朝、教室の扉を開けると、窓側の前から二列目の席に、生物部の田代くんが座っていた。

まだ七時半前で、誰も来ていないだろう、と思っていたから、驚いた。

「えっ……」

驚いていたのは、田代くんも同じだったようだ。

「おはよう。田代くん、早いね」

教室の中に入り、中央の前から二列目、自分の席まで歩きながら声をかけた。

肩に掛けた鞄を机の上に置いて、教科書とノート、筆箱を取り出し、鞄を机の横に掛ける。

「あ、いや……。そ、相馬さんこそ、今日は、早いね」

私は毎朝八時過ぎに登校するけど、今日は一時間ほど早起きした。

「うん。昨日、なんか疲れて寝落ちしちゃってさ。英語の予習がまだ終わってなくて。今日二十五日で、私当てられる日だから、早く来てやろうと思って」

英語の先生は、授業の日の日付によって、発表者を出席番号で当ててくる。出席番号十番の私は、二×五で、今日当てられる可能性が高い。私は教科書と電子辞書を広げ、ノートに和訳を書いていく。

「あの、もしよかったら、僕の、見る?」

予習を進めていると、田代くんが自分のノートを手に持って、私の席まで近づいてきていた。

「あ、ありがとう。えっと、とりあえず自分でやってみて、それでもし間に合わなそうだったら、見せてもらってもいい?」

二年生になってから、急に授業が難しくなり、予習や復習をしてもついていけないと感じる日が増えてきていた。優秀なクラスメイトたちにこれ以上置いて行かれないように、なるべく自分で何とか頑張りたいと思っていたから、他の人のノートを見せてもらうことに躊躇(ためら)いがあった。

「え、あ、うん……」

田代くんが右手で差し出したノートが、所在なさげに宙ぶらりんになっている。

気まずさに、私は、ごめんね、と呟いた。

田代くんは、ノートをお腹の方に引き、両腕で抱えながら、さらに私に問いかけた。

「相馬さんってさ。あの、その、付き合っている人とか、いるの?」

「え?……いない、けど」

私は驚きつつも、否定する。

「じゃあ、あの、一年のボクシングの人とは、付き合ってないってこと?」

「は?高橋くんと?……いや、そんなわけないじゃん」

私はもう一度、否定する。田代くんは、ずっと俯いていて、まったく視線が合わない。

「……そっか。うん、やっぱり、そんなわけないよね。ごめん、勘違い、してた……。うん、よかった……」

はは、と田代くんは笑いながら言った。

やっぱり、そんなわけないって、どういうこと?

勘違いしてた?――何を?

よかった?――何が?

頭の中が疑問符でいっぱいになり、固まってしまっているところに、田代くんが口を開き、言葉を発する。

「あはは……。いや、この前、教室に、あのボクシングの一年の人が来た時、相馬さんと話していたから、そういう関係なのかなって、思ったんだけど。付き合ってる人がいないって聞いたから、その、なんか、安心した、ていうか……」

「ああ……。高橋くん、体育祭のパネル係だから、その連絡をしに来てくれただけだよ。というか、なんでそれを田代くんが気にするのよ?」

田代くんには全然、関係のない話だ。

「いや、だってさ。おかしいじゃん、どう考えても」

ノートを抱いたまま、田代くんが私を見てそう言った。

今度は、眼鏡越しにちゃんと目が合った。

「普通に考えて、おかしいよ。人の顔面をさ、血だらけになるまで、殴り合ってるんだよ?いくらスポーツとは言え、人を殴るなんて、おかしいって。どうかしてる」

自信がなさそうにオドオドして話す、いつもの田代くんじゃない。

「野蛮な奴らが、殴り合って、それで、勝ったとか負けたとか競い合ってさ。そんな奴が、相馬さんみたいな人に近づいてて、ちょっと驚いた。危なくないのかなって、思うよ」

「ちょっと、田代くん、何言って……」

私が制そうとするのをお構いなしに、田代くんは続ける。

「気を付けた方がいいよ、相馬さん。ああいう人と一緒にいると、相馬さんまで危ない人みたいに見られる。危険な目に合う前に、離れた方が身のためだよ。少なくとも僕は、相馬さんがあの一年の人と一緒にいるのは見たくない」

田代くんの鋭い眼光が、眼鏡のレンズを通り抜けて、私の目をまっすぐに見据えた。

目の奥を通って、私が頭の中で考えていることを見透かされてしまうような気がして、ゾクゾクと身震いがした。

怖い……助けて……高橋くん…………

その時、ガラガラガラ、と教室の扉が開いて、水泳部の関口くんが入ってくるなり、足を止めた。

「え……。あぁ、なんだ。そういう感じ?」

悪ぃ、と言って廊下に出て扉を閉めた。

「待って!違うから!」

私は慌てて席を立ち、扉の方に向かって走る。

扉を開けて、もう一回、違うから、と言って、廊下に出た関口くんを呼び戻し、私はそのまま廊下に立ち尽くす。

深呼吸を繰り返して、小刻みに揺れる手足の震えを何とか止めようとした。

田代くんも、関口くんも、そのあと私に声をかけてくることはなかった。