私と由紀が小学三年生の頃、事件は起こった。
学校からの帰り道、いつもどおり二人で並んで歩いて帰っていると、急に隣から由紀がいなくなってしまった。
私は驚いて、後ろを振り返ると、五、六十歳くらいの色黒で小太りの中年男性が、後ろから由紀に抱き着いて連れ去ろうとしたのだ。
男はわけのわからない言葉を喋りながら、由紀を引きずって、どんどん後ろに離れていった。
「やーだー!!やめて!!離して!!」と叫びながら身をよじる彼女を見て、私は慌てて「由紀!」と叫び、二人のもとに駆け寄り、由紀の肩をがっしりと掴んでいる男の手の甲に、思いきり噛みついたのだ。
男は「痛ぇ!」と叫び、同時に両腕から由紀が解放され、私も一緒に突き飛ばされた。
そのあと男は「てめぇ貴様、この野郎」と言って、フラフラとした足取りで私を胸ぐらを掴み、左頬を一発殴った。
ゴッと鈍い音がして、口の中に血の味が広がる。殴られた勢いで、私は地面にたたきつけられるようにして倒れた。
「やめてぇぇぇぇ」と泣き叫ぶ由紀の声が、響き渡る。
男は、倒れた私を起こして、もう一発、殴ろうとしたところ、たまたま通りかかった車の中から出てきた大人に助けられた。
そのあとのことは、もう何も覚えていない。
人は、あまりの惨事を体験すると、記憶がなくなるらしい。
厳密にいえば、覚えているのだけれど、それを思い出すことができない精神状態になっているのだと、病院で先生が母に説明しているのをベッドに横たわりながら聞いていた。
由紀が男に羽交い絞めにされたことも、私が殴られたことも、今の今まで、思い出すこともなかったのに。目の前に、合法的に人を『殴る』ことが許されている高橋くんが、私の記憶を呼び起こさせた。
いくらスポーツとは言え、人を殴るなんて、おかしいって。どうかしてるよ。
田代くんの言葉が、頭のなかで反芻される。
違う!違う!違う!高橋くんは、おかしい人じゃない!彼の優しさを知らないのに、勝手なことを言わないで!
みんなに聞こえるくらい大きな声で、「高橋くんはおかしくなんかない」って否定したいのに、そんな優しい彼は、高校生の中で、日本で一番、人を殴る人間だった。
あの日の出来事を、ところどころかいつまみながら話していると、不意に私の左頬が暖かな感触で包まれた。
高橋くんが、今にも泣きそうな顔をして、自分の右手を私の左頬に添えていた。
氷のような鋭い目が、いつもどおりの柔らかい目つきに戻っている。
親指を、ゆっくり頬の上を滑らせて、そっか、と言った。
「……痛かった、っすね」
その言葉を聞いた瞬間、私の両目から涙が堰を切るように溢れだした。
「ううぅ……」
拭っても拭っても、ポロポロと零れ落ちる涙が止まらない。
「ううぅ……ううぅ……」
泣くつもりなんてなかったし、こんな話を、誰にもする気もなかったのに。
どうしようもないくらい、自分の頭と心が制御できなくなってしまっていた。
「……っ」
嫌なことを言って、ごめん。困らせてしまって、ごめん。こんなはずじゃなかったのに。
泣き止もうとすればするほど、しゃくりあげてしまい、上手く呼吸ができない。
窓の外は、いつの間にかバケツをひっくり返したような大量の雨が降っていた。
「うわぁぁ……」
泣き止もうとするのを止めて、私は声に出して泣いた。
もういっそ泣いてしまおうと思った。泣ききりたいと思った。
自分の身体の内側にある膿を押し出すように、泥を掻き出すように、泣いて、泣いて、泣いて……。
溢れる涙をかき集めて、吐き出してしまった醜い感情を、汚れた記憶を、全部全部、洗い流してしまいたい。
子供のように泣きじゃくる私の頭を、高橋くんは何も言わずに右手でよしよし、と撫でてくれている。
あの日、痛めつけられた左頬の記憶は、今、新しい優しい手で塗り替えられた。
ひとしきり泣いたあと、時計を見ると、昼休み終了まであと十分しかなかった。あれほど泣いたのに、いや、むしろ泣いたからなのか、ものすごくおなかが空いている。
「ごめん。お昼休み、終わっちゃった」
二人とも、昼食を取る時間を逃してしまった。お弁当は、捨てるのはさすがにもったいないから、帰ってから食べよう。
「俺は大丈夫なんですけど、先輩、大丈夫じゃないですよね?」
高橋くんが心配そうに言った。
「大丈夫。私も今日一日だけ、空腹に耐えてみる」
そう言って私は立ち上がり、ほとんど使わなかった画材を片付けようとした。
もう涙はすっかり引いていた。
「売店に、ゼリー系の飲み物、売ってるじゃないですか。あれの青色のパッケージのやつがいいですよ」
減量のプロが言うのなら、きっと間違いないのだろう。
「じゃあ、急いでそれを買ってから教室戻るね。ごめんね、いろいろ。じゃあ、また明日ね」
「はい、また」
美術室を出ると、さっきまでの豪雨がうそのように止んでいて、空は一点の曇りもなく、青々として晴れやかだった。
学校からの帰り道、いつもどおり二人で並んで歩いて帰っていると、急に隣から由紀がいなくなってしまった。
私は驚いて、後ろを振り返ると、五、六十歳くらいの色黒で小太りの中年男性が、後ろから由紀に抱き着いて連れ去ろうとしたのだ。
男はわけのわからない言葉を喋りながら、由紀を引きずって、どんどん後ろに離れていった。
「やーだー!!やめて!!離して!!」と叫びながら身をよじる彼女を見て、私は慌てて「由紀!」と叫び、二人のもとに駆け寄り、由紀の肩をがっしりと掴んでいる男の手の甲に、思いきり噛みついたのだ。
男は「痛ぇ!」と叫び、同時に両腕から由紀が解放され、私も一緒に突き飛ばされた。
そのあと男は「てめぇ貴様、この野郎」と言って、フラフラとした足取りで私を胸ぐらを掴み、左頬を一発殴った。
ゴッと鈍い音がして、口の中に血の味が広がる。殴られた勢いで、私は地面にたたきつけられるようにして倒れた。
「やめてぇぇぇぇ」と泣き叫ぶ由紀の声が、響き渡る。
男は、倒れた私を起こして、もう一発、殴ろうとしたところ、たまたま通りかかった車の中から出てきた大人に助けられた。
そのあとのことは、もう何も覚えていない。
人は、あまりの惨事を体験すると、記憶がなくなるらしい。
厳密にいえば、覚えているのだけれど、それを思い出すことができない精神状態になっているのだと、病院で先生が母に説明しているのをベッドに横たわりながら聞いていた。
由紀が男に羽交い絞めにされたことも、私が殴られたことも、今の今まで、思い出すこともなかったのに。目の前に、合法的に人を『殴る』ことが許されている高橋くんが、私の記憶を呼び起こさせた。
いくらスポーツとは言え、人を殴るなんて、おかしいって。どうかしてるよ。
田代くんの言葉が、頭のなかで反芻される。
違う!違う!違う!高橋くんは、おかしい人じゃない!彼の優しさを知らないのに、勝手なことを言わないで!
みんなに聞こえるくらい大きな声で、「高橋くんはおかしくなんかない」って否定したいのに、そんな優しい彼は、高校生の中で、日本で一番、人を殴る人間だった。
あの日の出来事を、ところどころかいつまみながら話していると、不意に私の左頬が暖かな感触で包まれた。
高橋くんが、今にも泣きそうな顔をして、自分の右手を私の左頬に添えていた。
氷のような鋭い目が、いつもどおりの柔らかい目つきに戻っている。
親指を、ゆっくり頬の上を滑らせて、そっか、と言った。
「……痛かった、っすね」
その言葉を聞いた瞬間、私の両目から涙が堰を切るように溢れだした。
「ううぅ……」
拭っても拭っても、ポロポロと零れ落ちる涙が止まらない。
「ううぅ……ううぅ……」
泣くつもりなんてなかったし、こんな話を、誰にもする気もなかったのに。
どうしようもないくらい、自分の頭と心が制御できなくなってしまっていた。
「……っ」
嫌なことを言って、ごめん。困らせてしまって、ごめん。こんなはずじゃなかったのに。
泣き止もうとすればするほど、しゃくりあげてしまい、上手く呼吸ができない。
窓の外は、いつの間にかバケツをひっくり返したような大量の雨が降っていた。
「うわぁぁ……」
泣き止もうとするのを止めて、私は声に出して泣いた。
もういっそ泣いてしまおうと思った。泣ききりたいと思った。
自分の身体の内側にある膿を押し出すように、泥を掻き出すように、泣いて、泣いて、泣いて……。
溢れる涙をかき集めて、吐き出してしまった醜い感情を、汚れた記憶を、全部全部、洗い流してしまいたい。
子供のように泣きじゃくる私の頭を、高橋くんは何も言わずに右手でよしよし、と撫でてくれている。
あの日、痛めつけられた左頬の記憶は、今、新しい優しい手で塗り替えられた。
ひとしきり泣いたあと、時計を見ると、昼休み終了まであと十分しかなかった。あれほど泣いたのに、いや、むしろ泣いたからなのか、ものすごくおなかが空いている。
「ごめん。お昼休み、終わっちゃった」
二人とも、昼食を取る時間を逃してしまった。お弁当は、捨てるのはさすがにもったいないから、帰ってから食べよう。
「俺は大丈夫なんですけど、先輩、大丈夫じゃないですよね?」
高橋くんが心配そうに言った。
「大丈夫。私も今日一日だけ、空腹に耐えてみる」
そう言って私は立ち上がり、ほとんど使わなかった画材を片付けようとした。
もう涙はすっかり引いていた。
「売店に、ゼリー系の飲み物、売ってるじゃないですか。あれの青色のパッケージのやつがいいですよ」
減量のプロが言うのなら、きっと間違いないのだろう。
「じゃあ、急いでそれを買ってから教室戻るね。ごめんね、いろいろ。じゃあ、また明日ね」
「はい、また」
美術室を出ると、さっきまでの豪雨がうそのように止んでいて、空は一点の曇りもなく、青々として晴れやかだった。