後ろイジったことある?」
「ある。けど、上手くできなかったから、今日手伝って」
「めちゃくちゃ喜んで。なんなら全部任せて」
きっと、明日の俺は、君をもっと好きになっている。