いつもより早めに到着したのに、彼はもうそこにいて、いつもどおり一人ボクシングをしている姿が窓越しに見える。
扉を開けると、高橋くんは「え?」と戸惑った表情で、「お疲れさまです。今日、早くないっすか?」と言った。
「うん。早く来ちゃダメだった?」
「あ、いえ、全然。びっくりしただけです。すみません」
そう言うと彼は首を一回、後ろに倒した。
ポキッ、という音が鳴った。
「……すごいね。いつも、そうやって練習しているの?」
「いや、暇だったんで。すみません、気にしないでください。それより、もう昼ご飯食べ終わったんですか?」
気にしないでください、と言われても、美術室という場所で飛び跳ねながら空中にパンチを打ったり避けたりしている姿がどう考えても場違いで、いつか問いただしてみたいと思っていた。けれど、彼はいつも私が部屋に入って来たとたんに練習を止めて、絵を描き始める。
今日も、驚きつつもすぐに手を止めたから、もしかしたらあまり人に見られたくないのかな、と思って、それ以上詮索するのをやめた。
「あ、ううん。教室でお弁当食べる時間がなくて、持ってきちゃった。高橋くんこそ、もうお昼食べたの?」
私が持ってきたお弁当を見せながら聞くと、彼は一瞬顔が引きつって、「あ、いや……」と答えた。
どうしたんだろう。
心配になって彼の顔色を窺うと、高橋くんはおなかに手を当てながら言った。
「最近ちょっと、胃の調子が悪くて。軽めにしてるんです。だから、気にせず食べてください。……俺、今日はどこをやればいいっすか?」
言い終えると、高橋くんは水道の棚の上に乾かしてあるバケツと筆を取りに行った。
体調、あまり良くないんだ。そんなふうに見えなかった。
私は無理しないでねと言いつつ、今日やってもらう作業を軽く指示して、美術室の端っこで一人、お弁当を食べ始めた。
高橋くんはほんとうに調子が悪そうだった。時折顔を歪めて、筆を持っていない左手で自分の膝を何度も拳で叩いている。
「高橋くん、大丈夫?」
心配になり、思わず尋ねた。
「え?」
「いや、体調、悪そうだから……。今日はもうやめて、また明日やろう?」
作業はまだまだ残っていて、焦って今日やる必要もない。
「……」
高橋くんは黙ったまま固まっている。部屋はクーラーが入っているというのに、なぜか彼の顔に汗が滲みはじめた。
「ねえ、ほんとうに大丈夫?」
私が彼の側に近寄ろうとした時、高橋くんはいきなり立ち上がり、壁側の水道に向かって駆け出した。
次の瞬間、水道の淵に手をかけ、ゴホッ、ゴホッと咽て、口の中のものを吐き出した。
つん、と酸っぱい匂いが美術室に立ち込める。唾液と胃酸。固形物は、何もない。
高橋くんはハア、ハアと肩で息をしながら、蛇口をひねって水を流す。苦しそうに顔をしかめたまま、手で水を掬い、口をゆすぎ始めた。
「大丈夫?」
私は慌てて高橋くんの側に駆け寄り、水で流される吐瀉物を眺めながら、右手で彼の背中を上下に擦る。制服のシャツ越しに触れた背中は、柔らかい部分が一切なく、骨が浮き出ていて硬かった。
高橋くんは俯いて、とろんとした目で流し台を見つめながら、静かにうんうんと頷いた。
「……すみません、めっちゃダサいところ見せちゃった」
私がもう一度「大丈夫?」と聞きながら、画材を拭くために置いてあるペーパータオルを差し出すと、高橋くんは無言で軽く頭を下げ、私の手から受取り、口を拭いた。
「……すみません。スッキリしました。もう、大丈夫です」
まだ、目は虚ろにぼーっとしているように見えたけれど、高橋くんははっきりとした口調でそう言うと、手に持っていたペーパータオルをゴミ箱に投げ捨てた。
「続き、やりますね」
そう言って、パネルの前に戻り、作業を再開した。
扉を開けると、高橋くんは「え?」と戸惑った表情で、「お疲れさまです。今日、早くないっすか?」と言った。
「うん。早く来ちゃダメだった?」
「あ、いえ、全然。びっくりしただけです。すみません」
そう言うと彼は首を一回、後ろに倒した。
ポキッ、という音が鳴った。
「……すごいね。いつも、そうやって練習しているの?」
「いや、暇だったんで。すみません、気にしないでください。それより、もう昼ご飯食べ終わったんですか?」
気にしないでください、と言われても、美術室という場所で飛び跳ねながら空中にパンチを打ったり避けたりしている姿がどう考えても場違いで、いつか問いただしてみたいと思っていた。けれど、彼はいつも私が部屋に入って来たとたんに練習を止めて、絵を描き始める。
今日も、驚きつつもすぐに手を止めたから、もしかしたらあまり人に見られたくないのかな、と思って、それ以上詮索するのをやめた。
「あ、ううん。教室でお弁当食べる時間がなくて、持ってきちゃった。高橋くんこそ、もうお昼食べたの?」
私が持ってきたお弁当を見せながら聞くと、彼は一瞬顔が引きつって、「あ、いや……」と答えた。
どうしたんだろう。
心配になって彼の顔色を窺うと、高橋くんはおなかに手を当てながら言った。
「最近ちょっと、胃の調子が悪くて。軽めにしてるんです。だから、気にせず食べてください。……俺、今日はどこをやればいいっすか?」
言い終えると、高橋くんは水道の棚の上に乾かしてあるバケツと筆を取りに行った。
体調、あまり良くないんだ。そんなふうに見えなかった。
私は無理しないでねと言いつつ、今日やってもらう作業を軽く指示して、美術室の端っこで一人、お弁当を食べ始めた。
高橋くんはほんとうに調子が悪そうだった。時折顔を歪めて、筆を持っていない左手で自分の膝を何度も拳で叩いている。
「高橋くん、大丈夫?」
心配になり、思わず尋ねた。
「え?」
「いや、体調、悪そうだから……。今日はもうやめて、また明日やろう?」
作業はまだまだ残っていて、焦って今日やる必要もない。
「……」
高橋くんは黙ったまま固まっている。部屋はクーラーが入っているというのに、なぜか彼の顔に汗が滲みはじめた。
「ねえ、ほんとうに大丈夫?」
私が彼の側に近寄ろうとした時、高橋くんはいきなり立ち上がり、壁側の水道に向かって駆け出した。
次の瞬間、水道の淵に手をかけ、ゴホッ、ゴホッと咽て、口の中のものを吐き出した。
つん、と酸っぱい匂いが美術室に立ち込める。唾液と胃酸。固形物は、何もない。
高橋くんはハア、ハアと肩で息をしながら、蛇口をひねって水を流す。苦しそうに顔をしかめたまま、手で水を掬い、口をゆすぎ始めた。
「大丈夫?」
私は慌てて高橋くんの側に駆け寄り、水で流される吐瀉物を眺めながら、右手で彼の背中を上下に擦る。制服のシャツ越しに触れた背中は、柔らかい部分が一切なく、骨が浮き出ていて硬かった。
高橋くんは俯いて、とろんとした目で流し台を見つめながら、静かにうんうんと頷いた。
「……すみません、めっちゃダサいところ見せちゃった」
私がもう一度「大丈夫?」と聞きながら、画材を拭くために置いてあるペーパータオルを差し出すと、高橋くんは無言で軽く頭を下げ、私の手から受取り、口を拭いた。
「……すみません。スッキリしました。もう、大丈夫です」
まだ、目は虚ろにぼーっとしているように見えたけれど、高橋くんははっきりとした口調でそう言うと、手に持っていたペーパータオルをゴミ箱に投げ捨てた。
「続き、やりますね」
そう言って、パネルの前に戻り、作業を再開した。