体育祭が終わって二週間がたち、中間テストまであと一週間に迫っている。
県展締め切りまであと二十日。高校生活はイベントが多すぎる、と思う。
夏休みをだらしなく過ごしたことを何度も何度も後悔し、遅れを取り戻すように絵を描き続けていた。
「相馬さん、終わった?」
放課後、黒板を消し終わった関口くんが、学級日誌を書いている私に近寄り、声をかけてきた。
「あ、ごめん。もうちょっとで終わる」
「うん、わかった」
二人きりの教室で、私は急いで今日のまとめを書く。
私たちのクラスは出席番号順に二人ずつが、一週間交代で日直をすることになっていて、出席番号十番の私は、九番の関口くんと毎回ペアになる。
「最近どうなん?」
関口くんが、私の前の席に座りながら聞いてきた。西日本の方言が、柔らかくて心地よい。
「どうって、何が?」
私は質問に質問で返す。
「いや、あの日、いろいろあったやん」
「うん。そう、だね」
私は、学級日誌の記録を進める。
最近どうかと聞かれると、最悪だと答えたくなった。
関口くんの言うとおり、あの日、私が教室で田代くんに対して怒鳴ってしまった時から、私はクラスメイトのほとんどから要注意人物認定を受け、疎外されてしまった。これまでは可もなく不可もなく、とにかく目立たないように存在を消してひっそりと過ごすことに必死だった。クラス内カースト最下位層で静かに生きていこうと思っていたのに、あの一件を境に、私はいつ反逆を冒すかわからない危険人物としてカーストそのものから追放された。これまで以上に誰からも声をかけられない。
昼休みは、文香が一緒にお弁当を食べてくれたけど、私たちの周囲には誰もおらず、二人でいるのに孤独だった。教室は、あまりにも居心地が悪くて、それでも一緒にいてくれる文香に対して申し訳ないと思ってしまう。目立たないように、存在を消して過ごすことを望んでいたのに、いざほんとうに存在を無として扱われるのは、こんなにもつらくて苦しいことだと知らなかった。
あの時、田代くんは私に、気を付けた方がいいと忠告した。高橋くんと一緒にいると、私まで危ない人に見られる、と。
ほんとうにその通りになってしまった。もう一回、あの日のあの時間に戻ってやり直したい。今度はちゃんと、誰も何も傷つけないように、上手くやるのに……。
起きてしまった出来事を消し去ることも、変えることもできず、悔やむ気持ちも全部、絵にぶつけた。そうしたところで何も変わらないとわかっていたけど、何かに集中していないと、自分の頭がおかしくなりそうだった。
そんなことをぼーっと考えていると、「手、止まっとる!」と関口くんから指摘された。
「あ、ごめん。考えごとしてた」
私は慌てて意識を学級日誌に戻した。
「あれから、大丈夫なん?……田代もさ、ちょっと危ないとこあるやん」
関口くんは、右手に持つスマホを見ながら聞いてきた。
「危ない?田代くんが?」
私は思わず聞き返す。
あの日、田代くんは高橋くんのことを『危ない』と言った。リング上で殴り合いをする人間を『危ない』と言うのはなんとなくわかるが、大人しく控えめな生物部の田代くんを『危ない』と言うのは不思議だ。
「なんか、上手く言えんけど、危ない感じがするんよね、あいつ。……まあ、相馬さんが大丈夫なら、いいんやけど」
私は、関口くんが、田代くんのことをなぜ危ないと思っているのかわからなかったけれど、一つだけわかったことがある。
「ありがとね。心配してくれて」
「いや、別に、なんもよ」
関口くんは、あの日以来、ぎくしゃくしてしまった田代くんとの関係を、気にしてくれているのだ。
ちょうどタイミング悪く鉢合わせしてしまったことを、ずっと気にかけてくれていたみたいで、少し申し訳ない気持ちがした。彼の不器用な優しさに、ちょっとだけ心が軽くなる。
「よし、終わった。お待たせしました」
私は書き終えた学級日誌を閉じて席を立った。
「お疲れ。じゃあ、行くか」
私は鞄と数学Ⅱの宿題のプリント、関口くんは古文の宿題ノートを持って、一緒に職員室に向かった。
二人で並んで歩いていると、ふと、「そういえばさ、」と関口くんが声をかけてきた。
「一年のボクシングの人、残念やったな」
急に高橋くんのことを言われるから、私は驚いてその場に立ち止まった。
「え?どうして?」
「……ほら、相馬さん、あの人と仲いいんやろ?国体も、優勝目指しとったやろうから」
「……会ってもないし、話してもないから、わからないよ」
私は答え、再び歩き出すと、今度は関口くんが立ち止まって、「えっ」と驚いた声を出して私の顔を見た。
「あ、そうなんや。いや、体育祭の前に、部活で日曜日に学校来てたら、二人が一緒に帰りよるところを偶然見かけたんよ。なんでやろ、って一瞬思ったけど、ずっと前から馴染みがあるような、知り合い同士みたいな、そういうふうに見えとったから」
「え、うそ?なんで?」
「いや、なんでって言われても。なんか、付き合ってる同士なのか、幼馴染なのか、きょうだいなのか知らんけど、そういう空気感ってあるやん?他の人がさ、一切入る余地ない、二人だけの世界、みたいな」
関口くんはゆっくりと歩き出す。私も黙って、ついていく。
「いや、もしかしたら相馬さんもボクシングとかそういう格闘技してたりするんかな、って思っとったんよ」
急に関口くんがわけのわからないことを言い出すから、私は左手を振り「いやいやいや」と全力で否定した。
「するわけないじゃん!というか、やってそうに見える?私が!」
「いや、知らんて。ほら、人は見かけによらんから。俺だって絵描くし」
「え?」
「絵っていうか、イラスト?……小さい頃から絵描くの好きで、似顔絵とか動物とかキャラクターをたまに家で書いたりするもんやから」
夏休み明けの始業式の時から比べるといくらか薄くなってはいるものの、こんがりと日に焼けた風貌で、学ラン越しにもがっしりとした体格がわかる、ザ・体育会系男子の関口くんがイラストを描くなんて、信じられなかった。
「へえ、意外だね。そんな感じ、しないのに」
「そうやろ?やけん、人は見かけによらんのよ」
関口くんは、一瞬、私の方に振り向いて、なぜか勝ち誇ったような顔でそう言った。
「どんなイラスト描くの?」
私が尋ねると関口くんは「ちょっと待って、あとで見せるわ」と言って、職員室のドアを開け、宿題提出用の棚に古文のノートを入れた。私も数Ⅱの宿題プリントを入れて、失礼しました、と言って職員室を出る。しばらく二人で廊下を歩き、先生に見られないように柱の陰に隠れると、関口くんはズボンのポケットからスマホを取り出し、トークアプリの画面を開いて私に見せてきた。
「これ、俺が書いたやつ。で、親が勝手にスタンプ作ってた」
そこには、ウサギなのか犬なのかネコなのかよくわからない、不思議なキャラクターが≪おはよう≫≪ありがとう!≫≪は?≫などの文字とともに描かれている。上手くないけど下手でもない、なんとも言えないシュールな絵で、じっと見ているとちょっとだけかわいくも見えてしまう。
「え、すごい!これ、オリジナル?」
「うん、まあ……。てか、ごめん、何でもない、忘れて!」
関口くんは「なんかハズくなった」と言って照れくさそうにスマホをポケットの中に戻した。その様子がおかしくて、私は「そのスタンプ、探して買うね」と言うと、彼は「やめろや」と言って笑った。
「じゃ、俺、部活行くわ」
「私も。じゃあ、また明日ね」
おう、と言って、関口くんは今歩いてきた廊下を戻って行った。私は階段を駆け上がり、美術室に向かった。
県展締め切りまであと二十日。高校生活はイベントが多すぎる、と思う。
夏休みをだらしなく過ごしたことを何度も何度も後悔し、遅れを取り戻すように絵を描き続けていた。
「相馬さん、終わった?」
放課後、黒板を消し終わった関口くんが、学級日誌を書いている私に近寄り、声をかけてきた。
「あ、ごめん。もうちょっとで終わる」
「うん、わかった」
二人きりの教室で、私は急いで今日のまとめを書く。
私たちのクラスは出席番号順に二人ずつが、一週間交代で日直をすることになっていて、出席番号十番の私は、九番の関口くんと毎回ペアになる。
「最近どうなん?」
関口くんが、私の前の席に座りながら聞いてきた。西日本の方言が、柔らかくて心地よい。
「どうって、何が?」
私は質問に質問で返す。
「いや、あの日、いろいろあったやん」
「うん。そう、だね」
私は、学級日誌の記録を進める。
最近どうかと聞かれると、最悪だと答えたくなった。
関口くんの言うとおり、あの日、私が教室で田代くんに対して怒鳴ってしまった時から、私はクラスメイトのほとんどから要注意人物認定を受け、疎外されてしまった。これまでは可もなく不可もなく、とにかく目立たないように存在を消してひっそりと過ごすことに必死だった。クラス内カースト最下位層で静かに生きていこうと思っていたのに、あの一件を境に、私はいつ反逆を冒すかわからない危険人物としてカーストそのものから追放された。これまで以上に誰からも声をかけられない。
昼休みは、文香が一緒にお弁当を食べてくれたけど、私たちの周囲には誰もおらず、二人でいるのに孤独だった。教室は、あまりにも居心地が悪くて、それでも一緒にいてくれる文香に対して申し訳ないと思ってしまう。目立たないように、存在を消して過ごすことを望んでいたのに、いざほんとうに存在を無として扱われるのは、こんなにもつらくて苦しいことだと知らなかった。
あの時、田代くんは私に、気を付けた方がいいと忠告した。高橋くんと一緒にいると、私まで危ない人に見られる、と。
ほんとうにその通りになってしまった。もう一回、あの日のあの時間に戻ってやり直したい。今度はちゃんと、誰も何も傷つけないように、上手くやるのに……。
起きてしまった出来事を消し去ることも、変えることもできず、悔やむ気持ちも全部、絵にぶつけた。そうしたところで何も変わらないとわかっていたけど、何かに集中していないと、自分の頭がおかしくなりそうだった。
そんなことをぼーっと考えていると、「手、止まっとる!」と関口くんから指摘された。
「あ、ごめん。考えごとしてた」
私は慌てて意識を学級日誌に戻した。
「あれから、大丈夫なん?……田代もさ、ちょっと危ないとこあるやん」
関口くんは、右手に持つスマホを見ながら聞いてきた。
「危ない?田代くんが?」
私は思わず聞き返す。
あの日、田代くんは高橋くんのことを『危ない』と言った。リング上で殴り合いをする人間を『危ない』と言うのはなんとなくわかるが、大人しく控えめな生物部の田代くんを『危ない』と言うのは不思議だ。
「なんか、上手く言えんけど、危ない感じがするんよね、あいつ。……まあ、相馬さんが大丈夫なら、いいんやけど」
私は、関口くんが、田代くんのことをなぜ危ないと思っているのかわからなかったけれど、一つだけわかったことがある。
「ありがとね。心配してくれて」
「いや、別に、なんもよ」
関口くんは、あの日以来、ぎくしゃくしてしまった田代くんとの関係を、気にしてくれているのだ。
ちょうどタイミング悪く鉢合わせしてしまったことを、ずっと気にかけてくれていたみたいで、少し申し訳ない気持ちがした。彼の不器用な優しさに、ちょっとだけ心が軽くなる。
「よし、終わった。お待たせしました」
私は書き終えた学級日誌を閉じて席を立った。
「お疲れ。じゃあ、行くか」
私は鞄と数学Ⅱの宿題のプリント、関口くんは古文の宿題ノートを持って、一緒に職員室に向かった。
二人で並んで歩いていると、ふと、「そういえばさ、」と関口くんが声をかけてきた。
「一年のボクシングの人、残念やったな」
急に高橋くんのことを言われるから、私は驚いてその場に立ち止まった。
「え?どうして?」
「……ほら、相馬さん、あの人と仲いいんやろ?国体も、優勝目指しとったやろうから」
「……会ってもないし、話してもないから、わからないよ」
私は答え、再び歩き出すと、今度は関口くんが立ち止まって、「えっ」と驚いた声を出して私の顔を見た。
「あ、そうなんや。いや、体育祭の前に、部活で日曜日に学校来てたら、二人が一緒に帰りよるところを偶然見かけたんよ。なんでやろ、って一瞬思ったけど、ずっと前から馴染みがあるような、知り合い同士みたいな、そういうふうに見えとったから」
「え、うそ?なんで?」
「いや、なんでって言われても。なんか、付き合ってる同士なのか、幼馴染なのか、きょうだいなのか知らんけど、そういう空気感ってあるやん?他の人がさ、一切入る余地ない、二人だけの世界、みたいな」
関口くんはゆっくりと歩き出す。私も黙って、ついていく。
「いや、もしかしたら相馬さんもボクシングとかそういう格闘技してたりするんかな、って思っとったんよ」
急に関口くんがわけのわからないことを言い出すから、私は左手を振り「いやいやいや」と全力で否定した。
「するわけないじゃん!というか、やってそうに見える?私が!」
「いや、知らんて。ほら、人は見かけによらんから。俺だって絵描くし」
「え?」
「絵っていうか、イラスト?……小さい頃から絵描くの好きで、似顔絵とか動物とかキャラクターをたまに家で書いたりするもんやから」
夏休み明けの始業式の時から比べるといくらか薄くなってはいるものの、こんがりと日に焼けた風貌で、学ラン越しにもがっしりとした体格がわかる、ザ・体育会系男子の関口くんがイラストを描くなんて、信じられなかった。
「へえ、意外だね。そんな感じ、しないのに」
「そうやろ?やけん、人は見かけによらんのよ」
関口くんは、一瞬、私の方に振り向いて、なぜか勝ち誇ったような顔でそう言った。
「どんなイラスト描くの?」
私が尋ねると関口くんは「ちょっと待って、あとで見せるわ」と言って、職員室のドアを開け、宿題提出用の棚に古文のノートを入れた。私も数Ⅱの宿題プリントを入れて、失礼しました、と言って職員室を出る。しばらく二人で廊下を歩き、先生に見られないように柱の陰に隠れると、関口くんはズボンのポケットからスマホを取り出し、トークアプリの画面を開いて私に見せてきた。
「これ、俺が書いたやつ。で、親が勝手にスタンプ作ってた」
そこには、ウサギなのか犬なのかネコなのかよくわからない、不思議なキャラクターが≪おはよう≫≪ありがとう!≫≪は?≫などの文字とともに描かれている。上手くないけど下手でもない、なんとも言えないシュールな絵で、じっと見ているとちょっとだけかわいくも見えてしまう。
「え、すごい!これ、オリジナル?」
「うん、まあ……。てか、ごめん、何でもない、忘れて!」
関口くんは「なんかハズくなった」と言って照れくさそうにスマホをポケットの中に戻した。その様子がおかしくて、私は「そのスタンプ、探して買うね」と言うと、彼は「やめろや」と言って笑った。
「じゃ、俺、部活行くわ」
「私も。じゃあ、また明日ね」
おう、と言って、関口くんは今歩いてきた廊下を戻って行った。私は階段を駆け上がり、美術室に向かった。