用務員室は教室がある建屋の反対側の一階にあるので、二年生の教室が並ぶ廊下を通り抜けなければならない。

あのままクラスメイト達の前で会話を盗み聞かれるよりはまだマシ、と思ったが、二人で横並びになって歩く時間はもっと酷かった。廊下にいる生徒たちだけでなく、教室の中にいる他のクラスの生徒たちも、窓から身を乗り出すようにして私たちのことを見ている。黙ってジロジロと見る人もいれば、明らかに訝しげな様子で睨んでくる人もいるし、「ほら、ボクシングの人じゃん!」「え、彼女いたの?」「うそ、誰誰誰?」などと(はや)し立て、私の顔を覗き見て確認しようとする陽キャ集団もいる。

静かにそば耳を立てられていた教室よりも、強烈な視線と冷やかしの声を浴びせられる廊下の方がつらい。学校中の誰もが知るスーパー一年生の高橋くんと、クラスメイトにも認知されているかどうか怪しいスクールカースト最下位層の地味系女子の私が一緒に歩いているその組み合わせ自体、滑稽(こっけい)すぎて意味が分からない。

もうほんとうに嫌。

高橋くんのことを、せっかく嫌いじゃなくなってきたのに、また嫌いになりそう。

いたたまれない気持ちになりながら、私は俯いてできる限り気配を消し、短い足を高速回転させて、教室横の廊下を渡り切る。

一人で先に歩いて、人気の少ない所で高橋くんを待とう、と考えていたのに、後ろから、やや早歩きくらいのペースで、彼は私の後ろにぴったりと着いてきていた。私がせっせと足を動かした二歩分くらいの距離は、すらっと背の高い高橋くんがゆったりと前に出した一歩で、簡単に追いつかれてしまう。

周囲の喧噪(けんそう)と裏腹に、私たち二人は無言で廊下を渡り切り、階段を駆け足で降りた。

「……すみません」

用務員室のある棟に入り、ようやくほかの生徒たちがいなくなったところで、彼は突然、謝った。

「え?なんで?」

「なんか、俺のせいで目立ってしまって」

高橋くんの顔は、いつも森本くんと二人で作業している時と打って変わって、しゅん、と小さく落ち込んでいる。

「……うん。いや、まあ、しょうがないよ」

沈黙が重い。

二人とも黙ったまま廊下を進み、保健室横の用務員室にたどり着いた。

コンコン、と二回ノックし、「失礼します」と言って部屋の扉を開けると、雑誌を読んでいる最中だった事務員の女性がチラリとこちらを一瞥(いちべつ)する。

「美術室の鍵を借りに来ました」

私が声をかけると、彼女は不愛想に鍵がいくつもかかっている棚を黙って指さして、再び読みかけの雑誌に目を落とす。

「ここに美術室の鍵があるから、ここから借りて、このノートに日付と名前を書くの。返す時は、この右側のところにチェックマークを入れる」

私が鍵の貸出ノートを記入しながら説明するのを、高橋くんは後ろから聞いていた。

失礼しました、と言って部屋を出る。

じゃあ行こうか、と言って再び高橋くんと一緒に美術室に向かって歩き始める。

人気(ひとけ)のない廊下は静かで、夏なのにコンクリートの床からひんやりと冷たい風が足を包んだ。

「用務員室の場所、覚えました。明日からは、俺、ここで鍵を借りて、先に美術室で待ってますね」
 
隣を歩く高橋くんが、私に言った。

「え?」

「今日、先輩の教室に行ったとき、あんなふうになると思わなくて……。迷惑かけるの嫌なんで、次からは先に行って待ってます」
 
高橋くんはものすごく申し訳なさそうな表情をしている。
 
ほんとうに、あんなふうになると思わなかったのだろうか。自分が有名人であるという自覚がないのだろうか。
 
平凡な私は、また卑屈な思いを巡らせていると、高橋くんは、「あ、でも」と付け加えた。

「もし、なんかあったら、言ってくださいね。守りますから、先輩のこと」
 
まっすぐな澄んだ瞳が、私の目を見据える。
 
今日もうすでに、懸念していた≪なんか≫は起きてしまったのだが、これを上回る≪なんか≫はもはや想像もできない。彼は、想像もできない≪なんか≫から、どんなふうに私のことを守るのだろうか。

もうこれ以上、何も起きませんように。
 
私は心の中で祈った。