どちらかといえば度胸のない質の奈古女がなぜ鬼穴に向かったのか。後から考えてみても、納得のいく理由が思い浮かばない。落馬の折、真均が身を挺して奈古女を守ろうとしてくれた記憶も新しく、ならば義理人情的な衝動かとも思ったが、それだけでは動機が弱い。
だからこれは、あらかじめ定められていたことだったのだと思う。奈古女が追わなければ、鬼頭の若殿は、鬼食われて大鬼の糧になっていたはずだ。
「若殿!」
まるで水の中を揺蕩うように暗黒の深みに沈んで行く人影に、腕を伸ばして闇を掻く。とぷん、と粘質な黒が揺れる中、奈古女は暗い絶望の海を泳いだ。
実際、肌に纏わりつくのは、水でも空気でもない。ただ、重く痛々しく、時に怠惰で、時に逸るような焦燥を孕む澱だった。これが鬼穴の内側。生きとし生ける者らが大地に脱ぎ捨てた、負の感情の坩堝。もしかすると、奈古女自身のそれも混ざっているのかもしれない。
周囲の空気に当てられたのか、奈古女の目の縁から、涙が滂沱として溢れ出た。どのような理屈か、深みへと落下する身体から離れた温かな雫は、宙を舞ったと思いきや闇に吸い込まれて消えていく。
「若殿、待って」
近くまでたどり着くと、伏せられた瞼を縁どる真均の睫毛が揺れた。その間から細く光が覗き、黒々とした瞳が奈古女を映す。何度か瞬きを繰り返した後で我に返ったらしく、ずれた兜を片手で押さえ、弾かれたかのように顔を背けた。その一瞬の動作の中、奈古女は指先辺りから覗く真均の動揺の正体を垣間見て、息を呑んだ。
「若」
「来るな」
予想外に弱々しい声音であった。彼へ向けて伸ばしかけた指先を震わせて、奈古女は動きを止める。
真均は己の口から飛び出した声を恥じたように、あからさまに声を鋭くして、眉間に皺を寄せる。
「鬼穴に飛び込む奴があるか。いいか、おまえは巫女だ。鬼穴を封じるのが役目だというのに、こんな場所で何を」
「あなたの役割だって、穴に落ちることではありません」
遥か暗黒の底から、真均の足先に向けて長く禍々しい爪が伸ばされている。
「戻りましょう、若殿」
奈古女はきっぱりと述べ、真均の腕を掴んだ。
「おい」
「鬼頭の若殿が大鬼に食われたとなれば、東国はどうなるでしょうか。あなたは私に役目を全うせよと仰いました。でしたら私も、同じ言葉をお返しします」
奈古女は腕を掴むのとは逆の手を伸ばし、兜の隙間から真均の額に触れる。そこにあるものの硬さと鋭さを確かめて、腹落ちした。そうか、そういうことだったのか。奈古女は自分でも驚くほど達観した心地で繰り返した。
「戻りましょう」
「おまえ……」
呆気に取られて呟きを漏らした真均の腕を引き、奈古女は地上へ向けて再び泳ぐ。ほとんど閉じかけた鬼穴の入り口から、篝火の赤と、神刀が纏う青白い光が瞬いているのが見えた。その煌めきの側で、右往左往と激しく羽ばたいている影がある。
「影雀、影雀」
帰る場所はあちらだ。奈古女は光の方へと腕を伸ばす。地底から空へと向けて伸ばされた指先を、誰かが掴んで引き上げた。
だからこれは、あらかじめ定められていたことだったのだと思う。奈古女が追わなければ、鬼頭の若殿は、鬼食われて大鬼の糧になっていたはずだ。
「若殿!」
まるで水の中を揺蕩うように暗黒の深みに沈んで行く人影に、腕を伸ばして闇を掻く。とぷん、と粘質な黒が揺れる中、奈古女は暗い絶望の海を泳いだ。
実際、肌に纏わりつくのは、水でも空気でもない。ただ、重く痛々しく、時に怠惰で、時に逸るような焦燥を孕む澱だった。これが鬼穴の内側。生きとし生ける者らが大地に脱ぎ捨てた、負の感情の坩堝。もしかすると、奈古女自身のそれも混ざっているのかもしれない。
周囲の空気に当てられたのか、奈古女の目の縁から、涙が滂沱として溢れ出た。どのような理屈か、深みへと落下する身体から離れた温かな雫は、宙を舞ったと思いきや闇に吸い込まれて消えていく。
「若殿、待って」
近くまでたどり着くと、伏せられた瞼を縁どる真均の睫毛が揺れた。その間から細く光が覗き、黒々とした瞳が奈古女を映す。何度か瞬きを繰り返した後で我に返ったらしく、ずれた兜を片手で押さえ、弾かれたかのように顔を背けた。その一瞬の動作の中、奈古女は指先辺りから覗く真均の動揺の正体を垣間見て、息を呑んだ。
「若」
「来るな」
予想外に弱々しい声音であった。彼へ向けて伸ばしかけた指先を震わせて、奈古女は動きを止める。
真均は己の口から飛び出した声を恥じたように、あからさまに声を鋭くして、眉間に皺を寄せる。
「鬼穴に飛び込む奴があるか。いいか、おまえは巫女だ。鬼穴を封じるのが役目だというのに、こんな場所で何を」
「あなたの役割だって、穴に落ちることではありません」
遥か暗黒の底から、真均の足先に向けて長く禍々しい爪が伸ばされている。
「戻りましょう、若殿」
奈古女はきっぱりと述べ、真均の腕を掴んだ。
「おい」
「鬼頭の若殿が大鬼に食われたとなれば、東国はどうなるでしょうか。あなたは私に役目を全うせよと仰いました。でしたら私も、同じ言葉をお返しします」
奈古女は腕を掴むのとは逆の手を伸ばし、兜の隙間から真均の額に触れる。そこにあるものの硬さと鋭さを確かめて、腹落ちした。そうか、そういうことだったのか。奈古女は自分でも驚くほど達観した心地で繰り返した。
「戻りましょう」
「おまえ……」
呆気に取られて呟きを漏らした真均の腕を引き、奈古女は地上へ向けて再び泳ぐ。ほとんど閉じかけた鬼穴の入り口から、篝火の赤と、神刀が纏う青白い光が瞬いているのが見えた。その煌めきの側で、右往左往と激しく羽ばたいている影がある。
「影雀、影雀」
帰る場所はあちらだ。奈古女は光の方へと腕を伸ばす。地底から空へと向けて伸ばされた指先を、誰かが掴んで引き上げた。