校門に続く長い坂道を、満開の桜が出迎える。
新学期になり、私は三年二組、理玖くんは二年一組に進級した。
春の選抜大会で優勝したら下の名前で呼んでほしい、という強い要望に応え、三月二十六日以降、私は二人でいる時は『理玖くん』と呼ぶようになった。理玖くんは、「呼び捨てがいい」と言ったけれど、私が「いっぱいいっぱいだから」とやんわり断ると、「じゃあ、いつかですね」といたずらっぽく笑って言った。
文香と関口くんとは別々のクラスになり、寂しかったけど、新しく知り合った野球部マネージャーの秋月萌香と親しくなった。
萌香はとびきり可愛くて、クラス中の男子が一度は虜になる高嶺の花的存在なのに、中身はアニメ好きな生粋のオタクだった。毎朝、教室に入ると萌香が私の席までやって来て、昨夜放送されたアニメの考察、推しキャラクターの尊さ、声優さんの素晴らしさを滾々と語るのを私がただひたすらに聞く、というのがルーティンになっている。彼女は「さっちょんはイラストめっちゃ上手だからマジ尊敬してる」と、口調はすごくギャルなのに、学年でトップクラスに頭が良くて、ロケット開発のエンジニアになるために日本屈指の大学の宇宙工学科を目指しているという、そのギャップに度々驚かされた。
生物部の田代くんも同じクラスになり、出席番号は私が十一番、田代くんが十二番になった。
新しいクラスが発表されて、二年の教室から三年の教室に荷物を移動させる時、関口くんが私の側に来て、田代と仲良くな、と言った。
相変わらず田代くんはおどおどしていて、私も気まずさはなくならない。元々仲良くなかったし、きっとこれから先、田代くんと仲良くなれることはないと思う。
それでもちゃんと逃げずに謝れたことは、良かったと思っている。たまたま同じ年に生まれた、同じ地域に住み、同じ学校に通っているクラスメイトの一人と思えばそれまでだけど、こうして二回も同じクラスになって、出席番号も前後で、一緒に日直を担当することになる。それだけで、奇跡だと思う。学校が同じじゃなかったら、一生交わることのないような人と、一緒に過ごす奇跡。
そんな、奇跡みたいな時間を、私は残りあと一年、できる限り無駄にせず過ごしていけたらいいな、と眠気を誘うような春のぬるい風に当たりながら、坂道を登り校門を目指した。
三年生になり、来年の受験を意識しながらも、私は絵を描き続けた。
五月末には、滝波先生の勧めもあり、高校生国際美術展に作品を送った。入選発表は九月だけれど、結果はどうでもよくて、ただ、これまでだったら尻込みしていたコンテストにも挑戦しようと思えただけで十分、満足していた。
七月初旬。まだ梅雨真っただ中なのに、空が青く澄み渡る昼下がりに、私たちは美術室にいる。高校生活最後の県展に向けて、今年は余裕を持って完成させようと、昼休みを使って絵を描き進める。
「……ねえ、理玖くん」
試合前の減量期に入り、教室にいると周囲のお弁当の匂いが我慢できないから、という理由で、昼休みに美術室に来ていた理玖くんに話しかけた。
「ん、なに?」
机に突っ伏したまま、彼は短く答える。エネルギーを極力消費しないように、小さく丸まる姿は、うとうとと眠りにつく前の子猫みたいだ。
私が昼休みに絵を描くのは、放課後、トレーニング前に勉強する、という理玖くんのルーティンを壊さないようにするためでもあった。そうでないと、ジムに行くまでの時間を一緒にいたい、と言われるからだ。
彼は勉強も手を抜かない人だった。朝早くから起きて走り、夜もトレーニングに時間が割かれるから、無理をさせて睡眠時間を削らせるわけにはいかない。というのは建前で、ほんとうは誰にも邪魔されず、学校で二人きりで過ごしたいという私のささやかな希望を叶えさせてもらっているのだ。
学年も、部活も違う私たちは、学校で一緒にいられる時間が物理的に短い。だから、せめて昼休みの間だけでも、同じ時間を共有したいと思ったのだ。理玖くんは、私の密かな思いを知ってか知らずか、昼休みは減量時期以外でも、一緒にいてくれる。
「あのね、今年のインターハイなんだけど、妹が出ることになって。最後だから私も応援しに行こうかなって思ってるの」
「え?妹さん、ってことは陸上ですよね?試合、いつですか?」
「八月の第一週、って聞いているけど、詳しい日程は忘れちゃった」
「俺らは七月末から八月の第一週だから、タイミングが合えば、近くにいるかもしれないってことっすね」
今年のインターハイは九州南部の複数の県で行われる。私たちが住んでいるN県からは、飛行機と新幹線を乗り継いでも移動で丸一日かかってしまう。それでも、由紀にとっては最後のインターハイで、私も受験勉強の息抜きも兼ねて、遠い所に出かけてみたい、と思ったから、両親と一緒についていくことにいた。
陸上競技とボクシング競技は同じ市内で行われる予定になっている。理玖くんから「今年もインターハイ出ます」というメッセージがスマホに送られてきたその日のうちに、私はホームページを調べて会場を確認した。
「……もし、妹さんの試合と、俺の試合が重なってたら、どっちの応援に行きますか?」
「え、由紀」
「即答じゃないっすか」
「だって、大事な妹だから」
私は絵を描きながら答えた。冬休みが終わってから、由紀とは以前よりも頻繁に連絡を取り合うようになっていた。どれだけ遠くに離れていても、切れない絆が私たちの間には存在している。
「そりゃそうっすよね……」
理玖くんが珍しく落ち込んでいる。そんな姿も愛おしい、と思ってしまう私は、相当重症らしい。
「早紀」
私のことを下の名前で呼ぶ男性は、お父さん以外では理玖くんだけだから、未だに慣れず、ドキドキしてしまう。
「えっ、な、なに?」
「いい加減、慣れてよ」
理玖くんはそっと笑いながら、私を見て言った。
「呼んだだけです。なんか、早紀って呼びたくなった」
付き合い始めてからも基本的には敬語で話してくるのに、時々くだけたようにタメ語になるから、距離がちかくて顔が熱くなる。
「……やめてよ」
「それなら、先輩って呼びます」
「それはだめ!」
「じゃあ、なんて呼んだらいい?」
「……もう!」
こうやっていつも理玖くんが私のことをからかって遊んではケラケラと笑っている。その笑顔を見て、私もつられて笑ってしまう。
理玖くんは、成長期が完全に止まった私と違って、また少し身長が伸びたらしい。そして、体も少し大きく、特に首筋が太くなった。
体重管理が難しくなり、家族やコーチと一緒にいろいろと考えた結果、ボクシングの階級を一つ上に上げたそうだ。それでも体重は軽いほうだけど、減量も無理のない範囲でできそうだから、と言っていた。
バレンタインデーには、文香から教えてもらったレシピをもとにして手作りした低カロリーのチョコレートムースをあげると、嬉しそうにして、その場で食べてくれた。
周囲から見たら、私たち二人の関係はクラスメイトか兄妹のように見られるかもしれないけれど、私にとっては兄のように強くて優しい、弟のように甘えん坊で可愛い、これからもずっと一緒にいたい、大事な人だ。
「もし、タイミングが合えば、試合、応援しに行ってもいい?」
少しだけ勇気を出して、聞いた。
理玖くんは一瞬だけ目を丸くしたけど、すぐにいつものクシャっと目尻に皺を寄せて笑う顔で「ぜひ!」と答えた。
新学期になり、私は三年二組、理玖くんは二年一組に進級した。
春の選抜大会で優勝したら下の名前で呼んでほしい、という強い要望に応え、三月二十六日以降、私は二人でいる時は『理玖くん』と呼ぶようになった。理玖くんは、「呼び捨てがいい」と言ったけれど、私が「いっぱいいっぱいだから」とやんわり断ると、「じゃあ、いつかですね」といたずらっぽく笑って言った。
文香と関口くんとは別々のクラスになり、寂しかったけど、新しく知り合った野球部マネージャーの秋月萌香と親しくなった。
萌香はとびきり可愛くて、クラス中の男子が一度は虜になる高嶺の花的存在なのに、中身はアニメ好きな生粋のオタクだった。毎朝、教室に入ると萌香が私の席までやって来て、昨夜放送されたアニメの考察、推しキャラクターの尊さ、声優さんの素晴らしさを滾々と語るのを私がただひたすらに聞く、というのがルーティンになっている。彼女は「さっちょんはイラストめっちゃ上手だからマジ尊敬してる」と、口調はすごくギャルなのに、学年でトップクラスに頭が良くて、ロケット開発のエンジニアになるために日本屈指の大学の宇宙工学科を目指しているという、そのギャップに度々驚かされた。
生物部の田代くんも同じクラスになり、出席番号は私が十一番、田代くんが十二番になった。
新しいクラスが発表されて、二年の教室から三年の教室に荷物を移動させる時、関口くんが私の側に来て、田代と仲良くな、と言った。
相変わらず田代くんはおどおどしていて、私も気まずさはなくならない。元々仲良くなかったし、きっとこれから先、田代くんと仲良くなれることはないと思う。
それでもちゃんと逃げずに謝れたことは、良かったと思っている。たまたま同じ年に生まれた、同じ地域に住み、同じ学校に通っているクラスメイトの一人と思えばそれまでだけど、こうして二回も同じクラスになって、出席番号も前後で、一緒に日直を担当することになる。それだけで、奇跡だと思う。学校が同じじゃなかったら、一生交わることのないような人と、一緒に過ごす奇跡。
そんな、奇跡みたいな時間を、私は残りあと一年、できる限り無駄にせず過ごしていけたらいいな、と眠気を誘うような春のぬるい風に当たりながら、坂道を登り校門を目指した。
三年生になり、来年の受験を意識しながらも、私は絵を描き続けた。
五月末には、滝波先生の勧めもあり、高校生国際美術展に作品を送った。入選発表は九月だけれど、結果はどうでもよくて、ただ、これまでだったら尻込みしていたコンテストにも挑戦しようと思えただけで十分、満足していた。
七月初旬。まだ梅雨真っただ中なのに、空が青く澄み渡る昼下がりに、私たちは美術室にいる。高校生活最後の県展に向けて、今年は余裕を持って完成させようと、昼休みを使って絵を描き進める。
「……ねえ、理玖くん」
試合前の減量期に入り、教室にいると周囲のお弁当の匂いが我慢できないから、という理由で、昼休みに美術室に来ていた理玖くんに話しかけた。
「ん、なに?」
机に突っ伏したまま、彼は短く答える。エネルギーを極力消費しないように、小さく丸まる姿は、うとうとと眠りにつく前の子猫みたいだ。
私が昼休みに絵を描くのは、放課後、トレーニング前に勉強する、という理玖くんのルーティンを壊さないようにするためでもあった。そうでないと、ジムに行くまでの時間を一緒にいたい、と言われるからだ。
彼は勉強も手を抜かない人だった。朝早くから起きて走り、夜もトレーニングに時間が割かれるから、無理をさせて睡眠時間を削らせるわけにはいかない。というのは建前で、ほんとうは誰にも邪魔されず、学校で二人きりで過ごしたいという私のささやかな希望を叶えさせてもらっているのだ。
学年も、部活も違う私たちは、学校で一緒にいられる時間が物理的に短い。だから、せめて昼休みの間だけでも、同じ時間を共有したいと思ったのだ。理玖くんは、私の密かな思いを知ってか知らずか、昼休みは減量時期以外でも、一緒にいてくれる。
「あのね、今年のインターハイなんだけど、妹が出ることになって。最後だから私も応援しに行こうかなって思ってるの」
「え?妹さん、ってことは陸上ですよね?試合、いつですか?」
「八月の第一週、って聞いているけど、詳しい日程は忘れちゃった」
「俺らは七月末から八月の第一週だから、タイミングが合えば、近くにいるかもしれないってことっすね」
今年のインターハイは九州南部の複数の県で行われる。私たちが住んでいるN県からは、飛行機と新幹線を乗り継いでも移動で丸一日かかってしまう。それでも、由紀にとっては最後のインターハイで、私も受験勉強の息抜きも兼ねて、遠い所に出かけてみたい、と思ったから、両親と一緒についていくことにいた。
陸上競技とボクシング競技は同じ市内で行われる予定になっている。理玖くんから「今年もインターハイ出ます」というメッセージがスマホに送られてきたその日のうちに、私はホームページを調べて会場を確認した。
「……もし、妹さんの試合と、俺の試合が重なってたら、どっちの応援に行きますか?」
「え、由紀」
「即答じゃないっすか」
「だって、大事な妹だから」
私は絵を描きながら答えた。冬休みが終わってから、由紀とは以前よりも頻繁に連絡を取り合うようになっていた。どれだけ遠くに離れていても、切れない絆が私たちの間には存在している。
「そりゃそうっすよね……」
理玖くんが珍しく落ち込んでいる。そんな姿も愛おしい、と思ってしまう私は、相当重症らしい。
「早紀」
私のことを下の名前で呼ぶ男性は、お父さん以外では理玖くんだけだから、未だに慣れず、ドキドキしてしまう。
「えっ、な、なに?」
「いい加減、慣れてよ」
理玖くんはそっと笑いながら、私を見て言った。
「呼んだだけです。なんか、早紀って呼びたくなった」
付き合い始めてからも基本的には敬語で話してくるのに、時々くだけたようにタメ語になるから、距離がちかくて顔が熱くなる。
「……やめてよ」
「それなら、先輩って呼びます」
「それはだめ!」
「じゃあ、なんて呼んだらいい?」
「……もう!」
こうやっていつも理玖くんが私のことをからかって遊んではケラケラと笑っている。その笑顔を見て、私もつられて笑ってしまう。
理玖くんは、成長期が完全に止まった私と違って、また少し身長が伸びたらしい。そして、体も少し大きく、特に首筋が太くなった。
体重管理が難しくなり、家族やコーチと一緒にいろいろと考えた結果、ボクシングの階級を一つ上に上げたそうだ。それでも体重は軽いほうだけど、減量も無理のない範囲でできそうだから、と言っていた。
バレンタインデーには、文香から教えてもらったレシピをもとにして手作りした低カロリーのチョコレートムースをあげると、嬉しそうにして、その場で食べてくれた。
周囲から見たら、私たち二人の関係はクラスメイトか兄妹のように見られるかもしれないけれど、私にとっては兄のように強くて優しい、弟のように甘えん坊で可愛い、これからもずっと一緒にいたい、大事な人だ。
「もし、タイミングが合えば、試合、応援しに行ってもいい?」
少しだけ勇気を出して、聞いた。
理玖くんは一瞬だけ目を丸くしたけど、すぐにいつものクシャっと目尻に皺を寄せて笑う顔で「ぜひ!」と答えた。