金曜日。昼休みに高橋くんと一緒にパネル制作をすることになってから、四日目を迎えた。今週も来週も、月曜日が祝日で休みなので、あっという間に一週間が経つ。
初日に高橋くんが私の教室に鍵の保管場所を尋ねに来て、クラスと周囲を騒然とさせてしまった出来事を除いては、特に何事もなく一日、一日が過ぎ去っていった。
高橋くんと私が二人で美術室に向かった直後、女子バレー部の根本さんが文香に詰め寄り、私から何か聞いているのか、と問うてきたらしい。文香がパネル係と答えると、なんだそういうことね、などと言って去っていき、その後はいつもどおりの昼休みの時間だった、と後で文香から聞かされた。そのおかげかどうかわからないけれど、私が緊張して教室に戻ったものの、特に何も起こらず無事に放課後となったので、なんだか少し拍子抜けしてしまった。
四時限目終了のチャイムが鳴って昼休みに入ると、私はすぐにお弁当を食べて、食べ終わったら急いで美術室に向かう。私が昼休み開始から二十分後頃に美術室に着くと、窓から高橋くんが空中に向かってパンチを打っては飛び跳ねたり、顔を避けたり、まるでそこに対戦相手がいるみたいに真剣な表情で一人、ボクシング練習をしている姿が見える。
私が美術室の扉をそっと開けると、それに気づき、ビクン、と一瞬跳ねてから、こちら側を見る。高橋くんはすぐに両手を下ろし、先ほどまでの真剣な顔を一瞬でフニャッとした柔らかい笑顔に変えて、「お疲れさまです」と言う。私も「お疲れさま」と返事をする。
ここまでの一連の流れが、今日で三日間、何一つ変わらずに続いている。
昨日、授業の合間に一緒にトイレに行こうと誘った文香から、「あれから彼とはなんかあった?」と聞かれた時、私は「何もないよ」と答えた。文香は「ウソだぁ!絶対、なんかあるでしょ」と煽ってきたけれど、ほんとうに何もなかった。二年の教室に来た翌日からは、高橋くんは自分で用務員室から美術室の鍵を借り、一人ボクシングをして私を出迎え、私の指示に従って色塗りを進めた。
二日目に一度だけ「昨日あのあと、何もなかったっすか?」と聞いてきたが、私が「うん、別に何もなかったよ」と答えると、ホッとしたように小さく笑って「よかったです」という会話を交わしたことはあった。けれど、挨拶と作業の指示を除けば、それくらいしか、会話らしい会話はなかった。
ボクシングの試合は、いつあるの?なんで、ボクシングをやり始めたの?普段はどういう生活を送っているの?
聞きたいことは山のようにあったけれど、どれを聞くのもなんとなくためらわれてしまって、何も聞けずにいた。
どうしてパネル係になろうと思ったの?パネル係、楽しい?
心の中で何度も問いかけてみたものの、結局言葉にはできず、昼休みが終わる十五分前まで、私たちは黙々と、静かにパネル作りを続けた。
「じゃあ、始めよっか。昨日、緑組が誰も来なくて、和くんがそっちの手伝いに入ったから、青組が全然進まなかったの。私、奥で青組のほうの作業をしているから、高橋くんは、今日はこの文字の中の色塗りをやっててくれる?」
私は黄色のアクリル絵の具に白を足して作ったレモン色の絵の具が入った紙皿を高橋くんに手渡した。
「……はい。えっと、この中を塗ったらいいんですね?」
「そう。じゃあ、困ったら声かけて。お願いします」
そう言って、私は彼から離れ、青組のパネルに使う群青色を作ろうと、青と黒の絵の具を混ぜ合わせていた。
今日も、きっと何もなく、静かな三十分が経過する。そう思っていると、まだ五分も経っていないのに、高橋くんの「あーもう!」という叫び声が聞こえた。
「先輩、困りました!もう無理、助けて!」
高橋くんがイラついた様子で、私を呼ぶ。私は絵の具の入った紙皿を置いて、高橋くんのもとに近寄る。
「ごめんなさい。気を付けて塗ってるんですけど、どうしてもはみ出て文字の黒が消えちゃう……」
彼が指さした先に、縁取られた文字の黒色が、塗っている最中のレモン色にところどころ重なり消えている。塗りやすいかなと思って渡した筆のサイズが、大きかったのかもしれない。
「あー、ごめんね。ちょっと筆が扱いづらかったかも。乾いてから、上塗りするから、大丈夫だよ。こっちのほうの筆で、真ん中のほうから塗ってくれる?」
私は側に置いてある中くらいのサイズの新しい筆を差し出して作業を指示する。そういえば、昼休みに作業がしたい、と言った時、高橋くんが『俺一人が心配なら』と言ったことを思い出して、思わず噴き出してしまった。
「え、何?何で笑ってるんですか?」
高橋くんが、私を見ながら問いかける。そのぽかんとした表情がおかしくて、私はまた笑ってしまう。
「いや。あの、全然、昼休みに一人で作業してもらっても大丈夫なんだけどさ。やっぱり、高橋くんは一人で作業させられないなって、思っちゃった」
私は笑いのツボに入ってしまい、途中むせそうになりながらなんとか言い終えると、彼も「なんでですか、てか笑い過ぎっすよ」と言いながらつられて一緒に笑っている。つい先ほどまでの冷たい沈黙が急に熱されて、体がじんわりと緩んでいく。
「あー、おかしい。ごめん、ごめん」
「ちなみに、森本だったら、一人で作業させてますか?」
「うん、森本くんなら全然問題ない」
私がまた笑いながら即答すると、高橋くんは「もうほんとひどい、先輩」と言って笑いかけてくる。
彼の笑顔を久しぶりに見た。
陽キャだと思っていた高橋くんは、実はとてもシャイで、人見知りをする人だった。
森本くんが隣にいる時は、みんなと一緒にいてもニコニコとして楽しそうにしているのに、森本くんが側からいなくなると急に借りてきた猫みたいに無口になる。ある日、別の組の人に声をかけられて、高橋くんがぶっきらぼうに返事をした時があった。
するとすぐにその様子を通眼で見ていた森本くんから『愛想がない』『愛嬌がない』『もうちょっと可愛げがあったら、お前はかわいいのに』などと突っ込まれ、『かわいいは嫌だ』と高橋くんが返すと、『その受け方もかわいい』といじられて、周囲から笑いが起こる場面があった。
「……はい、じゃあお願いね」
私は呼吸を整えて、そう短く言い残し、青組のパネルの方に戻った。油断すると、かわいい高橋くんの笑顔に飲み込まれてしまいそうになる。
初日に高橋くんが私の教室に鍵の保管場所を尋ねに来て、クラスと周囲を騒然とさせてしまった出来事を除いては、特に何事もなく一日、一日が過ぎ去っていった。
高橋くんと私が二人で美術室に向かった直後、女子バレー部の根本さんが文香に詰め寄り、私から何か聞いているのか、と問うてきたらしい。文香がパネル係と答えると、なんだそういうことね、などと言って去っていき、その後はいつもどおりの昼休みの時間だった、と後で文香から聞かされた。そのおかげかどうかわからないけれど、私が緊張して教室に戻ったものの、特に何も起こらず無事に放課後となったので、なんだか少し拍子抜けしてしまった。
四時限目終了のチャイムが鳴って昼休みに入ると、私はすぐにお弁当を食べて、食べ終わったら急いで美術室に向かう。私が昼休み開始から二十分後頃に美術室に着くと、窓から高橋くんが空中に向かってパンチを打っては飛び跳ねたり、顔を避けたり、まるでそこに対戦相手がいるみたいに真剣な表情で一人、ボクシング練習をしている姿が見える。
私が美術室の扉をそっと開けると、それに気づき、ビクン、と一瞬跳ねてから、こちら側を見る。高橋くんはすぐに両手を下ろし、先ほどまでの真剣な顔を一瞬でフニャッとした柔らかい笑顔に変えて、「お疲れさまです」と言う。私も「お疲れさま」と返事をする。
ここまでの一連の流れが、今日で三日間、何一つ変わらずに続いている。
昨日、授業の合間に一緒にトイレに行こうと誘った文香から、「あれから彼とはなんかあった?」と聞かれた時、私は「何もないよ」と答えた。文香は「ウソだぁ!絶対、なんかあるでしょ」と煽ってきたけれど、ほんとうに何もなかった。二年の教室に来た翌日からは、高橋くんは自分で用務員室から美術室の鍵を借り、一人ボクシングをして私を出迎え、私の指示に従って色塗りを進めた。
二日目に一度だけ「昨日あのあと、何もなかったっすか?」と聞いてきたが、私が「うん、別に何もなかったよ」と答えると、ホッとしたように小さく笑って「よかったです」という会話を交わしたことはあった。けれど、挨拶と作業の指示を除けば、それくらいしか、会話らしい会話はなかった。
ボクシングの試合は、いつあるの?なんで、ボクシングをやり始めたの?普段はどういう生活を送っているの?
聞きたいことは山のようにあったけれど、どれを聞くのもなんとなくためらわれてしまって、何も聞けずにいた。
どうしてパネル係になろうと思ったの?パネル係、楽しい?
心の中で何度も問いかけてみたものの、結局言葉にはできず、昼休みが終わる十五分前まで、私たちは黙々と、静かにパネル作りを続けた。
「じゃあ、始めよっか。昨日、緑組が誰も来なくて、和くんがそっちの手伝いに入ったから、青組が全然進まなかったの。私、奥で青組のほうの作業をしているから、高橋くんは、今日はこの文字の中の色塗りをやっててくれる?」
私は黄色のアクリル絵の具に白を足して作ったレモン色の絵の具が入った紙皿を高橋くんに手渡した。
「……はい。えっと、この中を塗ったらいいんですね?」
「そう。じゃあ、困ったら声かけて。お願いします」
そう言って、私は彼から離れ、青組のパネルに使う群青色を作ろうと、青と黒の絵の具を混ぜ合わせていた。
今日も、きっと何もなく、静かな三十分が経過する。そう思っていると、まだ五分も経っていないのに、高橋くんの「あーもう!」という叫び声が聞こえた。
「先輩、困りました!もう無理、助けて!」
高橋くんがイラついた様子で、私を呼ぶ。私は絵の具の入った紙皿を置いて、高橋くんのもとに近寄る。
「ごめんなさい。気を付けて塗ってるんですけど、どうしてもはみ出て文字の黒が消えちゃう……」
彼が指さした先に、縁取られた文字の黒色が、塗っている最中のレモン色にところどころ重なり消えている。塗りやすいかなと思って渡した筆のサイズが、大きかったのかもしれない。
「あー、ごめんね。ちょっと筆が扱いづらかったかも。乾いてから、上塗りするから、大丈夫だよ。こっちのほうの筆で、真ん中のほうから塗ってくれる?」
私は側に置いてある中くらいのサイズの新しい筆を差し出して作業を指示する。そういえば、昼休みに作業がしたい、と言った時、高橋くんが『俺一人が心配なら』と言ったことを思い出して、思わず噴き出してしまった。
「え、何?何で笑ってるんですか?」
高橋くんが、私を見ながら問いかける。そのぽかんとした表情がおかしくて、私はまた笑ってしまう。
「いや。あの、全然、昼休みに一人で作業してもらっても大丈夫なんだけどさ。やっぱり、高橋くんは一人で作業させられないなって、思っちゃった」
私は笑いのツボに入ってしまい、途中むせそうになりながらなんとか言い終えると、彼も「なんでですか、てか笑い過ぎっすよ」と言いながらつられて一緒に笑っている。つい先ほどまでの冷たい沈黙が急に熱されて、体がじんわりと緩んでいく。
「あー、おかしい。ごめん、ごめん」
「ちなみに、森本だったら、一人で作業させてますか?」
「うん、森本くんなら全然問題ない」
私がまた笑いながら即答すると、高橋くんは「もうほんとひどい、先輩」と言って笑いかけてくる。
彼の笑顔を久しぶりに見た。
陽キャだと思っていた高橋くんは、実はとてもシャイで、人見知りをする人だった。
森本くんが隣にいる時は、みんなと一緒にいてもニコニコとして楽しそうにしているのに、森本くんが側からいなくなると急に借りてきた猫みたいに無口になる。ある日、別の組の人に声をかけられて、高橋くんがぶっきらぼうに返事をした時があった。
するとすぐにその様子を通眼で見ていた森本くんから『愛想がない』『愛嬌がない』『もうちょっと可愛げがあったら、お前はかわいいのに』などと突っ込まれ、『かわいいは嫌だ』と高橋くんが返すと、『その受け方もかわいい』といじられて、周囲から笑いが起こる場面があった。
「……はい、じゃあお願いね」
私は呼吸を整えて、そう短く言い残し、青組のパネルの方に戻った。油断すると、かわいい高橋くんの笑顔に飲み込まれてしまいそうになる。