部屋にひやりと広がった音の羅列は最初、脳内で意味を結ばなかった。やがて、夫の懸念が、嫌悪が、冷酷な瞳が、いったい何を根源としているのか悟った時、三紅の世界は音を立てて崩れ落ちた。

 どのようにして自室に戻ったのか、全く思い出せない。来る日も来る日も泣き暮れて、とうとう見かねた侍女が板ヶ谷(いたがやつ)の館に連絡を入れ、三紅は生家に戻ることになった。

 今、胎動しているのは殿の子だ。三つ角に攫われるよりも前に身ごもっていたのだから間違いない。だが、皆がそれを疑っている。夫のみならず、実の父母や兄たちまでもが。

 この子はこのまま生まれても、幸せになどなれやしない。三紅は堕胎薬を飲んだが、効果がなく、その他ありとあらゆる方法で胎児をいじめたが子は胎にしがみついて離れなかった。そうか、罪なきこの子はきっと寂しいのだ。無念なのだ。ならばこの母と共に逝こう。

 三紅は毒飲み、首を括ろうとしたがいずれも叶わず、半ば監禁されるようにして産月を迎え、子を産んだ。

「これはまあ……鬼頭の殿様にそっくりなお子でいらっしゃる」

 生まれたばかりの赤子の額を険しい顔で拭っていた産婆の表情がほっと緩むのを見た瞬間、三紅の死への願望は、我が子への愛情へと塗り替えられた。産婆が暗に述べた通り、息子に角はなかったのだ。

 三紅は安堵すると同時に、自身も心のどこかでは、夫の子は流れ、三つ角の血を引く純鬼(じゅんき)が新たに宿っていたのではないかと案じていたことに気づいた。

 三紅が産んだのは、どうやら人間らしい。その報告を受けた夫はやっと息子を抱き、鬼頭の嫡男であると認めてくれた。
しかし、息子の元服の折。贈られた名を耳にした三紅は、全身の血液が沸騰するような怒りを覚えることになる。

「なぜですか。あの子には角がありません。悪しき鬼ではありません」
「しかし三つ角は、角を隠してこの館に押し入ったことがある。あれの血を引くならば、角が顕現せずとも油断はできぬ」
「まだ疑っておいでですか」
「可能性は捨てきれないと思っているだけだ」
「だからといって、真人(まさひと)、だなんて」
「何が悪いか。よくある名ではないか」
「ですが、あの子につけるなんて酷です。皆が妙に思うでしょう。だってあの子は」

 鬼の子ではなかろうかと、囁かれながら生まれてきたのだから。

 その後、懸命に説得をして、名は真均に改められた。とはいえ、一連の事件の渦中、真均は大いに傷ついたことだろう。以前から、決して陽気な(たち)ではなかったが、近頃はいっそう寡黙になり、ほとんど笑みも見せなくなった。

 そんな我が子を元気づけようと、三紅はその日、真均の部屋に向かっていた。だが、彼の姿を見つけたのは、庭の池のほとりだった。

「まさ」

 呼びかけて、息を呑む。

 真均の片手が、微かに震えながら己の額を撫でている。水面を覗き込み、そこに映る禍々しい自身の姿に慄いている。

「真均、まさか」

 落とした声は小さかったが、足裏が砂を擦る音が庭に響く。真均が弾かれたかのように顔を上げた。

「あ……」

 二人の間を、潮風を含んだじっとりとした風が吹き抜けた。全身の毛穴から汗が噴き出して、三紅はがたがたと震える。そして、思わず口にしてしまった。

「ああ、鬼の血が伝わってしまったのね」

 その時、真均の瞳に浮かんだ絶望は、脳裏に焼きつき生涯消えることはない。

 三紅はいたたまれない気分になって混乱し、どうしたらいいのかわからず、(きびす)を返して逃げるようにして館を出た。どこへ向かおうとしたわけでもない。気づけば、北の山道の、少し開けた草地にいた。

 ぞわり、と背筋を冷たいものが撫でた心地がした。地面が小さく振動し、足元に墨汁を煮詰めたかのような黒い沼ができていた。

 鬼穴だ。鬼が出る場所へ来てしまったのは、無意識に吸い寄せられていたからだろうか、それともあちらが三紅の元に現れたのか。どちらにしても、この邂逅が、三紅の運命を決定づけた。

「全身から悲しみをぼとぼとと滴り落としておるな、女よ」

 枯れ葉を踏み、木々の陰から一体の大鬼が姿を現した。肌色は、ひどく日焼けをした人間のそれであり、頭髪は黒く、無造作に後ろで結っている。普通の男よりも一回り体格がいいが、その額に二本の角さえなければ、人間だと主張しても通用するだろう。異形とは程遠く、他の大鬼とは比べ物にならないほど知能が高そうな鬼だった。

「どなた……」
「ああ? 俺は鬼導丸(きどうまる)。十何年か前までこの辺りの鬼を纏めていた大鬼、三つ角の子だ」

 出会いとは数奇なものである。呆然と鬼を見上げる三紅。鬼導丸は軽く顎をしゃくり、三紅の足元を示した。

「おまえ、そのままだと鬼に食われるぞ」

 指摘されて初めて、足元に俗鬼が群がっていることに気づいた。思わず悲鳴を上げて足を上げ、踏みつけるようにして鬼を散らす。ぐちゃり、と脆い骨が捩れて皮膚を突き破る音がした。

「えーん、いたいー」

 俗鬼の腕を、踏み潰してしまった。足裏に走った不快な衝撃の正体に震え、転がるように木の根辺りに駆けて嘔吐する。

 蹲り胃の中のものを吐き出し続ける様子を鬼導丸は物珍しそうに眺めた。やがて、三紅の背中の痙攣が一段落すると、彼は繊細さを欠いた言葉を投げる。

「俺は元純鬼だが、鬼を食って大鬼になった。おまえも、食わる前に鬼を食え。そして大鬼となり、憎い全てに復讐をしよう。何、おまえならできる。どうせ、自分でも気づいているんだろ」

 大鬼の言葉は、三紅にとって特別魅力的ではなかったが、抗う気力もなければ、正常な判断をする余裕もない。

 鬼導丸は鷲掴みにした赤い俗鬼を、有無を言わさぬ動作で三紅の口に押しつけた。三紅は目尻に涙を溜めたまま、本能のままに顎を開き、歯を突き立て……血肉を貪った。

 こうして三紅は額に消えない角を得た。それを頭巾で隠すため、操を立てた証と理由をつけて尼装束を纏うことになるのであった。