しばらく一人でお弁当を食べていると、手を洗いに行った高橋くんがなかなか帰ってこないことに気が付いて、振り向いて水道の方を見たら誰もいなかった。
あれ?どこに行った?
きょろきょろと美術室全体を見渡したけど高橋くんの姿はどこにも見当たらず、心配になり、箸を置いて探し始めた。
高橋くんは、美術室の隣にある準備室にいた。
「高橋くん?」
声をかけると、高橋くんは「これ全部、美術部の人たちが描いたんですか?」と、置かれてある作品を見ながら尋ねてきた。
「うん、そうだよ」
「え、凄!マジっすか!どれもめっちゃ上手い」
言葉の興奮度合いとは裏腹に、話し声は静かだった。二人だけしかいない、しんと静かな準備室に、彼の小さな声も反響した。
高橋くんは歩きながら、興味深そうにみんなの作品を見ている。その様子を私は黙って眺めていた。
「先輩の描いたのは、どれっすか?」
不意にそう聞かれ、私は下書きしかできていない県展の絵を見せるのもなんとなくためらわれて、自分専用の棚から過去の作品を取り出した。重ねられた作品の一番上に、今年のインターハイ競技別ポスターに応募した絵が置かれてあった。
「これですか?」
高橋くんが横から覗き込んでポスターの端を掴んで来たので、隠そうにも隠せず、私はうん、と頷いた。
「……妹さん、ですか?」
高橋くんは手に持った絵を見ながら聞いてきた。
「え?」
「いや、前に、双子の妹がいて、たしか陸上やってるって言ってたような気がしたんで」
高橋くんの記憶力の良さにはいつも驚かされる。
たった一回だけ、パネル係の初日に自己紹介した私の名前をフルネームで覚えていたし、由紀の話も、全然聞いてなかったようなそぶりだったのに、こんなことまで覚えているなんて……。
私はびっくりしつつも、そうだよ、と答えた。
「なんで、妹さんを描こうって思ったんですか?」
高橋くんは次々と聞いてくる。
「なんでって、どういうこと?」
「いや、結構たくさん、いろんな絵があるじゃないですか。山の絵とか、人の絵とか、食べ物の絵とか。そういうテーマってどうやって決めようって思うのか気になったんで」
「ああ、そういうことね。今年、うちの県でインターハイあったでしょ?その競技用ポスター図案の募集が去年あって、それに応募したの。だから、この絵のテーマは最初から『陸上競技』って決まってたんだよね」
私が答えると、高橋くんは「そういうことかー」と呟きながら、絵の中の走る由紀を眺めている。
中学三年生の時、由紀がスポーツ推薦で県外の私立高校に入学することが決まり、親戚は鼻高々だったけど、両親は複雑だったようだ。
背が高くて、足が速くて、おまけに可愛い由紀は、小さいころから度々問題を起こした。家では元気いっぱいでうるさいのに、外に出ると急に大人しくなり、小学生のころはよく男子からからかわれていた。中学生になると、今度は男子からモテる対象となり、周囲の女子からの反感を買った。外でたくさん我慢している反動か、家では父にも母にも反抗的な態度を取り続け、私は両親の愚痴と、由紀の不満を板挟みになって聞き続けた。
手のかかる由紀と、手のかからない子を演じ続ける私。
由紀のことで、父も母もかなり気を揉んでいたようなのに、私はそれすら羨ましかった。
そんな由紀は、何もない地面でも転びそうになる私とは対照的に、小学生のころからリレー選手に選ばれるくらい足が速かった。
中学生になり陸上部に入部すると、メキメキと頭角を現し、県大会で上位に入賞したり、ブロック大会でも好成績を残したりするようになった。由紀は走ることで試練を乗り越え、全寮制の学校へ推薦入学し、家から出るという道を自ら切り拓いた。
一方の私は、双子の妹に身長以外でも大差をつけられてしまい、これまでずっと一緒に過ごしてきた由紀と離れ離れになることに、少しの寂しさと、それを大きく上回る、強烈な悦びがあった。
やっと、解放される。
双子同士で比べられない。
やっと、自由になれる……。
大好きで、大嫌いな由紀と別々の学校にいけるようになり、あんなに嬉しかったのに、それでも心のどこかで由紀のことが恋しかった。
去年の五月、インターハイを予選落ちした由紀と電話した時、「来年のインハイは絶対出る」と言っていたから、私も一緒に出たくて、由紀をモデルに絵を描いて応募した。応募資格は県内の高校生、しかもいくつも競技があるから、そんなに競争率は高くない。もしかしたら、と思って一生懸命描いた絵を応募した。
かなりうまく描けたし、自分としては自信作だった。選考結果発表の日をインターネットで確認し、その日は授業中もずっとウズウズしていた。
昼休み、トイレでこっそりスマホを取り出し、ホームページを見てみると、そこに私の名前はなかった。
特賞に選ばれたのは、別の高校の一年生で、私は佳作にも入選できなかった。
私は震える手でスマホを握りしめて、動悸がおさまるのを耐えて待った。悔しさと、絶望と、何に対してかわからないけれど、怒りも沸き上がってきて、うまく呼吸ができなかった。
ダメだった、という事実を受け入れるのに、かなりの時間を要した。
今年の五月、由紀から「インハイの代表になったよ」という連絡が来たとき、私は治りかけていた傷口を開かれ、内臓を抉り出されて、泥の付いた靴で踏みつけられているような感覚に陥った。
身体の全部、ありとあらゆるところが、とにかく痛かった。
報われない努力ほど辛いものはない。もう二度と、こんなに嫌な思いはしたくない。
そう思うと、優劣が付けられる公募展用の絵を描くのが怖くなり、絵を描く目的も見失い、頑張るという気力が湧かず、次第に美術室への足が遠のき、この夏休みは結局、一度も筆を握ることはなかった。
「……先輩?」
高橋くんに声をかけられ、私はハッと意識を戻した。
「あ、ごめん……。ちょっと、考えごとしてた……」
私は高橋くんに謝った。どこか別の空間にワープしていたみたいに、意識が遠くに飛んでしまっていた。
「すごく上手ですよね。俺は、全然うまくならないから、絵を描ける人、尊敬します」
ありがとうございます、と頭を下げて、高橋くんは手に持ったポスターを私に返しながらそう言った。
「高橋くんがこれ以上、絵がうまくなったら嫌だなあ」
私は絵を受取り、自分の棚に戻しながら呟いた。
「え、なんでですか?」
高橋くんが不思議そうに聞き返してくる。
ボクシングのインターハイチャンピオンで、頭も良くて、かっこよくて、かわいくて、いつも優しい高橋くんが、絵までうまくなってしまったら、私はもう存在価値がいよいよなくなってしまいそうだ。
自分の醜い感情をなるべく悟られないようにして言った。
「……ごめん、やっぱり何でもない。変なこと言って、ごめんね。……私、お昼ごはん途中だったから、戻るね」
そう言い残して、私は美術室に戻ろうとした。
すると「待って、」という声がして、私は振り返って高橋くんを見た。
「俺、やっぱり、絵、下手のままでもいいかもって、思いました」
いつものようにまっすぐに私の目を見ながら彼は言う。
「え?なんで?」
「……絵がうまかったら、俺一人で作業させられちゃう。いつまでも下手なままだから、先輩がいつもずっと横に付いててくれてて、嬉しいっす」
私は顔全体が熱くなる瞬間がはっきりわかるくらい、顔が真っ赤になった。胸がきゅーと締め付けられる。
待って。どうしよう。
嬉しい、恥ずかしい、怖い、という感情が同時に波のように押し寄せてきて、頭が整理できない。
頭が真っ白になって、その場で棒立ちになったまま目を泳がせていると、高橋くんが口を開いた。
「先輩、そんな照れられると、こっちまで恥ずかしくなるから……」
そう言って高橋くんはニヤつきながら顔を伏せた。
高橋くんの耳も、心なしか、赤くなっているような気がする。
「高橋くんが、意味わかんないこというからでしょ!もう、やめてよ。私、戻るから!」
私は慌ててそう言って、足早に準備室を出て美術室に入り、さっきまでお弁当を食べていた机に戻った。
食欲は一気になくなり、そっとお弁当箱の蓋を閉じた。
火照った顔を必死に手で仰いでも、一向に冷める気配はなかった。
あれ?どこに行った?
きょろきょろと美術室全体を見渡したけど高橋くんの姿はどこにも見当たらず、心配になり、箸を置いて探し始めた。
高橋くんは、美術室の隣にある準備室にいた。
「高橋くん?」
声をかけると、高橋くんは「これ全部、美術部の人たちが描いたんですか?」と、置かれてある作品を見ながら尋ねてきた。
「うん、そうだよ」
「え、凄!マジっすか!どれもめっちゃ上手い」
言葉の興奮度合いとは裏腹に、話し声は静かだった。二人だけしかいない、しんと静かな準備室に、彼の小さな声も反響した。
高橋くんは歩きながら、興味深そうにみんなの作品を見ている。その様子を私は黙って眺めていた。
「先輩の描いたのは、どれっすか?」
不意にそう聞かれ、私は下書きしかできていない県展の絵を見せるのもなんとなくためらわれて、自分専用の棚から過去の作品を取り出した。重ねられた作品の一番上に、今年のインターハイ競技別ポスターに応募した絵が置かれてあった。
「これですか?」
高橋くんが横から覗き込んでポスターの端を掴んで来たので、隠そうにも隠せず、私はうん、と頷いた。
「……妹さん、ですか?」
高橋くんは手に持った絵を見ながら聞いてきた。
「え?」
「いや、前に、双子の妹がいて、たしか陸上やってるって言ってたような気がしたんで」
高橋くんの記憶力の良さにはいつも驚かされる。
たった一回だけ、パネル係の初日に自己紹介した私の名前をフルネームで覚えていたし、由紀の話も、全然聞いてなかったようなそぶりだったのに、こんなことまで覚えているなんて……。
私はびっくりしつつも、そうだよ、と答えた。
「なんで、妹さんを描こうって思ったんですか?」
高橋くんは次々と聞いてくる。
「なんでって、どういうこと?」
「いや、結構たくさん、いろんな絵があるじゃないですか。山の絵とか、人の絵とか、食べ物の絵とか。そういうテーマってどうやって決めようって思うのか気になったんで」
「ああ、そういうことね。今年、うちの県でインターハイあったでしょ?その競技用ポスター図案の募集が去年あって、それに応募したの。だから、この絵のテーマは最初から『陸上競技』って決まってたんだよね」
私が答えると、高橋くんは「そういうことかー」と呟きながら、絵の中の走る由紀を眺めている。
中学三年生の時、由紀がスポーツ推薦で県外の私立高校に入学することが決まり、親戚は鼻高々だったけど、両親は複雑だったようだ。
背が高くて、足が速くて、おまけに可愛い由紀は、小さいころから度々問題を起こした。家では元気いっぱいでうるさいのに、外に出ると急に大人しくなり、小学生のころはよく男子からからかわれていた。中学生になると、今度は男子からモテる対象となり、周囲の女子からの反感を買った。外でたくさん我慢している反動か、家では父にも母にも反抗的な態度を取り続け、私は両親の愚痴と、由紀の不満を板挟みになって聞き続けた。
手のかかる由紀と、手のかからない子を演じ続ける私。
由紀のことで、父も母もかなり気を揉んでいたようなのに、私はそれすら羨ましかった。
そんな由紀は、何もない地面でも転びそうになる私とは対照的に、小学生のころからリレー選手に選ばれるくらい足が速かった。
中学生になり陸上部に入部すると、メキメキと頭角を現し、県大会で上位に入賞したり、ブロック大会でも好成績を残したりするようになった。由紀は走ることで試練を乗り越え、全寮制の学校へ推薦入学し、家から出るという道を自ら切り拓いた。
一方の私は、双子の妹に身長以外でも大差をつけられてしまい、これまでずっと一緒に過ごしてきた由紀と離れ離れになることに、少しの寂しさと、それを大きく上回る、強烈な悦びがあった。
やっと、解放される。
双子同士で比べられない。
やっと、自由になれる……。
大好きで、大嫌いな由紀と別々の学校にいけるようになり、あんなに嬉しかったのに、それでも心のどこかで由紀のことが恋しかった。
去年の五月、インターハイを予選落ちした由紀と電話した時、「来年のインハイは絶対出る」と言っていたから、私も一緒に出たくて、由紀をモデルに絵を描いて応募した。応募資格は県内の高校生、しかもいくつも競技があるから、そんなに競争率は高くない。もしかしたら、と思って一生懸命描いた絵を応募した。
かなりうまく描けたし、自分としては自信作だった。選考結果発表の日をインターネットで確認し、その日は授業中もずっとウズウズしていた。
昼休み、トイレでこっそりスマホを取り出し、ホームページを見てみると、そこに私の名前はなかった。
特賞に選ばれたのは、別の高校の一年生で、私は佳作にも入選できなかった。
私は震える手でスマホを握りしめて、動悸がおさまるのを耐えて待った。悔しさと、絶望と、何に対してかわからないけれど、怒りも沸き上がってきて、うまく呼吸ができなかった。
ダメだった、という事実を受け入れるのに、かなりの時間を要した。
今年の五月、由紀から「インハイの代表になったよ」という連絡が来たとき、私は治りかけていた傷口を開かれ、内臓を抉り出されて、泥の付いた靴で踏みつけられているような感覚に陥った。
身体の全部、ありとあらゆるところが、とにかく痛かった。
報われない努力ほど辛いものはない。もう二度と、こんなに嫌な思いはしたくない。
そう思うと、優劣が付けられる公募展用の絵を描くのが怖くなり、絵を描く目的も見失い、頑張るという気力が湧かず、次第に美術室への足が遠のき、この夏休みは結局、一度も筆を握ることはなかった。
「……先輩?」
高橋くんに声をかけられ、私はハッと意識を戻した。
「あ、ごめん……。ちょっと、考えごとしてた……」
私は高橋くんに謝った。どこか別の空間にワープしていたみたいに、意識が遠くに飛んでしまっていた。
「すごく上手ですよね。俺は、全然うまくならないから、絵を描ける人、尊敬します」
ありがとうございます、と頭を下げて、高橋くんは手に持ったポスターを私に返しながらそう言った。
「高橋くんがこれ以上、絵がうまくなったら嫌だなあ」
私は絵を受取り、自分の棚に戻しながら呟いた。
「え、なんでですか?」
高橋くんが不思議そうに聞き返してくる。
ボクシングのインターハイチャンピオンで、頭も良くて、かっこよくて、かわいくて、いつも優しい高橋くんが、絵までうまくなってしまったら、私はもう存在価値がいよいよなくなってしまいそうだ。
自分の醜い感情をなるべく悟られないようにして言った。
「……ごめん、やっぱり何でもない。変なこと言って、ごめんね。……私、お昼ごはん途中だったから、戻るね」
そう言い残して、私は美術室に戻ろうとした。
すると「待って、」という声がして、私は振り返って高橋くんを見た。
「俺、やっぱり、絵、下手のままでもいいかもって、思いました」
いつものようにまっすぐに私の目を見ながら彼は言う。
「え?なんで?」
「……絵がうまかったら、俺一人で作業させられちゃう。いつまでも下手なままだから、先輩がいつもずっと横に付いててくれてて、嬉しいっす」
私は顔全体が熱くなる瞬間がはっきりわかるくらい、顔が真っ赤になった。胸がきゅーと締め付けられる。
待って。どうしよう。
嬉しい、恥ずかしい、怖い、という感情が同時に波のように押し寄せてきて、頭が整理できない。
頭が真っ白になって、その場で棒立ちになったまま目を泳がせていると、高橋くんが口を開いた。
「先輩、そんな照れられると、こっちまで恥ずかしくなるから……」
そう言って高橋くんはニヤつきながら顔を伏せた。
高橋くんの耳も、心なしか、赤くなっているような気がする。
「高橋くんが、意味わかんないこというからでしょ!もう、やめてよ。私、戻るから!」
私は慌ててそう言って、足早に準備室を出て美術室に入り、さっきまでお弁当を食べていた机に戻った。
食欲は一気になくなり、そっとお弁当箱の蓋を閉じた。
火照った顔を必死に手で仰いでも、一向に冷める気配はなかった。