ちょうど、長い遊泳から陸地に戻った時のように、奈古女(なこめ)は地面に蹲り、荒い息を繰り返す。その横では真均(まさひと)が軽く放心していた。

東一(とういち)様、奈古女様。ご無事ですか」

 低く澄んだ男の声が降ってくる。息を整えながらゆっくりと顔を上げて、奈古女は彼の名を呟いた。

清高(きよたか)様」

 純鬼の若者は奈古女たちと視線を合わせるために膝を突き、自身の額に浮いた汗を軽く拭ってから安堵の息を吐いた。

「お怪我はなさそうですね」

 奈古女は頷き、四肢を動かして強張りがないことを確かめた。

「ご心配をおかけしました。あの、清高様が私たちを引き上げてくださったのですか」
「はい。実は、私が向かった葵ヶ谷(あおいがやつ)にあった二の穴が急に収縮し始めたのです。それならば長居は無用と思い、急いで一の穴に向かったところ、東一様と奈古女様が鬼穴に落ちたというではありませんか。辛うじて穴が閉じる前にあなたの腕を取ることができましたが、正直、肝を冷やしました。……奈古女様」

 清高は、深々と頭を下げた。

「東一様をお救いくださり、ありがとうございました」
「え、いいえ。そんな」

 他者、しかも名家に仕える男からかしこまった礼を受けるなど、落ちこぼれ巫女の奈古女としてはむず痒い。それどころか居心地の悪さすら覚えて、慌てて話を変えた。

「今さらですが私は貴人ではないのでそんなご丁寧になさらなくても。それより、ここにいた巨大な大鬼(たいき)はどうなりましたか」
「奈古女様が好機を作ってくださったおかげで倒せました。巫女の神刀に斬りつけられたことに驚いたのか、鬼の動きが弱まったのです。そこを我らが数人がかりで取り押さえ、止めを刺しました」
「そう、ですか」
「これで、大きな鬼穴は全て塞がったはずです。現在、手下に辺りを調べさせておりますが、今宵はもう安全でしょう」
「そうか、ご苦労だった。皆に褒賞を与えねばな」

 これまで黙り込んでいた真均が腰を上げる。主の突然の行動に、清高が少し首を傾けた。

「どちらへ行かれるのですか」
板ヶ谷(いたがやつ)の館だ。今宵は鬼頭(きとう)の館には帰らず、ここで夜を明かす。清高、被害の状況を纏め次第持って来い」

彼は立ち去り際に、思い出したかのように半身で振り返った。

「奈古女、落ち着いたらおまえも館へ来い。話がある」

 突然のことに、奈古女は石になって硬直する。冬の夜のようにひんやりとした若殿の黒い瞳からは、感情が読み取れない。しかし己の行いを思い返してみれば、思い当たる節がある。鬼穴の中で奈古女は、大胆かつ無礼な言動をしなかっただろうか。もしやお咎めが待っているのでは。

「お話、ですか」

 戸惑いを露わに落とされた奈古女の言葉には答えず、真均は目顔で念押しをして、愛馬の方へと歩いて行った。