昼休み、美術部のみんなと体育祭の応援パネルを多目的室から運び出した後、私は飲み物を買ってから教室に戻ろうと思い、ひとり美術室を後にした。
 
渡り廊下はしんみりと雨が降っていて寒い。吐く息が白くなり、もうすっかり冬なんだと改めて実感する。

自販機に立ち寄ると、ちょうど女子生徒が飲み物を買っている最中だった。私が後ろに並んで待っていることに気づくと、彼女は素早く取り出し口からペットボトルを取り出して、その場を立ち去ろうとした。

「あ、待ってください」

「え?」

「これ、当たりが出てますよ。もう一本、タダで好きなの貰えるみたいです」
 
自販機のコインを入れるところの画面が「8888」と、同じ数字が並んでいたので、とっさに声をかけて呼び止めた。

「え、やったぁ!今日はツイてる!えー、どうしよう。ねえ、どれがおすすめ?」
 
声をかけられて、その人が囲碁部の川本さんだと気が付いた。

「あ、えっと……、どれですかね……」

「やばい、早くしなきゃ。どれが好き?」

「私は、ココアを買おうと思って」

 川本さんはピッとボタンを押した。ガコン、と音が鳴り、温かいココアの缶を取り出すと、それを私に差し出した。

「はい、どうぞ」

「え?いいんですか?」

「もちろん!ラッキー分配の法則!」
 
化学の授業で習った『質量保存の法則』と同じ発音で渡されたココアを、私は遠慮がちに受け取った。

「あ、ありがとうございます。えっと、どうして……?」
 
せっかく、当たりが出たのに、なんで面識のない私にくれるんだろう。
 
そう思って聞くと、川本さんはニコッと笑って教えてくれた。

「私、囲碁をしてるんだけど、囲碁ってギャンブルと違って、運の要素が何もないのね。ほら、ポーカーとか麻雀とかだと、配られるものによって勝敗が左右するんだけど、囲碁や将棋はそういうのが一切ない、完全情報ゲームなの」
 
完全情報ゲーム。

聞きなれない言葉が発せられたと同時に、風がビュッと強く吹いて、冷たい雨が渡り廊下まで入り込んで地面を濡らした。

「実力が全ての世界なんだけど、でも、最後は運も大事なんですよ。(ゆび)(うん)って言葉もあるくらい、勝負は時の運もある。だから、こうやっていいことがあると、誰かと共有して、未来の運気を高めてるんです。おまじないみたいな感じで」
 
それじゃあ、と言って踵を返した川本さんの背中に、私はほとんど無意識に「あの、」と声をかけた。

川本さんは振り返って、なに?、といったような顔で、私を見つめる。

「川本さんでも、運に頼ることがあるんですか?いつも全校集会で表彰されるくらい、凄い人なのに」
 
私は思わず聞いてみた。
 
もしかしたら、嫌味に捉えられてしまうかもしれない私の素朴な発言に、彼女は真剣な表情で答えてくれた。

「全然、凄くないよ。努力しても、それが必ず実るかって言ったら、そうじゃないですし。大会で負けたら、冗談抜きで死にたくなるほど悔しい。運要素がないぶん、勝っても負けても、全部自分の責任ですからね」

私はズキン、と胸の奥が疼くのを感じた。

「だから、精一杯、手を尽くすんです。日頃の行いもそれなりに意識するし、睡眠時間とか、メンタルトレーニングとか、囲碁以外のことでも、プラスになると思うことは何でも取り入れる。そうやって、ありとあらゆる手を打ち終わったら、もうあとは逃げずに戦うしかない」

凛とした声が、耳に突き刺さる。彼女の気迫からなのか、渡り廊下の寒さからなのか、私の体が一瞬、ぞわっと震えた。

「勝てるかどうかわからないけど、それでも覚悟を決めて頑張り尽くした人にだけ、最後に運命が味方をしてくれるものだと、私は信じてる。どんな結果になってもね」
 
チラッと腕時計に目を落とし、「ごめん、そろそろ行かなきゃ。また話しましょう!」と言って、川本さんは三年生の教室に向かって歩きだした。
 
と思ったら、「あ、思い出した!」と言って急にこちらに引き返し、「文化祭の時、一度お話しましたよね?たしか、お弁当を食べている女の子の絵を描かれた方じゃなかったですか?」と興奮した様子で聞かれた。

「あ、えっと、はい、そうです。覚えててくださってたんですね」

「やっぱり、そうだよね。私、頭は悪いんですが、なぜか記憶力だけはいいの。あの絵がすごく好きだったから、忘れないですよぉ。それじゃ、また今度!」
 
川本さんは明るくそう言い残し、今度こそ走り去っていった。
 
台風だ。
 
ひとりでに発生して、周囲のことをお構いなしに突き進み、過ぎ去った後に数々の爪痕を残していく、台風みたいな人だなと思った。
 
私が一方的に知っている、と思っていた人が、たった一瞬、それも半年も前に開催された文化祭の展示ブースで会話を交わしただけの私のことを覚えていてくれたこと。文香がお弁当を食べている姿をモデルに描いた私の絵を好きだと言ってくれたこと。学校中の有名人の一人なのに、気さくに話しかけてくれたこと。運要素がない、といいながら、運が大事という矛盾したことを言うこと。

どれもが新鮮で、初めて会う人種のように思えた。

不思議な人だった。
 
あっけにとられながら、去っていく川本さんの背中を見つめた。

手で握りしめていたココアの蓋を開けて一口飲むと、胸が急速に温められて、少しだけ深く、息ができた。