季節の進みと共に日の出が遅くなったとはいえ、山の朝は早い。東の空が白み始めるや否や、鳥が明るく鳴き交わし始め、奈古女(なこめ)は自然と眠りの底から呼び戻された。もっとも、傍らに横たわる怠惰の俗鬼(ぞっき)は小鳥の囀りなどお構いなしで、健やかな寝息を立てながら未だ夢の世界を探検しているようだ。

 あまりにも幸せそうな寝顔だ。鬼頭(きとう)の館から東西の国境まで、単身旅をして奈古女たちを探し出してくれたのだから、たいそう疲弊していることだろう。ただでさえ、眠ることが好きな俗鬼なのだ。もうしばらく休ませてあげたい。奈古女は、自身が被っていた衣をあくびに掛けてやる。

「でもあくび、いつからいたんだろう」

 奈古女が眠りに落ちる前には姿が見えなかった。明け方に帰って来たのかもしれない。

「ゆっくりしてね」

 微笑みつつ呟いてから、奈古女は(いおり)の内部を見回した。室内は冷え込んでいる。真均(まさひと)はとうに外へと出たらしく、床板には温もりの名残もなかった。

 奈古女は、朝の冷気に軽く身震いする。冷えを意識すれば、自ずと真均の肌の温かさが蘇り、全身の毛穴から火が出るような心地がして頬を軽く張った。

「……顔を洗おう」

 音を立てないように扉を開き、朝日の下へと足を進める。鳥たちで賑わう梢の間から、白く清々しい陽光が降り注ぎ、奈古女は手を庇にして目を細め、空を見上げた。

 東国では、鬼が鬼頭の館を占拠している。本当の困難はこれからだ。しかし、どれほどの苦行の後も、朝は変わらず訪れる。世界は美しく、規則的で、奈古女の心を決して消えない光で満たしてくれるかのようだった。

 ゆっくりと沢へと足を向けた時、奈古女の耳は、鳴き交わす小鳥の騒めきの中に、ちゅん、と聞き慣れた声が混じるのを捉えた。小走りで声の側へ向かえば低木の枝に影雀(かげすずめ)が止まっている。

「影雀! よかった、帰って来たのね」

 胸に手を当てて安堵の息を吐き、影雀に問いかける。

「昨日のことだけど、いったいどうしたの。大鬼(たいき)を守ろうとしたのには、何か事情があったのよね。ちゃんと話して。大丈夫、私が一緒に説明するから」

 影雀は少し考えるような間を空けてから、冷たい口調で言った。

「どうしたのって、あんたこそ。若殿と何かあったの?」
「え!」
「見えるもの全てがきらきらちてる……って感じの、浮ついた顔ちてるわよ」

 図星を指され、奈古女の顔面がみるみる紅潮する。これでは肯定しているのと変わりない。奈古女は慌てて話を逸らす。

「そ、そんなの影雀には関係ないでしょう。それよりもなんだか苛立っている?」
「別に。ただ、昨日の昼の子が哀れに思えてちかたないだけよ」

 つん、とそっぽを向いた影雀。鬼と戦った川原で真均に怒鳴られたことを気に病んでいるのだろうか。奈古女は一歩歩み寄り、影雀の視線の先に移動した。

「確かに可哀想な子だった。でも、あのままにしておいたら他の鬼を食べてどんどん大きな鬼になってしまったかもしれない。それに、あれは赤子の姿をしていても本性は大鬼だもの。あの赤子自身はきっともう成仏して」
「奈古女、もうあたちはいらないわね」
「え?」

 突然発せられた拒絶の言葉に、脳内が真っ白になる。情けなく口を半開きにした奈古女に向けて、影雀は容赦なく吐き捨てる。

「あんた、いつからか、若殿みたいなことを言うようになったわ。せいぜい二人で楽ちく暮らちなさいよ」
「待って、どうしてそんなことを言うの。ずっと一緒にいようって約束したじゃない」
「見たくないの!」

 影雀が声を張った。あまりの鋭い語気に驚いた小鳥が、慌ただしい羽音を響かせて空へと飛び去った。

「ずるい。ずるいわ。奈古女は生きて、恋をちて、そちて幸福になることができるのに。あたちはなぜ、何もわからないまま命を終えなければならなかったの」
「か、影雀?」
「奈古女なんて」

 影雀は黒く真っさらな、表情のない顔で奈古女を睨んだ。

「奈古女なんて大嫌いよ。本当は始めから羨まちくて妬まちくて、とっても憎かったの」

 絶句する奈古女の前で、影雀の全身から灰色の粒子が陽炎の如く立ち昇り、姿が揺らいだ。この現象は、東国に来てから何度も目にしてきた。鬼が変化する前触れだ。

 だが、姿形を変えることができるのは他者を食った大鬼だけのはず。影雀は鬼も人も食べたことはない。……そう、奈古女が知る限りは。

「影雀、まさか」
「奈古女!」

 呆然と落とされた声に被さるようにして、真均が呼んだ。沢の辺りから獣道を駆け上って来たらしい真均は、一目見て影雀の状況を理解したらしい。すらりと抜刀し、剣呑に光る刃を影雀に向けた。

「やめてください!」

 袖に縋りついた奈古女を振り払い、真均は声を荒げる。

「邪魔をするな! 油断すると足元を掬われる。相手は鬼。……いいや、大鬼だ」
「違う、違うんです。あれは影雀で」
「とんだ茶番ね」

 氷柱(つらら)のような声が、低木の辺りから飛んで来た。見れば、影雀の纏っていた暗色の靄は消え、いつも通りの丸々とした雀姿に戻っている。ただ一つ常と異なるのは、その声音がひどく冷え、悪意を剥き出しにしながら叩きつけられること。

「ええ、そう。あたちは大鬼なの。どうぞ、斬ったらいいじゃない。ま、そんなことをちたら、奈古女が許さないだろうけど。それにあたちは空を飛べる。刀よりも弓の方がいいんじゃない」

 起床後、身支度を整えていない真均は、あいにく弓を持っていない。音が出そうなほど歯を食いしばり、真均は刀を下ろす。

「おまえはいったい何がしたい。大鬼になり奈古女を裏切るなら、わざわざ本性を明かす必要はないだろう」
「お別れを言いに来たの。長いつき合いだもの。さすがに挨拶くらいは必要でしょ」

 真均の眉根が、納得いかないというようにひそめられたが、奈古女には些事に拘泥する余裕がない。

「お別れって、どこへ行くの」
「鬼の世界」
「それって、鬼穴?」
「まさか、あんな陰気なところ嫌よ。地上に、鬼の世界が戻ってくるの。鬼導丸(きどうまる)の手によって」
「鬼導丸って……」

 引きつり途切れた奈古女の言葉を引き継ぎ、真均が呻く。

()(つの)の子。鬼頭の館を占拠した鬼」

 まさか影雀は、つい昨日まで敵であった鬼導丸に(くみ)しようというのか。鬼頭の館に赴き鬼の勢力に加担するためにあえて大鬼となったのだとすれば、それも道理は通るが、しかし。

「嘘よ、影雀。だって昨日までは、鬼に食われた子を哀れんで」
「甘いのよ。反吐が出るわ、奈古女」

 影雀は、顔を斜めに逸らし、奈古女の視線を避けた。

「強くなければ、自分の望みは叶えられない。そちて、鬼が手っ取り早く上級鬼になるためには、負の感情をたっぷりため込んだ人間や鬼を食べればいいの。同じ鬼ならわかるでしょ、若殿」

 水を向けられて、真均の眉がぴくりと動く。彼は反駁するでもなくただ口を閉ざし、真意を探るように影雀の一挙手一投足を窺っている。やがて、影雀は奈古女に一瞥を寄越してから翼を広げた。

「じゃ、お別れね。西国で、せいぜい呑気に暮らちなさいな。あたちは鬼導丸のところで楽ちくに過ごすわ」
「待って、影雀。待って!」

 奈古女の叫びは影雀の姿を追って、蒼天に吸い込まれる。小さな鳥影が雲の向こうへ去ってもなお、声を上げ続けた。見かねた真均が奈古女の肩を強く掴んで揺らす。

「やめろ。喉を傷める」
「でも、呼び戻さないと。影雀は、あの子はいい子です。人間と一緒にあれるはずの子なんです。だから何か理由があるはずなの」

 真均は怜悧な瞳で奈古女の慟哭を受け止め、微かに目を細めた。

「影雀はもしかすると……いいや、俺たちは今できることをするのみだ」
「できる、こと?」

 真均は奈古女の肩を放し、納刀して(きびす)を返す。慌てて背中を追った奈古女を肩越しに振り返り、彼は短く言った。

「鬼頭の館へ戻る。影雀とはそこで再会できるだろう」