「おまえ何やってんの!」
色塗りの途中で、突然荒げた声が聞こえたので、私は顔を上げてその声の方向を見た。
「絶対、それ今じゃない。まず先に塗る色、他にいっぱいある」
一年七組の森本涼が、高橋理玖の筆を指さして力説している。
「いやだってさ、この青がもったいないから、こっちの白と混ぜたのよ。そしたらいい感じの水色になったからさ、ちょうどいいやって思って」
高橋くんが大まじめに受け応えるから、森本くんが「いや、絶対違うって!」と言葉を強める。
「今そんな細かい爪のところを塗ってもさ、足のオレンジのところをガーッて塗ったら、はみ出て消えるから。色の濃いやつから塗るのがジョウセキだから!」
ジョウセキ?常識じゃなくて?
「ジョウセキってあれだろ、定める石と書いて定石だろ?」
「定める跡の定跡な。石だと囲碁になる」
「どっちでもいいだろ」
「よくねえよ」
そう言って二人でケラケラと笑いながら、高橋くんは「わかったよ、うるさいなぁ」と呟いてバケツで筆を洗うために立ち上がった。
何の話をしているのかさっぱりわからないけれど、二人とも楽しそうで何よりだ。
「ねーえー、喋ってないで手を動かしてよ、二人とも!」
七組の小柴さんが二人をたしなめる。とはいっても、全然本気で怒っておらず、小柴さんも二人の夫婦漫才のような会話をニコニコしながら聞いていた。
すみません、と二人は謝り、「お前ちゃんとやれよ」と高橋くんが森本くんに言い、森本くんが「いや、それお前だからな?」と言って、また笑い、二人とも作業を再開させた。
パネル係の活動が始まって、二週目に入ったというのにも関わらず、赤組メンバーは未だに四人が残留していた。一年二組のうちの一人、バドミントン部員の野中美樹は、初日の終わりに、来る新人戦地区予選のためどうしても部活に行かなければならないのだ、と申し出てきた。加えて、「負けたら再来週でいったん終わりなので、絶対戻ってきます、約束します」と言い残した。そんな約束なんてしたくないから、頑張ってね、と言って、私は彼女の申し出を承諾した。
一年二組のもう一人、中田友江は部活には所属していないが、生徒会メンバーでもあるということで、二日ほど途中で離脱したが、今のところなんとか参加している。
二年七組の田中くんは、予想どおり、二日目以降も姿を見せず「ごめんね、なんか、来れないんだって」と、申し訳なさそうに、小柴さんが教えてくれた。
「小柴さんは、部活とか、大丈夫?」
「私はESS部だから基本的には大丈夫なんだけど、今週の金曜日だけは、休んでもいい?新しいALTの先生の、歓迎会があるの」
「全然大丈夫だから、気にしないで。それより、新しい先生って、エドワーズ先生だよね、始業式で挨拶してた」
「あ、うん。うちらのクラス、今週始業式でコミュ英なかったから、その日初めましてになるんだよね」
私は、そうか、コミュ英だ、と思い出した。
コミュニケーション英語、略してコミュ英の授業で、またあの先生に会える。
Be the very BEST.
いつでも、最高の自分でいましょう。
私はあの日から、なぜだかこの言葉をいたく気に入っていて、時々、歌を口ずさむように、独り言ちてみたりしていた。
「相馬、そっちはどんな感じ?」
美術室の前方で作業をしている青組のリーダー、美術部で唯一の同級生である結城和孝が声をかけてきた。
「順調だけど、ちょっと線を描くのに時間がかかっちゃって、今日からようやく色塗りに入ったところ」
「そっか、でも人数多いから、あっという間に終わりそうだね」
「青組は、どんな感じ?」
私は背伸びをして、青組の作業エリアを見渡した。
作業をしているのは、一年生の美術部員、佐伯莉子と、もう一人だけだった。
「今年も土日当番、よろしくお願いします」
和くんが私の方を向いて、大げさに頭を下げてくる。
「承知しました、部長」
私も冗談ぽく、和くんに言い返した。
昨年に引き続き、他の組も二週目からどんどんパネル係がいなくなってしまっていた。去年の私なら、役割を放棄したメンバーに対して、腹が立って仕方なかったはずなのに、今では何とも思わなくなっていることに、最近になって気が付いた。他のメンバーが来ないことなんてどうでもいいくらい、今、毎日放課後が充実していて、待ち遠しいと思えている。
一番意外だったのが、あの高橋理玖が、同じクラスの森本涼とともに、毎日欠かさず十八時まで活動に参加していることだった。森本くんは将棋部に入っていて、十八時まで作業をした後は部活に行かずに家に帰ると言った。囲碁部と将棋部は、普段は放課後、多目的室で一緒に練習をしているらしい。美術室では四つの組のパネルを制作するスペースが足らないので、白組と緑組が作業エリアとして多目的室を使用させてもらっている。パネル製作期間中、部室を追い出された囲碁部と将棋部の人たちは、自宅で個人練習をしたり、オンライン上で対戦したりしている、と森本くんが教えてくれた。
「高橋くんは、ボクシングの練習、しなくて大丈夫なの?」
活動四日目の木曜日、私はどうせすぐに来なくなると思っていた高橋くんが毎日やってくるから、かえって心配になってしまい、思わず自分から声をかけてしまった。
「え、どういうことですか?」
彼はきょとん、とした顔で、私の顔を真っ直ぐ見て答えた。ほんとうに、何もわかっていない様子だった。
「いや、毎日パネル係に来てて、その、ボクシングの練習とかしなくてもいいのかなって、思って」
私は高橋くんを前にすると、どうしてもしどろもどろになってしまう。
まっすぐに見つめられてしまうのも慣れていないし、体の線は細いのに、ワイシャツを通して見える筋肉質の体が、無意識に私の体を硬直させてしまう。
「ああ!してますよ、練習」
彼はあっさりと答えた。まったく嫌味もなく、さも当然かのような口ぶりだった。
「え?」
「練習は十九時から二十一時までだから、全然大丈夫です」
爽やかな笑顔でそう答えて、また私をまっすぐに見つめてくる。私は、そうなんだ、と呟き、視線を落とした。嫌いだった高橋くんのことも、いつの間にか、嫌いではなくなっていた。彼のことを、もっと知りたいと、思っていた。
色塗りの途中で、突然荒げた声が聞こえたので、私は顔を上げてその声の方向を見た。
「絶対、それ今じゃない。まず先に塗る色、他にいっぱいある」
一年七組の森本涼が、高橋理玖の筆を指さして力説している。
「いやだってさ、この青がもったいないから、こっちの白と混ぜたのよ。そしたらいい感じの水色になったからさ、ちょうどいいやって思って」
高橋くんが大まじめに受け応えるから、森本くんが「いや、絶対違うって!」と言葉を強める。
「今そんな細かい爪のところを塗ってもさ、足のオレンジのところをガーッて塗ったら、はみ出て消えるから。色の濃いやつから塗るのがジョウセキだから!」
ジョウセキ?常識じゃなくて?
「ジョウセキってあれだろ、定める石と書いて定石だろ?」
「定める跡の定跡な。石だと囲碁になる」
「どっちでもいいだろ」
「よくねえよ」
そう言って二人でケラケラと笑いながら、高橋くんは「わかったよ、うるさいなぁ」と呟いてバケツで筆を洗うために立ち上がった。
何の話をしているのかさっぱりわからないけれど、二人とも楽しそうで何よりだ。
「ねーえー、喋ってないで手を動かしてよ、二人とも!」
七組の小柴さんが二人をたしなめる。とはいっても、全然本気で怒っておらず、小柴さんも二人の夫婦漫才のような会話をニコニコしながら聞いていた。
すみません、と二人は謝り、「お前ちゃんとやれよ」と高橋くんが森本くんに言い、森本くんが「いや、それお前だからな?」と言って、また笑い、二人とも作業を再開させた。
パネル係の活動が始まって、二週目に入ったというのにも関わらず、赤組メンバーは未だに四人が残留していた。一年二組のうちの一人、バドミントン部員の野中美樹は、初日の終わりに、来る新人戦地区予選のためどうしても部活に行かなければならないのだ、と申し出てきた。加えて、「負けたら再来週でいったん終わりなので、絶対戻ってきます、約束します」と言い残した。そんな約束なんてしたくないから、頑張ってね、と言って、私は彼女の申し出を承諾した。
一年二組のもう一人、中田友江は部活には所属していないが、生徒会メンバーでもあるということで、二日ほど途中で離脱したが、今のところなんとか参加している。
二年七組の田中くんは、予想どおり、二日目以降も姿を見せず「ごめんね、なんか、来れないんだって」と、申し訳なさそうに、小柴さんが教えてくれた。
「小柴さんは、部活とか、大丈夫?」
「私はESS部だから基本的には大丈夫なんだけど、今週の金曜日だけは、休んでもいい?新しいALTの先生の、歓迎会があるの」
「全然大丈夫だから、気にしないで。それより、新しい先生って、エドワーズ先生だよね、始業式で挨拶してた」
「あ、うん。うちらのクラス、今週始業式でコミュ英なかったから、その日初めましてになるんだよね」
私は、そうか、コミュ英だ、と思い出した。
コミュニケーション英語、略してコミュ英の授業で、またあの先生に会える。
Be the very BEST.
いつでも、最高の自分でいましょう。
私はあの日から、なぜだかこの言葉をいたく気に入っていて、時々、歌を口ずさむように、独り言ちてみたりしていた。
「相馬、そっちはどんな感じ?」
美術室の前方で作業をしている青組のリーダー、美術部で唯一の同級生である結城和孝が声をかけてきた。
「順調だけど、ちょっと線を描くのに時間がかかっちゃって、今日からようやく色塗りに入ったところ」
「そっか、でも人数多いから、あっという間に終わりそうだね」
「青組は、どんな感じ?」
私は背伸びをして、青組の作業エリアを見渡した。
作業をしているのは、一年生の美術部員、佐伯莉子と、もう一人だけだった。
「今年も土日当番、よろしくお願いします」
和くんが私の方を向いて、大げさに頭を下げてくる。
「承知しました、部長」
私も冗談ぽく、和くんに言い返した。
昨年に引き続き、他の組も二週目からどんどんパネル係がいなくなってしまっていた。去年の私なら、役割を放棄したメンバーに対して、腹が立って仕方なかったはずなのに、今では何とも思わなくなっていることに、最近になって気が付いた。他のメンバーが来ないことなんてどうでもいいくらい、今、毎日放課後が充実していて、待ち遠しいと思えている。
一番意外だったのが、あの高橋理玖が、同じクラスの森本涼とともに、毎日欠かさず十八時まで活動に参加していることだった。森本くんは将棋部に入っていて、十八時まで作業をした後は部活に行かずに家に帰ると言った。囲碁部と将棋部は、普段は放課後、多目的室で一緒に練習をしているらしい。美術室では四つの組のパネルを制作するスペースが足らないので、白組と緑組が作業エリアとして多目的室を使用させてもらっている。パネル製作期間中、部室を追い出された囲碁部と将棋部の人たちは、自宅で個人練習をしたり、オンライン上で対戦したりしている、と森本くんが教えてくれた。
「高橋くんは、ボクシングの練習、しなくて大丈夫なの?」
活動四日目の木曜日、私はどうせすぐに来なくなると思っていた高橋くんが毎日やってくるから、かえって心配になってしまい、思わず自分から声をかけてしまった。
「え、どういうことですか?」
彼はきょとん、とした顔で、私の顔を真っ直ぐ見て答えた。ほんとうに、何もわかっていない様子だった。
「いや、毎日パネル係に来てて、その、ボクシングの練習とかしなくてもいいのかなって、思って」
私は高橋くんを前にすると、どうしてもしどろもどろになってしまう。
まっすぐに見つめられてしまうのも慣れていないし、体の線は細いのに、ワイシャツを通して見える筋肉質の体が、無意識に私の体を硬直させてしまう。
「ああ!してますよ、練習」
彼はあっさりと答えた。まったく嫌味もなく、さも当然かのような口ぶりだった。
「え?」
「練習は十九時から二十一時までだから、全然大丈夫です」
爽やかな笑顔でそう答えて、また私をまっすぐに見つめてくる。私は、そうなんだ、と呟き、視線を落とした。嫌いだった高橋くんのことも、いつの間にか、嫌いではなくなっていた。彼のことを、もっと知りたいと、思っていた。