3.

 それから一週間ほどが経った二月の上旬。 足の痛みと腫れが引いてくると、僕は医者の言いつけを守ってリハビリ通院を開始した。
 外にはまだ先月末に降った大雪が残っていて、路面が滑りやすい。
 母さんは心配して病院までついてこようかと言ったけれど、学校からほどない距離だし、顔を顰めてもう子どもじゃないからと言えば、あっさり引き下がった。
 あんなに心配性な母さんが素直に引き下がるだなんて、きっと仕事が忙しいからに違いない。無理をして体を壊されても困るので、諦めてくれて助かった。
 そんなわけで僕は、学校帰りに松葉杖をつきながら慎重な足取りで病院へ向かう。
「すみません、リハビリステーションに行きたいんですが」
 難なくたどり着いた病院の案内カウンターで尋ねると、そこにいた女性職員は快活な笑顔で答えた。
「ご予約の患者様ですね。この先にあるエレベーターで五階まで上がっていただいて、降りてすぐの廊下を突き当たりまで進めば受付と待合室がございます。そちらで診察券をご提示ください」
 女性職員にぺこりとお辞儀をして、僕は言われた通りにエレベーターで五階まで上がる。この病院は市内でも一番大きな総合病院だから、とにかくどこへ行くにも広いしとことん歩かされる。
 すでにこれがもうリハビリになっているんじゃないかとそんな事を考えながら、五階のフロアをひたすらまっすぐに進み、たどり着いたリハビリステーションの受付で診察券を差し出した。
「今日はちょっと混んでますからね。順番が来たらアナウンスで呼び出しますから、このフロア内にいてください」
 頷き、僕はどこかで本でも読んでようかと腰をかけられそうな場所を探すが……言われた通り、今日は待合室がひどく混み合っていてとてもじゃないが座れる気配がない。
 同じフロア内にさえいればいいようなので、仕方なく僕はリハビリステーションを離れ、座れそうな場所を求めてあたりを散策する。
(あった……)
 ほどなくして隣接する小児科ゾーンの傍らに、ようやく空席のソファを発見した。
 杖をつきながらひょこひょこと空席確保に向かう道中、ふと、ソファのすぐ近くにキッズスペースがあるのが目に入った。
 真っ白な床や棚に透明のガラス。陽光差し込む壁際には小さな本棚が並び、絵本や小説、簡単なおもちゃがこぢんまりと置かれている。
 中でも僕の目を惹きつけたのは――。
「ねー、こっちこっち、こっちよんでよー!」
「待って、ヒロトくん。今ユイちゃんの方をやってるから順番ね」
「おねーちゃん、みてこれー、あーちゃんがかいたのぉ」
「わ、上手。これはイルカ?」
「あーちゃんずるい! ぼくもぼくも! ぼくもツムギおねえちゃんにみてもらうー!」
 キッズスペースの傍らには楕円形の白テーブルが置かれていて、机を取り囲むように病院着を着たたくさんの子どもたちがいる。
 そしてさらにその中心には、雪のように白い肌と黒髪、そして薄茶色の儚げな瞳が印象的な、紺色の病院着をまとった美しい女性の姿があった。
「おねーちゃん、まだあ?」
「あ、ごめん。ちょっと待ってね」
「ユイねー、すっごくきれいなお色がいい〜!」
「わ、わかった。ええと……」
 年は僕と同じか、少し下くらいだろうか。彼女は椅子に座り、机に画用紙やノート、色鉛筆などを広げてなにか作業をしている。
 あまりにも彼女の生み出す空気が……いや、彼女の存在そのものが眩しいくらいに美しく見えて、僕はうっかり足を止めて見惚れてしまった。
「……」
 だが、すぐにハッと我に返り、ぶんぶん頭を振ってから再び歩みを進め、なんとか目的の空席を確保する。
 そこで予定通りに鞄の中から持参した文庫を取り出し、栞の位置を開こうと思ったのだが……。
「ねーねー、ツムギおねーちゃんはやくぅ!」
「う、うん……」
 やはり僕は例の彼女がなんとなく気になってしまい、開いた文庫越しにひっそり観察していた。
 彼女はどうやら、子どもたちと絵を描いたり塗り絵をしているらしい。
 普段、家でも学校でも寝るか本読むかゲームするかくらいしかなく他人に極力関わらず生きてきた自分としては、同年代の他人にちょこっと関わるだけでもそれなりに疲弊するっていうのに、あの病院着の子はよく他人の子ども相手にせっせと何かを――それも、自分のためではなく子どものためになるような何かを――できるなあと、彼女の人の良さに感心すら覚え始めていたのだが。
「お色ぬれるまで、おうたうたってよっと。う〜み〜は〜ひろい〜な〜おおき〜な〜♪」
「ユイちゃんお歌上手だねえ。よし、お姉ちゃんもがんばろっと……えっと……」
 僕は彼女の手に持った色鉛筆の色が気になって仕方がなかった。
 というのも、先ほどから彼女は脇にいる女の子にせがまれて、その子が描いた絵に色塗りをしようとしているのだが、どう見てもあれは船が浮かんだ『海』の絵。
 それなのに彼女が散々迷うに迷った挙句、意を決して握りしめた色鉛筆は、なぜか『茶色』だった。
(茶色……?)
 なぜ茶色なのか。海といえば青。もしかして青がなかったのか? と、一瞬は思ったけど、背筋を伸ばして見やれば色鉛筆の中にはきちんと青系の色鉛筆も数種類揃っている。
 彼女があえて茶色を選んだ理由がわからず、疑問に思いながら成り行きを見守っていると、彼女は震える手で弱々しく画用紙の上に色を落としはじめた。
「おねーちゃんできたあ?」
「わっ、まだ。できるまで見ちゃだめだよユイちゃん」
「わかったあ! じゃああっちでみんなとご本よんでるから、できたらおしえてね」
「わかった」
「きれいな海にしてね!」
「うん……」
 ユイちゃんが机から離れ、ぱたぱたと駆けて本棚付近にできていた子どもの輪の中に入っていく。病院着の彼女は苦笑してそれを見送りながらも、再び真剣な顔つきで塗り絵と向き合う。
 しかし、その真摯な姿とは正反対に、やはり彼女が持っている色鉛筆の色は海には似つかわしくない茶色だったし、彼女が真剣に色を塗れば塗るほど、ユイちゃんの描いたきれいな海の絵は汚く濁り、澱んでいくようだった。
 僕は――。
「……」
 開いていた文庫を閉じる。
 正直、ものすごい葛藤はあった。口を出すべきか否か。
いや、それ以前に、彼女が今、向き合っているものは『塗り絵』で、僕には『色』というものに対し、強烈なトラウマがある。
 別に他人事だし、彼女は海の色をなんらかの理由があって茶色に塗ってるのかもしれないし、僕が出るまでもないのかもしれない。
 ――でも。どうしても僕は、彼女が故意にユイちゃんの絵を台無しにしようとしているようには思えず、また、与えられた色塗りという作業を苦しみながらやっているようにしか見えなかったのだ。
(仕方ない……)
 僕は思いきって立ち上がり、彼女の前まで歩みを進めると、彼女の目の前の子ども用の小さな丸椅子に腰掛けた。
「……?」
 病院着の彼女は、驚いたように僕を見上げる。
「なんで茶色?」
 僕は眉間に皺を寄せ、首を傾げて率直に尋ねる。
「え?」
「あ、いや。これ……海の絵、だよね? なんで茶色なのかなってちょっと気になって」
「えっ。うそ、これ、茶色?」
「どうみても茶色だけど」
 茶色じゃなきゃ何色に見えていたんだろうと突っ込みたくなったが、初対面だしあまり余計なことは言わない方がいいと思って黙っておいた。
 彼女は慌てて茶色の色鉛筆を置き、自分が塗った箇所を今一度チェックする。
 どうみても茶色い。淀んだ海だ。彼女はみるみるうちに表情を曇らせ、困ったような顔で俯いた。
「そっか。茶色か……。どうしよう……」
 そのシュンとした様子があまりにも痛々しくて、ここはやはり手伝うべきだろうか、いやでも、今の僕に〝色〟を塗れるのだろうかと二の足を踏んでいたところで、唐突にぐんっと洋服の裾を引っ張られ、危うく小さな丸椅子から転げ落ちそうになった。
「⁉︎」
「おいオマエ、ツムギをいじめるな!」
「……へ?」
「ツムギ、泣きそうな顔してんじゃねーか!」
 振り返るとそこには、絵本を持ったいかにもやんちゃそうな六、七歳の病院着の子どもが一人、鼻水を垂らしながら怖い顔で僕を睨んでいた。
「え、あ、いや……」
 どうやら少年には僕が彼女をいじめているように見えたらしい。
「別にいじめてるわけじゃないんだけど……」
「ひ、ヒロトくんっ。大丈夫だよ、私、別にいじめられてたわけじゃ」
 弁明をしようとほぼ同時に声をハモらせる僕と彼女。
「嘘だっ! 絶対いじめてたし、ツムギ泣きそうな顔してたし、悪いことかくそうったってオレにはわかるんだからなっ。ツムギはビョーキで色々タイヘンなんだしムチャさせんなよな⁉︎」
 しかし僕らの訴えは、正義感が強いと見えるヒロト少年に一瞬にして退けられてしまった。
 なんだかやたら前のめりだし鼻息が荒いので、僕は慌てて彼を宥めようと態度を改めることにしたのだが……。
「わかった、わかったから。悪かったからそんなに怒るなって」
「オマエ、絶対わかってないだろ⁉︎ しんだカエルみたいな目しやがって」
「それいうなら〝魚〟じゃ……」
「オレ、しんだ魚なんてみたことないし、いいんだよカエルで! んなことよりなあ、タイヘンなビョーキをナメてるとツムギはしんじゃうんだぞ! ツムギは〝ヨべーサンカゲツ〟なんだからなっ⁉︎」
「え?」
「ちょっ」
 一瞬、耳を疑うような言葉が聞こえて、僕は改めて少年の顔を見る。
「よ、ヨベーサンカゲツ……?」
「そう! ヨベーサンカゲツ!」
 自信たっぷりな顔で勝ち誇ったようにその事実を叩きつけてくるヒロト少年。
 語感からしておそらく、『余命三ヶ月』と言いたいのだろうけども、正直、鼻垂れ小僧にドヤ顔で言われてもさほど現実味が湧いてこない。
「そ、それは確かにタイヘンだな……」
「だろ⁉︎」
「こ、こらヒロトくん! 余計なこと言わないの」
「えー。だってホントーのことじゃん。よくわかんないけどママが言ってたもん」
「……」
 ただ――。少年の言葉に、ひどく曖昧な苦笑を滲ませて、精一杯その場の空気を取り繕おうとする彼女を見て。
(余命……三ヶ月……)
 僕はなんとなく。本当になんとなく空気を読んでしまったというか。いまいち笑えなくなってしまって、そのまま口を噤み、病院着の彼女と沈黙を共にする。
 やがて廊下の端から「おーいヒロト、順番来たぞー!」という男性の声が聞こえてくると、ヒロト少年は「あ、パパだ!」「ツムギ、また後でな!」「おまえ、オレがいないからってツムギいじめるなよ!」と怖い顔で再三念を押し、パタパタと騒がしくその場を去っていった。
 のちにそのテーブルに残されたのは、微妙な空気が漂う僕と彼女の二人。
「ツムギおねーちゃん、ユイの絵、できたあ?」
「あ、えっと……」
 ふと、本棚付近で遊んでいた少女が、待ち侘びたように声を投げてくる。
 もちろん例の絵は、いまだに茶色く澱んだ海のまま、彼女の手の中に握りしめられている。
「……」
 僕はぽりぽりと頬をかくと、意を決して手を伸ばし、彼女の持っていた画用紙を丁寧にすいっと引き抜いた。
「ちょっと貸して」
「え?」
 正直、〝色〟を失っている今の僕にとって、何かに『色を塗る』という行為は、トラウマ以外のナニモノでもない。

『え、これが噂のイラスト大賞最年少入賞者の作品?』
『園児のお絵かきとぬり絵レベルw』
『この程度のレベルでプロ目指してるとか、夢見過ぎだろー』
『この選評、早い話、カラーセンスがねえから出直せってことだろ? 調子乗ってエントリーした挙句公開処刑されるとかだっせえなあ』
『線画だけでやめとけばよかったのに』……――。

 画材を前にすると必然的に脳裏に蘇る、心無い言葉の数々。
 否が応でも胸が軋むようにキリキリと痛んで、微かに手が震えた。
「あの?」
「……」
 だが、今ここで筆を握らなければ僕は一生このままの気がして、それだけは嫌だと、なんとかこの負の泥沼から這い上がってみようと、必死に自らを奮い立たせる。
(大丈夫。これはただの紙。これは単なる子どものぬり絵じゃないか)
 自己暗示をかけ、僕は朱色の色鉛筆を掬い上げてそれを握りしめると、紙の上にゆっくりと下ろした。
「……!」
 震える手。これはただのぬり絵だと心の中で何度も自己暗示を繰り返し、僕は必死にトラウマに争う。
 濁っていた彼女の茶色い海に、朱色をやさしく重ね、時に淡く、時にはっきりと、陰影をつけながら隅々まで細やかに、紙と絵に命を吹き込むよう丁寧に色を乗せていく。
 彼女が息を呑んで見守るなか、僕が選んだ朱色と彼女の選んだ茶色が、複雑に混ざり合って新しい色に生まれ変わっていくようだった。
 たった二色。されど二色。
 僕にとってはとても意味のある二色で、それらはやがて、澱んでいた茶色の海を夕焼けに染まる海へと変貌させた。
「……っ」
「わああ。お兄たんすっごおおい! キレーな夕焼けのうみ!」
「ひゃー。ユイちゃんすごいねえ、きれいだねえ!」
 ――できた。
 僕が仕上げた海の絵を見て、そばにいたユイちゃんはふっくらとした頬を上気させて口元を緩ませ、近くにいる別の子どもも純粋に瞳を輝かせて、作品の完成を喜んでくれているようだった。
 一方で彼女は……と、そろりと視線を投げると、彼女も驚いたように目を見開いて僕が仕上げた海の色を見つめていた。
 その瞳に映る彼女の海は、納得か、不満か。あるいは賞賛か、批難か。
 ぐるぐる回る不安と恐怖――。
 いつから僕はこんなに弱虫になったんだろう。気になるけど反応を知るのが怖い。今すぐにでもこの場から逃げ出したくなる衝動と、でもそんな弱い自分を誰にも見せたくないという安いプライドがせめぎ合い、結局僕は、何も言わずにすっくと立ち上がる。
「あ、あの……」
『大変お待たせいたしました。小鳥遊さん、小鳥遊千隼さん。リハビリステーション室までお越しください』
 彼女の一言を遮るよう、タイミングよく流れてきたフロア内アナウンス。
 僕はさも『よし呼ばれたからいくか』とでもいうような、何食わぬ顔で頭上のスピーカーを見上げ、内心では逃げるように、でもそれを気取られることはないように。
「呼ばれたから行くね」
 そっけなくそれだけ言い置いて、早々にその場を立ち去った。