いつもどおり、文香と一緒に下校しようとして階段を降り、靴箱に向かおうとしたその時、昇降口の奥に飾られている私の絵を、誰かが見ている姿が見えた。
 
誰か、なんて、顔を見なくてもすぐに誰だかわかった。
 
一か月もの間、私がキャンバスに描き続けた背中だ。
 
足が止まる。ついでに、呼吸するのも忘れてしまうくらい、息も止まる。
 
時が止まる。
 

――会いたかった。
 

 
ポン、と軽く肩を叩かれた。
 
ハッと我に返ると、隣で文香がにやりと笑っている。

「私、先に帰るから、行ってきな!」

「え、いや、でも……」

「いいから!じゃ、また明日ね!」

「ちょっと、文香!」
 
文香は走って自分の靴箱から取り出したローファーに履き替えて、一瞬振り返って手をガッツポーズにして、がんばって、と声に出さずに言って去ってしまった。
 
私はふう、と一つ息をついて呼吸を整えた。

ゆっくりと、細いけどがっしりとした背中に向かって、足を進める。
 
心臓が、一回だけドクン、と胸を強く打ったけど、すぐに鎮まった。
 
私が左隣に立つと、その人は、一瞬ハッと驚いた表情をしたけれど、またすぐに硬い顔に戻り、ゆっくりと口を開いた。

「久しぶり、っすね」

「うん。久しぶり、だね」
 
約三か月ぶりの再会に、緊張して声がかすれると、彼はクスッと小さく笑った。

「この絵、俺ですよね?」

「え、ああ、うん……」

「なんか、嬉しい。普通に」
 
私は、うん、と小さく答えて、目線を絵から離さずにいた。
 
あの日、夕焼けに染まる美術室で、一心不乱に色を塗るオレンジ色の高橋くんを、私はどうしても描きたかった。
 
記憶はいつの日か思い出せなくなり、やがてなくなる。だからせめて、一緒に過ごした記憶を、記録として描き留めておこうと思った。
 
この先、私の人生と彼の人生が交わることはきっとないだろう。だけど、彼が私を忘れても、私は彼を忘れてしまわないように。一か月間の初恋を、大切な思い出として、名前を付けて保存できるように。
 
ふいに、高橋くんが「俺は、」と言ったので、私は顔を斜め上にして、左側にいる彼の整った横顔を見上げる。

「……人を殴ってる、っていう感覚は、ないんですよ」

高橋くんは、私の絵を見つめたまま言った。

「え?」

「前に、人の顔殴って楽しいかって、聞いてきたことがあったじゃないですか」

「……うん。ごめん」

私が俯きながら謝ると、高橋くんはいや全然、と小さく笑いながら答えた。

「ボクシングは、確かに殴り合いをするスポーツだから、そう思われてもしょうがないんですけど。でも、決して乱暴に拳を振りかざしてるわけじゃないんですよ。パンチは打って、当てるものであって、殴ってるわけじゃない」

高橋くんは、右手を広げて、手のひらに目を落として言った。

「手は人を殴るためにあるんじゃなくて、人を守るためにあるんだよって、小さいころから教えられてきたんです。……だから、大事な人たちをちゃんと守れるように、ただ強くなりたいって思って、やってきただけなんですよね」

広げた右手を、ギュッと握る。胸の前で右手をパンッ、と左手に打ち、左手がそっと包んで、彼は静かに口を開いた。

「国体、ベスト8で負けちゃって。でも、強い相手だったし、実力的にも全然負けてもおかしくなかった。高校に入ってから、全然体重が減らなくて……。体格的にも、ライトフライ級では、もう無理があったんすよ。昼と夜は食べないようにしたりして、減量はなんとかできたんすけど。でも、どうしても力が出なくて、きつかった。だから、負けたのはほんとうに実力通りだし、しかたがなかったんですよ。だけど、壮行会でみんなに応援してもらって、取材とか、表敬訪問とか、全然、知らないような人からも、頑張れって声かけてもらって……。期待されてるってわかってたから、めっちゃ苦しかった。インターハイも、まぐれで優勝できたようなものなのに、国体も勝てるでしょ、みたいな空気になってたし」

相変わらず、私の絵を見ながら、ぽつり、ぽつりと話している。

時々、後ろの方で生徒が靴箱の蓋を開けて上履きから下靴に履き替えて出て行く足音が聞こえた。私は何と声をかけたらいいのかわからず、ただひたすら、うん、うん、相槌を打ちながら黙って話を聞くことしかできない。

「初めての国体で、ベスト8。自分としては、ベスト4以上が目標だったっすけど、それでも、満足していたんですよ。なのに、遠征から戻ってきたら、クラスのやつらも、先生たちも、急によそよそしくなって。『優勝できなくて残念だったね』みたいに言ってくる人もいて。なんか、ごめんなさい、って思ったんですよね。応援してもらったのに、中途半端な戦績ですいません、って感じで」

彼は、フフッと小さく鼻で笑い、悲しそうな声で吐き捨てるように言った。

そんな高橋くんの表情がつらくて、苦しくて、思わず「それは違うよ」と言った。

「壮行会だって、高橋くんがお願いしたわけじゃないじゃん。一方的に応援して、勝手に期待して。それで、優勝したら、自分たちの手柄みたいに、身内みたいに自慢するでしょう?『俺のクラスに凄いやつがいてさ』みたいに。で、負けたらそれはそれで『残念だね』みたいに慰めるふりしたり。慰めてる自分に満足して、心のどこかで安心してるんだよ。どっちにしても、なんか、よくわかんないけど、違うと思う!」

私は、ずっと思っていたことを口にした。

高橋くんは、ただ好きで続けているボクシングをやっていただけなのに。ただ強くなりたい、上手くなりたいって思っていただけなのに。頼んでもいないのにステージ上に担ぎ上げられて、望んでもいないのにいきなり学校中の有名人になってしまった。自分ひとりで目指せばいい目標も、いつの間にか周囲が勝手に設定して、勝手に期待して、勝手に落ち込んだり、勝手に喜んだり、勝手に評価を下したりするようになったのだ。

みんな、あまりにも都合が良すぎる。

高橋くんの国体の結果が書かれた生徒掲示板を見た男子たちが、「大したことないな」と言って通り過ぎるのを見た時、私はとても腹が立った。

高橋くんは、自分で自分を限界まで追い込んでいるのに、そこからさらに担がされた周囲の期待も、言い訳もせず黙って背負い、逃げずにリングに上がって戦った。

攻撃されることのない、安全な場外から野次を飛ばす声が、打ち負かされた時にだけ、優しく寄り添うような態度が、私は許せなかった。

私が心の中で怒りの感情をたぎらせていると、隣で高橋くんは、一瞬目を丸くして、そのあとすぐに、戸惑ったように言った。

「なんか、先輩って、結構ズバッと言いますよね」

「……だって、ほんとうにそう思ったから」

私は絵を見つめながら答える。目の前には、色塗り作業に没頭する、力みのない背中が描かれていた。

背負わされた重荷を、降ろしてほしい。せめて、私の隣では。

私はもう頭の中では何も考えられなくなって、気持ちが動くまま、右手をそっと高橋くんの背中に当てた。

大変だったね。

口に出さず、心の中でそう呟くと、彼は「うん」と言った。

私が守るよ。この先、何があっても。