「失礼します」
 
職員室に入って中央の席に座っている滝波先生は、隣の席で仕出し弁当を食べている二十代後半くらいの若い男性の先生と一緒にスポーツ新聞を神妙な面持ちで見つめていた。

「菊花賞はまぐれだったか」

「ですね」

「はあぁ、何とか復活してほしいけど、どうなることやら……」

参ったなこりゃ、と呟いて、滝波先生はコーヒーをズズズッと音を立てて啜ってた。

「先生、あの……」
 
私は恐る恐る、声をかけた。怒られるとわかっているから、かける声が自然と小さくなる。

「おお、相馬さん、来たね」
 
先生は気づき、手にしていた新聞を机の上に置いた。『有馬記念 二冠に暗雲?』という大きな文字の下に、競争馬とジョッキーの写真がチラリと見えた。
 
滝波先生は六十歳を過ぎた、定年再雇用の地理の講師で、ほんとうの専門は倫理なのだそうだけど、東高校では地理と現代社会の教科を担当している。

「はい……」
 
私が身構えていると、先生がニコニコして「はい、これ」と言って、茶色い封筒を差し出した。

「えっ?」
 
私はそれを受け取ると、先生に開けてごらん、と促され、中から三つ折りにされた白い紙を取り出して開くと、驚く言葉が私の目に飛び込んできた。

 
第70回N県美術展(県展) 洋画部門
選考結果【県知事賞】 


「えっ?」
 
私は右手で口を覆い、何度も何度もその文字を見返す。

「おめでとう。すごいなあ、あんなにギリギリで仕上がったのに、上から二番目に良い賞らしいぞ」
 
それを聞いて、さらに驚いた。これまで、インターハイのポスター図案や高校総合文化祭の美術工芸部門など、受賞を狙うのは高校生しか参加資格のないコンテストばかりで、県展はどちらかというと応募することが目的という位置づけだった。年に一回くらいは、大きなキャンバスで一人一作品を完成させることに意義があるというものだったので、まさかこんなに大きな公募展で、高校生しかいないコンテストでも箸にも棒にも掛からなかった私の作品が入選、しかも上位入賞を果たすなんて、思いつきもしなかった。
 
あっけにとられていると、滝波先生は「そうだ」と言った。

「来月、授賞式があるらしいぞ。パークサイドホテルらしい。リッチだなあ。凄いなあ。先生も一回くらい泊まってみたいよ。あ、それから、賞金が十万円貰えるらしいぞ。よかったなあ。一気に、金持ちになるな。二枚目の用紙に、振込先の口座情報とか、授賞式の参加不参加の回答を書く用紙が入っているから、家に帰ってゆっくり読んで、書き終わったら提出しておくから、また持ってきてくれるか?」
 
滝波先生は、十万円かあ、いいなあ、羨ましいなあ、と繰り返しながら、私の返事を待っている。

「はい、わかりました。えっと、あの、これだけでしょうか?」

「うん?何か、他にあるか?」

私は、ふう、と息を整えて、告白した。

「ごめんなさい。体育祭のパネルを、多目的室に仮置きさせてもらったままにしていて、私、回収するのをすっかり忘れていて、それを怒られるんじゃないかって、思っていたから……」

目をぎゅっとつぶり、頭を下げると、先生は「え?そうなの?」とまるで知らなかったように問い返してきた。

「……はい、そうなんです。担任の先生から、滝波先生が職員室に呼んでいるっていうのを聞いて、私何かやらかしたかなって思って考えていたら、それを思い出して……」
 
俯く私を見て、滝波先生はハハハ、と豪快に笑い、「なんだよ、もう」と言って、自分の膝をパンッと叩いた。

「じゃあ、それはそれで、できるだけ早く、回収してください」

「はい、すみません」
 
私はもう一度頭を下げて、職員室の出口に向かった。


まだ、心臓のバクバクが止まらない。
 
文香を待たせている。急がなきゃ。

「失礼しました」
 
職員室の扉の前で、一礼をして、勢いよく飛び出そうとしたら、人にぶつかりそうになった。

「Oh!」
 
ぶつかりそうになった相手は、ALTのエドワーズ先生だった。

「あ…………ソ、ソーリー」
 
とっさに謝ると、先生はノープロブレム(問題ないよ)と言って右手を挙げた。
 
今しかない。
 
私は、職員室に向かうエドワーズ先生の背中に向かって、あの、と声をかけた。
 
先生は振り返り、「何?」という表情で首を傾げている。

「Thank you so mach(ほんとうにありがとうございました)」
 
いつでも最高の自分でいるように、と教えてくれたことに、感謝の気持ちをずっと伝えたかった。
 
エドワーズ先生は爽やかに右手を上げながら「No worries.Have a good day(大丈夫だよ。良い一日を)」と言って、職員室に入っていった。
 
私も、文香が待つ教室に向かって、軽い足取りで歩き出した。