無責任な言葉に心を削られて、僕は、〝夢〟と〝色〟を失った。
全てが無色に見えていたあの頃――。
モノクロの世界で君は、誰よりも儚く色付いて見えた。
『いつか私の書いた小説が本になるような日がきたら、表紙の絵は千隼くんが描いてね』
壊れた世界で必死に〝色〟を探し続けた八十八日間。
これは、死にゆく君と色を失った僕が、世界に色を灯すまでの物語。
1.
高校一年の冬が終わろうとしている。
ふとそのことに気がついたのは、雪が降り積もる一月下旬のことだった。
「大変お待たせいたしました。小鳥遊 千隼さん、三番診察室にお入りください」
「……はい」
その日の僕は学校近くの総合病院にいて、待合室で一時間近く待たされた末にようやく呼び出された三番診察室では、白髪まじりの白衣の医者が小難しい顔で僕を待ち構えていた。
「あー、これは間違いなくヒビ入ってますね。全治三ヶ月ですわ」
レントゲン写真を片手に、出しぬけに下された最悪な診断結果。
すぐさま「まあ、やっぱり!」と嘆きの声を上げたのは付添役である僕の母親の方で、当の本人である僕は、窓の外の白銀の世界をぼんやり眺めながら、そのやりとりをまるで他人事のように聞いていた。
「……」
「小鳥遊さん?」
名前を呼ばれたので視線を外から室内に移し、医者を見る。彼はいかにもリアクションが欲しそうな顔をしていたため、とりあえず僕は無難な返事をしておくことにした。
「そうですか……」
「あれ、ずいぶん涼しい顔してるね。痛まないのかい?」
「痛いです」
「そうでしょう。ギプスで固定しておきますからね。しばらくこちら側の足は動かさず安静にしておいてください」
「はい」
「ああそれから。念のため痛み止めを処方しておきますので、どうしても痛みが我慢できなかった場合はそちらを飲むようにしてください。痛みと腫れが引いてきたらリハビリを始めてもらいますからね」
はあ、とか、まあ、とか適当な相槌を打って適切な処置を終えてから、診察室を出る。
脇にいた母親は、始終反応の乏しい僕を見て薄ら笑いを浮かべていたけれど、迸るように熱い足の痛みを感じても、特にこれといった感情が湧いてこないのでどうしようもない。
(リハビリ……めんどくさいな)
高校一年の冬。夢を失くし、色を失った毎日を生きていた僕は、全てが無気力だった。
2.
「まったくもうアンタって子は……! 他人事みたいな顔してないで、もうちょっとこう痛がるとか、ヒビ入ってんのかー、そりゃ痛いはずだわーとかないわけ? あんまりにも反応薄いと見てるこっちが不安になるじゃないの」
会計待ちにロビーの空席に腰をかけると、待っていましたと言わんばかりに母さんが特大級のクレームを投げつけてきた。
「……」
「なによ」
「ヒビ入ってんのか〜。そりゃ痛いはずだわ〜」
「思いっきり棒読みじゃないの」
「言えっていったの母さんでしょ」
「心配してるのよ、これでも。あなた、学校のことも自分のことも、なんにも話してくれないじゃない」
「高一男子なんてみんなそんなもんかと」
「それはそうかもしれないけど……」
母さんは困ったように眉を顰め、僕を見る。
今年四十六になる母さんは、このところ小皺が目立つようになってきたことをやたらと気にしているが、僕はそこまで気にしていない。
見た目がどうなろうと母さんは母さんだし、口うるさくて心配性でちょっとミーハーなところは昔から何一つ変わっていない。そもそも僕は小皺の多さよりも、母さんの夜勤の多さの方が気になるわけだが、女手一つで僕を育てるためには必要な就労であることも充分に理解しているため、あえて何も言わず沈黙を貫くようにしている。
別に、反抗期だからじゃない。話す時間も、ぶつかる時間も、気力の無駄だと思っているからそれを避けて生きているだけのことだ。
「聞いたわよ。その怪我、四月の新入生歓迎会用の出し物 練習中の怪我だったんでしょう?」
そんな漠然とした無気力さを押し殺していると、突如として母さんは怪我の真相に迫ってきた。
「え、なんで知ってるの」
僕の学校では、四月の新入生歓迎会の時に、事前に取り決められた新二年生の〝一部の有志〟で、催し物をすることが決まっている。
その〝一部の有志〟というのが、学年委員会のくじ引きで決められた今の僕のクラスだ。イベントは新二年になってすぐのことだし、クラス替え直後じゃ団結力も練習時間もないから一年時クラスのメンバーでやらなきゃいけない理屈はよくわかるが、〝有志〟と謳うぐらいなら、きちんと志のある人を募ってその人たちだけでやってほしいと心から思う。
「ご近所さんから聞いたのよ。今年の新入生歓迎会イベントは今の千隼のクラスが担当で、『戦隊モノのヒーロー活劇』をやることになったらしいって」
(ご近所さん……加藤のおばちゃんか)
げんなりした顔をしていると、母さんはまるで事件の真相を知っている刑事であるかのように、容赦なく僕の隠し事を暴いてきた。
「しかもあなた、サブヒーローのブルー役に抜擢されたんでしょ? それ聞いて、母さんもうびっくりよ」
むしろ僕は、普段忙しくて家にいないくせに、こういう時だけは抜かりなく情報を嗅ぎつけてくる母さんの情報収集力の方にびっくりしている。
あれこれつつかれるのが嫌だからあえて知らせないでおいたのに、これでは沈黙を貫いた意味がない。加藤のおばちゃんを恨みながらも、僕は適当に返事を濁す。
「あー、まあ……」
そもそも僕は、好きでその役割を引き受けたわけじゃない。因縁あるクラスの問題児に無理やり厄介ごとを押し付けられただけだと愚痴をこぼしたいところだったが、『いじめにあってるの?』『嫌がらせされてるんじゃない?』とあれこれ騒がれるのも面倒なので、詳細は伏せておくことにした。
「やっぱりそうなの……。冴ない千隼がサブとはいえヒーロー役だなんて母さん心配しかないわ」
「ほっといてよ」
「子どもの頃はあんなに戦隊モノに憧れてたのにねぇ。今じゃ正義のヒーローどころか部屋に引きこもってゲームばっかりしてる不精者だし、どうしてこんなにやる気のない子に育っちゃったのかしらね」
堕落した息子を愁うよう、母さんがこぼす。
「うるさいなあ。子どもの頃って……一体いつの話してんの」
「小学校低学年の頃よ」
「憧れてたっていうか、あの頃はまだ若かったし純粋だったから。『英太』の影響で、僕もヒーローになれるんじゃないかって本気で信じてただけだよ」
僕が小学校低学年の頃の親友――クラスの人気者だった『英太』の顔を思い出してぼやくと、母さんは苦笑して肩をすくめた。
「まだ若かったって、十六年しか生きてない子どもがなに年寄りみたいなこと言ってんの」
「〝しか〟じゃなくて、もう十六年〝も〟生きてるんだけど」
「そういう青いこと言っちゃうあたりがまだ若い証拠なのよね〜。……でもまあ、確かに英太くんがいた頃の千隼は、目が生き生きとしてて、何もかもが夢と希望に溢れてるって感じだったものね。今じゃもう、そのカケラもないぐらい覇気のない顔してるけど」
「人を落武者みたいに……」
「事実でしょ。あの頃の千隼って、朝から晩まで飽きずに戦隊モノのヒーローの絵を描いたり、英太くんと一緒にヒーローごっこをしたりして、毎日キラッキラした顔で楽しそうに過ごしてたじゃない」
「……」
「それなのにねえ。英太くんが『あんなこと』になっちゃうだなんて……」
母さんの一言で、僕は思わず言葉を詰まらせた。
思い出したくない過去が漣のように脳裏に蘇ってきて、腹の中にずしりと重い鉛が落ちる。
「(英太……)」
――親友の英太は、小学校二年生の時、川の事故で死んだ。
いつもと変わらない学校の帰り道に、橋の上でいじめられて泣いていた子を助けようとして、なんの躊躇いもなく川に飛び込み、そのまま帰らぬ人となった。
『なあ千隼! オレ、ちょっと行ってくる。あの泣いてる子のこと、宜しく頼むな!』
託されるように交わした最後の会話は、今でも忘れられない。
僕にもっと声を上げる勇気が、危険だからやめておけと自分の意見をはっきり主張できる強い心があれば、ひょっとしたらアイツはは助かったかもしれないのに。
「千隼?」
「……」
結局僕は、あの時も、そして高校生になった今も。
厄介ごとを他人事のように傍観するか、物事を受け身でやり過ごすしかできない、おおよそヒーローにはふさわしくないタイプの人間だったって話だ。
「……違うよ」
「え?」
「確かにきっかけとしては一部あるかもしれないけど。でも、僕は僕なりに英太の『死』をちゃんと受け止めているつもりだから」
「千隼……」
「だから、あの事故や英太のせいで僕が腐ったわけじゃない。そこだけは勘違いしないで欲しい」
虚勢を張るように言ったけど、それは紛れもなく事実だ。
夜勤で忙しく、僕の反抗期を受け止める暇すらなかった母さんは何も知らない。
『え、これが噂のイラスト大賞最年少入賞者の作品?』
『園児のお絵かきとぬり絵レベルw』
『この程度のレベルでプロ目指してるとか、夢見過ぎだろー』
親友を失った僕が、その後、唯一心の支えにしていた〝あること〟で、人生最大の挫折を味わい、目の前から色と希望、そして生きる気力の全てを失ってしまったということを――。
「……」
頭をふり、邪念を振り払う。
黙っていると、どんどん気持ちが滅入りそうになるため、気分を変えるようと努めて明るい声色でこの話題を締める。
「とにかく。演劇の件は怪我でもう降板も決まったようなものだし、僕の出番はないから。間違ってもカメラ持って学校に押しかけてくるような真似だけはしないでよ」
念を押すようじとりと睨みつければ、ようやく母さんは納得したように「なによもう、わかったわよう」と大きなため息をついて、これ以上の詮索は諦めたようだった。
『小鳥遊千隼さん、会計窓口までお越しください』
会話が一区切りついたところでタイミングよく流れてくるアナウンス。
僕は英太との思い出、そして不甲斐なく生きている自分の人生から目を背けると、母さんと共に会計を済ませて外に出る。
僕達を出迎えたのは頬を刺すような寒さと色のない雪の世界だ。
僕は空虚な眼のまま白い息を吐き出すと、無言でマフラーに顔を埋め、そのまま病院を後にした。
3.
それから一週間ほどが経った二月の上旬。 足の痛みと腫れが引いてくると、僕は医者の言いつけを守ってリハビリ通院を開始した。
外にはまだ先月末に降った大雪が残っていて、路面が滑りやすい。
母さんは心配して病院までついてこようかと言ったけれど、学校からほどない距離だし、顔を顰めてもう子どもじゃないからと言えば、あっさり引き下がった。
あんなに心配性な母さんが素直に引き下がるだなんて、きっと仕事が忙しいからに違いない。無理をして体を壊されても困るので、諦めてくれて助かった。
そんなわけで僕は、学校帰りに松葉杖をつきながら慎重な足取りで病院へ向かう。
「すみません、リハビリステーションに行きたいんですが」
難なくたどり着いた病院の案内カウンターで尋ねると、そこにいた女性職員は快活な笑顔で答えた。
「ご予約の患者様ですね。この先にあるエレベーターで五階まで上がっていただいて、降りてすぐの廊下を突き当たりまで進めば受付と待合室がございます。そちらで診察券をご提示ください」
女性職員にぺこりとお辞儀をして、僕は言われた通りにエレベーターで五階まで上がる。この病院は市内でも一番大きな総合病院だから、とにかくどこへ行くにも広いしとことん歩かされる。
すでにこれがもうリハビリになっているんじゃないかとそんな事を考えながら、五階のフロアをひたすらまっすぐに進み、たどり着いたリハビリステーションの受付で診察券を差し出した。
「今日はちょっと混んでますからね。順番が来たらアナウンスで呼び出しますから、このフロア内にいてください」
頷き、僕はどこかで本でも読んでようかと腰をかけられそうな場所を探すが……言われた通り、今日は待合室がひどく混み合っていてとてもじゃないが座れる気配がない。
同じフロア内にさえいればいいようなので、仕方なく僕はリハビリステーションを離れ、座れそうな場所を求めてあたりを散策する。
(あった……)
ほどなくして隣接する小児科ゾーンの傍らに、ようやく空席のソファを発見した。
杖をつきながらひょこひょこと空席確保に向かう道中、ふと、ソファのすぐ近くにキッズスペースがあるのが目に入った。
真っ白な床や棚に透明のガラス。陽光差し込む壁際には小さな本棚が並び、絵本や小説、簡単なおもちゃがこぢんまりと置かれている。
中でも僕の目を惹きつけたのは――。
「ねー、こっちこっち、こっちよんでよー!」
「待って、ヒロトくん。今ユイちゃんの方をやってるから順番ね」
「おねーちゃん、みてこれー、あーちゃんがかいたのぉ」
「わ、上手。これはイルカ?」
「あーちゃんずるい! ぼくもぼくも! ぼくもツムギおねえちゃんにみてもらうー!」
キッズスペースの傍らには楕円形の白テーブルが置かれていて、机を取り囲むように病院着を着たたくさんの子どもたちがいる。
そしてさらにその中心には、雪のように白い肌と黒髪、そして薄茶色の儚げな瞳が印象的な、紺色の病院着をまとった美しい女性の姿があった。
「おねーちゃん、まだあ?」
「あ、ごめん。ちょっと待ってね」
「ユイねー、すっごくきれいなお色がいい〜!」
「わ、わかった。ええと……」
年は僕と同じか、少し下くらいだろうか。彼女は椅子に座り、机に画用紙やノート、色鉛筆などを広げてなにか作業をしている。
あまりにも彼女の生み出す空気が……いや、彼女の存在そのものが眩しいくらいに美しく見えて、僕はうっかり足を止めて見惚れてしまった。
「……」
だが、すぐにハッと我に返り、ぶんぶん頭を振ってから再び歩みを進め、なんとか目的の空席を確保する。
そこで予定通りに鞄の中から持参した文庫を取り出し、栞の位置を開こうと思ったのだが……。
「ねーねー、ツムギおねーちゃんはやくぅ!」
「う、うん……」
やはり僕は例の彼女がなんとなく気になってしまい、開いた文庫越しにひっそり観察していた。
彼女はどうやら、子どもたちと絵を描いたり塗り絵をしているらしい。
普段、家でも学校でも寝るか本読むかゲームするかくらいしかなく他人に極力関わらず生きてきた自分としては、同年代の他人にちょこっと関わるだけでもそれなりに疲弊するっていうのに、あの病院着の子はよく他人の子ども相手にせっせと何かを――それも、自分のためではなく子どものためになるような何かを――できるなあと、彼女の人の良さに感心すら覚え始めていたのだが。
「お色ぬれるまで、おうたうたってよっと。う〜み〜は〜ひろい〜な〜おおき〜な〜♪」
「ユイちゃんお歌上手だねえ。よし、お姉ちゃんもがんばろっと……えっと……」
僕は彼女の手に持った色鉛筆の色が気になって仕方がなかった。
というのも、先ほどから彼女は脇にいる女の子にせがまれて、その子が描いた絵に色塗りをしようとしているのだが、どう見てもあれは船が浮かんだ『海』の絵。
それなのに彼女が散々迷うに迷った挙句、意を決して握りしめた色鉛筆は、なぜか『茶色』だった。
(茶色……?)
なぜ茶色なのか。海といえば青。もしかして青がなかったのか? と、一瞬は思ったけど、背筋を伸ばして見やれば色鉛筆の中にはきちんと青系の色鉛筆も数種類揃っている。
彼女があえて茶色を選んだ理由がわからず、疑問に思いながら成り行きを見守っていると、彼女は震える手で弱々しく画用紙の上に色を落としはじめた。
「おねーちゃんできたあ?」
「わっ、まだ。できるまで見ちゃだめだよユイちゃん」
「わかったあ! じゃああっちでみんなとご本よんでるから、できたらおしえてね」
「わかった」
「きれいな海にしてね!」
「うん……」
ユイちゃんが机から離れ、ぱたぱたと駆けて本棚付近にできていた子どもの輪の中に入っていく。病院着の彼女は苦笑してそれを見送りながらも、再び真剣な顔つきで塗り絵と向き合う。
しかし、その真摯な姿とは正反対に、やはり彼女が持っている色鉛筆の色は海には似つかわしくない茶色だったし、彼女が真剣に色を塗れば塗るほど、ユイちゃんの描いたきれいな海の絵は汚く濁り、澱んでいくようだった。
僕は――。
「……」
開いていた文庫を閉じる。
正直、ものすごい葛藤はあった。口を出すべきか否か。
いや、それ以前に、彼女が今、向き合っているものは『塗り絵』で、僕には『色』というものに対し、強烈なトラウマがある。
別に他人事だし、彼女は海の色をなんらかの理由があって茶色に塗ってるのかもしれないし、僕が出るまでもないのかもしれない。
――でも。どうしても僕は、彼女が故意にユイちゃんの絵を台無しにしようとしているようには思えず、また、与えられた色塗りという作業を苦しみながらやっているようにしか見えなかったのだ。
(仕方ない……)
僕は思いきって立ち上がり、彼女の前まで歩みを進めると、彼女の目の前の子ども用の小さな丸椅子に腰掛けた。
「……?」
病院着の彼女は、驚いたように僕を見上げる。
「なんで茶色?」
僕は眉間に皺を寄せ、首を傾げて率直に尋ねる。
「え?」
「あ、いや。これ……海の絵、だよね? なんで茶色なのかなってちょっと気になって」
「えっ。うそ、これ、茶色?」
「どうみても茶色だけど」
茶色じゃなきゃ何色に見えていたんだろうと突っ込みたくなったが、初対面だしあまり余計なことは言わない方がいいと思って黙っておいた。
彼女は慌てて茶色の色鉛筆を置き、自分が塗った箇所を今一度チェックする。
どうみても茶色い。淀んだ海だ。彼女はみるみるうちに表情を曇らせ、困ったような顔で俯いた。
「そっか。茶色か……。どうしよう……」
そのシュンとした様子があまりにも痛々しくて、ここはやはり手伝うべきだろうか、いやでも、今の僕に〝色〟を塗れるのだろうかと二の足を踏んでいたところで、唐突にぐんっと洋服の裾を引っ張られ、危うく小さな丸椅子から転げ落ちそうになった。
「⁉︎」
「おいオマエ、ツムギをいじめるな!」
「……へ?」
「ツムギ、泣きそうな顔してんじゃねーか!」
振り返るとそこには、絵本を持ったいかにもやんちゃそうな六、七歳の病院着の子どもが一人、鼻水を垂らしながら怖い顔で僕を睨んでいた。
「え、あ、いや……」
どうやら少年には僕が彼女をいじめているように見えたらしい。
「別にいじめてるわけじゃないんだけど……」
「ひ、ヒロトくんっ。大丈夫だよ、私、別にいじめられてたわけじゃ」
弁明をしようとほぼ同時に声をハモらせる僕と彼女。
「嘘だっ! 絶対いじめてたし、ツムギ泣きそうな顔してたし、悪いことかくそうったってオレにはわかるんだからなっ。ツムギはビョーキで色々タイヘンなんだしムチャさせんなよな⁉︎」
しかし僕らの訴えは、正義感が強いと見えるヒロト少年に一瞬にして退けられてしまった。
なんだかやたら前のめりだし鼻息が荒いので、僕は慌てて彼を宥めようと態度を改めることにしたのだが……。
「わかった、わかったから。悪かったからそんなに怒るなって」
「オマエ、絶対わかってないだろ⁉︎ しんだカエルみたいな目しやがって」
「それいうなら〝魚〟じゃ……」
「オレ、しんだ魚なんてみたことないし、いいんだよカエルで! んなことよりなあ、タイヘンなビョーキをナメてるとツムギはしんじゃうんだぞ! ツムギは〝ヨべーサンカゲツ〟なんだからなっ⁉︎」
「え?」
「ちょっ」
一瞬、耳を疑うような言葉が聞こえて、僕は改めて少年の顔を見る。
「よ、ヨベーサンカゲツ……?」
「そう! ヨベーサンカゲツ!」
自信たっぷりな顔で勝ち誇ったようにその事実を叩きつけてくるヒロト少年。
語感からしておそらく、『余命三ヶ月』と言いたいのだろうけども、正直、鼻垂れ小僧にドヤ顔で言われてもさほど現実味が湧いてこない。
「そ、それは確かにタイヘンだな……」
「だろ⁉︎」
「こ、こらヒロトくん! 余計なこと言わないの」
「えー。だってホントーのことじゃん。よくわかんないけどママが言ってたもん」
「……」
ただ――。少年の言葉に、ひどく曖昧な苦笑を滲ませて、精一杯その場の空気を取り繕おうとする彼女を見て。
(余命……三ヶ月……)
僕はなんとなく。本当になんとなく空気を読んでしまったというか。いまいち笑えなくなってしまって、そのまま口を噤み、病院着の彼女と沈黙を共にする。
やがて廊下の端から「おーいヒロト、順番来たぞー!」という男性の声が聞こえてくると、ヒロト少年は「あ、パパだ!」「ツムギ、また後でな!」「おまえ、オレがいないからってツムギいじめるなよ!」と怖い顔で再三念を押し、パタパタと騒がしくその場を去っていった。
のちにそのテーブルに残されたのは、微妙な空気が漂う僕と彼女の二人。
「ツムギおねーちゃん、ユイの絵、できたあ?」
「あ、えっと……」
ふと、本棚付近で遊んでいた少女が、待ち侘びたように声を投げてくる。
もちろん例の絵は、いまだに茶色く澱んだ海のまま、彼女の手の中に握りしめられている。
「……」
僕はぽりぽりと頬をかくと、意を決して手を伸ばし、彼女の持っていた画用紙を丁寧にすいっと引き抜いた。
「ちょっと貸して」
「え?」
正直、〝色〟を失っている今の僕にとって、何かに『色を塗る』という行為は、トラウマ以外のナニモノでもない。
『え、これが噂のイラスト大賞最年少入賞者の作品?』
『園児のお絵かきとぬり絵レベルw』
『この程度のレベルでプロ目指してるとか、夢見過ぎだろー』
『この選評、早い話、カラーセンスがねえから出直せってことだろ? 調子乗ってエントリーした挙句公開処刑されるとかだっせえなあ』
『線画だけでやめとけばよかったのに』……――。
画材を前にすると必然的に脳裏に蘇る、心無い言葉の数々。
否が応でも胸が軋むようにキリキリと痛んで、微かに手が震えた。
「あの?」
「……」
だが、今ここで筆を握らなければ僕は一生このままの気がして、それだけは嫌だと、なんとかこの負の泥沼から這い上がってみようと、必死に自らを奮い立たせる。
(大丈夫。これはただの紙。これは単なる子どものぬり絵じゃないか)
自己暗示をかけ、僕は朱色の色鉛筆を掬い上げてそれを握りしめると、紙の上にゆっくりと下ろした。
「……!」
震える手。これはただのぬり絵だと心の中で何度も自己暗示を繰り返し、僕は必死にトラウマに争う。
濁っていた彼女の茶色い海に、朱色をやさしく重ね、時に淡く、時にはっきりと、陰影をつけながら隅々まで細やかに、紙と絵に命を吹き込むよう丁寧に色を乗せていく。
彼女が息を呑んで見守るなか、僕が選んだ朱色と彼女の選んだ茶色が、複雑に混ざり合って新しい色に生まれ変わっていくようだった。
たった二色。されど二色。
僕にとってはとても意味のある二色で、それらはやがて、澱んでいた茶色の海を夕焼けに染まる海へと変貌させた。
「……っ」
「わああ。お兄たんすっごおおい! キレーな夕焼けのうみ!」
「ひゃー。ユイちゃんすごいねえ、きれいだねえ!」
――できた。
僕が仕上げた海の絵を見て、そばにいたユイちゃんはふっくらとした頬を上気させて口元を緩ませ、近くにいる別の子どもも純粋に瞳を輝かせて、作品の完成を喜んでくれているようだった。
一方で彼女は……と、そろりと視線を投げると、彼女も驚いたように目を見開いて僕が仕上げた海の色を見つめていた。
その瞳に映る彼女の海は、納得か、不満か。あるいは賞賛か、批難か。
ぐるぐる回る不安と恐怖――。
いつから僕はこんなに弱虫になったんだろう。気になるけど反応を知るのが怖い。今すぐにでもこの場から逃げ出したくなる衝動と、でもそんな弱い自分を誰にも見せたくないという安いプライドがせめぎ合い、結局僕は、何も言わずにすっくと立ち上がる。
「あ、あの……」
『大変お待たせいたしました。小鳥遊さん、小鳥遊千隼さん。リハビリステーション室までお越しください』
彼女の一言を遮るよう、タイミングよく流れてきたフロア内アナウンス。
僕はさも『よし呼ばれたからいくか』とでもいうような、何食わぬ顔で頭上のスピーカーを見上げ、内心では逃げるように、でもそれを気取られることはないように。
「呼ばれたから行くね」
そっけなくそれだけ言い置いて、早々にその場を立ち去った。
4.
リハビリが終わって廊下へ出ると、先ほどの病院着姿の彼女が、ソワソワした様子で誰かを待っていた。
「あ……」
(あれ……)
目が合えば、彼女は長い髪の毛を靡かせてこちらへパタパタと駆け寄ってくる。
やはり見間違いでも自惚れでもなく、僕のことを待っていたようだ。
彼女は僕の目前までやってくると、息を整えるよう小さな深呼吸をしてから、こちらを見上げた。
「あの、えっと。さっきはありがとう」
「あ、いや。別に礼を言われるほどのことは……」
「ううん。本当にすごく助かったの。私、その。実は脳の病気で『色』が見えなくて」
「……!」
「でも、それを言ったらみんなに心配されちゃうでしょう? だからずっと内緒にしてて。ユイちゃんに色を塗って欲しいって頼まれたとき、きちんと断るか正直に話せばよかったんだけど、ものすごく期待された目で頼まれちゃったからどうしても断れなくて……」
彼女の説明を聞き、ようやく腑に落ちる僕。
どうりでおかしいと思った。いや、それが日常である彼女に向かって『おかしい』だなんていったら失礼なのかもしれないけれど。
不可解に思っていた彼女の言動にようやく納得がいったと同時に、なんだか不思議な気持ちにもなっていた。
僕の世界にも、今は『色』がない。
かつて〝イラストレーター〟になることを目指していた僕は、あることがきっかけで〝カラーセンス〟についていわれなき誹謗中傷を受けて以来、ショックと、悲しみと、当てどころのない憤りとトラウマで、色が塗れなくなってしまったのだ。
「そういうことだったんだ……」
いずれにしても――。
病気で色が見えない彼女と、トラウマで色を失っている僕。
そんな二人が、この広い世界の中で偶然出会うだなんて。
「うん。情けない話だよね。だから、あなたが代わりに色を塗ってくれたとき本当に助かったの。ユイちゃんもすごく喜んでくれてたし、それに、あの色……」
「い、いや、僕はちょっと色を重ねてなんとなく塗りつぶしただけだから」
「でも――」
自分と似た境遇にある存在と遭遇できたことは、どこか安堵感みたいなものを覚えて心強さを覚えたりもしたけれど、正直、僕はまだ彼女の口から自分の塗り絵の評価を聞くのが怖かった。だから……。
「そ、それよりもさ。あの男の子が言ってた『余命』ってのは……本当なの?」
ついうっかり、最低な話の遮り方をしてしまった。
「……」
「あ、いや……言いたくないならいいんだけども……」
慌ててフォローを入れたが、思いの外彼女から重い沈黙が返ってきて僕はつくづく自分が最低な男だと嫌悪する。
たぶん僕は、あの少年が口走った『余命三ヶ月』という言葉を、まだ受け入れきれていなかったんだと思う。
だって。目の前にいるのは僕と同じ高校生くらいの女の子だったし。
ずいぶん華奢で妙に色白なことさえ除けば、髪の毛は滑らかのサラサラで肌だってつやつしてるし、彼女が纏う美少女オーラは俗にいう『クラスや学校中の男子から注目を集める人気女子』みたいな空気をひしひしと醸し出していて、そういう恵まれて見える子が〝死〟に直面しているだなんて到底思えなかったから。
だからてっきり、笑い飛ばして否定してくれるものだとばかり思っていた。
「うん。本当だよ」
――でも、返ってきたのは穏やかな笑みと、嘘偽りのないその一言で。
僕は、思いのほかこの世は非情と無情で満ち溢れているものなんだということを思い知らされた気がした。
「そう、なんだ……」
真実を目の前に突きつけられても、僕は未だにそれを現実として受け入れられはしなかったが、でもだからといってその理不尽さを本人にぶつけても仕方がないし、物分かりの悪さを曝け出すのも気が引けたので、結局僕は、なんとなくわかった風の返事をこぼす。
「それは大変……だね」
「びっくりさせちゃってごめんね。初対面なのにこんな話聞かされてもって感じだよね」
他にかける言葉が見つからなくてもごもご口篭っていると、彼女の方が僕に気を遣ってくれたようだった。
「いや、それは別に……」
「大丈夫、気にしないで。昨日今日でわかったことでもないし、小さい頃からいつ死んでもおかしくないって言われながら育ってきたぐらいだから。だから……もうそこまで気にしてないっていうか」
「……」
「気にして生きてても寿命が伸びるわけじゃないから。だったら気にするより前を向いて生きていた方が人生お得でしょ?」
まるで死に向かっているだなんて思わせないような、凛とした声色と表情で健気にそう告げてくれる彼女。
「だからあなたも、いつも通り普通に接してくれていいよ。その方が私も気が楽だし」
「……そっか」
ここまで気丈に振る舞ってくれているのに、それでも困惑顔を押し通すほど僕も無神経ではない。
表面上は納得して見せ、普段通りの自分を装う。そして僕は何食わぬ顔で「元気そうに見えるのに意外だよね」などと実に実のない相槌を打ちながら、手に持っていたスクールバッグを肩にかけ直した。
それを見た彼女が、明るく話題を変えるように切り出してくる。
「あ、ねえ。それよりさ。君が着てるのって、花坂北高の制服だよね? あなたはそこの学生?」
ふいに問われ、僕は目を瞬く。
「え? うん、まあ」
「やっぱり。私と一緒だ」
「君も?」
「うん。入退院を繰り返しているからまともには通えてないんだけどね。でも、単位だけはなんとかクリアしてるし、学校側もその辺は配慮してくれてるから、春からは無事に二年生になれるはずなの」
「まじか。学年まで一緒とか」
「あなたも春から二年生?」
「うん。そう」
「そっか。すごい奇遇だね」
どことなく嬉しそうな声色で、ほのかに頬を染める彼女。
「私、雪谷紬。もし学校で会ったらよろしくね」
控えめな声でそう告げてくる彼女に、僕も慌てて名乗り返す。
「あ、うん。僕は小鳥遊千隼。こちらこそよろしく」
年頃の僕たちは握手を交わしてスキンシップをはかるようなことはなかったが、目が合えば、彼女はまるで花が開いたように笑った。
その笑顔を見て、僕は思わずどきりとしてしまったし、彼女のことを素直に『可愛い』と思ってしまったりもして……。
なんだかちょっと顔が熱くなったので照れを隠すようにそっぽを向いていると、彼女はさらに興味津々といった感じで尋ねてきた。
「千隼くんは足を怪我したの?」
「うん。新歓イベントの練習でちょっとしくじっちゃって」
そう答えると、彼女は首を捻った。学校は同じといえど休みがちだったと先ほど言っていたし、おそらく一年の時、彼女はそのイベントに不参加だったのだろう。僕はふと、鞄の中に『新歓の暫定予定表』が入れっぱなしになっていたことを思い出し、それを見せながら説明しようと、鞄の中に腕を突っ込んでそれを取り出そうとした――のだが。
「あ」
紙がノートに引っかかってうまく引き上げられず、うっかり一冊のノートを床に落としてしまった。
「……」
あろうことかそれは、僕の落書きが詰まった数学のノート。
とはいえ、偶然開かれたページに書かれた数式はたったの二行で、あとは全て謎のポーズの人物像だったり、窓の外にとまっていた雀だったり、特に意味のない手の形のデッサンなんかで埋め尽くされていた。
「わ……!」
しまった、と思った時にはすでにノートは拾われており、彼女は手の中の数学ノートを食い入るように見つめていて、ドッと汗が吹き出た。
「すごい……。千隼くん、色の塗り方がすごく手慣れてると思ってたけど、やっぱり色塗りだけじゃなくて、絵も上手だったんだね」
「……っ」
どちらかというと好意的に聞こえたその一言。
褒めてくれているのだろう。そうであるならもちろん嬉しいけれど、でも、なんだか気恥ずかしいし、どうしても素直になれなくて、僕は慌てて彼女の手の中から無言でノートをひったくる。
まずい。顔が熱い。セルフフォローしようにもうまく誤魔化せそうな言葉が見つからない。
押し黙る僕を見て、彼女は場をとりなすよう沈黙を破った。
「って、勝手に見ちゃってごめん。えと、その……実は私も小説を書いてて」
「え?」
「なっ、内緒だよ? 下手だからあまり自信なくて、まだ誰にも言えてない秘密の趣味なんだけど……。ほら、私、色が見えないじゃない? でも、文字だったらどんな色を描いたって自由だし、体が弱くて思うように外出ができなくても、小説の中でだったらどんな場所にだって行けるし、自由に生きることができるから」
「……」
「あの、だからなんだって言われれば困るんだけど、絵も小説も、『創作』っていう意味では同じだし、なんだか『仲間』を見つけたみたいで嬉しくて。だから、つい、その……」
ほのかに頬を赤らめながらも、一生懸命自分の気持ちを説明しようとしている健気な彼女を見て、僕は妙に心を絆された。
きっと、彼女も彼女なりに思い切って告白してくれたんだろうなって、伝わったから。
だから僕も、いつまでも女々しく押し黙るのはやめようと思った。
「まあ、確かに……いかにも小説書いてそうな顔してるよね」
「えっ、そう?」
「うん。本とか好きそう」
「好きだよ。体弱いからそれぐらいしか趣味なくて」
「そか。小説家……目指してるの?」
「遠い夢だよ。なれればいいなとは思うけど、そんなに簡単になれるわけがないと思ってる」
どこか儚げな表情で呟く彼女。困難だと思う理由の一つに『余命』という言葉が影響しているのだろうか。
聞きたい気もしたけれど、もちろんそんなこと聞けるはずがない。
「そう……って言っても、実際に読んでみないと君の実力がわからないからなんともいえないな。僕、しばらくリハビリでこの病院に通うし、もしまた次に会えそうなら、その時に読ませてよ」
「へっ⁉︎ いやでも、それはちょっと恥ずかしい、かも」
「僕の落書きみたんだし、それでオアイコでしょ」
本気で恥ずかしそうに言う彼女があまりにも可愛くて、つい意地悪く言ってしまった。
素直すぎる彼女は撃沈したように「うぅ」と唸った後、ふと思いついたように、僕を見上げた。
「そうだ。なら、交換条件」
「うん?」
「私も千隼くんの描いた絵がもっと見たい」
頬を染めたまま、瞳を輝かせてそんなことを言い出す彼女。
もちろん僕は面食らい、内心でウッと呻いた。
「い、いや。僕は別に、絵描きを目指してるわけじゃないから」
「うそ? 上手なのにもったいないよ。漫画家とか、興味はないの?」
「話を考えるのが苦手だから、漫画家は無理だと思ってる。でも、イラストレーターなら確かになりたいと思ってた時期があった」
「!」
普段なら絶対に口にしないであろう本音をポロリとこぼす僕。
もしも彼女が、僕に『余命』の件や、『小説家になりたい』といった、だいぶ込み入った秘密話を曝け出していなければ、僕はきっと自分のことも話さなかったと思う。
彼女がきちんと僕にぶつかってきてくれたから、僕もぶつかってみたくなったっていうか。本当にただそれだけのことだったんだけれど、思いの外彼女は感心するような表情で僕を見上げていた。
「イラストレーター……」
「僕も本を読むのが好きだから。自分の好きな小説の表紙とか挿絵とか、そういうのが描けたらいいなって、昔は結構憧れてて」
「――いいと思う」
「へ?」
「絵、すごく上手だと思ったし、千隼くんならなれるよ絶対」
「いや、もうすでに諦めてる夢だし、僕ぐらいの画力ならゴロゴロいるよ」
「そんなことない。……ほら、私さ、病気で色が見えないって話したじゃない? でも、さっき千隼くんが塗ってくれた夕焼けの海の絵は、なぜかね、うっすらとだけど色づいて見えた気がしたの」
「え? それ、本当?」
「うん。もしかしたらそんな気がしただけかもしれないけど。でも、昔にも一度だけ似たようなことがあってね、きっと……心の問題っていうか。淀んだ世界で本心から綺麗だと思える物に出会えたから、その時は色づいて見えたんじゃないかって、なんとなくだけどそんな気がしてて……」
「……」
「だからお世辞なんかじゃない。あんなに綺麗な夕焼けの海を表現できる千隼くんなら、本気でプロを目指せるんじゃないかって、そう思うの」
真剣な眼差しでそう訴えてくる彼女。
その強い眼差しと実感のこもった言葉には、嘘偽りはないように思えた。
僕は唇をかみしめて視線を伏せる。
素直に喜びたい気持ちと、過去のトラウマに支配されて滅入る気持ち。
どちらが勝るかといえば当然後者で、僕は彼女の言葉に浮かされることなく冷静な声で告げた。
「気持ちは嬉しいよ。でもホント、僕程度じゃ通用しないような厳しい世界だってわかってるから、あんまり期待しないで」
「千隼くん……」
「まあ、その話は別にしても、交換条件ってことなら文句はないし、何かリクエストがあるなら次回までに何か描いて持ってくるよ。鉛筆書きの線画でよければ、だけど」
僕は逃げるように話題を引き戻し、そんな軽はずみなことを申し出る。
彼女をがっかりさせないよう、僕ができるせめてもの提案だ。
彼女は一瞬残念そうにしながらも、気持ちを切り替えたように微笑んで頷き、じゃあ、と、『翼の生えた少女の絵』をリクエストしてきた。
さすがは創作家を自称するだけあって想像力豊かな乙女らしい要望だ。上手く描けるかはわからないけれど、たしか以前、クリスマスの時に一回だけ英太にも同じようなリクエストを受けて天使の絵を描いたことがあり、なんだかんだで上手く描けた気がしたので、今回もきっと大丈夫だろう。
僕は了承し、じゃあまたと、次もまた彼女に会えるだろうという淡い期待に胸を弾ませながら、その場を立ち去ろうとした。
「ねえ千隼くん」
行きかけた僕を、彼女の声が引き止める。
「……ん?」
「千隼くんは絵を描くことは好き?」
別れ際に放たれた質問に、僕の全身がどくん、と脈を打つ。
かつてのトラウマが胸を締め付け、僕は返事に窮した。
「……」
もう傷つきたくないという防衛本能が自身の正直な気持ちに蓋をして、結局、否定も肯定もできないまま、ただ静かに苦笑して誤魔化した。
そうして僕はそのまま彼女と別れ、病院を後にした。
5.
『千隼くんは絵を描くことは好き?』
帰りのバスの中で、僕は窓にもたれながら彼女の言葉を思い返していた。
(絵、か……)
僕の答えは決まっている。
僕は絵を描くことが好きだ。勉強よりも、運動よりも、ゲームをすることよりも、昼寝をすることよりも、他のどんなことを差し置いてでも絵を描くことが好きだし、小説や漫画を読むことも好きな方だけど、やはり読むより描く方が断然好きだった。
そんな自分の本音なんてわかりきってるのに、今の僕には、それを他人の前で曝け出すだけの勇気がない。
無我夢中で筆を走らせて、滾るような情熱を噛み締めて、絵を描いたり夢を追いかけている自分のことを、真っ向から否定されるのが怖いからだ。
「……」
移り行く窓の外の景色をぼんやり眺めながら、僕はポケットから携帯電話を取り出す。
指先に染みついた慣れた手つきで画面を開け、とあるイラストの投稿サイトを開くと、『未読コメントが312件あります』という赤い文字が視界に飛び込んできてゾッとした。
二ヶ月ほど前に見た時よりも三十件近く増えている。最後に投稿した時からもう一年以上が経つというのにと、人の悪意とSNSの怖さを痛感しながらも、なぜ僕はこんな赤い文字一つに自分の人生を脅かされなきゃならないんだという半ばヤケクソのような気持ちでそれをタップした。
すると指先の画面には、僕がかつてこのサイトに投稿した一枚のカラーイラストが映し出された。
弓を持った傷だらけの少年が、荒れ果てた荒野で、戦に疲れた心を癒すよう静かに月を見上げて佇む絵だ。
僕が、とある文庫レーベルの有名なイラストコンテスト で入選を果たした、渾身の一作だ。
そのイラストの脇には、既読コメントに混じって未読のままだった閲覧者からのコメントが312件ずらりと並んでいる。
『塗りが下手すぎ』『園児のぬり絵レベルw』『この程度のレベルでプロ目指してるとか、夢見過ぎだろー』『この選評、早い話、カラーセンスがねえから出直せってことだろ? 調子乗ってエントリーした挙句公開処刑されるとかだっせえなあ』『線画だけでやめとけばよかったのに』『どうせ箔付の受賞だろ。こんなのに賞をやるとかこのイラコンも地に落ちたな』……――。
目を背けたくなるような罵倒の数々が、一年という時を超えてもなお、容赦なく僕の心を抉ってくる。
「……っ」
まだ全てのメッセージを読みきれていないというのに、僕はたまらなくなって投稿サイトからログアウトした。
画面から誹謗中傷の嵐が消えても、僕の心の中に突き刺さった棘は消えない。ずっと針の筵にいる気分だ。
(僕が……)
(僕がいけなかったんだ……)
(イラストだけに留めておけばよかったのに、調子に乗って描けもしない漫画なんかを描いて、それをSNSに投稿しちゃったから)
――彼女に告げたとおり、かつては自分にも『イラストレーターになりたい』という夢があった。
親友の英太の影響で絵を描きはじめ、いつしかそれが無我夢中の趣味になり、大好きな小説の表紙や挿絵を描くイラストレーターになりたいという希望を持つようになって、小学校から中学時代にかけて、僕は一日中ずっとがむしゃらに絵を描いていた。
川の事故で英太が死んで、行く宛を失っていた僕の心が唯一現実逃避できる場所、それが絵の世界でもあった。
僕はイラストに向き合い始めてから自分自身でもわかるぐらい日増しに腕を上げ、貯めこんだお小遣いとお年玉で中古のタブレットとペンタブを買った時は心が跳ね上がるくらい嬉しかったし、テンションも上がって、それまで以上に絵と向き合う時間が増えた。
デジタルで色を塗るのは苦手だったけれど、試行錯誤してなんとか独学でできるようになって、憧れていたイラストレーターの影響で、イラストと曲を使った動画なんかも作ってみたりした。
それをアップしたイラスト投稿サイトはもちろん、SNSなんかもフォロワーがすごく増えたし、毎日が研鑽と刺激で、英太を失った悲しみを払拭できるぐらい毎日が色濃く充実していた。
そんな僕の絵描き時代黄金期真っ盛りの中学三年生の時、親に内緒で応募したイラストが、某文庫レーベルが主催する有名なイラストコンテストで佳作を獲った。
主催編集部から受賞の連絡がきた時、あまりの驚きで頭が真っ白になったし、二度見しようとしたけど手が震えていたせいで携帯を落としかけたりもした。
詐欺メールかとも思ったが、何度見てもやっぱりそれは『コンテスト入賞のお知らせ』だったし、佳作だから賞金とかは特にないけど、『サイトでの結果発表時にペンネームが載ります。発表時までは入賞の事実を外部には漏らさないでください。また、後日改めて担当者より詳しい選評等をお送りいたします』と厳かに書かれていて、それだけで僕は物凄い秘密を握ってしまった気になって胸が弾んだし、自分の絵が評価されたことに小躍りするぐらい舞い上がっていた。
結果発表の後が僕一番の最盛期といって過言ではない。
コンテスト主催の公式サイトに名前が上がって十分後にはSNSのフォロワーが五十人くらい増えてたし、その勢いに載って投稿サイトのフォロワーも信じられないぐらい爆上がりした。
きっと『最年少入賞』『圧倒的・天才的技量』『将来に期待』といった身に余る選評が思いもよらないバズりを呼び、無名だったはずの僕は、最終的に投稿サイト、SNSともにインフルエンサー並みのフォロワー数を獲得し、僕は一転して『天才絵師』とまで呼ばれるようになった。
そうなると僕の絵師生活は面白いぐらいに一変し、新作を一件投稿しただけで好意を示す『いいね』数やお気に入り登録数、応援メッセージが溢れ、僕の創作意欲は湧くに湧いた。
得意な線画をはじめ、苦手なりに頑張ったカラーイラストや、簡単なイラストと曲による動画など、上げられそうなものはなんでもサイトに公開して、僕を応援してくれる人たちと情熱を共有し、反応を得ては創作意欲に変える。いつか絶対イラストレーターになって仕事として小説の表紙や挿絵を飾るんだと、その意気込みは増すばかりだったし、そんなイラスト生活は楽しくて仕方なかった。
そうこうしているうちにいつの間にか僕は、くだんのコンテストで大賞や金賞をとった人よりも誇張なしに有名人になっていたと思う。
だが……。
そんな絶頂期も長くは続かなかった。僕は当時、絵師としてはおろか人間としてもまだ大いに未熟な年頃だったから、有名になればなるほど、人気になればなるほど嫉妬が生まれてアンチと呼ばれる反発者たちが増えていくことを知らないでいたのだ。
6.
『ご都合展開乙』
きっかけは、創作意欲最盛期の僕が、お試しで描いた二ページ漫画をSNSに上げたことだったと記憶している。いや、もしかしたらそれ以前に、僕の至らない点が僕の意識していないところで露呈していただけなのかもしれないけれど。
いずれにしても、本当にちょっとだけ、の軽い気持ちで漫画を描いてサイトにアップし、自身の漫画適正力を試そうと思っただけなのだが――。
『ストーリーの構成力ゼロだな』
『調子に乗って描いた漫画がこれか』
『コマ割り微妙。漫画道ナメてね?』
『イラストだけに留めておけばよかったものの』
『え、この人が某有名イラコンの最年少受賞者?』
僕が描いたお試し漫画は、なりを潜めていたアンチに目敏く足元を掬われ、あることないことを含んだ批判の嵐とともに拡散される形となった。
一部の良識あるフォロワーは、『イラストも漫画も両方できる才能に嫉妬して、アンチが湧いてるだけだと思うから気にしなくていいよ』とか、『反応すると余計に面白がるから無視で』とか『いざとなったら法的手段で……』などと親身になって励ましてくれたが、正直僕は批判を受けたことがショックでなにも考えられなかったし、これといった対策が取れないうちに、脚色された批判――僕が○○の絵の構図をパクっただの、人気コミックの表紙絵をパクっただのというありもしない捏造の事実だ――から煽られたような形で漫画家志望者たちの顰蹙を買い、結局、大炎上する結果となってしまった。
『SNSのお試し漫画を見て、受賞作が気になったので飛んできました。思ったよりもお粗末で某イラコンの衰退っぷりにがっかりです』
一点の綻びから、傷口は徐々に大きく広がり始める。
漫画のストーリーやコマ割りセンスから生まれた批判は、やがて矛先を変えて全く無関係な受賞作にまで向けられるようになった。
『受賞作、塗りが下手すぎwww』
『この程度のレベルでプロ目指してるとか、夢見過ぎだろー』
『この選評、早い話カラーセンスがねえから出直せってことだろ? 調子乗ってエントリーした挙句公開処刑されるとかだっせえなあ』
『絵が上手いだけに色塗りの下手さが際立ってるのよな〜』
『この人、絵は上手いから〝線画だけ〟でやめとけばよかったのにねー』
『入賞たってどうせ箔付の受賞だろ。こんなのに賞をやるとかイラコンも地に落ちたな』
僕を傷つけるためだけに選りすぐったであろう、より殺傷力の高い言葉が、日々コメント欄を埋め続ける。
煽りたいだけだと、自分より目立ったり注目されてるのが許せないから蹴落としたいだけなんだとそれはよくわかっていたけれど、相手の心情を理解して受け流してあげられるほど、僕は強くなかった。
(ただ自分の絵で誰かの心を楽しませたい。それだけだったのに……)
度重なる誹謗中傷に僕の心はポッキリと折れ、僕は結局、筆を折った。
絵――というよりも、色の塗り方や色の組み合わせへの批判。
それが一番の致命傷となって、その日を境に、僕は自分の世界から〝色〟を消した。
「……」
無気力な眼で外を見つめる僕の脳裏に、彼女の声がこだまする。
『実は私も小説を書いてて』
『千隼くんの描いた絵がもっと見たい』
『あんなに綺麗な夕焼けの海を表現できる千隼くんなら、本気でプロを目指せるんじゃないかって、そう思うの』
彼女の純粋で真剣な眼差しが目に浮かぶ。
(プロ、か……)
なんとかその言葉を前向きに受け取ろうと、僕は静かに目を閉じるが――。
正直、僕にはもう、色を塗る自信がない。
僕自身、できることならもう一度絵と真剣に向き合いたい気持ちはあるが、誰かに否定されるかもしれないと思うと怖くてペンが握れなくなる。
あのトラウマ以降、僕にできることといえば鉛筆で線画を描く程度が精一杯だった。
(でも……まあ。もう約束しちゃったしな……)
ひとまずプロ云々や夢の話は脇におくことにして、リハビリ程度に絵を描いて彼女に見せることぐらいなら問題なくできるだろう。小説家を目指しているという彼女になら、絵描きとしての自分の弱さや未熟さをさらけ出せるような気がして――僕はもう一度だけ、できる範囲で絵に向き合ってみようかと、そんな気持ちがほんの少し、ふつりと沸き始める。
(とりあえず、やるだけやってみるか)
僕は自分自身に『きっとできる』とそう言い聞かせて、自宅最寄りの停留所名が車内に流れると素早く席を立ち、バスを降りた。
7.
その日以降、僕は通院の度に彼女の病室を訪れては創作について議論を交わしたり、宿題のように出し合った小説と絵を互いに交換し合って黙々と読む、あるいは眺めるといった、非常に独特な空気の親睦を彼女と深めるようになっていた。
「はい、お見舞い」
「あ、千隼くん。来てたんだ」
――あれから二週間が経った、二月の半ば 。
あれだけ憂鬱だったリハビリが、今ではわりと楽しみなイベントのひとつになっている。そんな自覚を持ちながら、いつものように彼女の病室を訪れた僕。
ベッド上でノートパソコンを叩いていた彼女に向かって、売店で買ってきた五百ミリの紙パックミルクティを袋ごと差し出すと、
「ありがとう。気を遣わなくていいのに」
と、彼女は恐縮しながらも見舞い品を喜んで受け取り、ストローを差すと美味しそうにそれを啜った。どうやら彼女は、これが大の好物らしい。
「いつも見舞品のお菓子を分けてもらってるし。そのお返しみたいなもんだよ」
一方でもっぱらレモンティ派の僕は、ベッド脇にある丸椅子に腰掛けて同じメーカーの紙パックアイスレモンティを啜りながら、パソコンや創作メモの書かれたボロボロの手帳を片付ける彼女をぼんやり眺める。
別に大人しく待ってるつもりだし、キリのいいところまで僕に構わず執筆を続けてくれてもいいのにと思うけど、以前それを言ったら、人の気配があると集中できないから無理だと言われた。
なんとなくわからないでもないが、僕は線画であれば見られていても描けてしまうので、その辺が絵と小説の違いなのかと思うことにしている。
ふと、彼女が畳もうとしたノートパソコンの画面を見て、僕は飲んでいたレモンティを吹き出しかける。
「ぶっ」
「わっ。どうしたの?」
「いやちょっと待って。なんでパソコンのデスクトップ画面、僕が描いた絵になってるの」
「すごいでしょ。病院の売店のコピー機にスキャナー機能がついてることに気付いて、やってみたらできたんだ」
「いやいやいや。やり方はどうでもよくてさ、なんでその絵をトップ画面にしてるのかって話だよ」
というのも、彼女が背景画面に設定しているのは、僕が一番最初に彼女のリクエストに答えて描いた『翼が生えた少女』の絵だった。
二週間近く付き合ってみてわかったことだけれど、天使に始まり鳥、ペガサス、ドラゴン、ラドン、ヒッポグリフなど、どうやら彼女は『翼が生えた生物』が好きらしい。
いや、だからといって僕の走り描きみたいな絵をパソコンの背景画像に設定されるのは、さすがにちょっと忍びない。
「だってこの絵、好きなんだもん」
「でもそれ鉛筆書きだしただの落書きみたいなもんだよ」
「落書きなんて、そんなことない。私はすごく気に入ってるし大好きな絵だよ」
むすっとした顔で返してくる彼女があまりにも可愛くて、くっそーと思いながらも思わず目を逸らす。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、壁紙にするならもっとちゃんとしたの描いてくるのに……」
「『ちゃんとした』って、カラーの絵ってこと?」
「……」
首を傾げられ、僕は閉口する。
彼女は僕が色を塗れなくなった理由を知っている。創作をする上でどうしても隠しきることができない部分だったので、『以前活動していた時に誹謗中傷を受け、色が塗れなくなった』程度ではあるけれど、包み隠さずに話していたのだ。
「いや。カラーはまだちょっと無理……」
「そっか……。最初に会った時に塗ってくれた夕日の海の絵、あれはやっぱり、特別だったんだね」
「うん、まあ」
「あの色、今でもまだ目に焼き付いてる。すごく綺麗だったのになあ」
彼女の何気ない呟きが僕の心に突き刺さる。
何か上手い言葉で場をとりなしたかったけれど、相変わらず僕はそういった機転の効かない男だった。
ただ無言で曖昧に苦笑していると、彼女は気を利かせたように口元を引き締め、目を細めて言った。
「いつかまた、色が塗れるようになるといいね」
「……ああ」
「ねえ」
「ん?」
「ゆっくりでいいから。千隼くんに自信がついて、もう一度色が塗れるようになって、それで……」
「……?」
「いつか私の書いた小説が本になるような日がきたら、表紙の絵は千隼くんが描いてね」
柔らかい日差しが差し込む昼下がり、ふいをつくように言われたその言葉。
目が合うと、彼女は息を呑むほど美しく優しい表情で微笑んでいた。
「なんで僕……」
「だめかな?」
「いや、ダメじゃないけど、でも……。この世には僕なんかよりもっと上手いプロの人がたくさんいるのに」
「私は千隼くんの絵がいいの」
「色を塗れる日が永遠に来なかったら?」
「千隼くんの白黒の絵を表紙にする」
「それじゃせっかくのデビュー作が地味になりすぎて爆死しちゃうよ」
「逆に目立って売れるかもしれないじゃない」
「そんなに甘くないと思うけどなあ」
「やってみないとわからないよ」
「それはそうだけど、そもそも表紙の絵って作家が決めるものなの?」
「うーん。それはわからない。だけど、編集者さんに千隼くんの絵がいいですってあらかじめ言っておく」
「雪谷さん……」
「何度でもいうけど、〝紬 〟でいいよ。私も千隼くんって呼んでるし」
「じゃあ、その、紬」
「うん、なあに?」
「紬って、見かけによらずめちゃくちゃ頑固だよね」
正直に告げると、紬はややショックを受けたような顔をこちらに向けた。効果音つけるなら『ガーン』って感じ。
「よく……言われる……」
「おとなしいのに創作論になるとめちゃくちゃ熱く語るし、創作以外のことなら割とすぐに諦めて身を引くくせに、僕の絵のことについてだけはなぜかやたらと絶対譲らないし」
「だ、だって私、千隼くんの絵のファンだし、千隼くん、何かにつけてすぐ無理だって諦めようとするから……」
「自信がないんだよ。前にも話したと思うけどトラウマで思うように色が塗れないし、世の中には僕より上手い人だってたくさんいるから」
「でも、絵を描くことが好きだから、今も私の創作活動に付き合ってくれてるんでしょう?」
「それは、まあ」
「だったら、色が塗れないってだけの理由で夢を諦めるのはもったいないと思う。『今』できないだけで明日には塗れるようになるかもしれないし、『健康な体』があるなら、ダメ元でも失敗しながらでもいい。少しずつ、一歩ずつ、やれることから進めて、焦らず千隼くんのペースで色を取り戻していけばいいと思うの」
「……」
それを病人である彼女に言われると、僕は弱い。
「それに、それにね……」
それになんか、必死に僕を奮い立たせようとムキになって力説する彼女がすごく健気で愛らしく見えて。
「もういいよ、わかった」
「へ?」
「負けたよ。もし紬の小説が正式な本になる日がきたら、僕が表紙を描くって約束する」
「……!」
「ただ本当に、その時までにまた色が塗れるようになるとは限らないからね。最悪、どうしても無理だったらモノクロ絵で押し通すからそこだけは覚悟してよ」
「千隼くん……」
「紬の小説が書籍化する日が先か、僕が色を取り戻す日が先か、勝負ね」
折れたようにそう告げて苦笑すると、彼女は嬉しそうに顔を輝かせて僕を見上げた。
「うん!」
「じゃあ、まずはこないだ話してた短編小説、もう少し練り直してから例の投稿サイトのミニコンテストに応募してみよう。結果出るの早いみたいだし、実力を知るにはちょうどいいんじゃないかな」
本当は、ここまで誰かに自分の存在価値を認めてもらえたことや、自分の描いたイラストを必要とされたことが嬉しくて仕方なかっただけなのだけれど、気恥ずかしさやちゃんと僕にできるんだろうかという不安な気持ちが入り混じり、うまく表情や言葉には出せなかった。
「わ、わかった……。ちょっと自信ないけどやってみる」
「OK。あとついでに、やっぱりそのデスクトップ画面、僕の絵にするのはナシでいこう」
「それは無理」
「頑固だな……」
今まで散々自分の弱さから逃げてきた自分。せめて彼女の前でだけは強がって見せたくて、不安を垣間みせないよう精一杯明るい声色で振る舞うと、紬は朗らかな顔で笑っていた。
(まあ、そんなに簡単に書籍化なんてできないしね……)
彼女は『余命三ヶ月』だなんていうけれど、嬉しそうに笑ってるし、顔色も良さそうだし、何よりこれが励みとなって少しでも病状がよくなってもらえるなら、約束通り本気でプロを目指すのも悪くないな……なんて。
ひどく呑気に、この時の僕はそんなことを思っていたのだ。
1.
それからの僕らは、来る日も来る日も病院で落ち合い、屋上に上がってお決まりのガーデンテーブルとベンチを陣取っては、小説とイラストを交換し合って議論を交わしたり、試行錯誤を重ねたり、そのまま紬の小説に沿った挿絵を作成したりと、次第に情熱を高めながらまるで一つの合作を作り上げているような感覚で、お互いの創作活動に向き合っていた。
僕たちが出会ってから三十一日目――約一ヶ月近くが経った三月上旬のその日、いつものようにドアをノックしてから彼女の病室を訪れると、ひどく落ち込んだ顔でノートパソコンの画面を見つめている彼女の姿が目に入った。
「……」
寝ているんだろうか? と、そろりと彼女の顔を覗き込む。
出会った時より頬がややすっきりした気がする。むくみが取れただけだろうか? なんて、余計なことを考えるよりも、彼女の意識の有無を今一度チェックすると、ぱっちりとした二重瞼の瞳はきちんと開かれており、間違いなく起きていることが確認できた。
と、その直後、僕の存在と来訪に気づいた彼女が、ハッとしたように目を瞬いた。
「わっ。千隼くん! いたんだ」
「ごめん。ノックしたつもりだったんだけど……」
「全然気づかなかったよ。ごめん、今片付けるね」
無理やり貼り付けたような苦笑を浮かべ、重い手を動かすようにベッドの上の創作道具を片付け始める彼女。黙々と片付けるのはいつものことなんだけれど、やっぱりどこか表情が暗い。
僕は大人しく丸椅子に腰掛けながらも、ある程度ベッドの上が片付いたところで尋ねてみることにした。
「何かあった?」
「……」
彼女は頷きはしなかったけれど、肯定するような沈黙を置き、しばし唇を噛み締めた。
やがて長い息を吐き出すと、気持ちを切り替えるように僕を見て告白する。
「少し前に応募した短編小説のミニコンテスト、結果発表があったんだけど……ダメだった」
「あ、もう結果出たんだ?」
結果が出るのが早いコンテストであることは事前に把握していたが、まさかもう発表になっていたとは。
驚きながら尋ねると、彼女は小さく頷いてみせた。
「うん。簡易的なミニコンテストだから応募数も少ないし、いつもよりちょっと早くに出たみたい」
「そっか」
「それで……私のは一次審査にも残れてなかった。せっかくアドバイスしてくれたのに結果出せなくてごめんね」
「いや……」
なるほど。それで落ち込んでいたというわけか。
彼女は健気に笑っていたけれど、その落ち込みようは目に見えて明らかだった。
どう声をかけるべきか、僕は頭を悩ませる。
『残念だったね』そんなの言われなくたって本人が一番無念だろう。
『惜しかったね』一次審査にも残れていなかったって話なのに、惜しい?
『頑張ったのにね』頑張っても結果が出なかったから落ち込んでるのにわざわざ言う必要あるだろうか?
『次があるよ』……本当に?
いまだに信じられないけれど、彼女には『余命』という名の期限がある。次があるかどうかなんて誰にもわからない。だから――。
「悔しいね」
「……」
僕は心を鬼にして、檄を飛ばす。
「でも、一回で受かるほど甘い世界じゃないと思う。落ち込んでる暇なんてないし、紬ならいつかきっと入賞できると思うから。だから、落ち着いたら、もう一回頑張ろ」
「千隼くん……」
僕と紬には今、大きな夢がある。
紬の書いた小説が本になって、僕がその表紙を描く。
正直、無謀すぎる無茶苦茶な夢だ。僕は色が塗れないし、彼女には余命があるし。何より僕たち二人はプロのプの字から遠くかけ離れた場所にいる普通の高校生で、書籍化の工程も表紙がつくまでのノウハウも何一つよくわかっていない状態で、互いの小説とイラストがセットになって商業デビューすることを夢に見ている。
無鉄砲な夢だとわかってはいたが、あの約束を交わした日から僕は、夢の実現に向けて、できないなりに必死に色の世界と向き合っていた。
今はまだ、怖くて色を塗ることは無理だけれど、でも、毎日最低でも数分、色鉛筆や水彩道具を握りしめて真っ白な画用紙に向かい合ってイメージトレーニングしてるし、一日一回、寝る前には必ず慣れ親しんだペンタブを引き出しの奥から引っ張り出してきて、それを握りしめ、世界が色とデジタルイラストで溢れていたあの頃を思い返す。
ひっついてくるようにトラウマが蘇り、削られた心が軋むように傷むけれど、その儀式から逃げてしまったら僕は一生絵と向き合えない気がしているので、意地でもそれは欠かさないでいる。
まだ、これといった効果はないけれど、でも、二人でデビューしなきゃ意味がないから。
「焦らないでいいっていったのは紬でしょ。確実に一歩ずつ進めるよう、やれることから少しずつやってこ」
訴えるような眼差しで紬を見つめると、彼女はようやく瞳に生気を灯したように小さく頷いた。
「そう……だよね」
「僕だってまだ色が塗れない分際なのに、きついこと言ってごめん」
「ううん。目、覚めたよ」
「ならいいけど……」
「……」
膝の上に乗せていた手帳をじっと見つめた彼女は、やがて意を決したように顔を上げて僕を見た。
「ねえ、千隼くん」
「うん?」
「今日、これから時間ある?」
ふいにそんなことを尋ねてくる彼女。僕は面くらいつつも、すぐさま頷いてみせる。
「うん。もうリハビリは終わってるし、この後特に予定があるわけでもないからここへ寄ったんだけど……」
サイドテーブルにある置き時計をチラリと見やると、時刻は十五時十一分を指していた。
今日は学年末テスト期間の短縮授業で、午後イチには病院に到着してリハビリを終わらせていたし、そもそも多少遅く家に帰ったところで仕事が忙しい母さんはいない。
何か頼まれごとでもするのかと思って彼女の返事を待っていると、紬は「じゃあ」と、少し前のめりになるような格好で、僕に懇願してきた。
「ちょっと、付き合ってほしい場所があるの」
「……へ?」
ようやく少し暖かくなってきた三月の上旬。
思いもよらない彼女のこの一言で、僕たちはその日、初めて二人揃って病院の外へ冒険に出ることとなった。