晩夏、虫の音が夜の(とばり)を揺らしている。川のせせらぎの背後からは遠い梟の鳴き声。微風が吹けば、収穫期を目前に控えた稲穂がこすれ合い、自然の織りなす音楽に、ざわざわと彩りを添える。

 その武者は今宵、鬼頭(きとう)の荘に湧いた小さな鬼穴を見張る番を任じられていた。

 日の光の下で見れば黄金色に波打つだろう水田の片隅に、墨汁をさらに煮詰めたかのような漆黒の小穴が発見されたのは、かれこれ一月ほど前のこと。

 以降、鬼頭の郎党が持ち回りで目を光らせており、彼自身ももう何度目かの寝ずの晩になるのだが、実際に鬼が這い出てきたのを目にしたのは二度だけだ。いずれも鬼格(きかく)の低い俗鬼(ぞっき)であり、半分眠っていたとしても成敗することができただろう。

 彼と交代で鬼穴を見張る家の者らの話を聞いても同様で、このような小さな歪み、人里に現れたのでなければ監視する必要もないだろう。だが、少し妙な点もある。

 通常、鬼穴は夜毎東国に湧き、西国から届く清めの波動により自然に塞がる。どれほど大きな鬼穴でも、半月以上残るのは稀である。しかし、どうしたことか、目の前にある大鍋ほどの大きさの漆黒は、未だ縮小する気配がない。かといって、拡大もしていないのだから、奇妙である。

「日中、誰かがこの穴に嫌な感情を垂れ流しでもしているのかねえ」

 どうせ今宵も何も起こらない。男は誰の目もないのをいいことに、大きく口を開けてあくび混じりにぼやいた。

「巫女の清めでせっかく浄化された穴に、煩悩が継ぎ足され継ぎ足され。まったく、秘伝のぬか床かってんだ……うん?」

 眠たい涙でぼやけた視界の端に、ゆらりと動くものがある。篝火が踊らせた影かと思い、すぐに興味を失ったのだが、しばらくしてもそれは、微かに蠢いている。

「何だ、珍しく俗鬼が出てきたか?」

 暇を持て余していたのだから、むしろいい運動になるだろう。

 男は億劫そうに腰を上げ、気の抜けた動作で抜刀して鬼穴に近づいた。闇の沼のような穴が、夜通し焚かれる篝火の朱を照り返し、禍々しく煌めいている。その縁辺りから、枯れ枝のような右腕が何かを探し求めるように伸ばされていた。

「どれどれ。黒い俗鬼か? ここから出てくる奴はだいたい黒。疑心の色だな。この辺りの百姓は騙し合いでもしてんのか。それとも、鬼頭に叛意でも持っている奴がいるのか」

 俗鬼の体色は彼らを生み出す元となった負の感情の性質に影響される。緑が怠惰、赤が欲望、青が憎悪で黄色が後悔、そして黒が疑惑だ。

 本来、黒鬼と言えば、権謀術数(けんぼうじゅっすう)渦巻く朝廷に湧く鬼だった。鬼穴が東国に集まるようになってからも、何年かに一度、帝のおわす御所の庭から黒い俗鬼が出て、一騒ぎ起きるものである。

 しかし東国、しかもこのような水田から黒い俗鬼が現れるなど前例に乏しい。

「ま、どちらにしても」

 男は刀を掲げ、地面から突き出す炭化したような色の腕へ狙いをつけた。

「俺は長いものに巻かれて、のうのうと暮らすだけよ」

 刀を軽く一振りすると、鋭利な軌跡が鬼の腕をいとも簡単に両断する。まるで緑鬼のように怠惰な言動が目立つ男だが、曲りなりにも鬼頭の郎党。東国武者である彼にかかれば、生まれたての俗鬼を斬ることなど造作ない。

「しかし、こいつらも哀れなものよ。人里じゃなくて山ん中に湧けば斬られることもないというのに。ああ、これでまたしばらく暇になるな」

 ただでさえ、小さな鬼穴なのだ。今宵どころか、明日も明後日も何も出ないだろう。

 そんな慢心に緩んだ心を凍りつかせたのは、突如足首に感じた強い圧迫感だった。

「な」

 所定の位置に戻ろうとしていた男はつんのめり、危うく転びそうになる。辛うじて体勢を整えて己の足元に目をやり、彼は絶句した。

 鬼穴から伸ばされた俗鬼の左手、つまり先ほど斬った方とは逆の手が、袴の裾辺りに抱きついていた。

 悍ましい光景に思わず小さな悲鳴を上げ、男は刀を振り下ろす。先ほどと同じく、まるで豆腐を切るように簡単に斬り落とされた腕は、鬼穴にずぶずぶと沈んでいった。しかし、それだけでは終わらなかった。

 辺りが振動し、鬼穴の黒が泡立ち始める。沸騰した鍋かと錯覚するほどだ。異様な光景に頬を引きつらせて一歩後ずさった男の目の前で、地面に空いた黒が、まるで墨汁が紙に滲むようにじわりと広がり始めた。

「お、おい。鬼穴がでかくなって……うわあ!」

 ずぶり。

 男の片足が、鬼穴に捕らわれた。漆黒の穴は周囲の稲や水路をも黒く塗り潰し、尋常でない大きさへと成長している。男の身体は沼に沈んでいく。

「待て、待て! 俺を呑み込むな。誰か、おおい、誰か! 助けてくれ……」

 救いを求めて天へと伸ばされた指先が夜気を掻き、やがて地の闇の中に消えた。

 助けを願う悲鳴の余韻が溶けてしまえば、辺りはしんと静まり返る。先ほどまで周囲を賑わせていた虫や梟は息を潜めているようだ。

 長く暗い夜はまだ、終わらない。