「そういえば、気にしないようにしてたけどさ」
私がそう切り出すと、彼女が顔を上げた。
「あなた、帰らなくて良いの?」
「……そうだなぁ」
彼女の左手が、ずっと音を立ててフローリングの床に沈む。原理は分からないけど、あぁ、こうやってやって来たのか。
「……帰りたくない、って言ったら?」
「帰らせるよ。現在の私が困るもん」
当然のように答えると、彼女が盛大に溜息を吐いた。
「自分勝手」
「あなたは私なんだから、良いでしょ」
「……じゃあ、何かないの? 過去を生きる私に向けたあなたからのアドバイス」
「え、……飯は食え」
「食べてる」
適当に呟いた私に、無愛想な返事が返ってくる。そういえば、寂しさでご飯が食べられなくなったのは去年の夏休みのことだ。
「そっか。じゃあ、生きてて」
ぽかんとする彼女に、笑って続ける。
「生きてたら、それだけで良いや」
「……どこそこ高校に入れとか、言うと思ったけど」
「あなたが決めることだから。それに、あなたは私なんだから、そう簡単に感性とかは変わらないでしょ」
そう。あの学校を、あの場所を、楽しそうだと思った私の直感。
あれは、信じても良いんじゃないだろうか。
「じゃあ、気を付けて帰ってね」
「……うん」
微かに頷いて、彼女の指先が、足が、床板に沈んでいく。
「ねぇ、凪さん」
「うん?」
俯いた彼女に名前を呼ばれて、首を傾げた。
「小説」
彼女がゆっくりと顔を上げる。
「……楽しみにしてるから」
そう言って、彼女は笑った。

ずずず、と鈍い音を立てて、彼女が床の底に沈んだ。とぷん、という音を最後に、部屋の中が静寂に支配される。
「……任せておいてよ」
私の声が、淀んだ空気に溶けていった。

ずっと床に座っていたからか、あちこちの関節が微かに痛む。
ひとつ伸びをしてから立ち上がって、鞄に手を伸ばした。
財布と、すっかり手に馴染んだファイルを取り出して、それらの中身を確認する。
学生証と楽譜は、当たり前のようにそこにあった。他所の学校の学生証に変わったり、ファイルの中身が変わったりしている、なんてことはなかった。
思わず、笑みが零れる。
ほら、やっぱり。
あなたは私で、私はあなたで。
今もあなたは、確かにここにいる。
ここで、私と、重なり合っている。響き合っている。
あなたの選択は、やっぱり、間違ってなんていなかった。
少なくとも今は、現在の私は。
心から、そう思える。

そんなことが、本当に堪らなく、嬉しかった。