「あの、先輩?」
 
不意に、隣から声をかけられた。

「あ、お疲れさま」
 
私は高橋くんの顔を見ながら言った。私もだけど、高橋くんも、たぶん今の状況がよくつかめていないと思った。
 
高橋くんは明らかに動揺している。彼が慌てれば慌てるほど、むしろ冷静になっていく自分がいて、不思議な感覚がした。

「あ、はい。えっと、お疲れさまです。というか、どうしたんですか?」

「いや、市民運動公園にいるって言うから、来ました」

高橋くんは、辺りをきょろきょろ見渡していて、私はぼーっと高橋くんの顔を直視していた。

「えっと……、ちょっと、座りますか?一回、喋りましょう」

そう言って高橋くんは近くにあったベンチを指さした。

私はふわふわとした足取りで黙って彼の後ろを歩いてついていき、高橋くんの左側に腰掛けた。古びた木のベンチがギシッと音と立てて鳴る。

しばらく沈黙が続いた。

興奮して暑いと感じていた体が、冷たい夜風にさらされて一気に寒くなる。

私は腕を擦りながら、「ごめんね、急に」と高橋くんに謝った。

「え?」

「いや、家族で練習中だったのに、邪魔しちゃって……。てっきり、一人かと、思って……」

「あ、それは全然、大丈夫です。それより、大丈夫でしたか?変な人に、絡まれてたんですか?」

「ううん……。それは、全然、大丈夫。それよりも、お兄さんは、大丈夫だった?」

「ああ、大丈夫ですよ。さっきの隼人、うちの兄なんですけど。障がいがあって。時々、一緒にトレーニングするっていうか、俺の練習に親と一緒に付き添っているっていうか……。興奮すると、ちょっと大変なんですけど、でも、今日は全然、大丈夫ですよ。うん、まあ、たぶん、大丈夫だと思います」

大丈夫、大丈夫と繰り返すので、きっと大丈夫じゃなかったのだろう。

「ごめんね。大丈夫じゃ、なかったよね」

私が俯くと、高橋くんは慌てて言った。

「いや、あの、全然……。むしろ、兄が、先輩に、変なこと言うから、ちょっとびっくりしたっていうか……」

「え?変なこと?」

私は高橋くんの横顔を見ながら聞き返す。

変なことを言われたような記憶は特になかった。

「あ、いや、その……。理玖の彼女か、みたいな……」

「ああ!」

私は思い出して、急に恥ずかしくなり、顔を伏せた。

「ほんと、すみません。わかったかもしれないんですけど、知的の障がいがあるんです、うちの兄。なかなか、その、思ったことをすぐ言っちゃうので……ほんとごめんなさい」

高橋くんは口早に喋った。いつもは静かに穏やかに喋るのに、余裕なさそうに話すのが意外だった。

「……」

「……」

再び、お互い無言になる。時間だけが過ぎていく。夜風がサッと吹いて、私の髪の毛を冷やした。

伝えなきゃ。

私は意を決して、「高橋くん、」と隣を向いて声をかけた。

高橋くんは無言でこちらを見た。静かな目が、私をまっすぐ捉える。

「あのね、私……」

ここまで話せたのに、なぜか急に、頭が真っ白になって、言葉に詰まる。

高橋くんが「先輩?」と、不思議そうに私を見つめている。

「えっと……え、どうしよう……待って……」

なぜだかわからないけど、全然、言葉が出てこない。さっきまで、あんなに頭がクリアになっていたのに、なんで今このタイミングで?

焦れば焦るほど、パニックになる。

どうしよう……なんで……

私が動揺していると、ベンチに置かれたままの私の右手を、不意に高橋くんの手が上から添えられて、大丈夫ですよ、と言った。

「ゆっくりで、大丈夫ですよ」

優しい声が、温かい手のぬくもりが、私の全身をふんわりと包み込む。

覚悟を決めた。運命が、どうか私に味方をしてくれますように。

静かに呼吸を整えて、顔を上げ、思いを伝えた。

「私、高橋くんのことが、好きです」

声が震えたのは、きっと寒さのせい、だけじゃない。

鼓動が強まる。心臓が、痛い。呼吸が、上手くできない。

高橋くんは、目を丸くさせて、一瞬、ハッと息を飲んだ。

「ごめんなさい」

高橋くんは、頭を下げて言った。

そっか。私、フラれちゃったんだ。私は瞬時に、理解した。

「さっき、先輩のこと守れなくて、ごめんなさい」

「え?」

「俺が先に気づいてたら、先輩のこと守れたのに……。すみません、ちょっと、兄貴にも嫉妬してます、俺」

申し訳なさそうな顔で謝られ、ごめんなさい、と言ったのは、私の告白の返事ではないことに、ようやく気付く。

「えっと、あの……。私、どうしたら……」

私は混乱して訳も分からず尋ねると、高橋くんはいつもみたいにクシャッと目尻に皺を寄せた。

笑った顔が、お父さんにそっくり。

高橋くんは、私が大好きなその顔で、小さく言った。

「俺も、先輩のことが好きです」

右手が強くグッと高橋くんのほうに引き寄せられて、抱きしめられた。ふわっと香る、安心する優しい匂い。

「……早紀」

耳元で、名前を呼ばれた。顔が一瞬で火照る。鼓動が加速する。

「守るから、ずっと」

そう言うと、彼は両腕に力を込めた。硬直した全身が温かく包まれる。夢を、見ているような気がした。

「うん」

私は頷き、それからゆっくりと、両腕を彼の背中に回した。強くて脆い、恋焦がれた背中を、手のひらいっぱいに受け止めた。