三時限目からは、通常通りの授業が始まった。
昼休み時間、新しく席替えした私の席の近くに、文香がお弁当を持ってやってきた。
「パネル係、ドンマイ」
文香は、私が昨年、パネル係で嫌な思いをして、もう二度とやらない、と怒っていたことを覚えていたのだ。
「ほんとだよ。今年もまたパネルに向き合うことになるだなんて」
「しかも、一緒にやるの、本田くんでしょ、野球部の。終わったね」
「さすがに初日は来てくれるかなあ。ていうか文香、なんで一緒にパネル係やってくれなかったのよ」
料理部の文香は、美術部同様、放課後にみんなで頻繁に集まっての活動をしていないと知っていたから、つい嫌味の一つでも言いたくなった。
「ごめんて。ちなみに私、救護係だからさ。一応、役職あるから。一緒だからさ、そんなに怒らないでよ」
そう言いながら、私の前の席の椅子に座り、弁当箱を包んでいるバンダナの結び目をほどき、ふたを開けた。今日も文香のお弁当はカラフルで、見ているだけでおいしそう。
「「いただきます」」
昼休み時間は、一年生の頃から同じクラスの文香と一緒に、教室でお弁当を食べ、喋るのがルーティンとなっている。
「救護係は、当日だけじゃん。しかも、決められた時間だけ、テントの中にいて、誰か来たら対応すればいいだけでしょう?パネル係は準備が大変なんだよ。しかも、結局さ、みんな部活とか何とか言って全然来なくてさ。最終的に美術部しか残ってなくて……。あれ、去年って私たち何組だったっけ?」
東高校では、各学年、一組と八組が青、二組と七組が赤、三組と六組が白、四組と五組が緑の組に色分けされる。
「去年は確か緑だったよ。一年四組」
一年生は文系・理系関係なく、クラス分けされているが、二年生からは一組から四組までが理系、五組から八組までが文系に振り分けられている。私たちは、二年二組、理系クラスだ。
「そっか、緑か。そうだ、去年、緑の風神描いたわ。ついでに白の雷神も描いたけどね」
「赤と青は、何を描いたの?」
「金剛力士像。赤が阿で、青が吽。思い出した、それも全部、結局美術部員で描いたんだった」
体育祭のパネル係は、一・二年生の各クラス二名ずつ、三十二人が選ばれて、体育祭までの約一か月間、放課後に美術室に集まって応援看板のイラストを描くという役割がある。ところが、みんなそれぞれ部活動や体育祭の練習が忙しいなどと言って少しずつ人数が少なくなっていき、三週間目には特に放課後に用事のない数名と、美術部員しか残っていないというのが昨年経験した嫌な思い出だった。
先輩たちは、『しょうがないよ、去年もそうだったから』と気にも留めていなかったようだけど、私は納得できなかった。自分たちが所属している運動部の方が、美術部よりも偉くて、尊くて、優れていることをしている。そんなこと、誰も思っていないのかもしれないけれど、文化部だから見くびられているんじゃないだろうか。そんなふうに考えてしまう。そして、そんな思考に陥ってしまう自分自身の卑屈さに、心底うんざりする。
『パネルなんて、美術部にやらせておけばいい』
きっと、そう思っているんだろう。私たちの存在をも、軽んじられているのだろう、と、ひねくれた私の性格では、どうしても深読みをしてしまう。
自分が選ばれた役割なんだから、最後まで責任をもってやってよ。
ほんとうはそう言い返したいのに、体も声も大きくて、日に焼けている強そうな人たちを目の前にすると、同世代なのに、やっぱり怖くて、口に出して言えない。そんな自分が、とことん嫌い。
どうすることもできないから、結局、美術部員は自分のクラスじゃない応援パネルの作成も引き受けることになるのだ。悶々とした気持ちを抱えながら。
「大変だねえ。うちにできることがあったら、何でも言って。手伝うから」
卵焼きを頬張りながら、文香が言った。料理部の文香は、毎朝自分でお弁当を作って持ってきていて、中には必ず、おいしそうな卵焼きが入っている。
「大丈夫。文香も、調理アイディアコンテストの締め切り、近いんでしょ?」
「うん、今週末!」
「え、そうなの。もう、応募の用意はできているの?」
「うん。あと、みんなで文面とかを最終確認して、提出して、って感じかな」
「そっか。じゃあ、それが終わったら手伝いに来て。いつまででも待ってるから」
「うん、行けたら行くね」
「それ、絶対来ないやつでしょ」
私たちはお互いの顔を見合って、笑った。文香と話している時は、いつも心が落ち着いている。自分が安心して存在していられるから、文香と一緒にいるときの自分は結構好き。二人揃って一人前、という感覚は、双子として生まれ育ったことが影響しているのかもしれない、とふと思った。
由紀、元気かな。
県外の全寮制私立高校に、陸上競技のスポーツ特待生として入学した妹のことを考えていたら、ところでさ、と文香が話し始めた。
「ところでさ、妹ちゃん、インターハイ出るとか出たとか言ってなかったっけ?」
私はたった今、由紀のことを考えていた時に文香が急にそのことを言い出すから、頭の中をのぞき見されているんじゃないかと思い、
びっくりして顔を上げた。
「えっ、ああ、由紀ね。うん、出たよ」
今年のインターハイは、たまたま、私たちの住む県で開催されていた。
「どこの会場でやってたの?」
「市民運動公園の、陸上競技場」
「あ、そうなんだ。応援行ったの?」
「ううん、行かなかった」
私は冷凍食品のから揚げを食べながら答えた。
「え、なんで!近いのに!すぐそこの運動公園じゃん!」
文香が教室の外の窓を指さしながら言った。市民運動公園は、東高校の最寄り駅の一駅先にあり、確かに、歩こうと思えば歩いても行ける距離にある。
「いや、近いけどさ。なんか、近いから、逆に行かない、みたいな」
「あー、なるほどね。確かに。例えばさ、ちょっと遠い、例えば九州とか四国とかだったら行くよね」
「え、なんで?」
「いやだってさ、なかなか旅行とかでも行かないじゃん?なんか、特別な用事でもないと、行かないっていうか」
「何それ。九州とか四国に失礼すぎるでしょ。でもわかる、確かに、行かないよね」
「でしょ?」
私たちはまた笑い合った。
きっと、距離的に近かろうが、遠かろうが、私は結局、応援に行かなかったと思う。妹の頑張る姿は見たかったけれど、どうしても、インターハイに出場する由紀の姿は、見たくなかったのだ。
「そっか…………。そういえばさ、今日の始業式で、インターハイの選手いたよね。ボクシングの人。凄いよね、ボクシング……」
私は由紀のことをこれ以上聞かれなくてよかった、と、ホッとしたのもつかの間、たった数時間前に嫌いになった高橋理玖のことを思い出して、ドキッとした。
「私、全然知らなかった。文香は知ってた?」
「ううん、全然。うちの学校にも、本物の文武両道の人が、いるんだね。びっくりしたよ」
「そうだね」
本物の文武両道。学校の校是が≪文武両道≫だから、それになぞらえて言ったのだろう。私は毎日の宿題に追われて、授業についていくだけで必死なのに。勉強だけじゃなくて、ボクシングまで日本一で、その上オーラがあってかっこいいし、困惑してうろたえている姿も初々しくてかわいいし。こうして、一瞬で学校中の、全然知らない人達の間でも話題にされるなんて、どうかしていると思う。
天は二物を与えず、というけれど、そんなことはない、と私は知っている。
小さくて、白くて、何のとりえもない平凡な私の隣には、背が高くて、日に焼けて、足がとても速い、おまけにとびきり可愛い人間がいる。天は、一人の人間に二物も三物も四物も与える代わりに、一物も与えない、と決めた人間もいるのだと思う。
きっと私も、一物も与えられなかった人の一人だ。
もう嫌だ。
私が苦労して離れようとしても、インターハイという言葉が、耳にへばりついて放してくれない。
「そうだ。そんなわけで、今日から一か月間、パネル製作で美術室に籠るから、一緒に帰れないわ」
私は話題を逸らす。文武両道な天才たちの話はもうたくさんだ。
「了解!じゃあ、午後もがんばろ!」
そう言って文香は自分の席に戻っていった。
これから先の一か月間のことを考えると、憂鬱な気分になりながら、午後の授業の前にトイレに行こう、と席を立った。