彼の右手は、ギリギリのところで、当たらなかった。

酔っぱらった男性が、キョトンとした顔で、ぽっちゃりとした男性を見つめている。

パンチは当たっていないのに、まるで殴られたかのように、あっけにとられている。

今、いったい何が起こっているの?

私は目の前で起こっている光景を、ただ呆然と眺めた。

隼人(はやと)!」「おい、何してる!」

後ろから、男性二人がこちらに向かって走ってやってくる。

酔っぱらった男が、チッ、と舌打ちをして、足早にその場から去っていった。

「僕、殴ってないです。殴ってないです」

隼人、と呼ばれたぽっちゃりとした男性が、両手を大きく振り、その場で地団駄を踏みながら、「殴ってないです、殴ってないです」と繰り返す。

「わかった、わかったよ。大丈夫、大丈夫」

こちらにやってきた二人組の男性のうちの一人、黒いジャージ姿の人が、自分より体の大きな、そのぽっちゃりとした男性をガバッ、と力強く抱きしめた。

「隼人、大丈夫だよ。大丈夫だから、ゆっくり深呼吸して」

殴ってないです、と足踏みして繰り返すその人を、大丈夫、大丈夫、と言いながら背中をトントンと優しく叩き、なだめている。

「高橋くん?」

黒いジャージを着た彼と一瞬目が合うと、彼は驚いたように「え?先輩?なんで?」と言ったけど、またすぐに腕の中で暴れている男性を落ち着かせようと「大丈夫だから、落ち着いて深呼吸して」と優しく声をかけ続けた。

「大丈夫ですか?」

私はハッとして声の方向を見ると、もう一人、大人の男性が同じくジャージ姿で立っていた。

「あ、はい、大丈夫です……。すみません、ありがとうございます」

「よかった。あの子は、あなたに何かしませんでしたか?」

その人は、チラリと高橋くんが抱きしめているぽっちゃりとした男性に目をやって聞いてきた。

「あ、いえ……。私が、知らない男性に絡まれていたところを、助けて下さったんです。それで、あの方が殴られそうになったんですが、逆に相手の人に殴り返そうとして……。でも、手が届かなくて、当たんなかったんです。なので、殴ってないのはほんとうです」

慌てながら『殴ってないです』と連呼する彼の無実を伝えようと、私も必死になって釈明した。

すると男性はハハッ、と柔らかく笑い、クシャッと目尻に皺を寄せて言った。

当てなかった(・・・・・・)んですよ」

優しい目で見据えられ、心臓がドクン、と一つ脈打った。



ぽっちゃりとした男性は、ようやく落ち着いたのか、それ以降は殴ってないです、とは言わなかった。大人の男性が、「隼人、こっちにおいで」と手招きし、その人は静かに高橋くんから身を離し、トボトボと大人の男性の方へ歩み寄ていく。
 
私がその様子を眺めていると、高橋くんが話しかけてきた。

「えっと、父と、兄です。学校の先輩の、相馬さん」

高橋くんに紹介され、高橋くんのお父さんが「理玖の知り合いでしたか。いつも息子がお世話になってます」と丁寧にお辞儀をした。

私もすかさず「あ、いえ。こちらこそです」と頭を下げた。

すると、高橋くんのお兄さん、と紹介された男性が、お父さんの隣から喋りだした。

「高橋隼人です。十九歳です。よろしくお願いします」

お兄さんは丸み帯びた体を、ペコリ、と折り曲げる。高橋くんの不安そうな顔が横目に映った。

私も「相馬早紀です。さっきは、助けてくださって、ありがとうございました」と言って頭を下げた。

するとお兄さんは真顔で「理玖の彼女ですか?」と聞いてきた。高橋くんがすかさず「隼人、」と制した。

私もどうしたらいいか戸惑っていると、高橋くんのお父さんが助け舟を出してくれた。

「理玖。お父さんたち先に車で帰るから、お前は彼女をちゃんと家まで送ってから、走って帰ってこい。二十時半までに」

そう言うと高橋くんのお父さんは、「じゃあ、気を付けて帰ってくださいね」と私に言い、お兄さんは「さようなら」と言ってもう一度ペコリとお辞儀して、お父さんに促されて駐車場の方向に歩いて行った。

お兄さんは、「僕が助けました。理玖の彼女を、僕が助けました」と繰り返し、お父さんは「そうだね。偉かったな」と言いながら、お兄さんの背中をポン、ポンと叩いていた。
 
お父さんとお兄さんの後ろ姿を、私はしばらく眺めていた。