しばらくすると、高橋くんは準備室から出てきた。
「今日、俺どこをやればいいですか?」
いつもどおりの柔らかい顔に戻り、あまりにも自然に聞いてくるから、私はいつものように作業を指示しようとした。
しかしすぐに気がつき、「え、やるの?」と聞くと、高橋くんは「はい、やります!」と言うので、午前中に使っていた筆と絵の具を渡し、赤組パネルに描かれた朱雀の羽の部分を重ね塗りするように指示した。高橋くんが来てくれたから、私は青組のパネルに取りかかろうと思って、反対側の場所に移動した。
しばらく、お互い無言で作業を進めた。作業をしながら、私はふとあることを思い出した。そう言えば、なんで高橋くんがいるんだろう。今日は日曜日で授業もないし、パネル当番も美術部だけなのに、どうして学校に来ていて、パネルなんかやっているんだろう。
私は作業をしながら「あのさ、高橋くん」と声をかけたけれど、返事はなかった。
顔を上げて赤組の作業エリアを見ると、高橋くんがパネルの下に敷いた新聞紙の上で、横たわっていた。
「高橋くん!」
筆を置いて慌てて駆け寄った。高橋くんは目を瞑っている。寝てるだけ?
先週、高橋くんは体調が悪そうにしていて、実際、嘔吐していた。今日も、美術室に入るや否や、疲れたと言って机に伏していた。ほんとうに、大丈夫なのかな。
私は心配になって、高橋くん、と呼び掛けながら、肩を軽くポンポン、と叩いた。
すると高橋くんは目を覚まして、すみません、と言いながらゆっくり体を起こした。
良かった……。生きてた……。
私はホッとして、なぜだかわからないうちに、急に涙がじわじわと目にたまってきて、鼻の奥がツンと痛くなった。高橋くんは目をこすりながらも、私の表情に気づくと、その眠そうな目を一瞬で丸くした。
「えっ?先輩、なんで?どうした?」
不安そうに私の顔を窺われて、それが余計に苦しい。瞬きをしたと同時に、堪えきれず、涙が両目から一粒ずつ落ちた。
「具合悪そうだったから……心配したの……」
私はこぼれた涙を手の甲で拭き上げた。ようやく冷めた顔が、また一瞬で真っ赤に熱を帯びる。高橋くんはごめんなさい、と困った様子で言って、泣いている私に手を伸ばした。
「触れても、いいですか?」
顔の前で宙ぶらりんになっている手が、早く欲しくてたまらない。私が無言でこくりと頷くと、高橋くんの右手がゆっくりと近づき、私の頬を伝った涙の痕を拭う。ゴツゴツと骨ばっていて、温かい手のぬくもりが、じんわりと私の体全体をあたためていった。
優しく頬を撫でながら、高橋くんはもう一度「ごめんなさい、先輩」と言った。私は無言で首を横に振る。高橋くんの優しさに、いつも甘えてばかりでごめんなさい。謝るのは、私の方だった。
私は俯きながら、「今日は、どうして学校にいたの?」と聞いた。
「今日は朝ジムに行って練習して、そのあとそこの市民運動公園の会議室でアンチドーピングの講習受けて、それが終わったら、新聞の取材受けてました」
白いシャツの左胸に刺繡されたえんじ色の校章を見つめながら、頭上から降ってくる高橋くんの静かな声を、私は無言で聞き続けた。
「……明日の朝、国体の決起会に出なきゃいけなくて、午前中、公欠するんです。宿題、金曜日に出せればよかったんすけど、間に合わなくて。今日どうせ制服着てたし、ついでに学校に持ってきたら、先輩がいました」
黙って話を聞きながら、先週森本くんから聞いた話を思い出していた。
体育祭の日は、国体期間中で参加できないということ。せめて準備だけでもやりたいと言って、森本くんを誘ってパネル係になったということ。
森本くんに教えてもらうまで、なぜ高橋くんがパネル係になったのかわからず、不思議に思っていた。高橋くんは、自分からボクシングの話をすることも、国体の話をすることもなかった。だから私はそれに甘えて、こちらから話を切り出すことをしなかった。
口にしたら、もうほんとうに最後になってしまう。
期間限定のパネル係が終われば、私たちの関係は何の繋がりもない、ただの一年生と二年生に戻ることになる。森本くんに言われる前から、薄々自分の気持ちに気が付いていたけれど、それが叶わないだろうとわかっていたから、見て見ぬ振りをし続けた。
一緒にいると楽しくて、安心するのに、彼の優しさに触れるたびに胸が苦しくなった。その優しさが自分だけに向いているのか、それとも他の女の子たちにも同じようにしているのか、私はクラスどころか学年も違うので知る由もない。
もっと一緒にいたかった。だけど、もう時間切れだ。
「高橋くん、」
私は俯いた顔をゆっくり上げて切り出した。
「今日で、最後だね。国体、応援してるから」
震える声がバレていませんように、と思いながら、何とか伝えきった。
高橋くんは、何とも言えない複雑そうな表情で、すみません、と謝った。
「先輩とパネル作るの、楽しかったです。ほんとは、このまま……」
時間が、静かに流れていく。
「……ずっと、このまま二人だけで、いれたらいいなって、思って」
彼は、まっすぐに私の目を見ながら言った。表情からは、何も読み取れない。
「まあ、そんなこと言ったところで、無理なんですけどね」
寂しそうに小さく笑って、目を伏せる。
「すみません。なんでもないです。続き、やりましょう」
そう言って、高橋くんはグーッと一回背伸びをして、筆をとり、再びパネルに目を落とした。
このまま世界が終わればいいのに。
私は本気でそう思った。
「今日、俺どこをやればいいですか?」
いつもどおりの柔らかい顔に戻り、あまりにも自然に聞いてくるから、私はいつものように作業を指示しようとした。
しかしすぐに気がつき、「え、やるの?」と聞くと、高橋くんは「はい、やります!」と言うので、午前中に使っていた筆と絵の具を渡し、赤組パネルに描かれた朱雀の羽の部分を重ね塗りするように指示した。高橋くんが来てくれたから、私は青組のパネルに取りかかろうと思って、反対側の場所に移動した。
しばらく、お互い無言で作業を進めた。作業をしながら、私はふとあることを思い出した。そう言えば、なんで高橋くんがいるんだろう。今日は日曜日で授業もないし、パネル当番も美術部だけなのに、どうして学校に来ていて、パネルなんかやっているんだろう。
私は作業をしながら「あのさ、高橋くん」と声をかけたけれど、返事はなかった。
顔を上げて赤組の作業エリアを見ると、高橋くんがパネルの下に敷いた新聞紙の上で、横たわっていた。
「高橋くん!」
筆を置いて慌てて駆け寄った。高橋くんは目を瞑っている。寝てるだけ?
先週、高橋くんは体調が悪そうにしていて、実際、嘔吐していた。今日も、美術室に入るや否や、疲れたと言って机に伏していた。ほんとうに、大丈夫なのかな。
私は心配になって、高橋くん、と呼び掛けながら、肩を軽くポンポン、と叩いた。
すると高橋くんは目を覚まして、すみません、と言いながらゆっくり体を起こした。
良かった……。生きてた……。
私はホッとして、なぜだかわからないうちに、急に涙がじわじわと目にたまってきて、鼻の奥がツンと痛くなった。高橋くんは目をこすりながらも、私の表情に気づくと、その眠そうな目を一瞬で丸くした。
「えっ?先輩、なんで?どうした?」
不安そうに私の顔を窺われて、それが余計に苦しい。瞬きをしたと同時に、堪えきれず、涙が両目から一粒ずつ落ちた。
「具合悪そうだったから……心配したの……」
私はこぼれた涙を手の甲で拭き上げた。ようやく冷めた顔が、また一瞬で真っ赤に熱を帯びる。高橋くんはごめんなさい、と困った様子で言って、泣いている私に手を伸ばした。
「触れても、いいですか?」
顔の前で宙ぶらりんになっている手が、早く欲しくてたまらない。私が無言でこくりと頷くと、高橋くんの右手がゆっくりと近づき、私の頬を伝った涙の痕を拭う。ゴツゴツと骨ばっていて、温かい手のぬくもりが、じんわりと私の体全体をあたためていった。
優しく頬を撫でながら、高橋くんはもう一度「ごめんなさい、先輩」と言った。私は無言で首を横に振る。高橋くんの優しさに、いつも甘えてばかりでごめんなさい。謝るのは、私の方だった。
私は俯きながら、「今日は、どうして学校にいたの?」と聞いた。
「今日は朝ジムに行って練習して、そのあとそこの市民運動公園の会議室でアンチドーピングの講習受けて、それが終わったら、新聞の取材受けてました」
白いシャツの左胸に刺繡されたえんじ色の校章を見つめながら、頭上から降ってくる高橋くんの静かな声を、私は無言で聞き続けた。
「……明日の朝、国体の決起会に出なきゃいけなくて、午前中、公欠するんです。宿題、金曜日に出せればよかったんすけど、間に合わなくて。今日どうせ制服着てたし、ついでに学校に持ってきたら、先輩がいました」
黙って話を聞きながら、先週森本くんから聞いた話を思い出していた。
体育祭の日は、国体期間中で参加できないということ。せめて準備だけでもやりたいと言って、森本くんを誘ってパネル係になったということ。
森本くんに教えてもらうまで、なぜ高橋くんがパネル係になったのかわからず、不思議に思っていた。高橋くんは、自分からボクシングの話をすることも、国体の話をすることもなかった。だから私はそれに甘えて、こちらから話を切り出すことをしなかった。
口にしたら、もうほんとうに最後になってしまう。
期間限定のパネル係が終われば、私たちの関係は何の繋がりもない、ただの一年生と二年生に戻ることになる。森本くんに言われる前から、薄々自分の気持ちに気が付いていたけれど、それが叶わないだろうとわかっていたから、見て見ぬ振りをし続けた。
一緒にいると楽しくて、安心するのに、彼の優しさに触れるたびに胸が苦しくなった。その優しさが自分だけに向いているのか、それとも他の女の子たちにも同じようにしているのか、私はクラスどころか学年も違うので知る由もない。
もっと一緒にいたかった。だけど、もう時間切れだ。
「高橋くん、」
私は俯いた顔をゆっくり上げて切り出した。
「今日で、最後だね。国体、応援してるから」
震える声がバレていませんように、と思いながら、何とか伝えきった。
高橋くんは、何とも言えない複雑そうな表情で、すみません、と謝った。
「先輩とパネル作るの、楽しかったです。ほんとは、このまま……」
時間が、静かに流れていく。
「……ずっと、このまま二人だけで、いれたらいいなって、思って」
彼は、まっすぐに私の目を見ながら言った。表情からは、何も読み取れない。
「まあ、そんなこと言ったところで、無理なんですけどね」
寂しそうに小さく笑って、目を伏せる。
「すみません。なんでもないです。続き、やりましょう」
そう言って、高橋くんはグーッと一回背伸びをして、筆をとり、再びパネルに目を落とした。
このまま世界が終わればいいのに。
私は本気でそう思った。