しばらくの間、抱きしめ合っていた。
私は腕の力を緩めて、体を高橋くんから離そうとすると、だめ、と言って高橋くんは腕の力を更に強めた。
「高橋くん、そろそろ、帰らないと……」
「ん、もうちょっと」
いつも優しい高橋くんの、こんなふうにわがままを言うところは見たことがなかったから、新鮮だった。
私は背中をトントン、と叩き「ねえ、そろそろ……」と言ったけれど、全然聞きいれてくれなかった。
そうは言っても今日は早く帰らないと、と思い、どうしたら離してくれるかと考えて、これしか方法が思い浮かばなかった。
私は顔を横に向けて、高橋くんの左頬にささやかに唇を落とした。
「えっ!」
軽く触れるだけのキス。
思った通り、勢いよく腕を離して体を解放してくれたけど、想像以上に恥ずかしくて、私は顔が上げられなかった。
「え、先輩、いま……?」
左頬を触りながら聞いてきた。
冷たい夜風が吹き続けているのに、私の顔はずっと熱を帯びていて、暑い。
「俺、先輩にやられっぱなし……」
高橋くんの言っている意味がわからず、私は顔を上げ、首を傾げた。
「まあいいや。先輩以外から、右を貰わないようにすればいいだけだから」
そう言うと、高橋くんはベンチから立ち上がり、「帰りましょう。今日は家まで送りますから」と言って、左手を差し出した。
私は「うん」と頷いて、右手を重ねた。
手を繋ぎながら一緒に歩いて帰っていると、高橋くんの言う『右を貰う』というのは相手の右のパンチを自分の左顔面に当てられるということなのかもしれない、と、素人ながらに考えた。
なるほど、そういうことか。
ついさっき、自分がしでかした大胆な行動を思い出すと、とたんに恥ずかしくなって、足が止まった。
「先輩?どうしました?」
急に立ち止まった私を、心配そうに彼は尋ねる。
「さっき、高橋くんが、私のこと守るって言ってくれたの、嬉しかった」
「はい。……えっと、それが、なにか?」
「ううん。嬉しかったけど、でも、私も守るよ。高橋くんのこと」
輝く彼と、平凡な私。生きる世界が違う人。そんなことばかり考えていたけど、もう、あれこれ考えるのをやめようと思った。
釣り合わなくてもいいや。その代わり、私はこの王様の左側を守ろう。相手の右を、貰わないように。
*
「……そういえばさ、羅生門のことなんだけど」
帰り道、私はふと思い出して言った。
「え?羅生門?いまっすか?」
高橋くんは笑っている。
「いや、最初に言い出したの、高橋くんでしょ?私だって、電話来たとき、意味がわからなかったよ?」
高橋くんはツボに入ったみたいで、ずっと笑っているから、私はちょっとムッとして、構わず話を続けた。
「高橋くんがさ、この前電話で『自分が生き延びるために手段を選ばないことが悪いなら辛い』って言ってたでしょう?それ、どういうことなのかなって、ずっと考えていて。私さ、前に一回だけ、知らない人から殴られたことがあったって話したよね」
「……はい」
高橋くんは私の右手をぎゅっと握った。
「その時にね。殴られる前に、噛みついたの。その人の腕に。だから、殴られたの」
「え、噛みついた?」
「うん。その前にもね、私、由紀のことをからかっていた男の子を学校で突き飛ばしたことがあったんだって……。私、手段を選ばなすぎて自分が嫌になったっていうか……」
高橋くんは、「そうですか?」と聞いてきた。
「大事なものを、守りたかったんですよ。先輩も、俺も」
「え?」
私は思わず聞き返した。
「隼人……、兄が、昔、やっぱりいじめられてたんですよ。子どもって、そういうの、わかんないじゃないですか。それでまあ、俺が言い返したら、相手の方が年上だから、俺も一緒にいじめられたんですよ」
「そうなんだ……」
初めて聞く、高橋くんの過去。
「それで、家でメソメソ泣いてたら、隼人が、『いじめられたくなかったら強くなれ』って言って来て、なぜか一緒に近所のボクシングジムに通うようになったんですよ。意味わかんないですよね。隼人のせいで、隼人の友達にいじめられてるのにですよ、俺」
高橋くんは笑いながら言った。
「ボクシングは、生き延びるために必要だったんですよ。もちろん、殴ったりとかは絶対しないですけど、それでも素人相手から殴られることはない」
パネル係をしていたとき、森本くんがふざけてグーパンチしようとしたとき、いとも簡単に払いのけていたのを思い出した。
さっき、お兄さんが私を助けてくれた時も、確かに相手の右手をサッと払って、自分がやり返そうとしたけど、結果として拳は当たらなかった。いや、お父さんは『当てなかった』と言った。それってもしかして……。
「ねえ、ボクシングのパンチって、相手の顔のギリギリのところで当てないことって、狙ってできたりするの?」
「ああ。そりゃ、まあ、はい。できますね」
あまりにもあっさりとした返事。お兄さんは、ほんとうに当てなかったんだ。
「すごいね……」
「いや、全然。普通ですよ」
校内新聞に高橋くんが載っていた時、家族の影響でボクシングを習い始めた、と書かれてあった。高橋くんにとっては、ボクシングはいじめから逃れる手段だったんだ。
「あと、俺、足も速いから、いざとなったら逃げますし」
ニヤリと笑いながら高橋くんは言った。
「先輩、ごめんなさい。実は、結構時間がヤバくて。このままだと俺、家に帰るのが二十時半まで間に合わないかもしれないです。なので、先輩の家まで走って送り届けますね」
私は「は?」と聞き返すと、「行きましょう!」と言って、高橋くんは私の右手を掴んだまま走り出した。
「ちょっと待って……」
本日二回目の全力疾走は、なぜだかとても楽しくて、このまま二人でどこまででも走っていけるような、そんな気がした。
私は腕の力を緩めて、体を高橋くんから離そうとすると、だめ、と言って高橋くんは腕の力を更に強めた。
「高橋くん、そろそろ、帰らないと……」
「ん、もうちょっと」
いつも優しい高橋くんの、こんなふうにわがままを言うところは見たことがなかったから、新鮮だった。
私は背中をトントン、と叩き「ねえ、そろそろ……」と言ったけれど、全然聞きいれてくれなかった。
そうは言っても今日は早く帰らないと、と思い、どうしたら離してくれるかと考えて、これしか方法が思い浮かばなかった。
私は顔を横に向けて、高橋くんの左頬にささやかに唇を落とした。
「えっ!」
軽く触れるだけのキス。
思った通り、勢いよく腕を離して体を解放してくれたけど、想像以上に恥ずかしくて、私は顔が上げられなかった。
「え、先輩、いま……?」
左頬を触りながら聞いてきた。
冷たい夜風が吹き続けているのに、私の顔はずっと熱を帯びていて、暑い。
「俺、先輩にやられっぱなし……」
高橋くんの言っている意味がわからず、私は顔を上げ、首を傾げた。
「まあいいや。先輩以外から、右を貰わないようにすればいいだけだから」
そう言うと、高橋くんはベンチから立ち上がり、「帰りましょう。今日は家まで送りますから」と言って、左手を差し出した。
私は「うん」と頷いて、右手を重ねた。
手を繋ぎながら一緒に歩いて帰っていると、高橋くんの言う『右を貰う』というのは相手の右のパンチを自分の左顔面に当てられるということなのかもしれない、と、素人ながらに考えた。
なるほど、そういうことか。
ついさっき、自分がしでかした大胆な行動を思い出すと、とたんに恥ずかしくなって、足が止まった。
「先輩?どうしました?」
急に立ち止まった私を、心配そうに彼は尋ねる。
「さっき、高橋くんが、私のこと守るって言ってくれたの、嬉しかった」
「はい。……えっと、それが、なにか?」
「ううん。嬉しかったけど、でも、私も守るよ。高橋くんのこと」
輝く彼と、平凡な私。生きる世界が違う人。そんなことばかり考えていたけど、もう、あれこれ考えるのをやめようと思った。
釣り合わなくてもいいや。その代わり、私はこの王様の左側を守ろう。相手の右を、貰わないように。
*
「……そういえばさ、羅生門のことなんだけど」
帰り道、私はふと思い出して言った。
「え?羅生門?いまっすか?」
高橋くんは笑っている。
「いや、最初に言い出したの、高橋くんでしょ?私だって、電話来たとき、意味がわからなかったよ?」
高橋くんはツボに入ったみたいで、ずっと笑っているから、私はちょっとムッとして、構わず話を続けた。
「高橋くんがさ、この前電話で『自分が生き延びるために手段を選ばないことが悪いなら辛い』って言ってたでしょう?それ、どういうことなのかなって、ずっと考えていて。私さ、前に一回だけ、知らない人から殴られたことがあったって話したよね」
「……はい」
高橋くんは私の右手をぎゅっと握った。
「その時にね。殴られる前に、噛みついたの。その人の腕に。だから、殴られたの」
「え、噛みついた?」
「うん。その前にもね、私、由紀のことをからかっていた男の子を学校で突き飛ばしたことがあったんだって……。私、手段を選ばなすぎて自分が嫌になったっていうか……」
高橋くんは、「そうですか?」と聞いてきた。
「大事なものを、守りたかったんですよ。先輩も、俺も」
「え?」
私は思わず聞き返した。
「隼人……、兄が、昔、やっぱりいじめられてたんですよ。子どもって、そういうの、わかんないじゃないですか。それでまあ、俺が言い返したら、相手の方が年上だから、俺も一緒にいじめられたんですよ」
「そうなんだ……」
初めて聞く、高橋くんの過去。
「それで、家でメソメソ泣いてたら、隼人が、『いじめられたくなかったら強くなれ』って言って来て、なぜか一緒に近所のボクシングジムに通うようになったんですよ。意味わかんないですよね。隼人のせいで、隼人の友達にいじめられてるのにですよ、俺」
高橋くんは笑いながら言った。
「ボクシングは、生き延びるために必要だったんですよ。もちろん、殴ったりとかは絶対しないですけど、それでも素人相手から殴られることはない」
パネル係をしていたとき、森本くんがふざけてグーパンチしようとしたとき、いとも簡単に払いのけていたのを思い出した。
さっき、お兄さんが私を助けてくれた時も、確かに相手の右手をサッと払って、自分がやり返そうとしたけど、結果として拳は当たらなかった。いや、お父さんは『当てなかった』と言った。それってもしかして……。
「ねえ、ボクシングのパンチって、相手の顔のギリギリのところで当てないことって、狙ってできたりするの?」
「ああ。そりゃ、まあ、はい。できますね」
あまりにもあっさりとした返事。お兄さんは、ほんとうに当てなかったんだ。
「すごいね……」
「いや、全然。普通ですよ」
校内新聞に高橋くんが載っていた時、家族の影響でボクシングを習い始めた、と書かれてあった。高橋くんにとっては、ボクシングはいじめから逃れる手段だったんだ。
「あと、俺、足も速いから、いざとなったら逃げますし」
ニヤリと笑いながら高橋くんは言った。
「先輩、ごめんなさい。実は、結構時間がヤバくて。このままだと俺、家に帰るのが二十時半まで間に合わないかもしれないです。なので、先輩の家まで走って送り届けますね」
私は「は?」と聞き返すと、「行きましょう!」と言って、高橋くんは私の右手を掴んだまま走り出した。
「ちょっと待って……」
本日二回目の全力疾走は、なぜだかとても楽しくて、このまま二人でどこまででも走っていけるような、そんな気がした。