「先輩、高橋のこと、好きですよね」
色塗り作業をしている森本くんに話しかけられ、私は慌てて周囲を見渡した。今日、赤組のパネル係は、私と彼しかいない。奥で作業する青組は、まだ美術部員の佐伯さん一人しか来ていなかった。
「……ちょっと、急にやめてよ」
佐伯さんに聞こえないように声を小さくして、森本くんをたしなめた。
「わかりやす」
森本くんはニヤリと笑った。
「……」
「俺、将棋指すから、人の頭の中が読めるんすよ」
私は思わず「え、うそ!」と言うと、彼はすかさず「うん、うそ!」と言って、またニヤリと笑う。
「もう、なんなの……」
放課後、高橋くんが来なくなってからも、森本くんは変わらず毎日十八時まで美術室にやって来て、周囲のメンバーと和気あいあいと話をしながら作業を行っていた。
「なんで?」
恐る恐る、私は彼に尋ねた。
「なんでって……。よく高橋のことを目線で追っているなって、見てて思ってましたよ」
「……」
図星だった。
高橋くんのことを目で追っている、という自覚はなかったものの、少しずつ距離が近づくにつれて、高橋くんのことが気になり始めている感覚はあった。その感覚が好きなのかどうかはわからなかったけれど、一緒に作業をしている時間は楽しかったし、一人でいる時もふと気がついたら高橋くんのことを考えていることが度々あった。
「っていうか!森本くん、まさか……」
私は思わずハッとして森本くんに詰め寄った。
「別に俺、何も言ってないっすよ」
森本くんがぶっきらぼうに答えた。高橋くんに今の自分の気持ちがバレてしまうのは絶対に嫌だったから、そう聞いて少しホッとした。
「はあ……。良かった……。絶対、変なこと、言わないでよね」
私は胸をなでおろしながら、森本くんにクギを刺す。森本くんは右手を顔の前で大げさに振りながら「大丈夫、大丈夫」と笑っている。全然信用できない。高橋くんと森本くんはずっと一緒にいるから、頼むから余計なことを言わないで、という祈るような思いになった。
「高橋、普通にいいやつですよ。おすすめです」
森本くんは、まるで自分の好きな本のうちの一つを紹介するくらいの軽い感じで言ってきた。
「おすすめされても。私なんかじゃ、だめだよ。というか、そもそも高橋くんも、私みたいな平凡な人のことなんか、興味ないでしょ」
私が一方的に好きになっても、彼にとってはいい迷惑に思われている可能性すらある。
「そういえば、森本くんは、高橋くんとはどういう経緯で仲良くなったの?」
話題を逸らしたくて、前々から気になっていたことを尋ねた。
「うーんと、中学校が一緒だった感じですかね」
「あ、なるほど、そういうことか。だから、仲がいいんだ」
ボクシングの高橋くんと、将棋の森本くんの共通点が見当たらなかったから、ようやく、合点がいった。
「いや、中学では、俺ら、一回も喋ったことないんすよ」
森本くんが訂正する。
「クラスも違うし、俺は中学の頃は卓球部に入ってて、高橋は帰宅部でボクシングを続けてたんですよ。あいつ、中学生のころから全国大会で優勝したり、世界大会にも出たりしていて、すごかったみたいなんですけどね。中学の頃は、今みたいに表彰式とか、壮行会みたいなこともないから、俺も全然知らなくて。高校の入学説明会でたまたま一緒になって、同じクラスになって、それからですかね、話をするようになったのは」
「へえ、そうなんだ。中学生のころから凄いんだね、高橋くん」
「ほらね。俺の話じゃなくて、高橋のこと聞きたがるでしょ、先輩」
森本くんは、はぁあ、と大げさにため息をついて、やれやれ、というふうに頭を左右に振った。
「いや、その、ごめん、全然気づかなかったっていうか……」
「好きが無意識にだだ漏れてるっすね」
森本くんにからかわれて、私は恥ずかしくて赤面した。
「……始業式のとき、表彰式と、壮行会があったじゃないですか。あの後から、あいつ、急に学校中の有名人になってしまって。先生とか、他の学年の人とか、いろんな知らない人から声をかけられたりしていて。あいつは困ってたみたいなんですけど、俺はそれを横で見ていると、なんか俺だけ一人、取り残された気になって、ちょっと嫌だったんですよね」
抑揚のない声で淡々と喋りながら、森本くんは色を塗り続けた。
「なんか、ちょっとだけ、羨ましいな、って思ってたんですよ。せっかく、高校で仲良くなったのに、みんなの高橋になって、俺はそのおまけみたいな感じがして。あいつが玉で、俺は歩、みたいな」
森本くんは、時々よくわからない言葉を発する。それが、将棋の言葉なんだということを、高橋くんと森本くんの会話を聞きながら、最近ようやく理解した。
玉は玉将で、歩は歩兵の略です。一般的には将棋は王将、というイメージがあるんですけど、元々は玉、宝石という意味なんですよ。まあ、紛らわしいんで、将棋知らない人と話す時は王将って言っちゃうんですけどね。と、森本くんが聞いてもいない解説をしてくれる。
「……けど、あいつから『パネル係を一緒にやろう』って誘われたんすよ。で、今こうやって二人で先輩のお世話になってます」
私はびっくりして、筆が止まった。
「え、高橋くんが、パネル係やりたいって言いだしたの?」
「そうっすよ。体育祭の日、国体期間中で出られないから、せめて準備だけでも、って言うんで、一緒にパネル係やることになったんですよね」
よし終わった、と言って、一区画を塗り終えた森本くんは、ゆっくりと立ち上がって背伸びをしていた。
高橋くん、体育祭、出られないんだ。試合があるって言っていたのは、国体のことだったんだ。
私は頭が混乱してしまい、フリーズしていると、森本くんが新しい紙皿に絵具を垂らしながら言った。
「昼休み、あいつ、先輩と絵描くの、楽しいみたいですよ。どうしても、教室にいるといろいろダル絡みされたりしてて、鬱陶しそうにしてますし。いま試合前で昼飯も食べれないらしくて、静かに過ごせるのが、助かってるみたいっす」
そうだったんだ。
「俺も、先輩と一緒で、あいつと一緒にいていいのかなって、思ったんですけどね。けど、平凡な駒の歩兵だって、所詮歩がなきゃ成り立たないわけですよ、将棋は。王様一枚じゃ戦えないんですよね。わかりますか?」
冗談ぽく力説してくれるけど、将棋の例えはさっぱり、わからない。
「将棋の駒で、俺が一番好きなのが、歩なんですよ。一つしか前に進めない、一番弱い駒なのに、一歩一歩、前に進んで相手の陣地に入ったら、ひっくり返って、と金になるんですよ。パワーアップするんです。成金になるんですよ。だから、先輩も、あの王様を、一緒に守りましょうね。成金になって」
森本くんは、またニヤリと笑った。
話の内容は、半分くらいしかわからなかったけれど、とにかく二人で、高橋くんを守ろう、ということを言いたいのだろうな、と思った。
二人で、パワーアップして、成金になって。
色塗り作業をしている森本くんに話しかけられ、私は慌てて周囲を見渡した。今日、赤組のパネル係は、私と彼しかいない。奥で作業する青組は、まだ美術部員の佐伯さん一人しか来ていなかった。
「……ちょっと、急にやめてよ」
佐伯さんに聞こえないように声を小さくして、森本くんをたしなめた。
「わかりやす」
森本くんはニヤリと笑った。
「……」
「俺、将棋指すから、人の頭の中が読めるんすよ」
私は思わず「え、うそ!」と言うと、彼はすかさず「うん、うそ!」と言って、またニヤリと笑う。
「もう、なんなの……」
放課後、高橋くんが来なくなってからも、森本くんは変わらず毎日十八時まで美術室にやって来て、周囲のメンバーと和気あいあいと話をしながら作業を行っていた。
「なんで?」
恐る恐る、私は彼に尋ねた。
「なんでって……。よく高橋のことを目線で追っているなって、見てて思ってましたよ」
「……」
図星だった。
高橋くんのことを目で追っている、という自覚はなかったものの、少しずつ距離が近づくにつれて、高橋くんのことが気になり始めている感覚はあった。その感覚が好きなのかどうかはわからなかったけれど、一緒に作業をしている時間は楽しかったし、一人でいる時もふと気がついたら高橋くんのことを考えていることが度々あった。
「っていうか!森本くん、まさか……」
私は思わずハッとして森本くんに詰め寄った。
「別に俺、何も言ってないっすよ」
森本くんがぶっきらぼうに答えた。高橋くんに今の自分の気持ちがバレてしまうのは絶対に嫌だったから、そう聞いて少しホッとした。
「はあ……。良かった……。絶対、変なこと、言わないでよね」
私は胸をなでおろしながら、森本くんにクギを刺す。森本くんは右手を顔の前で大げさに振りながら「大丈夫、大丈夫」と笑っている。全然信用できない。高橋くんと森本くんはずっと一緒にいるから、頼むから余計なことを言わないで、という祈るような思いになった。
「高橋、普通にいいやつですよ。おすすめです」
森本くんは、まるで自分の好きな本のうちの一つを紹介するくらいの軽い感じで言ってきた。
「おすすめされても。私なんかじゃ、だめだよ。というか、そもそも高橋くんも、私みたいな平凡な人のことなんか、興味ないでしょ」
私が一方的に好きになっても、彼にとってはいい迷惑に思われている可能性すらある。
「そういえば、森本くんは、高橋くんとはどういう経緯で仲良くなったの?」
話題を逸らしたくて、前々から気になっていたことを尋ねた。
「うーんと、中学校が一緒だった感じですかね」
「あ、なるほど、そういうことか。だから、仲がいいんだ」
ボクシングの高橋くんと、将棋の森本くんの共通点が見当たらなかったから、ようやく、合点がいった。
「いや、中学では、俺ら、一回も喋ったことないんすよ」
森本くんが訂正する。
「クラスも違うし、俺は中学の頃は卓球部に入ってて、高橋は帰宅部でボクシングを続けてたんですよ。あいつ、中学生のころから全国大会で優勝したり、世界大会にも出たりしていて、すごかったみたいなんですけどね。中学の頃は、今みたいに表彰式とか、壮行会みたいなこともないから、俺も全然知らなくて。高校の入学説明会でたまたま一緒になって、同じクラスになって、それからですかね、話をするようになったのは」
「へえ、そうなんだ。中学生のころから凄いんだね、高橋くん」
「ほらね。俺の話じゃなくて、高橋のこと聞きたがるでしょ、先輩」
森本くんは、はぁあ、と大げさにため息をついて、やれやれ、というふうに頭を左右に振った。
「いや、その、ごめん、全然気づかなかったっていうか……」
「好きが無意識にだだ漏れてるっすね」
森本くんにからかわれて、私は恥ずかしくて赤面した。
「……始業式のとき、表彰式と、壮行会があったじゃないですか。あの後から、あいつ、急に学校中の有名人になってしまって。先生とか、他の学年の人とか、いろんな知らない人から声をかけられたりしていて。あいつは困ってたみたいなんですけど、俺はそれを横で見ていると、なんか俺だけ一人、取り残された気になって、ちょっと嫌だったんですよね」
抑揚のない声で淡々と喋りながら、森本くんは色を塗り続けた。
「なんか、ちょっとだけ、羨ましいな、って思ってたんですよ。せっかく、高校で仲良くなったのに、みんなの高橋になって、俺はそのおまけみたいな感じがして。あいつが玉で、俺は歩、みたいな」
森本くんは、時々よくわからない言葉を発する。それが、将棋の言葉なんだということを、高橋くんと森本くんの会話を聞きながら、最近ようやく理解した。
玉は玉将で、歩は歩兵の略です。一般的には将棋は王将、というイメージがあるんですけど、元々は玉、宝石という意味なんですよ。まあ、紛らわしいんで、将棋知らない人と話す時は王将って言っちゃうんですけどね。と、森本くんが聞いてもいない解説をしてくれる。
「……けど、あいつから『パネル係を一緒にやろう』って誘われたんすよ。で、今こうやって二人で先輩のお世話になってます」
私はびっくりして、筆が止まった。
「え、高橋くんが、パネル係やりたいって言いだしたの?」
「そうっすよ。体育祭の日、国体期間中で出られないから、せめて準備だけでも、って言うんで、一緒にパネル係やることになったんですよね」
よし終わった、と言って、一区画を塗り終えた森本くんは、ゆっくりと立ち上がって背伸びをしていた。
高橋くん、体育祭、出られないんだ。試合があるって言っていたのは、国体のことだったんだ。
私は頭が混乱してしまい、フリーズしていると、森本くんが新しい紙皿に絵具を垂らしながら言った。
「昼休み、あいつ、先輩と絵描くの、楽しいみたいですよ。どうしても、教室にいるといろいろダル絡みされたりしてて、鬱陶しそうにしてますし。いま試合前で昼飯も食べれないらしくて、静かに過ごせるのが、助かってるみたいっす」
そうだったんだ。
「俺も、先輩と一緒で、あいつと一緒にいていいのかなって、思ったんですけどね。けど、平凡な駒の歩兵だって、所詮歩がなきゃ成り立たないわけですよ、将棋は。王様一枚じゃ戦えないんですよね。わかりますか?」
冗談ぽく力説してくれるけど、将棋の例えはさっぱり、わからない。
「将棋の駒で、俺が一番好きなのが、歩なんですよ。一つしか前に進めない、一番弱い駒なのに、一歩一歩、前に進んで相手の陣地に入ったら、ひっくり返って、と金になるんですよ。パワーアップするんです。成金になるんですよ。だから、先輩も、あの王様を、一緒に守りましょうね。成金になって」
森本くんは、またニヤリと笑った。
話の内容は、半分くらいしかわからなかったけれど、とにかく二人で、高橋くんを守ろう、ということを言いたいのだろうな、と思った。
二人で、パワーアップして、成金になって。