翌朝。板ヶ谷(いたがやつ)の館に宿泊していた真均(まさひと)一行が戻ると、鬼頭(きとう)の館の前で出迎えが待っていた。どうやら昨晩の戦いは、規模にしては死傷者の数が少なかったらしく、指揮を執った若殿を労う空気が館中に満ちている。

 それと同時に、西国から招かれた巫女が鬼穴(きけつ)を封じ、穴に沈みかけた若殿を救ったという話が早くも広まっているらしく、奈古女(なこめ)に向けられる眼差しもどこか熱を持っていた。

「お疲れでしょうから、このまま対屋(たいのや)に向かうようにと若殿が仰せです」

 帰路、清高(きよたか)の馬に同乗させてもらっていた奈古女は、下馬に手を貸しながら言った清高に頷いて、緑の俗鬼(ぞっき)あくびと共に対屋の自室へと向かった。

 その途中、無遠慮な好奇の眼差しを送られたり、妙に恭しかったり、逆にあからさまな嫌悪も向けられた。鬼穴を封じた巫女を珍しがるにしては、いささか違和感を覚える態度もあった。

 その理由が判明するのは、暖かな日差しを浴びてあくびを噛み殺す昼が過ぎ、秋の夕暮れが近づいた時刻のこと。突然の来訪者があったのだ。

 慌ただしい足音が迫り、俗鬼のあくびに招き入れられたのは、上質な袿を纏った女人だった。

和香(わか)様」

 慌てて礼を取ろうとした奈古女を制し、和香は縁側と部屋の境目辺りに立ったまま、硬い声音で言った。

「若殿が鬼だという話が、館中にまことしやかに広まっています。いったい鬼穴の側で、何があったというの」
「ぞ、存じ上げません。その……鬼の噂は若殿がお生まれになる前からあったのでは」
「その心無い噂が急に信憑性を帯びて、まるで真実のようにして囁かれているのよ。あなたは巫女です。それゆえ、若殿からなにかお聞きではないの」

 奈古女は束の間口を閉ざす。真均は昨晩、和香には角のことを告げていないと言っていた。ならば不用意なことを口にすべきではない。

「わかりません。私などにどうして若殿が、そのような重要なことをお話しになりましょうか」
「まったく白々しい」

 和香はぴしゃりと言った。

「あなたは昨晩、若殿のご寝所に招かれたとか」

 声に含まれた怒りと悲しみに打たれ、奈古女は顔を上げる。和香の頬は強張り、奈古女を睨む瞳が微かに潤んでいる。奈古女はやっと状況を理解した。館の者らが妙な眼差しを送るわけも、和香が部屋に乗り込んできた理由も。

「あのお方は鬼頭の後継者です。鬼であるはずなど万が一にも、ありません。若殿の許嫁は私。たとえ愛してくださらなくても、私が妻になるのよ」
「誤解です。若殿はただ話を」
「いったい何事ですか」

 場違いなほど柔らかな第三者の声が割り込んだ。縁側をしとしとと歩いて来たのは、尼装束の三紅(みくれ)であった。

「和香様、何があったのです。大きな声が主殿まで届いていたわ」

 和香は口を閉ざす。ややしてから奈古女の方を一瞥すらせずに軽く頭を下げた。

「申し訳ございません」

 素直な謝罪に柔らかく頷いた三紅は、諫める口調から一転、猫なで声になる。

「いいの。気持ちはわかるわ、可哀想な和香様。真均は昔からあなたに冷たかったものね。あの子は今、西国から連れてきた妾に夢中みたい。でも受け入れなければならないわ。いつか和香様は鬼頭の館を取り仕切る正妻になるのだから。私だって同じようしてこの家を守ってきたのよ」

 話が大きく飛躍していくのが恐ろしく、奈古女は身を乗り出して口を挟む。

「あの、誤解です。私は別に何も」
「あら、奈古女。その態度はよろしくないわ」

 大袈裟に眉尻を下げ、三紅は首を左右に振った。

「寵愛を受けるのは悪いことではないのよ。でも、館の女主人には敬意を払いなさい。たとえ、自分の方が愛されていると感じても」
「そんなことはありません。だって若殿は、和香様を大切にしたいとおっしゃって」
「あなたに、あのお方の何がわかるというの!」

 半ば悲鳴じみた和香の声が室内に反響した。その瞬間。

 どろり、と黒い粘性のものが板敷の床で蠢いた。それは和香の(うちき)の裾辺りに集まって、沸き立つように震え始める。見るからに異常な光景に、和香の喉から気道が張りついたかのような悲鳴が上げる。

 鬼穴だ。

 瞬時に理解した奈古女は、部屋の端に立てかけていた神刀を抱き、床を蹴って和香の肩に飛びついた。二人分の体重を支え切れない和香の身体が後方へ傾ぎ、尻もちをつく恰好で部屋から縁側に出る。神刀の鈴が激しく揺られ、悲鳴のような音を立てた。

 和香に覆いかぶさるようにして転倒した奈古女が肩越しに振り返ると、先ほどまで和香が立っていた辺りにぽっかりと鬼穴が空いている。闇の中からは、異様に発達した顎を持つ醜怪な俗鬼が歯を剥き出しにしながらこちらを睨みつつ這い出すところであった。その肌の色は黒。

 俗鬼の体色は彼らを生み出す元となった負の感情の性質により異なるものだ。黒い俗鬼を生み出した感情の正体は。

「疑惑」

 奈古女の呟きに、和香がぴくりと身体を震わせた。思わず至近距離で顔を見合わせる。和香の愛らしい顔が、恐怖や羞恥、怒りといった負の感情が織りなす昂りに紅潮している。

 すぐに察した。俗鬼を生み出す糧となったのはおそらく、和香だ。思えば昨日顔を合わせた際にも彼女は、許婚を疑い苛立ち悲しみ、奈古女に悪意をぶつけてきたではないか。彼女は心にずっと、真均との絆に疑いを抱いていたのだ。それが、奈古女の登場で沸点を迎えたというだけのこと。

 奈古女がやって来なければ、鬼穴は湧かなかったのかもしれない。もしかすると、人里に鬼穴が生じた理由にも、和香が関係している可能性もある。

 奈古女は唇を噛み締めて立ち上がる。神刀を構え、鬼頭の貴人と次々に現れる俗鬼との間に立ち塞がった。

「三紅様、和香様。どうか助けを呼んで来てください。この穴は私が」

 精一杯勇んだ言葉を、くす、という忍び笑いの気配が遮った。場違いな吐息に振り返れば、三紅が法衣(ほうえ)の袖で口元を覆って俯いていた。

「三紅様?」
「ああ、面白い」

 引きつるような小さな笑いの合間、突然漏らされた声に、奈古女は思わず意識を捕らわれる。その隙を、湧いたばかりの俗鬼が突いた。

「奈古女っ!」

 和香が上ずった声を上げてくれなかったならば、奈古女は鬼に食われていたかもしれない。咄嗟に振り返り、迫る黒い塊を上体をよじって躱す。

 だが、俗鬼の狙いは奈古女ではなかったようだ。彼らは脇目も振らず、縁側に座り込んだままの袿姿に向かっていた。

「おいしそー」
「おなかすいたー」

 無邪気な声が、むしろ恐ろしい。

 自身が狙われていると気づいた和香が、細い悲鳴を上げて立ち上がろうとするのだが、腰が立たないらしく足裏は床を滑るばかりだ。

「お、大奥様。お助けを」

 和香が三紅の法衣の裾に縋った。三紅は口元から手を下ろし、空恐ろしさすら感じさせるほど優しい笑みを目尻に刻んだ。そして。

「和香様、ああ、可哀想に」

 とん、と三紅の足裏が、和香の袿を踏みつけた。驚愕に目を剥いて、尼装束の女を見上げる和香。その視線を受けて、三紅は狂気を全身に纏わせ口の端を吊り上げた。

「可哀想に、可哀想に。けれどだからこそ、あなたはいい糧になる」
「何を……、や、いやっ! 助けて!」

 三紅の足により床に縫いつけられた状態の和香の元へ、黒い俗鬼が群がった。彼らは和香に触れると顎をめきめきと肥大化させて、白い柔肌に容赦なく嚙みついた。

 引きちぎれるような叫びが響き渡り、赤が散る。呆然として様子を眺めていた奈古女は我に返る。黒い群れとなった俗鬼の横を、半ば転びかけながら走り、三紅の袈裟を掴んだ。

「三紅様、何をなさるんです! 早く和香様をお救いしなければ」
「あら、どうして」

 三紅の瞳には、無邪気な子どものような純然とした疑問が煌めいている。

「和香様がいなければあなた、邪魔者がいなくなるのよ」
「邪魔だなんて」
「ねえ、昨晩の香炉、いかがだったかしら」
「香炉? こんな時にいったい何を」
「いい匂いだったでしょう」

 意図が掴めない。一つ確かなのは、彼女は狂っているということだ。奈古女は三紅との対話を諦め、力業に出た。

「和香様、今お助けします」
「あらだめよ。もう遅いわ」

 和香の動きを拘束する足を引き剥がそうとした奈古女の肩を、尋常ではない握力で三紅が掴んだ。骨が軋み、あまりの痛みに低く呻く。なす術もなく、気づけば奈古女の身体は三紅の腕の中に捕らわれていた。

「三紅様!」
「よく見るのよ、奈古女。あなたのせいで、嫉妬に溺れて鬼に食われた哀れな女の末路を」

 あまりに惨い光景だ。見るに堪えず、目を逸らしたい。だが、頭部を固定する三紅の手がそれを許さない。

 足元に、血だまりが広がっていく。夕日に照らされてぬらぬらと光る赤の端を、俗鬼が舌を這わせ美味そうに舐めた。和香はもう、自らの意志では動かない。ただ、鬼の咀嚼と合わせて痙攣するように四肢が揺れるだけ。

 胃が、まるでひっくり返されるように捩れた。込み上げたものを辛うじて飲み込んで、奈古女は目尻に涙を浮かべ、ただ震えた。

 ああ、やはり奈古女は非力な落ちこぼれの巫女なのだ。鬼穴を封じる力があるはずなのに、神楽を舞うどころか、目の前で鬼に襲われる女と共に逃げることすらできない。東国に招かれた奈古女は鬼頭の館に貢献するどころか、災厄をもたらした。自分はここに、いったい何をしに来たのだろうか。

 ぞわり、と腹の奥底で何かが蠢いた。それはおそらく、鬼の糧となり得る感情だ。

 和香を突いていた俗鬼の一体が、不意に顔を上げて底光りする目を奈古女に向けた。たった今、そこに食事があるのだと気づいた表情だった。

 俗鬼から距離を置こうとして腕を床板に突っ張るが、三紅の身体に阻まれる。逃げ場はない。このままでは奈古女までもが鬼の餌食になる。最悪の結末を覚悟した、その時だ。

「あんた、ふざけんじゃないわよ!」

 小さな羽音が舞い降りた。黒い小鳥の影が、三紅の頭巾を突いて引いた。

 不意を衝かれ、拘束の手が緩む。その一瞬の隙に、奈古女は尼装束の胸を突き飛ばし、鬼穴から離れた場所で息を整えた。

影雀(かげすずめ)……」
「邪魔者め!」

 三紅が手を振り回し、頭上を舞う影雀を叩き落とそうとする。しかし、かすりもしない。彼女の手はやがて己の頭巾を弾き、白い布は衝撃で後ろにずり落ちた。三紅は鼻白んだように動きを止めて、かろうじて紐で首に固定されている頭巾を掴んだ。

「ああ、頭巾が……」

 そして、おもむろに奈古女を振り返る。隠されていた三紅の頭部が露わになっている。奈古女は息を呑んだ。

 肩までの長さの尼削(あまそ)ぎの黒髪。形のいい頭部。滑らかな額。そして、そこにそそり立つ、角。

「なぜ……」

 奈古女は、三紅の額に生えた突起に目を奪われて、それ以上の言葉が出なかった。影雀にとっても予想外の事態だったらしく、ちゅんちゅん鳴いて旋回した後、奈古女の肩に降り立った。

「ちょっ、何よあれ。鬼頭の大奥様は鬼なの?」
「鬼。そうね」

 三紅は頭巾を戻そうともせず、足元にじゃれつく俗鬼を蹴ってから奈古女の方へと身体を向けた。

「私は鬼だし、心の中には鬼の糧をたくさん飼っている。つまり、全てが憎いの」
「に、憎いって、何が」
「あら、噂は耳にしたことがあるでしょう、真均が鬼の子だって」

 奈古女は口を閉ざし、一歩後ずさる。生じた距離を詰めるように、三紅が前へと足を滑らせた。