しばらくお互い静かに作業を進めていたとき、「先輩、」という声が聞こえたので、私は「何?」と言って顔を上げ、高橋くんの方を見た。
高橋くんはパネルに目を落としたまま、色塗りを続けながら聞いてきた。
「……先輩って、青組の美術部の人と、付き合ってるんですか?」
びっくりした。どうしたの、急に。
私はさっきから高橋くんの方を見ているのに、高橋くんは全然顔を上げないので、どんな表情をしているのかわからない。
「和くんのこと?なんで?」
「下の名前で、呼んでるから」
「ああ……。和くん、苗字が結城なのね。結城和孝くん。私、双子の妹がいるの。相馬由紀っていうんだけど」
そう言うと、高橋くんはやっと顔を上げて、私と目が合う。どんな顔をしているのか見たいと思っていたのに、いざ目が合うと、なぜか急にドキッとして、今度は私が目をそらしてしまう。
「そうなんすか」
「うん、そう。あ、学校は別だよ。由紀はスポーツ推薦で、隣の県の銀星学園の寮に入っているから、今は別々に暮らしているんだけど。あ、そうだ。妹も、今年のインターハイにも出たんだよ。陸上の、四百メートル走」
「へぇ……」
私は高橋くんと急に目が合ったのが恥ずかしくて、由紀のことをまくし立てるように話をした。高橋くんもインターハイに出場していたから、由紀との共通点がある、と思って話をしてみたものの、高橋くんの反応は薄く、どうでもよさそうだった。
「……うん、そう。結城くんって呼ぶと、妹の名前と被っちゃって、なんかちょっと違和感があるんだよね。だから、和くんって呼んばせてもらってるだけ。全然そんな、付き合ってるとかじゃないよ」
相手の興味もない話を一方的にしてしまった気恥ずかしさで、声が小さくなっていく。高橋くんは、色塗りを再開して、そうなんすね、と呟いた。
しばらく作業をしていると、また唐突に高橋くんが聞いてきた。
「……サキって名前、どういう漢字なんですか?」
「えっ?」
「……初日に、美術部のリーダーの人たちが、自己紹介してたじゃないですか。先輩が、ソウマサキですって言ってて、どういう字書くんだろうって思って。名札は、苗字しか書いてないから、下の名前の漢字が気になって」
私はびっくりして固まってしまった。
フルネームを覚えられていたことも驚いたけれど、父以外の男の人から下の名前を呼び捨てにされたのが初めてだった。
「えっ……。あ、ああ……。早いに、紀貫之の紀、です」
ドキドキしながらそう答えると、「なんで先輩が敬語なんすか」と高橋くんは笑いながら言って、なるほどっすねーと言いながら筆を動かしている。
「先輩、これっすか?」
高橋くんがパネルを指差しながら聞いてきた。
青組の作業エリアからは、彼が指さすものが遠くて見えないので、私は群青色の絵の具が付いたままの筆を持って、高橋くんのいるところまで近づく。
高橋くんの左隣にしゃがみ込むと、「合ってます?」と言ってニコニコしながら指さした箇所に、≪早紀≫という文字がレモン色で書かれている。
「うん、合ってる。……ていうか、ふざけてないで早く塗りつぶしてよ!」
高橋くんは、ハハッと笑いながら、すいません、と言って、たった今書いた私の名前を塗りつぶしていく。
「先輩の名前、覚えました。いい名前っすね」
「え?」
びっくりして聞き返した瞬間、ポタッ、と私の持っている筆から絵の具が落ちた。
つい先ほど、高橋くんが塗ったばかりの綺麗なレモン色の一部が、群青色に染まる。
「あっ!」「わっ!」
同時に声が出た。
私が慌てて腕を引き、筆をパネルの外側に出そうとしたとき、高橋くんも私の手を引き出そうとしたらしく、近づいてきた彼の左頬に筆が当たり、群青色の絵の具が付いた。
唖然とした表情をしている高橋くんと、至近距離で目が合う。
「あ!ごめん、絵の具がついちゃった。触らないで!洗ったら取れるから……」
私は慌てて謝り、ティッシュボックスを探そうと立ち上がろうとした次の瞬間、急に足がよろけて、重心が背中側に傾いた。
倒れる、と思ったその時。