奈古女(なこめ)は、刀身を覆っていた白布を剥ぎ、岩の上に無造作に置くと、影雀(かげすずめ)と共に舞った。前へと滑り、後ろ、前、後ろ、それから斜め前。片足を軸に一回転して、神刀を振る。しゃん、と鈴の音が木々の間をこだまして、どこからともなく青白い清めの光が集ってくる。

 光を誘導し、鬼穴(きけつ)に導いてもいいのだが、ここからでは若干の距離がある。鬼穴から湧く俗鬼(ぞっき)らは、今のところ全て真均(まさひと)に斬られて穴の底に沈んでいる。しかし、いつ強大な大鬼(たいき)が出てくるかわからない。ことは、一刻を争う事態なのだ。あの穴を塞げるのは今、奈古女しかいない。ならばとるべき行動はただ一つ。

 奈古女は腹の底に力を込めて覚悟を決めると、神刀で青白い光を薙ぎ、糸を巻くように刀身に纏わりつかせた。それから、見様見真似で東国武者のように刀を構え、半ば転がり落ちながら斜面を駆けた。

「あ、ちょっと奈古女!」

 影雀が慌てて追って来る。奈古女は、産着の中で動かない赤子の隣をすり抜け、真均に並ぶ。

「若殿、引いてください!」

 突如乱入した奈古女の姿に真均は軽く眉を上げたものの、すぐに意図を察したらしい。半身を翻し鬼穴の正面を譲り、振り返り様に、地上に這い出してしまった青い俗鬼の首を刎ねた。

 その血しぶきが袖にかかるのも厭わず、奈古女は川から歪に溢れ出した闇色の中央に切先を突き立てる。

 その途端、鬼穴の底から、生温く黴臭い暴風が吹き上げて顔を打つ。風の唸りが、まるで慟哭のように奈古女の耳に響く。青白い清めの光に穿たれた闇は、次第に萎み始めるのだが、最後のあがきとばかりに、青黒い俗鬼が押し合いへし合い勢いを増して地上へと腕を伸ばした。

 細い出口に同時に身体を滑り込ませるのは無理がある。わらわらと突き上がる腕、足、頭部、部位の不明な青黒い皮膚……。俗鬼の骨が軋み、砕け、骨片が肉を裂く粘性の異音が奈古女の全身の肌を粟立たせた。

 威勢よく飛び出した奈古女だが、無様にも恐怖で身がすくんでしまう。神刀を鬼穴に押しつける力が弱まり、刀身が、むくむくと湧く俗鬼の肉塊に押し上げられる。その柄頭を真均が両手で掴み、鬼穴に押し込んだ。

「押せ、奈古女!」

 耳元で叱咤され、奈古女は反射的に柄を握り直し全体重をかけた。

「うわー」
「いたいー」
「しずむー」

 あらぬ方向に四肢を折り曲げた俗鬼らが、無邪気にすら聞こえる叫びを上げながら漆黒の沼の奥へと沈んでいく。やがて、まるで傷口が塞がるように、黒い亀裂が収縮して水底に消える。たった今まで鬼穴があった場所には、元通りの穏やかな流れが戻り、かき乱された小石が清水に舞うだけだった。

 終わった。

 奈古女は荒い息を吐きながら水面を見つめ、ぼんやりと水鏡に映る真均と視線を重ねてから顔を上げた。神刀を地面に突き立てたまま、危機を乗り越えた二人は顔を見合わせる。真均の額には玉のように汗が浮いており、奈古女自身も、纏った小袖がじっとりと湿っているのを感じた。

 互いの息遣いばかりが大きく響く川辺。呼吸を整え、先に動いたのは真均だった。彼は視線を川原に落とすと膝を突き、先ほどまで鬼穴があった場所の側に横たわっている産着を抱く。赤子の顔の辺りの布を指先で押しのけ、真均は小さく息を呑んで動きを止めた。

 奈古女は屈み、赤子の顔を覗き込む。薄汚れた産着に包まれた赤子の顔面は、青白い。とうに命を終えた者のそれだった。

「間に合わなかったの?」
「いいや、だがそれにしては」

 真均が低く言った時だった。少し離れた木陰から、ぐちゃりと悍ましい咀嚼音が響いた。顔を向けると、青い俗鬼が四つ這いになり、地面に転がる鮮血に染まった産着に顔を突っ込み口元を蠢かせているのが見えた。

「ああ……」

 全身から冷たい汗が噴き出した。奈古女は思わず呻き、瞠目する。その声に気を引かれたのか、俗鬼は産着から顔を上げた。赤黒く染まった顔面。恍惚を浮かべた俗鬼が口の端を持ち上げると、ぬらぬらと血の色に光る牙が剥き出しになる。

 どうやら、もう一人赤子がいたらしい。だが時すでに遅く、すでに俗鬼の餌食になっていた。

「泣いていたのはあちらの赤子か」

 真均が憎々しげに声を絞り出し、刀を手にして鬼の方へと向かう。

 青い俗鬼、いいや、人を食い大鬼になったばかりのそれの皮膚が、黒い粒子を纏いながら脈打ち歪な瘤に覆われた。やがて輪郭が歪み、縮小して、生後間もない赤子の姿となり、砂利の上で弱々しい泣き声を上げ始めた。先ほど奈古女たちの耳を捉えたものと同じ声だった。

「悪趣味な。害のないふりをしても無意味だぞ」

 真均が低く言葉を落とす。眉間に深い皺を刻みながら足を進め、か弱い赤子の胸の上に、刀の切先を向けて狙いをつけた。

 木々の間を駆け抜ける乾いた風が、真均と赤子姿の大鬼の間を通り抜ける。しばしの躊躇の末、柄を握り直し、いよいよ突き立てようとした、その瞬間。

「待って!」

 梢から、羽音を響かせて黒い弾丸が飛び出した。

「待って、その子はだめよ!」

 翼の裏に、白い班がある。影雀(かげすずめ)だ。

 不意の体当たりが真均を襲う。小さな雀とはいえ、ただでさえ躊躇いを帯びていた切先は軌道を逸らし、大鬼のすぐ横の地面を抉った。

 その一瞬の隙を、大鬼が突く。

 突如、首もすわっていないはずの赤子が目を剥きむくりと上体を起こした。そのまま急速に肥大化し、青黒い肌の大鬼姿となるまでに、さほど時間はかからなかった。

 呆気に取られる真均を目がけ、人間よりも一回り大きな体躯をした大鬼が、長い爪の生えた手を伸ばす。

「わ、若殿」

 一拍遅れて状況に追いついた奈古女が、川底に刺さったままの神刀を引き抜き駆け出した。しかし、やや距離がある。到底間に合わないと察し、奈古女は叫ぶ。

「お願い、逃げ」