十月最初の日曜日。体育祭は無事に開催され、無事に終わった。
この日のためだけに、約一か月間かけて作った応援パネルは、特に称賛されるわけでもなく、誰かから労いの言葉をかけられるわけでもなく、ただそこに在った。
体育祭のたった一部、しかもメインでもない飾り部分のためだけに、なぜこんなにも労力を費やしたのだろうとさえ思えてくる。
それでも、出来上がったパネルの絵を見て、私は一緒に過ごした時間を思い返す。
きっと今ごろ、高橋くんは戦っているのだろうか。
夕陽と同化し、真っ赤に燃える炎の中を飛ぶ神に、彼を守ってください、と心の中で祈った。
「相馬先輩」
パネルを眺めていると、背後から不意に声をかけられた。振り返ると、私よりほんの少しだけ背が高い森本くんが立っていた。私もだろうけれど、体操服の袖から出ている色白の肌が、運動場にほんとうに似合わない。
「森本くん。どうしたの?」
「はい、これ。この間、クッキーを貰ったんで、お礼です」
そう言って差し出されたのは、四角くて茶色の消しゴムで、将棋の駒の形に縁取られた線の中に『角行』という文字が印字されていた。ひっくり返すと、『龍馬』と書かれている。
「使っていくうちに将棋の駒になる消しゴムです。角行って読みます。敵陣に入ってパワーアップすると、ひっくり返って龍馬……、略して馬という駒に成ります。どの駒がいいかな、って思ったんですけど、やっぱり先輩の名前に馬があるから、角にしました。将棋の駒の中でも、結構強い駒ですよ」
「あ、ありがとう……」
正直、将棋には全然興味がないし、別に私があげたクッキーでもないからすっかり忘れていたくらいだけど、森本くんの好意を無駄にするのも悪いし、消しゴムならいくらあっても困らないから、お礼を言って受け取ってた。
「ちなみに、先輩の名前の馬っていう字なんですけど、左馬って知ってますか?逆さ馬、とも言うんですけど」
「左馬?ううん、知らないかも」
「はい、これ」
そう言うと、今度はズボンのポケットの中から、木でできた将棋の駒のストラップを渡してきた。鏡に映し出されて反転したような『馬』という一文字だけが書かれている。老舗の和食料亭とか、古くからある旅館の受付とかに置いてそうなデザインで、しかも鈴まで付いている。
え、めちゃくちゃダサい……。全然、いらない。こんな、手元に残るようなもの貰っても困るんだけど。そう思っていると、「あ、これ同じやつを高橋にも持たせたから、オソロですけど、いらないならあげないです」と不敵な笑みを浮かべて私の手からストラップを取り返そうとしてきた。
「ううん、いらなくない。いる。いります」
手の中にあるストラップを握りしめて引き寄せた。また私の頭の中を読んできたのか、と思わずギョッとして彼を見つめる。
私の表情を見て、森本くんは「すんげぇ面白い。二人とも同じ反応するから」とおなかを抱えて爆笑していた。いつも、森本くんは私の反応を見ては、からかって楽しんでいる。いい加減にしてほしい。
「左馬の駒は、縁起物なんですよ。うまを反対から読むと、まう。おめでたい席での舞から、縁起が良いものとされているんです。馬の下の部分が巾着の口をしっかり閉じた形をしているから、商売繫盛とか、富の象徴としても知られていて、競馬のお守りとして持っている人もいるみたいですよ。ほかにも、馬は左から乗れば倒れない、とか、右に出る者がいない、という意味で、勝負運を高めて、持ち主を守ってくるそうです」
森本くんの解説を聞きながら、もう一度手の中にあるストラップに目を落とした。
「パネル係、お世話になりました。消しゴムは、駒の形になるまで、使ってくださいね。願い事が叶うっていうジンクスがあるらしいですよ」
そう言うと、彼はクルッと後ろを向いて、校舎に向かって歩きだした。
「森本くん!」
私は去っていく背中に向かって声をかけた。森本くんは立ち止まってこちらを振り向くと、お?という表情を向けてきた。
「一緒にパネル係してくれて、ありがとう。これ、大事に使うね」
右手の消しゴムと、左手のストラップを掲げてお礼を言うと、森本くんはニカッと笑った。
「いろいろ、上手くいくといいですね。馬だけに」
夕暮れの涼やかな風がサッと吹き、ブルッと鳥肌がたった。暑かった夏は終わり、季節はいつの間にか、秋になっていた。
週明け、登校してすぐに昇降口にある生徒掲示板が目に入った。
赤と白のチョークで『速報 国体ボクシング・ライトフライ級出場 一年七組高橋理玖くん ベスト8(五位入賞) おめでとう!』と書かれていた。
この日のためだけに、約一か月間かけて作った応援パネルは、特に称賛されるわけでもなく、誰かから労いの言葉をかけられるわけでもなく、ただそこに在った。
体育祭のたった一部、しかもメインでもない飾り部分のためだけに、なぜこんなにも労力を費やしたのだろうとさえ思えてくる。
それでも、出来上がったパネルの絵を見て、私は一緒に過ごした時間を思い返す。
きっと今ごろ、高橋くんは戦っているのだろうか。
夕陽と同化し、真っ赤に燃える炎の中を飛ぶ神に、彼を守ってください、と心の中で祈った。
「相馬先輩」
パネルを眺めていると、背後から不意に声をかけられた。振り返ると、私よりほんの少しだけ背が高い森本くんが立っていた。私もだろうけれど、体操服の袖から出ている色白の肌が、運動場にほんとうに似合わない。
「森本くん。どうしたの?」
「はい、これ。この間、クッキーを貰ったんで、お礼です」
そう言って差し出されたのは、四角くて茶色の消しゴムで、将棋の駒の形に縁取られた線の中に『角行』という文字が印字されていた。ひっくり返すと、『龍馬』と書かれている。
「使っていくうちに将棋の駒になる消しゴムです。角行って読みます。敵陣に入ってパワーアップすると、ひっくり返って龍馬……、略して馬という駒に成ります。どの駒がいいかな、って思ったんですけど、やっぱり先輩の名前に馬があるから、角にしました。将棋の駒の中でも、結構強い駒ですよ」
「あ、ありがとう……」
正直、将棋には全然興味がないし、別に私があげたクッキーでもないからすっかり忘れていたくらいだけど、森本くんの好意を無駄にするのも悪いし、消しゴムならいくらあっても困らないから、お礼を言って受け取ってた。
「ちなみに、先輩の名前の馬っていう字なんですけど、左馬って知ってますか?逆さ馬、とも言うんですけど」
「左馬?ううん、知らないかも」
「はい、これ」
そう言うと、今度はズボンのポケットの中から、木でできた将棋の駒のストラップを渡してきた。鏡に映し出されて反転したような『馬』という一文字だけが書かれている。老舗の和食料亭とか、古くからある旅館の受付とかに置いてそうなデザインで、しかも鈴まで付いている。
え、めちゃくちゃダサい……。全然、いらない。こんな、手元に残るようなもの貰っても困るんだけど。そう思っていると、「あ、これ同じやつを高橋にも持たせたから、オソロですけど、いらないならあげないです」と不敵な笑みを浮かべて私の手からストラップを取り返そうとしてきた。
「ううん、いらなくない。いる。いります」
手の中にあるストラップを握りしめて引き寄せた。また私の頭の中を読んできたのか、と思わずギョッとして彼を見つめる。
私の表情を見て、森本くんは「すんげぇ面白い。二人とも同じ反応するから」とおなかを抱えて爆笑していた。いつも、森本くんは私の反応を見ては、からかって楽しんでいる。いい加減にしてほしい。
「左馬の駒は、縁起物なんですよ。うまを反対から読むと、まう。おめでたい席での舞から、縁起が良いものとされているんです。馬の下の部分が巾着の口をしっかり閉じた形をしているから、商売繫盛とか、富の象徴としても知られていて、競馬のお守りとして持っている人もいるみたいですよ。ほかにも、馬は左から乗れば倒れない、とか、右に出る者がいない、という意味で、勝負運を高めて、持ち主を守ってくるそうです」
森本くんの解説を聞きながら、もう一度手の中にあるストラップに目を落とした。
「パネル係、お世話になりました。消しゴムは、駒の形になるまで、使ってくださいね。願い事が叶うっていうジンクスがあるらしいですよ」
そう言うと、彼はクルッと後ろを向いて、校舎に向かって歩きだした。
「森本くん!」
私は去っていく背中に向かって声をかけた。森本くんは立ち止まってこちらを振り向くと、お?という表情を向けてきた。
「一緒にパネル係してくれて、ありがとう。これ、大事に使うね」
右手の消しゴムと、左手のストラップを掲げてお礼を言うと、森本くんはニカッと笑った。
「いろいろ、上手くいくといいですね。馬だけに」
夕暮れの涼やかな風がサッと吹き、ブルッと鳥肌がたった。暑かった夏は終わり、季節はいつの間にか、秋になっていた。
週明け、登校してすぐに昇降口にある生徒掲示板が目に入った。
赤と白のチョークで『速報 国体ボクシング・ライトフライ級出場 一年七組高橋理玖くん ベスト8(五位入賞) おめでとう!』と書かれていた。