すぐに美術室には向かわず、白組と緑組のパネル係が作業エリアとして使っている多目的室に立ち寄る。

誰もいない部屋で、大きく深呼吸をする。

息を吸って、吐いて、を五回ほど繰り返すと、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。

それでも、曇天の空と同じように、私の心はどす黒く分厚い雲に覆われているように、重かった。

切り替えられない気持ちのまま美術室に向かうと、高橋くんが小さくその場で飛び跳ねながら、相手のいない中、いつものように一人ボクシングをしている姿が窓から見えた。

扉を開けると、私に気づいた高橋くんが手を止めて、爽やかな笑顔で「お疲れさまです」と声をかけてきた。私もお疲れさま、と軽く返事をして、手を洗い、画材の準備を始める。ここまで、いつもどおりだ。

「先輩、今日なんか元気なくないっすか?どうかしたんすか?」

一緒に準備をしながら、高橋くんにそういわれて、驚いて私は思わず後ずさる。

「……何でもない。大丈夫だよ」

「あ、そうっすか」

さらりと返事をされた。そして、何事もなかったかのように、「さあ、今日も頑張りましょう」と言って、筆に色を付けてパネルを塗り始めた。

「高橋くん」

床に両膝をついて色を塗る彼の隣に力なく座り、私はほぼ無意識に彼の名前を呼んだ。

「はい。なんですか?」

彼は色塗りを止めず、返事だけした。

私はふう、と息をひとつ吐いた。

「人の顔を殴るのって、そんなに楽しいものなの?」

私が聞くと、高橋くんはピタッと筆を止めて、こちらを向いた。

「どういう意味ですか?」

はじめて聞いた、ものすごく深みのある、低い声。

怖気づきそうになったけど、私も負けじと言葉を返す。

「そのまんまの意味。ボクシングってさ、相手の顔を殴って倒すスポーツでしょ?どんな気持ちでやってるんだろうって思ったの」

「……それ、本気で言ってます?」

目の奥が、全然笑ってない。

「人の顔を殴って楽しい?」

いつもなら緊張して見られないのに、自分でもわからないけれど、今日は私もまっすぐに高橋くんの顔を見つめた。

「これ以上言うと、怒りますよ、俺」

淡々と、落ち着いた芯のある声。光を失った鋭い目。

殺される、と思った。あの日、同じ目をした人間を見たことがある。

私は何かのスイッチが入ったかのように、頭が制御できなくなった。

「私、昔ね、一発だけなんだけど、知らない男の人に、殴られたことがあるの」

話の()めかたが、わからなかった。