曇天が割れ、陽光が館に差し込んだ。真均(まさひと)の意思を乗せ、刃が白く煌めく。

 鬼導丸(きどうまる)は虚を衝かれた顔をした後、徐々に顔を歪めた。

「そうか、残念だ。同じ父を持ちながらも、俺たちはわかり合えないのだな。なんと無念なことだ。ああ、無念無念無念無念無念無念!」

 ぞわり、と真均の全身が粟立った。強烈な負の感情が、鬼導丸の足元に滴り落ち、地面が鳴動する。そして。

鬼穴(きけつ)だ!」

 真均は声を上げ、清高(きよたか)を促し一歩引いてから、館中に響く声で叫んだ。

「助けてくれ、俗鬼(ぞっき)……いいや、大鬼(たいき)も這い出したぞ!」
「はあ?」

 突然発せられた情けない悲鳴を耳にして、鬼導丸が嘲りを露わに肩を回し、ぽきぽきと首を鳴らす。

「おいおい、臆病者か? まだ完全に鬼穴が開いていないというのに」

 意に介さず真均は、声を張り続けた。

「誰か、来てくれ! 鬼穴だ、鬼穴だぞ!」

 やがて、ばたばたと慌ただしい足音が集い始める。そこでやっと真均の意図に気づいたらしい鬼導丸が舌打ちをした。

「厄介な」

 群衆の中に奈古女(なこめ)とあくびの姿を見つけ、真均はつめていた息を軽く吐く。真均と目が合うと奈古女は、一瞬だけ涙を堪えるような顔をしてから表情を引き締め、大殿姿の鬼導丸を指差した。

「見てください。あれが、あなた方が大殿だと思っていた大鬼です。憎しみを垂れ流し、鬼穴を呼んで、この館をもう一度混乱に落とそうとしています」

 奈古女と共にやって来た郎党らは狼狽えながらも鬼導丸に向けて弓を構えた。引き絞る腕が、困惑と躊躇から小刻みに震えている。

 鬼導丸はそれを、冷淡に睥睨した。

「主君に(やじり)を向けるか」

 ぴくり、と武者の間に痺れが走る。すかさず奈古女が大殿の(もとどり)を掲げて叫んだ。

「何を躊躇っているんです! 偽物です。あの鬼には髪があるでしょう。……いいえ、それよりも、もっとはっきりしたことがあります。よく見て。隠しきれない角が、顕現しています」

 言われて初めて気づく。鬼導丸の額には確かに、小さな角があった。三つ角がそうであったが、上級の鬼ならば、人に化けた時に角を隠すことも可能だ。鬼導丸もそうして人に紛れていたのだろうが、度重なる激情の発露に、とうとう変化が解けたらしい。

 己の額を撫で、角の存在を確認すると、鬼導丸は態度を豹変させた。

「ああ、ままならぬことよ。ならば仕方ない。あの晩のように、皆殺しにして全てをやり直そう」

 大殿の目や鼻や口が、まるで沼に沈むように中央に吸い込まれる。顔面が渦巻き、崩れ、やがて顔と呼べるものが戻った時には、そこに大殿の姿はなく、日に焼けた屈強な大鬼がいた。

「ああ、本当に鬼だった」

 誰かが呻く。衝撃の事態に硬直した武者らを、真均は叱咤した。

「何を腑抜けている! 鬼穴から湧いた鬼を射よ。敵の大将は俺が討つ。清高、来い!」

 主家の嫡男から鋭い指示を受け、東国武者らは我に返り、弓を引き絞る。

「奈古女を守り鬼穴まで導け。鬼穴を封じるのはおまえたちに任せる!」

 真均は背後に向けて命じ、清高を引き連れて鬼導丸に挑んだ。握った刀を大きく振る。激情を帯びた一閃は、大鬼の長い爪に弾かれた。

「人も鬼も食ったことのないただの半鬼が、俺に勝てるものか」

 鬼導丸が、鋭利な爪を振り下ろす。仰け反り躱した真均の頬に一筋赤い線が浮いた。

「人食いの鬼がどうして強いのか、教えてやろう」

 突然、鬼導丸の肌が黒く変色し脈打った。筋肉が歪に隆起して輪郭が捩れる。やがて小柄な俗鬼の姿になり、彼は真均が続け様に叩き込んだ刃から軽快な身のこなしで逃れた。

 真均の反応が追いつくより前に、鬼導丸は人の姿になり、誰かが取り落とした弓矢を拾い、素早く放つ。

「東一様!」

 清高が叫び、真均の前に躍り出る。

 さして狙いを定めた様子がないにもかかわらず、鬼導丸の手を離れた矢は真っ直ぐに真均を捉えている。身を挺して盾となった清高の額に突き刺さるのは必然だった。

 無様にも真均は、敵の予想外の動きに、身構える余裕すらなかった。

 驚愕に目を見開き、ゆっくりと後ろに倒れる清高。飛び散った赤い飛沫の一粒一粒すら鮮明に見えるほど、時の流れが緩慢になったかのような錯覚を覚えた。

 真均は従者の横に膝を突き、時が動き始めると同時に清高の上体を起こした。

「清高、清高!」
「大丈夫、です。角に当たって少し逸れました」

 とはいえ、鏃は根元まで清高の頭部に食い込んでいる。焦点の揺れる瞳を見ても、致命傷であることは疑いようがない。

「清高、しっかりしろ。誰か、手当を」

 しかし、助けを求めた声は半ばで途切れる。右肩甲骨に、殴られたかのような衝撃走り、続いて右腕を貫く矢を見たからだ。二度、射られた。状況を理解するや否や、鋭利な異物が突き刺さる傷口が焼けるように痛んだ。真均は呻き、握っていた刀を取り落とした。利き手がやられ、使い物にならない。

 次なる攻撃がくるかもしれない。真均は咄嗟に清高に覆い被さり盾になった。

「おお、感動の主従愛だなあ」

 弓の名手に変化した鬼導丸が、飄々とにじり寄って来る。

「さて、次はどこを射ようか。足の腱かな。右、左、どっちがいい? ああ、左腕を忘れていた。一つ一つ壊してしまおう。それで、四肢の自由を奪われて物のように地面を転がるしかできなくなった後、ゆっくりと嬲り」
「若殿を」

 突然、真均の腕の中にいる清高が、青紫色の唇を開いた。確かめるように小さく零れた言葉は次の瞬間、腹の底から押し出された大声に変わる。

「若殿を、お守りしろ!」

 清高の声で状況を察した武者の中から、矢が飛んだ。不意を衝かれた鬼導丸の肩に突き刺さる。

「うん? 何だ、せっかくいいところなのに邪魔するか」

 鬼導丸は再び変化し、筋骨隆々とした本来の姿に戻る。いくつかの矢が風を切り鬼導丸の身体を貫かんとしたが、生半可な鏃では歯が立たない。鬼導丸の鋼鉄のような筋肉に阻まれ、半分以上が呆気なく地面に落下した。

「ああ、面倒臭え」

 鬼導丸は真均から視線を切り、弓を捨て刀を取って郎党らの始末に向かった。

 まずは絶体絶命の危機を脱した真均だが、そうこうしている間にも、鬼穴からは俗鬼や大鬼が溢れ出している。いつまでも瀕死の清高につき添っているわけにはいかないと理解してはいるものの、身体が動かない。清高は真均に代わり矢を受けたのだ。そんな従者を即座に見限ることができるほど、真均は心の強い男ではなかった。

「清高、すまない」

 情けなくも涙が零れ落ち、清高を濡らす。清高はほとんど虚ろになった瞳を彷徨わせ、真均の顔がある場所に検討をつけて視線を固定した。

「無念です。だからこそ、私を、これかもお側に」
「ああ、手当をしよう。そうすればきっと」
「いいえ、だめです」

 清高は意外にも強い語調で言った。

「私はもう、死にます。だからこの身を」

 ——食って。

 清高の言葉は確かに鼓膜を揺らしたが、意味をなさないまま脳内を通り抜けた。思わず呆けたような顔をする真均の左腕を掴み、清高は最期の力を振り絞る。

「食ってください。命尽きるまで、あなたに仕えると誓いました。死してなお、お役に立てるのならば、これ以上の望みは、ありません」

 真均は、見慣れないものを眼前にしたような心地で、清高を見下ろした。生来白い肌からいっそう血の気が引いて、薄曇りの下、青白く浮かび上がっている。

「食う、だと? なぜ」
「東一様は、右腕を、負傷された。しばらく、武器を、持てません。でも私は、左利きです。私の姿になり、戦い抜いて、そして、生きて、東国を」
「清高!」

 腕の中で小刻みに痙攣し始めた身体をかき抱く。清高の息が耳朶を揺らす。

「どうか、お役に、私の、最期の、最期、最期の」

 それきり、清高の呼吸が止まり、手が脇に滑り落ちた。

 清高の身体に、俗鬼が群がり始める。上級鬼の死の気配を感じ、おこぼれにあずかろうと涎を垂らしながら様子を窺っていたのだ。

 真均は左腕でそれを追い払い、瞑目しながら清高の身体をもう一度抱き締める。初めて出会った日、清高がそうしていたように、魂の安寧を願う経を唱えてから、真均はしかと目を開き、そして。

 清高の肩を食った途端、身体中を得も言われぬ激痛が襲った。肉体の痛みではない。真均という存在の核が、悶絶し、慟哭する。それは、初めて他者に歯を突き立てた鬼の誰もが体験する現象なのか、それとも、真均の心が発した痛みだったのか。

 どちらでもいい。今はただ、清高の遺志に報いるのみだ。真均は、いつになく滑らかに動く左手で己の肩と腕に刺さった異物を引き抜くと、清高の身体を抱えて、立ち上がった。

 腕に抱いた者と同じ容貌をしている。真均は、誰の目にも疑いようのない大鬼となった。