十九年の奈古女の人生において、かつてここまで全身を酷使したことはない。
鬼頭の館を出て裏山の竹林を無我夢中で駆けて横断し、気づけばそこは、鬼頭の荘の外れであった。辺りは宵闇に沈み、夜灯が貴重な里人たちは、日の入りと共にすでに寝静まっている。
海が見下ろせる丘の上。胸を割って飛び出しそうなほど激しく暴れる心臓の鼓動と、荒く繰り返される奈古女と真均の息遣いだけが、静寂の夜を揺るがしている。
喉に込み上げた金臭い味を嚥下していくらか息を整えると、不気味な潮騒が耳に届く。眼下に広がる漆黒の海が、まるで巨大な鬼穴のように蠢いている錯覚を覚え、奈古女は神刀ごと自身の腕を抱き、砂利の上に蹲って小さく震えた。
しばらくそのまま、二人は無言の時を過ごした。やがて、沈黙を破ったのは真均だった。
「成り行きでおまえを連れて来てしまった。すまないな」
素っ気ないものの殊勝な言葉に、思わず奈古女は口ごもる。真均は気に留めた様子もなく、淡々と続けた。
「俺はやはり、父上の子ではなかったのだろう。それどころか、二十一年前、東国を絶望の淵に落とし母を攫った鬼、三つ角の子だ。東国武者の棟梁である資格などない」
「そんなことは」
「ないと言えるか! いったい何を根拠に」
突然の高い声に、奈古女は肩を大きく震わせて、いっそう強く己の身体を抱き締めた。
見るともなしに足元の小石に視線を落とす奈古女を睨み、真均は小さな舌打ちの後、側頭を掻いた。
「すまない。……だが、俺の所業は鬼のそれだ。鬼といっても清高とは違う。人に害なす類の悪鬼だ」
奈古女はおずおずと顔を上げる。淡い月明りに照らされた真均の額では、血を浴びた刀身のように赤黒い角が鈍い光を放っていた。
「俺が何をしたか見ただろう。許婚の額に矢を射て、心臓を真上から一突きにして、そしてあいつを」
「いいえ。あれはもう、和香様ではありませんでした。大鬼です。私、その、見ましたから間違いありません。それに、悪いのは私なんです。和香様がああなったのは、私のせいで」
「いいや、そもそもの原因は俺の母だ」
「三紅様?」
真均は海の方を睨みながら頷いた。
「和香の感情を煽り、鬼穴を呼び出そうとしたのだ。……昨晩の香のこと、気づかなかったか? あの香には催淫効果があったようだ」
「さ、催淫って。母親が実の息子に対してそんなこと」
「それをするから悪しき鬼だというのだ」
「でも、なぜ三紅様は鬼穴を呼んだんでしょうか」
「わからない。そもそも、あれは母上の意思なのか、それとも母上を食った大鬼が棟梁の妻を利用しただけなのかすらも不明だ。だが、母上は鬼頭を恨んでいた。そしてまた、悪しき鬼たちも鬼頭を憎んでいる。それは確かだろう。だから和香を利用して、館を鬼の巣へと変えた」
――二十一年前、私は三つ角という凶悪な鬼に攫われた。そこで、彼の慰み者にされたの。
三紅の告白が脳裏に蘇る。
――真均は紛れもなく殿の子よ。でもね、いくら主張しても、誰も信じてくれなかった。……全てが憎い。三つ角も、大殿も、東国も人の世も、私の運命の全てが。
真均の予想は、おそらく正しい。
気づけば、全身の震えは治まっていた。ただ流されて東国に来て、成り行きで館を飛び出した奈古女よりもずっと、真均の方が深く傷ついているはずなのだ。どうして奈古女ばかりが哀れな女を装い打ちひしがれていられようか。
真均をじっと見つめる。感情を押し殺そうと頬を強張らせた横顔が痛々しい。その面立ちにはどこか、鬼頭の大殿と重なる部分がある。血縁がないとなれば妙である。父子として過ごした日々が立ち居振る舞いを似通わせただけなのか。それとも何か、隠された事情があるのだろうか。今の奈古女には判断がつきかねた。
「おまえは巫の宮へと帰れ」
ゆっくりと顔を動かし、真均が奈古女を見る。黒い瞳には絶望が浮かんでいたが、必死にそれを隠そうとする健気さが、奈古女の胸を打った。
「いいえ、帰りません」
「俺を哀れむのか」
「それは」
違う、と断言するには、目の前にある真均の顔は痛々しすぎた。一人きりになれば彼はきっと、闇に魅入られ鬼穴を呼び、遠からず大鬼の餌となってしまうだろう。
奈古女は腰を上げ、膝に付着した砂を払う。それから姿勢を正し、真均の黒々とした瞳を正面から見つめた。
「私は東国の鬼穴を塞ぐためにここへ参りました。道半ばで、いったいどんな顔をして巫の宮に戻れましょうか」
「主である俺が、帰っていいと言っている」
「私、落ちこぼれ巫女なんです。だからそもそも、帰る場所はありません。若殿、どうかお願いです。私を見捨てないでください」
真均は虚を衝かれた様子で息を呑む。軽く目を見開いて、奇妙なものを見つけた時のように何度か瞬きをしながら奈古女の顔を凝視した。奈古女は意に介さず言葉を繋ぐ。
「失礼ながら、今や若殿もお一人なんですよ。孤独な人間同士、まずは寄り添い合いませんか。幸いなことに、ほら、私にはこれがあります」
奈古女は腕に抱えていた神刀を揺らした。
「神刀があれば、鬼穴を塞ぐことができます。千早や花簪といった装束はありませんが、最低限これさえあれば問題ありません。だからとりあえず、共に身を潜め、出来ることを行いましょう。そうだ、一緒に巫の宮に行くのはいかがです。事情を説明して、もっと多くの巫女を呼んで来ましょう。鬼穴が消え、新しい鬼が出なくなれば、いつかは人間が粘り勝ちできるはず。そもそも、それよりも前に武者の皆さんが鬼を全て討伐してくれたらいいですけど」
真均は半ば口を開いて呆気に取られていたが、やがて小さく鼻を鳴らして視線を逸らす。そして、ぶっきらぼうに返した。
「変わった巫女だなおまえは」
神刀にたわわにつけられた鈴が、しゃんと鳴る。清浄な音が風に乗り、どす黒い海原を渡って散った。
鬼頭の館を出て裏山の竹林を無我夢中で駆けて横断し、気づけばそこは、鬼頭の荘の外れであった。辺りは宵闇に沈み、夜灯が貴重な里人たちは、日の入りと共にすでに寝静まっている。
海が見下ろせる丘の上。胸を割って飛び出しそうなほど激しく暴れる心臓の鼓動と、荒く繰り返される奈古女と真均の息遣いだけが、静寂の夜を揺るがしている。
喉に込み上げた金臭い味を嚥下していくらか息を整えると、不気味な潮騒が耳に届く。眼下に広がる漆黒の海が、まるで巨大な鬼穴のように蠢いている錯覚を覚え、奈古女は神刀ごと自身の腕を抱き、砂利の上に蹲って小さく震えた。
しばらくそのまま、二人は無言の時を過ごした。やがて、沈黙を破ったのは真均だった。
「成り行きでおまえを連れて来てしまった。すまないな」
素っ気ないものの殊勝な言葉に、思わず奈古女は口ごもる。真均は気に留めた様子もなく、淡々と続けた。
「俺はやはり、父上の子ではなかったのだろう。それどころか、二十一年前、東国を絶望の淵に落とし母を攫った鬼、三つ角の子だ。東国武者の棟梁である資格などない」
「そんなことは」
「ないと言えるか! いったい何を根拠に」
突然の高い声に、奈古女は肩を大きく震わせて、いっそう強く己の身体を抱き締めた。
見るともなしに足元の小石に視線を落とす奈古女を睨み、真均は小さな舌打ちの後、側頭を掻いた。
「すまない。……だが、俺の所業は鬼のそれだ。鬼といっても清高とは違う。人に害なす類の悪鬼だ」
奈古女はおずおずと顔を上げる。淡い月明りに照らされた真均の額では、血を浴びた刀身のように赤黒い角が鈍い光を放っていた。
「俺が何をしたか見ただろう。許婚の額に矢を射て、心臓を真上から一突きにして、そしてあいつを」
「いいえ。あれはもう、和香様ではありませんでした。大鬼です。私、その、見ましたから間違いありません。それに、悪いのは私なんです。和香様がああなったのは、私のせいで」
「いいや、そもそもの原因は俺の母だ」
「三紅様?」
真均は海の方を睨みながら頷いた。
「和香の感情を煽り、鬼穴を呼び出そうとしたのだ。……昨晩の香のこと、気づかなかったか? あの香には催淫効果があったようだ」
「さ、催淫って。母親が実の息子に対してそんなこと」
「それをするから悪しき鬼だというのだ」
「でも、なぜ三紅様は鬼穴を呼んだんでしょうか」
「わからない。そもそも、あれは母上の意思なのか、それとも母上を食った大鬼が棟梁の妻を利用しただけなのかすらも不明だ。だが、母上は鬼頭を恨んでいた。そしてまた、悪しき鬼たちも鬼頭を憎んでいる。それは確かだろう。だから和香を利用して、館を鬼の巣へと変えた」
――二十一年前、私は三つ角という凶悪な鬼に攫われた。そこで、彼の慰み者にされたの。
三紅の告白が脳裏に蘇る。
――真均は紛れもなく殿の子よ。でもね、いくら主張しても、誰も信じてくれなかった。……全てが憎い。三つ角も、大殿も、東国も人の世も、私の運命の全てが。
真均の予想は、おそらく正しい。
気づけば、全身の震えは治まっていた。ただ流されて東国に来て、成り行きで館を飛び出した奈古女よりもずっと、真均の方が深く傷ついているはずなのだ。どうして奈古女ばかりが哀れな女を装い打ちひしがれていられようか。
真均をじっと見つめる。感情を押し殺そうと頬を強張らせた横顔が痛々しい。その面立ちにはどこか、鬼頭の大殿と重なる部分がある。血縁がないとなれば妙である。父子として過ごした日々が立ち居振る舞いを似通わせただけなのか。それとも何か、隠された事情があるのだろうか。今の奈古女には判断がつきかねた。
「おまえは巫の宮へと帰れ」
ゆっくりと顔を動かし、真均が奈古女を見る。黒い瞳には絶望が浮かんでいたが、必死にそれを隠そうとする健気さが、奈古女の胸を打った。
「いいえ、帰りません」
「俺を哀れむのか」
「それは」
違う、と断言するには、目の前にある真均の顔は痛々しすぎた。一人きりになれば彼はきっと、闇に魅入られ鬼穴を呼び、遠からず大鬼の餌となってしまうだろう。
奈古女は腰を上げ、膝に付着した砂を払う。それから姿勢を正し、真均の黒々とした瞳を正面から見つめた。
「私は東国の鬼穴を塞ぐためにここへ参りました。道半ばで、いったいどんな顔をして巫の宮に戻れましょうか」
「主である俺が、帰っていいと言っている」
「私、落ちこぼれ巫女なんです。だからそもそも、帰る場所はありません。若殿、どうかお願いです。私を見捨てないでください」
真均は虚を衝かれた様子で息を呑む。軽く目を見開いて、奇妙なものを見つけた時のように何度か瞬きをしながら奈古女の顔を凝視した。奈古女は意に介さず言葉を繋ぐ。
「失礼ながら、今や若殿もお一人なんですよ。孤独な人間同士、まずは寄り添い合いませんか。幸いなことに、ほら、私にはこれがあります」
奈古女は腕に抱えていた神刀を揺らした。
「神刀があれば、鬼穴を塞ぐことができます。千早や花簪といった装束はありませんが、最低限これさえあれば問題ありません。だからとりあえず、共に身を潜め、出来ることを行いましょう。そうだ、一緒に巫の宮に行くのはいかがです。事情を説明して、もっと多くの巫女を呼んで来ましょう。鬼穴が消え、新しい鬼が出なくなれば、いつかは人間が粘り勝ちできるはず。そもそも、それよりも前に武者の皆さんが鬼を全て討伐してくれたらいいですけど」
真均は半ば口を開いて呆気に取られていたが、やがて小さく鼻を鳴らして視線を逸らす。そして、ぶっきらぼうに返した。
「変わった巫女だなおまえは」
神刀にたわわにつけられた鈴が、しゃんと鳴る。清浄な音が風に乗り、どす黒い海原を渡って散った。