「危なっ!」
私の左腕がグッと前に引き寄せられる。
ゴツッ、と音を立て、私の左頬に鈍い衝撃が加わる。
怖い。
恐怖で思わず目をぎゅっと瞑った。肩がグッと掴まれる。温かくて、少し、痛い。
ゆっくり目を開けると、私の体は高橋くんの腕の中にぴったり収まっている。
え?いま、何が起こっているの?
私の頭は完全にショートする。今まで寝ていたのか、と思うほど静かだった心臓が、急に体中の血液が送り込まれて動き出したみたいに、ドクドクとうるさく音を立て始める。
「……大丈夫ですか?」
高橋くんが私の肩を抱き止めたまま、聞いてきた。
いま、私は高橋くんと抱き合ってる?
頭の中でやっと状況を把握できた瞬間、私は強烈な恥ずかしさと申し訳なさでパニックになった。
「ご、ごめん!ごめんなさい!ごめんね、ほんとうに……」
自分でもびっくりするくらい気が動転して、どうしていいかわからず、必死に謝って、高橋くんから離れようとした。すると高橋くんは、「待って」と言って、離れようとする私をもう一回ぎゅっと引き寄せた。
「大丈夫ですから。先輩、落ち着いて」
トン、トン、と優しく左肩を叩かれ、大丈夫ですから、とゆっくり落ち着いた声で諭される。
全然大丈夫じゃないけれど、全身を柔らかく包むと体温と、ふわりと鼻をかすめる優しい匂いに安心して、少しだけ呼吸が楽になった。
「……怪我、してないですか?」
しばらくした後、高橋くんはそっと腕を放し、顔を横に向けて、私の顔を見ようとしてきたので、私は黙ってこくん、とうなずいて、そのまま俯いた。
「すみません。とっさに手が出ちゃいました」
高橋くんは完全に私の体を開放したあと、バツが悪そうに言った。
「ううん。助けてくれて、ありがとう。高橋くんこそ、怪我とかしてない?ほっぺた、痛くなかった?」
「俺は、全然。……ただ、避けられなかったな、って思って、ちょっとびっくりしました」
さっきまでの柔らかな空気が一転して、痛いほどの沈黙の時間が流れる。
「あ、そうだ。高橋くん、ほっぺたに付いた絵の具、早く水で落とさないと」
急に思い出して顔を上げると、高橋くんも顔を上げた。
再び、至近距離で高橋くんと目が合う。やっと落ち着いたと思った心臓が、また加速し始める。
「あっ、」と高橋くんが呟き、しまった、という顔をした。
「先輩、ごめんなさい。先輩のほっぺにも、絵の具、付けちゃった」
「え?ほんと?」
私は制服のポケットからスマホを取り出し、カメラを自撮りモードにして自分の顔を写すと、高橋くんと同じ位置に群青色の絵の具が付いていた。さっき、正面から抱きとめられた時、左頬同士が触れ合って付いてしまったのかもしれない。
私たちはどちらからともなく、お互いに顔を見合わせると、思わず噴き出して笑った。
「もう最悪ー」
「……はい、一緒に洗いに行きましょ、先輩」
高橋くんに促されて、私は立ち上がり、一緒に水道に向かって歩きだした。