え?なんで?

私は思わず固まってしまった。

そして、固まったのは私だけじゃなくて、美術室にいるほとんどが、同じように固まってしまっている。すみません、と声をかけて入ってきた男子生徒の後ろに、今日、学校中をざわめかせた、あの高橋理玖がいるのだ。

「えーっと、僕たち、一年七組なんですけど……」

高橋理玖の前にいる男子生徒があたりを見渡しながら声を出すと、和くんが「ああ、えっと七組は赤組だから、そちらの机に、椅子を持ってきて座ってください」と言い、二人を誘導した。

「高橋くんだ」「え、あのボクシングの?」「嘘、なんで?ドッキリ?」「え、めっちゃ顔小さい、かっこいい」

私たち美術部員も驚いたけれど、ほかのパネル係の人たちも俄かにざわつき始め、ひそひそと彼を見ながら喋っていた。みんなの視線を浴びて、高橋理玖は小さく、ペコペコと頭を下げながら、後ろの方に置かれた椅子を机の近くまで持ってきて、ちょこんと腰を掛けた。

「どういうこと?」

和くんが、私に耳打ちしてきた。

「知らないよ。私が知りたいよ」

そう答えた瞬間に、私はそうか、と腑に落ちてしまった。

そうか、彼もボクシングの練習に忙しい人だ。一年生だから、何も知らずにパネル係に選ばれてしまったけれど、途中から『練習がある』と言えば、あとは美術部員に任せておけばいいのだ。ましてや、ボクシングのインターハイチャンピオンで、次の国体の代表選手だ。東高校の、いや県の、もはや日本の宝みたいな人間だ。ボクシングの『ボ』の字を呟けば、誰も引き留めることなんてできない。

やっぱり、私は高橋理玖が嫌いだ。

「和くん、始めよう」

私は隣にいる和くんを促し、彼は「そうだね」と呟いて、パネル係で集まった生徒たちに向かって説明を始めた。

「えー、皆さん、お疲れ様です。体育祭パネル係の統括リーダーを務めます、二年八組の結城です。これから、十月五日の体育祭までの期間、約一か月ですね、放課後に各組の応援パネルを作成してもらいます。みんなで力を合わせて、頑張りましょう。よろしくお願いします」

そう言うと、数名の声で、お願いしまーす、という声が聞こえた。

「えっと、まずはスケジュールなんですけど、基本的には十八時には作業を終わらせますので、放課後早めに来れそうな人は、先に作業を始めていただいて大丈夫です。それと、もし作業に来れそうにない場合は、各組ごとに美術部の担当者がいるので、その人に伝えてもらえたらと思います。青組は、僕と一年八組の佐伯(さえき)さん」

突然、和くんに手のひらで指し示され、佐伯莉子(りこ)は慌てて青組メンバーの座る机に向かって「一年八組の、佐伯莉子です。よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。

青組メンバーも、こくり、と何も言わずに頭を下げた。

「えー次は、赤組は二年二組の相馬さん」

同じように促されたので、私も「相馬早紀です。二年二組です。よろしくお願いします」と言い、赤組メンバーに向かって礼をした。

「よろしくお願いします」

男子の声がはっきりと聞こえたので、思わず頭を上げると、「あれ?」と言いながらきょろきょろと辺りを見渡す男子生徒がいた。

高橋理玖だ。そうか、彼も、赤組なのか。

そのあと、赤組の中から、何人かが「お願いしまーす」と口にした。高橋理玖は、はにかみながら、隣にいる一緒に来た男子生徒と肩を突っつき合っている。

「はい、じゃあ次は、白組で、リーダーは一年四組の林さん」

和くんの進行に従い、林加奈が挨拶をする。

「一年四組の林加奈です。私は、本来は緑組なのですが、三組と六組に美術部員がいないので、今回私が白組を担当させてもらいます。よろしくお願いします」

白組メンバーからも、お願いします、と何人かが返事がした。

「最後に緑組で、同じく一年四組の三宅さんです」

「一年四組の三宅はるなです。よろしくお願いします」

緑組メンバーが、お願いしまーす、と返事をする頃には、各組のメンバーの中にはもう飽きていて、早く帰りたいオーラが漂っている人たちが数名いた。

「はい、じゃあ、今後何かあったら、各組のリーダーに声をかけていただければと思いますので、よろしくお願いします。では、さっそくですが、これから組ごとにパネルに書くイラストのデザインを決めてもらいたいと思います。今年のテーマは『四神』です」
和くんが説明していると、みんなが口々に「しじん?」繰り返した。和くんは黒板に『四神』と書き、青龍、朱雀、白虎、玄武、と書き並べた。

「えーっと、四つの神の獣で、龍と、鳳凰と、虎と、亀に蛇がくっついたやつです」

和くんの説明をよそに、私語をしている男子たちもいる。サッカー部か、テニス部か。日焼けした肌と、中途半端に伸び切った髪の毛で、なんとなくそう判断してしまう。少なくとも、野球部ではなさそうだな。

「で、今日はこのモチーフについて、事前に美術部員が下絵を描いてきましたので、その中からどのデザインにするか、みんなで話し合って決めてください。まず、今日はそれから、始めましょう」

和くんも、周りが飽き始めてきたのに気づいたのだろう。説明もそこそこに、組ごとに割り当てたリーダーに、続きを託してきたので、私もその意図を読み取り、従った。

「はい、では、赤組のデザインをこの五つの中から選びたいと思います。皆さん、どれがいいですか?」
私は赤組のパネル係メンバー五人に問いかけた。本来なら、私を除いて七人いるはずなのだが、同じクラスの本田くんと、二年七組のメンバー一人がいなかった。

「ねえ、七組って、一人だけ?」

私は来ていた一人の女子生徒、小柴(こしば)(ゆい)に声をかけると、「いや、もう一人田中くんがいるんだけど、今日はどうしても帰らなきゃいけないって言ってて、私が代表して来たって感じ」と答えた。

「そっか」

私は短く答えた。きっとその田中くんとは、体育祭まで、私は会うこともないだろう。

「さて、みなさん、どれがいいですか?」

今日来た五人も、明日以降、徐々に来なくなるだろう。せめて今日だけでも、イラストを決めてもらって、早く下絵に取りかかりたい。

「あの」

並べた五つのイラストを眺めていると、高橋理玖がいきなり声を出した。

「え?」

私は驚いて、彼の方を見て聞き返した。

「あの、このイラスト、どれも素敵なんですけど、俺、絵心が全然なくて、どうやってこんなすごいのをパネルに描いていくのか、わからないんですが……」

ドキッ、とした。

どれも素敵、だなんて、お世辞で言っているのだろうけれど、それでも、嬉しい。

いや、と私は我に返る。先ほど本田くんと同じことを言われたばかりだった。絵心がないからできない。そう言って、この役割を放棄するつもりなんだ。

私は声に感情が乗っからないように言った。

「イラストを選んでもらったら、それをプロジェクターで投影するから、それに沿って線を描いたり、色を塗ったりすればいいだけだよ。全然、難しくないし、誰でも簡単にできるよ」

もう帰ってほしい。顔も見たくない。

そう思っていたら、彼はパァっと笑顔になって言った。

「あ、そうなんですね。いやあ、これを描くってなったら、絶対俺、できないなって思ったんすよ」

彼の言葉に、「そりゃそうだろ、俺らがこんな凄いの、描けるわけないじゃん」と笑いながら隣にいる男子がツッコミを入れていた。
二人の正面に座っている、一年二組の女子二人も、ニコニコしながら、「なんか、意外!」「高橋くんって天然なの?」と口々に囃し立ていた。

高橋理玖は、恥ずかしそうに、「いや、だってさ……」などと言いながら顔をクシャっとして隣にいる男子と再びじゃれ合っている。
驚いた。帰りたがっているのかと思ったのに。

私はなんて言えばいいのかわからなくなって、その場で呆然と立ち尽くしていた。

「みなさん、どれがいいですか?俺はこれがいいですね、やっぱりなんか強そうな感じしますからね」

高橋理玖の隣にいた男子生徒が他のメンバーに声をかけ、それからみんながああでもない、こうでもない、と言いながら、デザイン選びを進めていた。ほんとうはリーダーの私がみんなをまとめる立場なのに、この組はリーダーが不在でも、メンバーが勝手にまとまって、どんどん先に進んでいってしまうような気さえしてきた。

「相馬さん!」

七組の小柴さんに声をかけられて、ハッと我に返った。

「デザイン、これにしたいんだけど、どうかな?」

渡された紙に描かれていたのは、私が描いたものだった。

「うん、細かくて、ちょっと大変かもしれないけど、大丈夫だと思うよ」

みんながちゃんと来て、作業してくれるなら。そう付け加えようとしたけれど、やっぱりいいや、と思って言うのを止めた。信じてみてもいいのかな、と不思議と思えた。

「いぇーい」

高橋理玖が、隣の男子とハイタッチをしている。

「どうしたの?」

その光景がなんだかおかしくて、笑いながら尋ねると、高橋理玖は「俺、これが好きだったから」と笑顔で言った。

私の描く絵を好きだと言われたのは、人生で二回目だった。

私は、高橋理玖という人間を、どうやら誤解していたようだった。