2.
病院の裏道で待っていると、ほどなくして彼女がやってきた。
温かそうなベージュ系のロングニットワンピースを纏い、足元には歩きやすそうな白いスニーカー。長い髪の毛は緩めに編んで一本にまとめている。
いつも思うが、隣に並ぶのを躊躇ってしまうほど目を引く可愛さだ。
彼女は弾む息を抑えると、少し恥ずかしそうにローゲージニットのタートル部分に顔を半分埋め、斜めがけのショルダーバッグを萌え袖で押さえながら言った。
「お待たせ」
おそらく無意識なのだろうけれど、僕は今、彼女に悩殺されているとしか思えない。
油断すると意識しすぎて変なことを口走りそうだったので、煩悩を捨て、何食わぬ顔で答える。
「そこまで待ってない」
今か今かとソワソワしながら待っていた奴が言う台詞ではない気がしたが、気を使わせるのも悪いので、まあ無難な返事だろうと思うことにする。
本当はもうちょっとこう、『気にしないでいいよ。じゃ、行こっか』とか、気の利いた台詞がナチュラルに言えていればよかったんだけど……女子の扱いに慣れていない僕には、これが関の山だった。
「……」
「……」
「いこっか」
「うん」
僕達は最小限の会話を交わすと、目的地に向かい、横に並んで歩き出す。
こないだも気にしていたし、ワンピース似合ってるよって褒めたほうがいいかな、いやでも恥ずかしくて口に出せる気がしないな、とか。余計なことを考えて黙々と歩く僕と同じく、彼女もただ静かに僕の隣を歩いた。
春の木漏れ日を嬉しそうに摂取して、丁寧に編み込んだ髪の毛を楽しそうに揺らしながら、彼女はこのささやかすぎる小さな外出イベントを堪能している。
「あれ」
ふと、彼女が何かに気づいたように呟きを漏らした。
あれから何度か図書館に通ったこともあり、すでにお馴染みとなっていた裏道。
しかし今日は、図書館への直行ルートではなく、僕は目の前にある横断歩道を渡った。
「……?」
隣を歩く彼女が『図書館いかないの?』といったような顔で僕を見上げている。
僕はなんだか悪いことをしているようで、ちょっと楽しくなった。
「図書館と同程度の距離なら、まあ大丈夫かなって」
「え?」
「あそこ、ずっと気になってたんだよね」
そう言って、僕は目の前にある『あそこ』を指す。
図書館の目の前にある、公営の水族館だ。
彼女が驚いたように目を見開く。
「僕の足、もうだいぶよくなってきたから。万が一、紬の体調に何かあったら僕が担いで病院連れて行くから。それなら問題ないでしょ?」
「千隼くん……」
「スランプ気味だっていってたし、たまにはいい気分転換になるかなって」
体力には自信がないが、彼女ぐらい華奢な子なら担げる気がしている。
いや本当に、そんな気がするだけだけど。
真面目な紬のことだし、もしかしたら拒否られるかもと一瞬だけ思ったけど、それは杞憂だった。
「嬉しい……! 実はあの水族館、ずっと気になってたの」
花やぐように笑う彼女の表情は、僕の心を浄化する。
つられたように自分の口元が綻ぶのを感じながら、
「そっか。じゃ、看護師さんに見つからないうちに行こう」
「うん!」
僕らは顔を見合わせて頷きを交わしてから、足早に水族館に向かう。
二人で共有する秘密を心から楽しむように、目を輝かせて館内に足を踏み入れる紬は、まるで未知なる冒険に出かける希望まみれの少女のようで、それを見つめる僕も、心を絆されるように水族館の受付をくぐった。
3.
「綺麗……」
彼女は一番大きな水槽の前で足を止め、青く輝く幻想的な世界を恍惚と見上げた。
「だね」
内心、水槽を見上げる彼女の横顔の方がずっと綺麗だと思ったが、そんな邪な感想は胸の内に潜め、僕も真似するように青の世界を見上げて、心地良さそうに水中を泳ぐ魚を見つめる。
公営の水族館だけあって、正直、魚の種類にそこまで華やかさはない。
今目の前を泳いでいる魚も、近所の回転寿司の会計脇にある大きな水槽でデモンストレーション的に泳がされている食料魚と同じように見えたし、他の水槽にいる魚も似たようなもので決して珍しい種類ではないだろう。おまけに、館内の客もそんなに多くはない。この区画に限っては、歩いている観客が僕と彼女だけという衰退っぷりだ。
それでも、目前にある青の世界は僕たちの心を癒すのに充分な魅力を持っていたし、静かで、誰にも邪魔されず、没頭して寛げる空間であることには変わりがなかった。
「私さ」
「うん?」
「ずっと、翼が欲しかったんだ」
ふいにこぼされた呟きに、彼女の乙女らしさが滲み出ている。
「翼がはえた生物、好きだもんね」
「うん。だって、翼があればどこへでも自由に飛んでいけるじゃない。だから憧れてたんだけど、でも……」
「でも?」
「自由に泳げる魚でもいいな。なんにも考えなくていい静かな世界で、ただふよふよ流れに身を任せて海の中を漂うの」
目を細めて語る彼女。ちょっと乙女らしさが薄れた気もしたけれど、想像するとそれは僕にとってもひどく魅力的な世界のような気がして、迷わず同意することにした。
「それいいね。何も考えなくていい世界とか最高だし、なにより気持ちよさそう」
「でしょ?」
「うん。魚になら僕もなってみたいかな」
賛同した僕を嬉しそうに見て、彼女は得意げに笑った。
「千隼くんはクラゲね」
「それ魚っていうより刺胞動物じゃない」
「海洋生物ならいいの。マイペースそうな感じが似てるでしょ?」
「否定はしないよ。紬は?」
「私は……薄暗い海底に張り付いてる深海魚とかかなあ」
「せっかくなんだからもっと積極的に浮上していこようよ」
「それもそうか。……あ、あっちにも行ってみよ」
「うん」
どうやら彼女はこの場所がえらく気に入ったようで、僕たちは結局、館内を三周した。
小さい水族館だから一周に十五分もかからないため、三週といってもそれほど多くは歩かない。しかしそれでも、骨折した足を治療中の患者と、不治の病を持つ病人とではそこそこ程よい疲労感を味わうくらいには充足感があった。
三周目の終わり際、大きな水槽前に設置された休憩用ベンチに腰をかける。
相変わらずひと気は少ない。壁にもたれかかって水槽を見上げ、余韻に浸るようぼんやりしていると、『ちょっと待ってて』といって席を外していたはずの紬が戻ってきた。
「はい、これ」
「あ。ありがと」
てっきりトイレか何かかと思っていたのだが、違った。
彼女が差し出してきたアイスレモンティのペットボトルを、ありがたく受け取る。
代金を払おうとしたら断られた。こないだお見舞いで渡した紙パックジュースの返礼のつもりらしい。お見舞いはお見舞いだから気にしなくていいのに。
彼女はおとなしい外見とは裏腹に意外と頑固な性格であることが判明済みなので、ここは大人しく引き下がって受けとった方がいいだろう。ありがたく僕の好物であるレモンティを啜った。
しかしそこでふと気づいたのだが、ミルクティ派の彼女が僕と同じレモンティを美味そうに飲んでいる。
売り切れだったか、あるいはレモン派に鞍替えったのか。
そんなどうでもいいことを考えていると、彼女が唐突に言った。
「……それでね」
「うん?」
「批判があるってことは、アンチにも届いた証拠だと思うの」
「……?」
一瞬、彼女が何を言っているのかよくわからなかった。
目を点にしながらも、一応「う、うん?」と相槌を打つと、彼女は僕を見つめ、結論を見出した数学者が証明でも始めるように、その先を続ける。
「だからそれは、千隼くんの絵がファン以外の多くの人にも届いた証拠であって、あまり気にしすぎる必要はないっていうか。否定されれば傷つくのはわかるけど、その人たちのためだけに筆を折ったり遠慮したりする必要はないと思うんだ」
「えと、ごめん、なんの話?」
ものすごく語尾を強めて力説しているのはわかるが、話の文脈が見えてこない。
戸惑うように首を傾げて尋ねると、彼女はようやく己の昂りを鎮めるよう長い息を吐き出してから言った。
「千隼くんが色を塗れなくなった理由について、色々考えてたの」
「あー……」
「前にネットで誹謗中傷されて、ショックで色が塗れなくなったって話してくれたじゃない」
「うん」
やはりそのことだったか、と、心の古傷がギシリと痛む。
でも彼女は逃げることなく真剣な眼差しで僕を見つめ、続けた。
「それについて私なりに考えてたんだけど、最近、投稿サイトに自分の小説を掲載するようになって、始めて気づいたんだ。無名だと、どんなに頑張っても批判すらこないって」
「……」
「せっかく勇気を出して日の当たるところに作品を出したんだから、何かこう反応みたいなものが欲しいのに、そもそも閲覧数自体がそこまで伸びなくてね。ちゃんと読まれているのか、いないのかもよくわからない。だから、誰かから〝感想〟をもらえるだなんて夢のまた夢だった」
悲しそうに自分の現状を吐露した彼女は、しばし項垂れる。
ひしひしと伝わってくる悲壮感。不二の病を愁うそれとはまた別の悲しみに暮れていて、大いに僕の憐憫と同情を誘った。
やがて彼女はゆるく息を吐き出して、前を見つめるように結論に結ぶ。
「でもさ、よく考えれば、よっぽど感情が爆発しない限り……いや、それか、普段から活動的に感想を書き残すタイプの読者でもない限り、わざわざ感想を書こうなんて思わないと思うんだよね。だって、筋金入りの本好きな私ですら、そうだもの」
「……」
「それじゃ作者さんに何も伝わらないしダメだっていうのはわかってはいるんだけど、私は自分の中で浸るように物語の余韻を味わえればそれでいいと思ってしまう内向的な人間だから、つい応援ボタン押す程度で済ませてしまうっていうか。それでも、熱量がないわけじゃないんだよ。気に入った作品は何度でも読むし、機会さえあればその作品を誰かに紹介したりもする。きっと誰よりもその作者さんの次回作を楽しみにしてると思うし、積極的に何かを口にしなくても自分なりの『応援』はしているつもりなの」
「……」
「多分、そういう寡黙な読者って、故意に批判的な意見を書き込む人間より遥かに多く存在してるんじゃないかなと思って」
唐突すぎてやや面を食らっていたが、彼女のいうことはなんとなく理解できた。
だって実際、僕だって彼女と同じで、元々コミュニケーションが得意ではないので、自分の気持ちをうまく相手に伝えることができないうえ、実際に何かアクションを起こそうとしても躊躇してしまう。
結局、いつも何もできずに静観してるけれど、好きな作家が新作を出せばすぐに飛びつくし、誰かに好きな作品を問われれば胸を張って推したりもする。その人の作品を好きな気持ちは誰にも負けないつもりだ。
かくいう当時の僕の作品にも、そういう寡黙な閲覧者はたくさんいたように思う。
何かコメントやメッセージを残すわけではないが、お気に入りや応援のボタンを押してくれたり、絵を公開するたびに閲覧しにきてくれる人たちがいたから、ランキングでも上位に食い込めていたはずだったのに。
それなのに僕は――。
「だからね、ごく一部の否定的な意見を持つ人のためだけに、筆を折ってしまうのは勿体ないと思ったの」
「……」
それなのに僕は、いつも応援してくれる優しい読者よりも、攻撃的なアンチの意見にだけ耳を傾け、筆を折ってしまった。
「きっと、私みたいな静かなファンが千隼くんの帰りをずっと待ってるはずだから。だから……色が塗れなくて苦しい時は、批判的な人の顔より、応援してくれる人の顔を思い出して筆を握ってほしいなって思って」
やはり彼女は、そのことについて言及しているようだった。
「……」
いつも純粋に僕の創作活動を応援してくれていた人たちに、改めて申し訳なく思う気持ちが湧き上がると同時に、今まで悲観的にしか物事を見れていなかった自分の心に、わずかながら光がさしたかのような、少しだけ前向きになれそうな気がした。
押し黙る僕とは正反対に、本人は言いたいことを言えてすっきりしたのか、晴れ晴れとした表情でレモンティを啜り、一つ、小さな欠伸をしている。
そういやヒロト少年を見送りに出る前、たくさんの薬を飲んでいたっけ。その副作用なのか、彼女はちょっと眠たそうな眼でぼんやり水槽を見上げている。
「……ほんと、なんの話かと思えば唐突なことを言い出すよね」
「ずっと言おうと思ってたんだけど言うタイミングがなくてさ……。でも、今なら言えそうな気がしたから言っちゃった」
「そう。なんか不意打ちすぎて戸惑ったけど、おかげで少し目が覚めた気がするよ」
ちらりと横目で見やると、彼女はしてやったりな顔でこちらを見ていた。
彼女を励ますためにここへきたはずなのに、なんだか逆に励まされている気がしないでもない。
苦笑しながらも、彼女から視線を外してぼんやり考える。
(僕の絵を、待ってくれている人……か)
僕の作品に誹謗中傷を投げつけてきた奴らもまた、僕の帰りを待っているだろう。
そう思うと怖くて仕方がないが、深呼吸して目を閉じ、彼女の助言通りにそいつらの何倍もの寡黙な応援者たちが僕の帰りを待っているかもしれないことを想像してみる。
僕の描いた絵が、誰かの活力に繋がる。
ヒーローの絵で喜んでくれた英太のように。あるいは、色のない世界に一瞬だけ色が灯ったように見えたと嬉しそうに語った紬のように。
大切な人たちの幸せそうな笑顔を思い浮かべると、不思議と古傷の痛みが和らいだ気がして、その存在がとても心強く、頼もしく感じた。
やっぱり、励ましにきたはずが逆に励まされ、焚き付けられたようだ。
「ありがとう、紬」
照れくささを感じながらも素直にそう告げたが、返事はなかった。
魚鑑賞に夢中になっているのかと思って、横目でそっと彼女の顔を覗き見ると、彼女は静かに眠っていた。
一瞬、息をしていないんじゃないかと思ってかなり焦ったが、寝ているだけのようだ。
心地良さそうな寝息が控えめに溢れている。
落とさないよう、彼女の飲みかけのペットボトルを手の中から引き抜き、しばらく壁にもたれて彼女の安らかな睡眠を見守る。
ほどなくすると彼女の頭が僕の肩にソッともたれかかってきて、ギョッと心臓を飛び出しかけた。
「……」
十六年間生きてきて、こんな近距離まで女子に接近したことがない。
緊張気味に視線だけを動かして彼女を見たけれど、当然のことながら頭しか見えなかった。
肩にこもる熱。柔らかい仄かなシャンプーの香り。一度でいいから触れてみたいと思っていたしなやかな髪が無邪気に僕の頬をくすぐり、なんだかこそばゆくてたまらない。
起こそうか、体勢を変えようか迷ったけれど、心地よい眠りを邪魔するのは気が引けるので、結局僕はそのまま地蔵のように固まって時を過ごした。
(もう少しだけ、このままで……)
僕の願う〝もう少し〟は、だいぶ長いこと続いて――。
三月の中旬。仄暗さと静けさに覆われた神秘的な空間で、僕と死に向かう彼女はひとときの安らぎを共にした。
1.
紬と出会って四十八日目――水族館デートから一週間ほどがすぎた三月下旬の夜 。
紬に内緒で描いていた、イラストコンテスト用の作品が完成した。
今期テーマは『再生』。なかなかテーマに見合った渾身のイラストが描けたとは思うが、相変わらずモノクロに近い絵であることが際立っていて、おそらく初期の段階で審査を落とされるだろうことはもちろん自覚していた。
それでも、自分を奮い立たせるためにも、完成したファイルを思い切って送信し、応募を完了する。
もしも少しでもいい結果が出れば、きっと紬が喜んでくれると思うし、彼女の創作魂にも火をつけられる気がする。そう考えれば『やる』という選択肢以外なかった。
結果が出るのは三〜四週間後。僕は少しの達成感と、期待というよりは大きな不安を抱えたまま、神の審判を待つことにした。
*
その三日後 には学校の終業式を迎え、僕は春休みを迎える。
休み期間に入ってすぐ、特にこれといった予定のない僕は、再び紬を見舞うことにした。
思えばここ最近、リハビリを進めて順調に回復に向かう僕とは真逆に、紬の不調が目立ち始めている気がしている。
例えば、部屋に入って行っても気づかずにぼーっとしていたり、いつものように頭を寄せ合って互いにノートや手帳を広げて創作活動に入ろうとしても、彼女だけペンを走らせていない時間が増えていたり。
はたまた一緒に病院内を歩いていても、すぐに休憩を提案されて移動もままならなかったり、以前に増して彼女の口数が減ったうえ、少し痩せてきたようにも思う。
もはや〝スランプ〟というには目に余る、明らかな不調。
『体の調子が良くないの?』
一言そう聞けば済む話なのかもしれないが、僕はいまだにそれを口にすることができなかった。
それを尋ねて答えを聞いてしまったら、『余命三ヶ月』を現実のものとして受け入れなければならない気がして、どうしても口にできなかったのだ。
(でも、大事なことだし……ちゃんと向き合わないと)
ため息をつきながらも自分の気持ちに区切りをつけ、紬がいる病室の前に立つ。
出会って間もない頃は相部屋だったけれど、ここ最近、個人部屋に移ったらしい。
それが意味するところは――と、いらぬ詮索をしかけたところでバキッ、と、何か硬いものが割れるような音が扉の奥から聞こえてきた。
「『小説なんて』だなんて言わないで!」
続いて聞こえた、大きく張り上げられた紬の声。
僕は慌てて扉に触れ、そっと隙間を開けて中を覗く。すると、
「わ、わかってるわ。で、でもね、紬。あなたのそれは『スランプ』なんかじゃなくて、脳の病気による記憶障害みたいなものだから、無理したってどうにもならないのよ」
「……っ」
「今はお薬の影響もあるし体の調子も良くないんだから、脳や体を休めることを最優先して、創作活動は少しお休みしたほうがいいと思うの」
室内には悲痛な表情で紬を宥める母親の姿と、ベッドに座ったまま涙目で母親に懇願している紬の姿、そして壊れて床に散らばった薬のケースと散乱した薬が見えて、僕は頭を棒で殴られたような衝撃を受けた。
「ずるいよ! そうやって今までもやりたいことを諦めたり、大きな手術だって我慢して何度も受けてきたのに、一度だって病気が良くなったことなんてないじゃない!」
「そ、それは……」
「治療したって休んだって何したってどうせ悪化しかしないんだったら……もう治療なんてしなくていい。小説が書きたい。私は千隼くんとの夢を叶えたい」
「紬……」
「私にとっては小説が……千隼くんとの夢だけが……生きる希望なのに……。どうしてそれすら許してもらえないの」
「……。あの千隼くんって子だって、話せばきっとわかってくれるはずよ。だから、そんなにムキにならないで。今は先生のおっしゃる通り、薬の量を増やし――」
「いや……。もう薬も手術もいやだよ……」
その悲愴な訴えは、僕の心を深く抉った。
僕にとっての紬は、強くて、凛としていて、おっとりして見えるけど根は頑固で、『死』を前にしてもその定めに屈さない潔さみたいなものを抱え、スマートに病魔に立ち向かう健気な少女として印象付けていた。
思えば出会った頃の紬は、どこか達観したようにも見えていたし。
だから僕は、ずっと錯覚していた気がする。
紬は強い子で、きっと『余命三ヶ月』なんていう悲運は持ち前の気丈さで吹っ飛ばしてくれるんじゃないかって。
「死にたくない」
――だが、現実は違った。
泣きじゃくる紬の口から放たれるその言葉の中には、彼女の本心と生々しい現実しか存在していなくて、僕はようやく現実を受け入れる。
「生きたい……」
紬は死と向き合い、必死に抗っている。
色のない世界で孤独に病魔と闘い続けてきた十六歳の少女が、余命を宣告された死の間際まで強く居続けられるはずがなかったのだ。
「ごめん、ごめんね紬……母さんが……母さんがもっと元気な体に産んであげれば……ううん、母さんが代わってあげられたらよかったのに……」
声をあげて泣く娘を必死に抱きすくめて宥める母親。そんな彼女もまた、幾重もの涙をこぼして泣いていて、当然のように僕は、室内に入っていくことなどできなかった。
「……」
彼女のために絵を描いたり、励ましの言葉を送ったり、気分転換に図書館や水族館に連れ出したり。
少しでも何かの力になれていたならいいな……なんて都合のいいことを思っていたけれど、そんな甘くて調子のいい幻想は、全て僕の独りよがりだった。
そりゃあ多少の息抜きぐらいにはなれたかもしれないけれど、それはあくまで、彼女の病気と向き合っていない能天気な僕と、不安を押し殺した状態の彼女が、夢見心地な時間を共有していただけの話。
本当は、きちんと彼女の病気と余命を受け入れた上で、彼女と向き合わなければならなかったのに。
本当は僕が、もっと彼女の苦しみや辛さを受け止めた上で、体への負担を考慮しつつ創作活動の制御をしてあげなければならなかったのに。
僕は結局、彼女のために何一つできていなかった。
きっと紬は、ずっと独りで病気や現実と闘い続けていたのだ。
急に自分が、ひどく不甲斐ない生き物に思えた。
わずかに開いた扉の隙間から漏れ聞こえてくる彼女の泣き声が、不自由なく明日を生きていける自分の胸を締め付けるようで、僕はしばらく奥歯を噛み締めてその場に立ち竦んでいた。
2.
病室の扉を開けることができないままその場を立ち去った僕は、日を改めた翌日 、朝一で再び病院へ向かった。
今の僕に何ができるのかなんて結局わからないままだけれど、一目でいいから紬に会いたい。会って、少しでも彼女の心を支えたい。
浅はかな願いだとは思ったが、いてもたってもいられなくて足早に訪れた面会窓口に顔を出す。すると、
「あら、千隼くん。紬ちゃんのお見舞いかしら?」
「あ、はい」
「ごめんなさいね。彼女は今、脳外科で検査中なのよ。その後も診察があるから、午前中は病室に戻らないと思うわ」
見舞いに通いすぎてもはや顔馴染みとなった看護師の山田さんが、通りがかりに丁寧にそう教えてくれた。
「そう……ですか」
僕は持っていたビニール袋――中には見舞い品であるいつもの紙パックレモンティが入っている――を握りしめ、俯く。明らかに元気のない顔をしていたのだろう。見かねた山田さんが、取り繕うような笑顔を浮かべて励ましの言葉をくれた。
「お部屋に多分、親御さんが残っていらっしゃると思うから、お土産だけでも渡していったらどうかしら? 紬ちゃん、きっと喜ぶわよ」
優しい笑顔が身に染みる。せっかくそう言ってくれてるのだし、僕は小さく頷き、丁寧に礼を述べてから紬の病室に向かうことにした。
*
病室の前にやってきた僕は、半開きになっていた扉に気づき、歩みを止める。
ネームプレートを確認してから中を覗くと、室内には紬の両親と担当医と思しき白衣の先生が、声を顰めて何やらやり取りを交わしているところだった。
「先生、無理は百も承知です。でも……何か、何かそれ以外の方法は……」
「お母さん、お気持ちはわかりますが、もう今の我々にはそれ以外にどうすることもできないんです」
神妙な声色に、ドキッとする。
声の主は、懇願するような眼差しを送る紬のおばさんと、優しく諭すように説明する医師。
聞いてはいけない話だろうかと一瞬尻込みしたものの、正直、内容が気になってしまって足が動かない。
紬のおばさんは手に持ったハンカチを握りしめたまま、続けた。
「ですが先生、あの子には……紬には今、『小説を書く』ことだけが唯一残された生きがいみたいなものなんです。これ以上お薬を増やして、その影響でそれすらもできなくなってしまったら、あの子はいったいどうしたら……」
「お気持ちはお察しいたします。しかし、このままでは紬ちゃんの記憶障害が進んでしまいます。体の負担を考えながら少しずつ薬剤の処方を増やし、病の進行を遅らせることが現段階での最善策といえますので……」
「で、でも……」
「まあ、副作用といっても、必ずしも脳を使った作業ができなくなるといったわけじゃありません。紬ちゃんの努力次第にはなりますが、無理のない程度であれば書き物をすることも可能だと思いますので、今は前向きにこの治療法を検討された方が彼女のためになるのではないかと……」
「……」
話の内容は、分かりたくもないのになんとなく理解ができてしまうような内容で、何よりおばさんの苦悩に満ちた表情が痛ましく、腹の中に重い鉛が落ちたような気持ちになった。
おばさんは隣にいる紬のおじさんにもたれ、感情を押し殺すように啜り泣いている。
「わかってるんです、それはわかってるんです……けど……。生まれてからずっと無理ばっかり押し付けてきて……あの子はずっと我慢してきたのに、病気は悪くなるばかりだし、最近は目に見えてあの子も参ってきていて、いったい私たちはどうしたら……」
おばさんの悲痛な声が、僕の胸を押し潰すほどに締め付ける。
孤独に闘う紬と共に、おばさんたちもまた、懸命に紬の病と闘っているのだ。
その場で呆然と立ち尽くしたまま、僕は、肩に下げていたスクールバッグを……そこにつけていたクラゲのキーホルダーを、強く握りしめる。
それは、先日行った水族館の帰りに、紬とお揃いで買ったものだった。
もちろん、僕の町のしょぼくれた公営水族館にはクラゲなんて気の利いた刺胞動物はいなかったけれど、いつか病気が良くなったら本物を見に行こうと気前よく話しながら、一番安価で、でもそこにある商品の中でどれよりも顔立ちが良さそうなクラゲを選んで――厳密には紬が選んだのだけれど――思い出と共に持ち帰っていた。
「……」
僕は、唇をかみしめて顔をあげる。
いつもの僕なら、ここで踵を返していたと思う。でも、今日の僕は違った。
コンコンとノックし、返事を聞く間もなく半開きの扉を開ける。
「失礼します」
「……っ!」
紬のおじさんとおばさん、それから紬の担当医が驚いたような顔で同時にこちらを振り返った。
「き、君は……」
「千隼……くん?」
僕は何度も紬の病室を訪れていたため、すれ違ったり顔を合わせれば挨拶を交わすぐらいには、おじさんおばさんと面識があった。
二人は僕たちが創作活動をしていることも知っているし、応援してくれているかどうかまではわからないけれど、特に何か文句を言われたことはないので、僕らの趣味を見守ってくれているのかな、と勝手に思っている。
「おじさん、おばさん、すみません。その、立ち聞きするつもりはなかったんですが」
言いながらも、盗み聞きしていたことは丸わかりの状況だ。
おばさんは慌ててハンカチで目元を拭い、必死に苦笑してその場を取り繕おうとしている。
「あらやだ、聞かれちゃったかしら。その、これはね……」
「大丈夫です。紬ちゃんには何も言いません」
「千隼くん……」
「一つだけ教えてください。紬は……紬ちゃんの病状は、あまりよくないんでしょうか」
「……」
僕の問いかけに、おばさんからの返事はわずかな沈黙と、肯定を意味するような苦笑だけが返ってきた。
ぐ、っと。締め付けられるように胸が痛む。
うまく言葉が出てこない。束の間の静寂。言葉を濁すおばさんと、真剣な顔の僕を交互に見やったおじさんが、それを打ち破る。
「君は、いつも紬の見舞いに来てくれている千隼くんといったね?」
「はい」
「紬がいつもお世話になっているようだし、隠していてもわかってしまうだろうから正直に話すが……紬の病状は良くない。一見元気には見えるんだけどね。おそらく君が思っている何倍も、病気は進行している」
僕は無言で唇を噛み締め、クラゲのキーホルダーを強く握りしめる。
おじさんは目にうっすらと涙を浮かべながらも、毅然とした口調でさらに続けた。
「もちろん、だからといって望みを捨てているわけではないんだが、元々紬の病気は突発的に悪化する恐れのある病気で、いつ、どこで何が起こってもおかしくはない覚悟だけはしているんだ。だから今までも、できる限り可能な範囲で紬には自分のやりたいことをやらせてきたんだけど……」
「……」
「聞いての通り、君たちが励んでいる創作活動については、今後、脳の病気や薬の影響で弊害が出てきてしまう可能性が高いんだ。今は本人にも有耶無耶に説明してなんとか誤魔化しているが、病気ときちんと向き合うためには、そのことを本人にもきちんと話して納得させなければならなくて……」
その先を言い淀むおじさん。
言いたいことはわかる。今の紬にとって創作活動は唯一の生き甲斐であり、辛うじて生きる気力を保つ生命線のようなものだと認識している。
治療のためとはいえ彼女からそれすらも奪うということは、延命だけして魂は殺すというのも同義。そんなこと、当然紬の両親にとっても本意ではないはずで……。
苦渋に満ちた表情で項垂れるおじさんと、静かに涙を流すおばさん。
そして、それを鎮痛な面持ちで見守る担当医。
「……」
僕はどうするべきか、必死に思いを巡らせた。
僕はまた、彼女のために何もできないのだろうか。
僕はまた、何もできないまま大切な人を失うのだろうか。
(そんなのは……いやだ)
散々思い悩んだ末……顔をあげ、僕は吹っ切るような口調で切り出す。
「そのことでちょっと相談があるんですが」
彼女の〝病気〟と〝現実〟をようやく受け入れた三月の下旬。
紬のいない静まり返った病室で、僕は〝ある提案〟を口にした。
3.
紬の両親と担当医に改まった相談を持ちかけたその日、僕は午後の面会時間に改めて病室を訪れた。
家族、担当医のお墨付きのもと、紬に『ある話』を持ちかけるためだ。
しかし、すでに検査が終わったはずの彼女の姿はそこになく、代わりに午前中顔を合わせたばかりのおばさんがいた。おばさんに彼女は現在屋上にいると告げられ、エレベーターで七階まで上がって患者専用のテラスに出る。
庭園となっているそこには、春らしい美しい花々が花壇に咲き揃っており、見る者の心を慰めてくれるようだった。
紬は、そんな花々に囲まれた中央のベンチにポツンと腰掛け、テラスに訪れた春をぼんやり眺めていた。
明るい陽の光に照らされて、長い髪の毛が春風に流されるようさらさらと靡いている。絵にしたくなるような美しい情景だが、彼女の表情はいつにも増して覇気がない。
検査で疲れているのか、あるいは……。
わかりもしない彼女の心情を推し量っていると、僕の来訪に気づいた紬と目が合った。
「千隼くん?」
「こんなところにいたんだ」
驚いたような顔をしている彼女にひらりと片手をふり、そばに歩み寄って隣に腰掛ける。そこに座ると、色とりどりの花々に周りを囲まれて視覚的にも精神的にも心底安らぐようだったが、病気で色を失っている彼女にはこれが全てモノクロに見えているんだと思うと、なんとも居た堪れない気持ちになってくる。
紬は慌てたように微笑し、気丈に振る舞った。
「びっくりした。いつもより早いんだ」
「うん。もう春休みだから」
「ああ、そっか。もうそんな時期なんだね。リハビリはもういいの?」
「あとで寄るつもりだけど、もうだいぶ良くなってるから心配にはおよばないよ」
「そう。それならよかった」
満足したように頷いて、視線を僕から花壇に向ける彼女。
しばらくそのまま、無言で時を過ごす僕たち。
紬が何を考えているのかはわからない。目に見えて衰弱してきている自分の病状を話すべきか否か、迷っているような間にも思えた。
「調子はどう」
だからごく自然に自分から切り出してみる。
すると彼女は、弱音を吐き出して欲しいと願う僕の意思に反して、心配かけまいと癖のように強がった表情を浮かべて答えた。
「まあまあだよ」
「まあまあか……」
「最近検査が多くて疲れるけど、院内歩き回るぐらいには元気だし」
「そっか。小説の方は?」
「あ……えっと。そっちの方はまだちょっとスランプ気味かな」
とぼけて誤魔化す彼女。予想通りの反応に、僕は目を細めながら続ける。
「そう。ならさ、明日の夕方、気晴らしに取材でも行かない?」
「えっ。取材?」
思いもよらない僕の発言に、彼女はきょとんとした顔で目を瞬く。
「うん。僕、もう松葉杖も必要なくなったし、スランプ解消にたまには思い切って出かけるのもいいかなって」
「すごくいい提案だとは思うけど、思い切って出かけるって……どこへ?」
「この病院を通るバスの終着点に、遊園地があるの知ってる?」
「え⁉︎ し、知ってる……けど……まさか……」
まさかそこにいくつもりじゃ、とでも言いたげな目でこちらを見、ごくりと喉を鳴らす紬。予想以上の反応をしてくれる彼女に、僕はなんだかちょっと面白くなってくる。
「そのまさかだよ。そこに行ってみるのはどうかなって。もちろん、体調が良ければ、だけど」
「ほ、本気で言ってるの? いや、最近ちょっと気が滅入っているだけで、体調は大丈夫なんだけどね。でも、千隼くんもわかってると思うけど、お父さんやお母さん、担当の先生が許してくれない気が……」
「なら、内緒でこっそり行けばいい」
「!?」
驚愕の表情で僕をみる紬の反応があまりにも面白くて、つい、吹き出しそうになるのを我慢する。
ごめん、紬。実はすでに紬の両親にも、担当医の先生にも制限時間付きでの外出許可をとっていたりするんだ。
でもそれを言ったら面白くないと思ったし、ともすれば察しの良い紬は自分の死期が近づいているがために許された外出だと誤認してしまうかもしれない。
なので、そのことはあえて伏せておくことにした。
「僕、昼の遊園地はなんかキラキラしてて苦手なんだ。でも、夜の遊園地なら……なんか、ちょっとわくわくしてこない?」
好奇心をそそるような僕の提案に、紬は急に顔を輝かせて身を乗り出した。
「おもしろそう! 行く。絶対行きたい!」
かくして無事に決行されることとなった僕たちの取材と称した気晴らしデート。
その翌日の夕方 、紬は予定通りにこっそり病院を抜け出して外で待つ僕と合流する。
約束の場所に現れた紬は、病院を抜け出す背徳感と、イケナイことへのワクワク感で興奮が止まらないといったような楽しそうな表情をしていて、僕は思わず笑ってしまった。
そうして僕らは、まるで秘密を抱えた冒険者のように期待に胸を弾ませながら、やってきたバスに乗って三十分ほどの距離にある市内の遊園地にたどり着いたのだった。
4.
病院を抜け出し、市内の遊園地にはじめて足を踏み入れた僕と紬。
横目でもわかるぐらい、紬は嬉しそうだった。
ちょっと大人っぽいシャツワンピースに身を包み、足元にはショートブーツ。いつものポシェットを斜めにかけ、まるで病人とは思えない軽やかな足取りで遊園地入り口のゲートを潜る。
一方で僕は、迷彩柄の大きめパーカーに、カーゴパンツとスニーカーといったラフなスタイル。彼女に合わせてもうちょっと大人っぽい服装でくればよかったと少し後悔したが、今さら何を思っても後の祭りだし、今はそれを悔やんでいる場合でもない。
実は、来月誕生日を迎えるらしい彼女のためにちょっとしたサプライズを用意してきているのだが、あまり準備時間がとれなかったため、〝プレゼント〟の万全なチェックが終わっていなかった。
そのため、携帯電話をカチカチ弄りながら無言でゲートを潜っていると、
「ねえ見て、千隼くん!」
彼女は入ってすぐのところにあるショップ前で足を止め、僕を呼んだ。
顔をあげ、首を傾げる。彼女は店先に並んだ商品を指差すなり、パタパタとそこへ駆け寄っていくので、慌てて僕も携帯電話をしまって彼女の後を追う。
「これ、可愛い……」
紬が手に取り、うっとりしたような眼差しで見つめているのは、もふもふの耳がついたお揃いのカチューシャだ。
「……」
以前、バスの中で仲睦まじくこれをつけているカップルを見たことがある。ここの遊園地のオリジナルキャラクターを模したものだろう。これをつけると、一層遊園地にやってきた感、あるいは連帯感が出るのはわかる。
それはわかるんだけども……いやしかし。
「僕のキャラじゃない」
まさにその一言に尽きるのである。
そもそもどう考えてもこの遊園地の定番アイテムは、陽気なキャラに許された特権みたいなものだ。
おそらく僕よりも英太の方が絶対的に似合う。僕は元々、無愛想なうえどちらかというと標準よりやや高い方なので、これをつけたら異様に目立ってしまう。
例えばそうだな、『ねえみて、あの男子高校生めちゃくちゃスカした顔してるくせに実はすっごい浮かれてない?』みたいな。
まあ実際、内心では浮かれているんだけれども、せめて彼女の前でだけは常にクールな僕だと思わせておきたいので、極力余計な悪目立ちはしたくないというのが本音なのである。
「……だよね」
紬は僕の返答を予期していたように、しょんぼりと項垂れた。
かわいそうだが仕方がない。時折ちらりと視線が飛んでくるが、モフモフと体裁を天秤にかけ、結果、僕は鋼の意志で無視を決め込むことにした。
*
結局その場では何も買わずに店を離れ、園内パンフレットを見ながら、手頃なティーカップ乗り場へ向かう。
「あっちだ。ちょっと歩くけど平気?」
「うん、大丈夫」
僕は念入りに、彼女の顔色をチェックする。別にご機嫌を窺っているわけではない。病人である彼女の体調の変化をしっかり見極めるためだ。
その道すがら、何度か男女のカップルとすれ違った。
皆、事情もちの僕たちとは違って、なんの苦労や憂いごともなく健康な体で、健全なこの時間を楽しむためだけにここに存在しているかのように思えた。
そんなどうしようもない境遇の差を羨ましく思う僕とは反対に、紬は、なおも羨ましそうな顔でカップルがつけていた先ほどのカチューシャを見つめていた。
「……」
どうやら彼女は、本気であれが欲しかったようだ。
そんな気配を察しているうちにティーカップ乗り場が見えてくる。そこには程よい列ができていて、順番待ちのカップルたちで賑わっていた。
「まあまあ混んでるね」
「うん。まだナイト入園始まったばっかりの時間帯だしね。一日フリーパスで昼からいる人達とナイト入園で今入ったばっかりの人達が混ざってるんだと思う」
差し障りのない会話を交わしながら札を見ると、列の最後尾のあたりは『約十五分待ち』となっている。今の時期はどこの学校も春休み中だろうし、多少の混雑はやむを得ないだろう。
「ちょっとトイレ行ってきていい?」
最後尾につくと、僕は出しぬけにそう申し出た。
「あ、うん。並んで待ってるね」
「紬は行かなくて平気?」
「私は大丈夫。気にせず行ってきていいよ」
快諾してくれた彼女の言葉に甘えて、僕は早々に列を外れる。
ここへくる道中に目視していたので、トイレの場所は把握していた。
先ほどのショップのすぐそばだ。僕は先ほどのショップまで戻り、あれこれと用を済ませてからいそいそと紬の待つティーカップの列に戻る。
「ごめんお待たせ」
「おかえり、早かったね」
列は先ほどよりだいぶ進んでいて、一番近くにある立て札を見ると『ここから五分待ち』となっていた。
僕は周囲の人に会釈をして列に加わりながら、腕に抱えていたショップ袋の中から一本を取りだし、紬に差し出した。
「え」
「はいこれ」
「うそ。待って。どうして」
「落ちてたから拾った」
照れ隠しにどうでもいい嘘をつきながら、僕は購入してきたばかりのもふもふカチューシャを無言で頭に装着する。
鏡を見なくてもわかる。絶対似合ってない。それが証拠に、紬がめちゃくちゃ吹き出しそうな顔をしていた。
「つけないの?」
そこはあえてスルーすることにして、彼女をこちら側の沼へ引きずりこむことにする。
すぐさま紬はもふもふカチューシャを装着し、嬉しそうに満面の笑みを浮かべてみせた。
「ふふ。おそろい」
「……」
その笑顔、最高かよ。
言わずもがな彼女は僕の何倍もカチューシャが似合っていたし、僕のしょうもないプライドよりも彼女の希望を尊重して良かったと心底思った。
*
その後、順番がやってくると彼女はもふもふの耳を揺らしながら満足げな顔でティーカップに乗り込んでいき、僕もその後を追う。
不思議なものでカチューシャをつける前と後じゃ連帯感や高揚感がまるで違う。僕はあくまで今日は取材だからこういうシチュエーションを味わうのも大事なことだと思うことにして、それとなく携帯電話のカメラ機能で紬を撮った。
「あ。今、撮ったね?」
「取材なんだから写真がないと」
「それはそうだけど、私だけ浮かれてるみたいで恥ずかしい」
「大丈夫。年相応の浮かれ方だから」
「浮かれて見えることは否定しないんだ……」
項垂れる紬。いや、実は密かに僕も浮かれているし、どうせなら二人の2ショット写真が撮りたかったわけなんだが、さすがにそこまでは勇気が出なかった。
そんな僕の気持ちを見透かしているのか、それともモフモフカチューシャ効果なのか。紬は顔をあげてチラとこちらを見ると、ふふっと笑って大幅に身を寄せてきた。
「せっかくなんだし、千隼くんも一緒に撮ろ」
「あ、うん」
女子に免疫のない僕は、正直かなり動揺した。
だって、横を向けばすぐそこに彼女のほっぺたがあるわけで、この届きそうで届かない微妙な距離感がなんだかすごくくすぐったい。
ふわりと鼻腔をくすぐる甘い香りに心拍数を跳ね上げながら、インカメラに切り替えてシャッターを切る。
「撮れた?」
「……うん」
「目、瞑ってない?」
「大丈夫。あとで送っておくね」
撮れたて写真を横目でチェックしつつ、僕はさりげなく彼女から距離を取る。このままでは心臓が爆発すること間違いなしだからだ。
そうこうしているうちにティーカップが緩やかに回り出す。機体の真ん中についたハンドルを回すことで回転速度を自由に操ることもできるのだが、僕らはハンドルを回さなかった。
彼女の担当医に負担のかかる乗り物は厳禁だと念を押されていたためだ。
優雅な回転だけ堪能してアトラクションを終えると、彼女は出口をゲートをくぐるなり、すぐ隣の敷地にある乗り物を指した。
「ねえ、次、あれのろ」
「どれ?」
「ほら、すぐそこの船みたいなやつ」
彼女の希望に沿って隣接するアトラクションに移動し、今度は優雅な船乗り気分を味わう。この船は幼児用向けに作られた乗り物なので、水の流れに沿ってぷかぷかと浮かぶだけ。体に負担がかかる心配はないだろう。
彼女が無理をしないように。少しでも体に負担がかからないように。
マップの利用制限マークを吟味して、その後も効率よく乗り物を回っていく僕たち。
連帯感のあるモフモフカチューシャをつけているせいか、いくつかのアトラクションを経たあたりで僕たちはだいぶ浮かれはじめていた。
「次、どれ乗ろうか」
「ん〜……あ! あれがいい」
やがて彼女が指さしたのは、豪華なライトを灯しながら禍々しい絶叫を乗せて走るジェットコースターだ。
「君、心臓止まるって」
「やっぱり止まるかな?」
「試す気にはなれないかな」
「そっか……。じゃあ、お化け屋敷とかはどう?」
「際どいものばっかり選びたがるのはなぜなんだ」
「せっかくの取材なんだし、普段味わえないようなことをした方が実用性があるかなって」
「それはまあそうだけど」
「それにね。千隼くんっていつも涼しい顔してるから。たまには驚いてる顔が見てみたくて」
「……」
僕の驚く顔ぐらい、いくらでも見せてあげるのに。
そうは思ったけれど、普通に快諾しても面白みがないので僕は熟考の末、ちょっと一捻りして答えることにした。
「じゃあこうしよう」
「うん?」
「お化け屋敷で先に悲鳴をあげた方が、今日の晩ご飯代奢るとか」
なかなか挑戦的な提案ができたと自分でも思う。
なにしろ僕は、幽霊とか非科学的なものを一切信じていない。おまけに伊達に無気力生活を送ってきたわけじゃないので、無表情勝負になら自信がある。
というわけで、まだ勝負がついたわけでもないのにやや勝ち誇ったように彼女を見下ろすと、
「おもしろそう。でも、それなら負けた方が勝った方の言うことをなんでもひとつ聞くっていう方が面白くない?」
意外すぎる彼女の提案に、僕はひどく面食らった。
「……」
「あれ。もしかして勝つ自信ない?」
「いや、そんなことない。いいよ、それでも」
おそらく常に高揚感を煽ってくるモフモフカチューシャ効果だろう。今日の紬はえらく好戦的だ。
戸惑いはしたけれど、いい具合に彼女も盛り上がっているようだし、ここで引き下がったら男としてのプライドが台無しなので、僕は二つ返事で了承し、お化け屋敷に爪先を向ける。
かくして僕たちは、取材や病人という建前を完全に忘れ、報酬をかけた戦いの火蓋を切ることとなった。
5.
そもそも僕は、遊園地というものに縁がない人間だった。
物心ついた頃には母一人子一人の生活で、母さんはいつだって忙しい人間だったし、たまにの休日に疲労感をおし隠して投げられる『どこか出かける?』という問いかけには、僕は決まって『図書館』とか『ゲーム機売り場』と答え、向かった先で一人黙々と本を読んだりゲームを手にとってパッケージを眺めるだけという、究極に手のかからない子どもだった。
もちろん遊園地に興味がなかったわけじゃない。でも、普段から疲れている母さんをさらに疲れさせるのはどうにも気が引けたし、そこまでして乗りたいと思うような乗り物もなかった。
だから僕にとっては、中学校時代に遠足で訪れた以来の遊園地だった。
遠足で行った遊園地にはお化け屋敷自体がなかったので、お化け屋敷に限っていえば人生初挑戦、ということになる。
初めて足を踏み入れるそこは漫画やテレビで見た通り、ずいぶん古い様式の長方形のプレハブとなっていて、不気味に飾られた妖怪人形達の脇にこぢんまりとした入り口がある。
「はい、二名様ね。暗いので足元にお気をつけくださ〜い」
受付にはやる気がなさそうな係員のおじさんが一人、数取器――あのカチカチ押す銀色のやつだ――を片手に、僕たちを待ち構えていた。
この屋敷はどうやら自らの足で周るタイプらしい。あまり人気がないこの施設を好んで利用しようとする物好きは僕たちぐらいなもので、受付のおじさんがカチカチした手元のカウンターも、『十五』という寂しい数字を指したまま止まっていた。
すでに時刻は十八時を回っているというのに、僕らの他に十三人しかこの屋敷を利用していないのか……。
「じゃ、行こう」
「う、うん」
目の前にぶら下がる幽霊らしき人形を邪険に手でかき分ける僕とは打って変わって、ひどく怯えた表情でさりげなく僕の後ろに隠れるようについてくる紬。
「……」
「……っ!」
入り口にある暗幕を開けてすぐ、ヌウっと浮かび上がってきた生首に、彼女は瞬時に後退りながらも両手で口を押さえていた。
(怖いのか……)
挑発的に勝負を煽ってきた割に、どうやら彼女は幽霊系が苦手のようである。
心臓、止まらないだろうな……と不安に駆られつつも、彼女は健気に前に進もうとしているので、そのまま先を急ぐことにする。
係員の案内通り、屋敷の中は真っ暗だった。
足元の誘導灯を頼りに、そろりそろりと歩みを進める。
ところどころに仕掛けが施されており、突然ひんやりした風がうなじの辺りを掠めて恐怖心を煽られたかと思えば、お経らしきBGMが流れ出して右手側にあった井戸の中から髪の長い幽霊――巧妙に作られたマネキンである――がすうっと現れ、不気味な顔でニヤアと微笑まれたり。
時には仕掛け扉の開錠に挑戦させられ、その先に踏み込んだ途端、意表をつくように飛び出してきた血まみれの幼児――のマネキン――に肝を冷やされる、なんていう場面もあった。
「……」
「〜〜っ、……!」
それらの光景を死んだ魚のような目で見送る僕とは大違いに、紬はお化けが出てくるたびに涙目になりながら必死に悲鳴をこらえていた。
苦手なら無理に肝試しで勝負を挑んでこなければよかったのに、と思う反面、なんだかちょっと不憫に思えてきて、ここらで悲鳴の一つでもこぼして早めに勝負を終わらせてあげようかという同情も湧いたが、やはりその考えはすぐに打ち消した。
本人がここまで必死に頑張っているのに、そんなことをしたら逆に誠意に欠けるってものだろう。
余計なことを考えているうちに、今までほんのり灯っていた足元の誘導灯がふっと消え、一層あたりが薄暗くなった。もう見せ場は越えたように感じていたし、そろそろ出口の案内が見えてくる頃合いかもしれない。
「大丈夫?」
「う、うん。へいき」
僕の問いかけに、背後から返ってきた声はわずかに震えていた。
後ろを振り返ると、彼女は僕の洋服の裾を僅かに掴み、泣きそうな顔で目を瞑っている。
まるで平気には見えず、意地っ張りな彼女の強がりに思わず口元を緩めていると、ふいに彼女が足元の装置に躓いて転びかけた。
「……!」
あっと声をあげるより早く、反射的に彼女の腕を掴んで引き寄せる。
二人の距離がぐんと縮み、思いもよらず彼女を抱き止めたような形になっていて、心拍数が一気に跳ね上がった。
「ご、ごめん」
「いや……」
甘く、優しい香りが鼻先をふわりと掠める。
彼女の柔らかい吐息や体温を間近に感じ、全身に緊張が走った。
(ち、近い……)
自分から引き寄せておいてなんだが、近すぎるし目のやり場にも困る。
このままだと気恥ずかしさと緊張で僕の心臓が破裂しかねない状態だったので、一旦彼女から離れつつ、少し迷ったが、僕は思い切って彼女の手を取ることにした。
「気づかなくてごめん」
「……っ」
「転んだら危ないし、色、見えないと余計に危ないだろうから。いこ」
手を繋ぐとわかる。彼女の細っこい手はかなり震えていた。
気恥ずかしさは拭えないままだけれど、彼女がこんなに無理をしてまで恐怖を堪えていたのなら、もっと早くにこうしてあげればよかったとも思う。
そうして暗闇の中、僕たちは一度も声を発することなく手を繋いで前進する。
仕掛けのお化けが飛び出してくるたびに彼女は強く僕の手を握ってきたし、僕もつられるようにその手を握り返した。
緊張で汗ばむ中、左右が障子という長い廊下の先にようやく出口と思しき扉が見えてきて、僕はホッと胸を撫で下ろす。
たった十分程度の順路が、二十分にも三十分にも長く感じた。
「出口だ」
結局、紬の根性勝ちでどちらの口からも悲鳴は上がらず、勝負はつかないままだったなあなどとぼんやり考えながら僕がドアノブに触れた……その時のことだった。
「よか……ひっ」
一刻も早く外に出ようと、横から手を出してドアを押すのを手伝おうとしていた紬が、鼻から抜けるような小さな声をあげ、ものすごい勢いで僕に飛びついてきた。
「⁉︎」
僕は一瞬、何が起きたのか理解ができず固まる。
紬は僕の胸元にぎゅうっとしがみつき、華奢な肩を小刻みに震わせていた。
「え、いや、あの」
お化けや仕掛けには一切ノーリアクションだった僕だが、このハニートラップには狼狽えざるを得ない。
いったい何事だろうと思って、彼女が触れようとしていたドア部分に視線を向けると、そこにはカメムシのような少し大きめの虫が、ぺとりとこびりついていた。
「む、むし……」
「うん、虫だね」
「こっち見てる……」
「いや、暗いしどこに目があるのかわからないよ」
「襲ってくるかも」
「そこまで凶暴には見えないんだけど」
「逃げよう千隼くん」
「そっちに逃げたら入り口に逆戻りだよ」
「戦うしかないの……?」
「話し合いが通じる相手とも思えないんだけど……っていうか紬、虫、苦手なの?」
「……」
「苦手なんだね」
屈辱そうに僕の懐に顔を埋める紬。あれだけ必死に恐怖心と闘って悲鳴を我慢してきたというのに、まさかこんなところでボロを出してしまうだなんて、彼女らしいというかなんというか。
突然のハプニングに当惑しつつも、意地っ張りな彼女の隠しきれていない女子らしさに思わず吹き出してしまった。
「ただの虫だし、大丈夫だよ」
宥めるように震える彼女の背を撫でてあげると、紬は次第に落ち着きを取り戻すよう小さく頷いた。
僕はポケットから園内マップの紙を取り出し、くるくると丸めたそれで虫を追い払う。
虫が飛んでいく一瞬、紬は体を強張らせて僕にしがみつき、さりげなく僕を盾にしていた。
「……」
遠のいていく虫の羽音。音が聞こえなくなっても紬はしばらく、僕の上半身に抱きついたまま離れなかった。
かくいう僕も硬直したまま動けずにいて、高鳴る心音が聞こえてしまわないか、手にかいている冷や汗がバレてしまわないか。そんなことを考えながら、口の中がカラッカラになるほどドキドキしていた。
しばらくそのまま、無言で互いの体を抱きしめ合う僕たち。
なんだかこうしていると、何もかも――ここがお化け屋敷の中だという現実すら――忘れて、世界が二人きりになったような錯覚に陥る。
「……大丈夫?」
彼女があまりにも身動ぎしないものだから、疑問に思って彼女の顔を覗き込むと、紬はわずかに潤んだ瞳で僕を見上げた。
(え。ちょっと待て。こ、これは……)
ごくりと喉を鳴らす僕。どう見ても彼女は、何かを訴えるような眼差しで僕を見つめている。
視界に入る彼女の艶やかな唇。
いいのか? いいのだろうか? いやでも彼女の気持ちを確認したわけじゃないし……と、若干パニくりながらも思考停止して数秒。
やがて紬が、この甘い空気に身を委ねるようそっと瞳を閉ざした。
僕の全身に、煮えたぎるような熱い血が駆け巡っていく。
引き寄せられるように僕も瞳を閉じ、少しずつ、少しずつ、傾けた顔を彼女の方に近づけ……――。
『ゴ来場アリガトウゴザイマシタ。マタノオコシヲオ待チシテオリマス!!』
「う、うおあああああッッ」
――……ようとしたその瞬間、両側の障子がスパーンと勢いよく開き、中から機械的な笑い声を発するろくろ首が飛び出してきたため、不覚にも僕は、飛び退いて絶叫を上げるという人生最大級の大失態をぶちかましたのであった。
6.
「あーもう、ホント苦しい……」
「笑いすぎだから」
お化け屋敷を出た僕たちは、その足ですぐ近くにある大観覧車乗り場へやってきたわけなのだが、彼女は先ほどからずっと、僕の失態を笑い続けている。
「ごめんごめん。だって、まさかあんなに驚いた千隼くんが見られるなんて思ってもみなかったから……ぷふっ」
係員の指示に従って丸いゴンドラに乗り込みながら、指で目元の涙を拭う紬。
笑ってもらえて何よりだが、泣くほど笑うなんてとちょっとひどくないか……と、さりげない屈辱を味わいつつ、僕も彼女の後に続いてゴンドラに乗りこむ。
「まさか最後の最後であんなに火力の高い仕掛けをぶっ込んでくるだなんて誰も思わないでしょ。あのお化けも人が悪いんだよ……」
あたかも自分の失態がお化けのせいであるかのように、僕は口を尖らせてそっぽを向く。
ちなみに今の席の配置は隣同士だ。はじめは向かい合って座ろうとしたのだが、面と向き合うのがあまりにも気まずすぎたため横という配置になった。
ゴンドラ内では移動しないでくださいと言われているのでそのまま大人しく着席しており、少し顔を背ければ彼女に不貞腐れ顔を見られる心配がないのが、不幸中の幸いである。
「まあそうだけど。でも、賭けは私の勝ちかな」
僕を横目で見やりながら、勝ち誇ったように言う彼女。
もちろん僕は、すぐさま反論することにした。
「いやだからさっきのは『恐怖』じゃなく『驚き』で上げた悲鳴だから無効だよ。それに、そもそも悲鳴なら紬の方が先にあげてたじゃない」
「あれは『お化け』じゃなく『虫』で上げた声だし、ほとんど悲鳴とはいえないような声だったから無効だもん」
しかし即座に屁理屈で対抗され、僕はぐぬぬと口ごもった。
確かに彼女のは悲鳴と判定できるかわからないような、鼻から抜けたような声だった。
悲鳴らしさでいえば圧倒的に僕の方が上だ。これはやはりこちらの敗北だろうかと素直に悔しがる僕を見て、紬はくすくすと笑いながら言った。
「……なんて、冗談だよ。どっちもどっちだし、引き分けってことにしておこうか」
「いや……まあ、確かに驚きだろうとなんだろうと悲鳴は悲鳴だし、あれだけ大きな声をあげたんだから僕の負けでいい」
「千隼くん……」
「聞くよ、なんでも。何がいい?」
〝負けた方が勝った方の言うことをなんでもひとつ聞く〟
事前に取り決めた通り腹を括ってそう申し出ると、紬は目を瞬いた後、すぐさま、
「いいの?」
と、小首を傾げてきた。
「うん」
男に二言はない。隣り合う彼女に向けて、僕は神妙な顔で頷いてみせる。
すると彼女は、観覧車の外に広がる夜景を眺めたまま、しばし何かを考えているように押し黙った。
僕の位置からでは彼女の表情は見えない。
願い事を考えているのだろうか。
あるいは、すでに願い事は決まっていて、言葉を選んでいるだけなのか。
表情が見えないのでそのどちらなのかはわからないが、今の僕にできるのは彼女の言葉が整うまで待つことだけだ。
ライトアップされた園内を覆うBGMや、ジェットコースターの音、はしゃぐ人々の賑やかな声が、わずかに開いた窓からから風とともに流れ込んでくる。
ほどなくすればこのゴンドラもてっぺんに到達するだろう。時計の針になったような気持ちで頂点を目指していると、ようやく考えがまとまったように、紬が僕を見た。
「じゃあ私からのお願い」
「うん?」
彼女は静かに目を細めて、自分の望みを口にする。
「いつか私が死ぬ時がきても、千隼くんは決して歩みを止めないでね」
息が止まるような『願い』が、彼女の口から放たれる。
「な……」
余命三ヶ月であることを知ってから、ずっと避け続けていた『死』という言葉。
その言葉は僕たちの間で、禁句(タブー)になっていたとすら思っていたのに。
急に目の前に『現実』を突きつけられて、僕は二の句が継げずに固まる。
それまで聞こえていたジェットコースターの走行音や園内アナウンスの声が、刹那、はるか彼方に遠のいたように聞こえた。
「なに……言って……」
「大事なことだから、よく聞いて」
そんな僕の目をまっすぐに見つめて、彼女は真剣に訴えるよう丁寧に続ける。
「近い将来、私はこの世からいなくなる。そんな日が来たら、千隼くんは優しいからきっと私のために泣いてくれるんじゃないかな」
「……」
「私に出会わなければ、そんな気持ちになることなんかなかったのに……悲しい思いさせてごめん。でも、私は千隼くんが……千隼くんの絵が好きだから、足枷にはなりたくない。どうせなるなら千隼くんの力になりたい」
何か言いたいのに胸が苦しくて、張り裂けそうで、何も言葉が出てこない。
そんな僕に、彼女はただ優しい顔で精一杯微笑んで、必死に僕の未来を守ろうとしている。
「だからね、すぐには無理でもいつかは立ち上がって、前を向いて、できればまた絵を描いて、たくさんの人に千隼くんの絵を届けてもらいたい。私と一緒に夢を追いかけたこと、無駄にしてほしくないんだ」
「紬……」
「それで、たくさんの人を千隼くんの絵で笑顔にして、幸せな気持ちを届けて、千隼くん自身も素敵な恋をして、結婚して……」
そこまで順調に、気丈に言葉を紡いでいたはずの紬の瞳から、大筋の涙が一粒溢れる。
まるでそこだけは、嘘をつくことを躊躇するような、そんな苦渋にまみれた涙が、白く陶器のような肌を滑り落ちていく。
「どうか、私の分までたくさん幸せになってほし――」
「もう、いいよ」
彼女の悲愴な顔を見ていられなくて、気がつけば僕は、彼女の上半身を抱き寄せていた。
ふわりと香る、彼女の柔らかいシャンプーの匂い。
「もうわかったから」
精一杯宥めるようにその言葉を吐き出すと、僕の懐にもたれ掛かっていた彼女の眼から幾重もの涙が零れ落ち、僕の胸元が涙でじんわりと滲んだ。
「大丈夫だよ、僕は。紬は僕の心配より自分の心配してよ」
「でも……」
「辛い時は無理して笑わなくていいよ。泣きたければ泣けばいいし、怖ければ怖いって言えばいい。僕も紬と一緒に病気と闘うから」
「……」
「だから……せめて僕の前でだけは、強がらないで」
願いを込めるようそう告げて、震える彼女の背をそっと撫でる。
すると彼女は、堰を切ったように嗚咽を漏らした。
長年積み重なってきた彼女の苦しみが一気に解き放たれたように、紬はしばらく僕の懐で泣いていた。
ゆっくりと空を進んでいく観覧車が、ようやく頂点に達する。
それでもやはり、紬は景色に目を向けることはなく、救いを求めるよう僕の懐にしがみつき、華奢な肩を震わせていた。
よほど今までの闘病生活が厳しく、辛いものだったのだろう。
最近病気を知ったような僕が、どんな言葉を掛ければ彼女の心を救えるというのか。
僕なりに必死に頭を悩ませたけれど、今ここで僕が何を言っても薄っぺらい言葉にしかならない気がして、妥当な言葉は見つからなかった。
それでも――。
「紬」
「……ん」
それでも僕は……僕だけは。
「これ、受け取ってくれる?」
余命、だなんて言葉に縛られず、足掻き続けていたいから。
涙にまみれた顔でこちらを見上げた彼女に、僕は自分の携帯電話を差し出した。
「……え?」
「紬、来月が誕生日って言ってたから。少し早いけど、プレゼント」
もちろん、薄汚れて画面の割れた携帯電話をプレゼントしようってわけじゃない。
僕は画面をタップし、画面下部に現れた再生ボタンを押す。
二人の間で明滅する携帯の画面。
やがてそこには、かつて紬が好きだと言っていた少し流行遅れの音楽と、色のない、白黒のフィルム動画がパラパラと流れはじめた。
「……っ」
心に染みる優しい歌声に合わせて、白黒のイラストカットが緩やかに流れる。
真っ白な世界の中心で、蹲って泣いている一人の少女。
彼女のもとに一人の少年がやってきて、手を差し伸べた。
少女は少年の手を掴む。すると、二人の真っ白な世界には少しずつ色が灯り始める。
白から薄い灰色、やや重みのある灰色、深く濃い灰色、黒に近い灰色、黒――。
濃淡がくっきりとつき、二人に陰影が生まれ、やがて彼らは立体感のある少年少女へ変貌を遂げる。
「これ……」
「紬の小説の宣伝動画だよ」
「……っ」
「僕のイラストカット数枚と、紬の小説のフレーズを掛け合わせて作ってみたんだ。……ほら紬、小説の閲覧数が全然増えないって嘆いてたから」
驚いた顔でこちらを見る紬。なんだか急に照れ臭くなった僕は、苦笑をこぼして頬をかく。
「で、でも千隼くん、デジタル画は封印中だって……」
「ん。ずっと逃げてた。でも……紬に出会って、もう一度絵を描きたいと思えるようになって、紬の小説が本になったら僕が表紙をつけたいっていう夢ができて……避けて通れない道だと思ったから、隠れてずっと練習してた」
「千隼くん……」
「結局カラーをのせるところまでは無理だったんだけど。でも、なんとかデジタルでの線画はクリアして、その勢いでせめて陰影だけでもと思ってさ……グレースケールで絵全体に陰影をつけて、それらしいタッチで仕上げたの。こういうの〝グリザイユ画法〟っていうんだけど……って、言ってもよくわかんないと思うけど」
イラストレーター志望の人間がデジタル画で絵を描くなんて、別に普通のことだと思われるかもしれないし、僕の持つ道具が鉛筆からペンタブに変わったところで肝心な色が塗れなければなんの意味もないかもしれない。
それでも、僕にとってはトラウマを克服するための貴重な進歩で、再生に向けての新たな第一歩でもあった。
「まだ昔の感覚は戻らないし、結局カラフルな色も塗れなかったけど……これからもっと頑張って、せめて来年には間に合わせるようカラー絵の練習しておくからさ。だから……」
「……」
「来年の誕生日、またここで祝わない?」
僕はまだ、諦めていない。
彼女の生きる力を。
出会ったばかりで何がわかるんだって言われるかもしれないけれど、でも。
せめて僕だけは、彼女の〝生〟を、信じ続けていてあげたかった。
「そのためにはさ、まず、少しでも病気の進行を遅らせることが大事だと思うんだ」
「……」
「治療に専念したら、もしかしたら執筆に影響が出ちゃうのかもしれないけど、僕はいくらでも待つし、一瞬たりとも執筆を中断したくないっていうなら、紬の書きたいものを口頭で伝えてもらって、それを僕が代わりにメモなり絵なりで書き起こしていって、少しずつ二人で形にしていけばいい」
「……」
「そうすればきっと、創作だって諦めずに済むと思うから。だからまずは、体のことを最優先してほしくて」
「……」
「あ、いや、その。余計なお節介かもしれないけど、最近、ちょっと無理して見えたからなんか心配だったっていうか。分けられる負担は少しでも分けてほしいなって思って……」
うまく言葉にできなくて、それでもなんとかこの気持ちを伝えたくて必死に自分の思いをありのままに伝えると、
「……うん」
彼女は唇をかみしめたままこくりと頷き、俯いたまま静かにぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとう、千隼くん」
微かに聞こえた紬の掠れ声。
その声はどこか嬉しそうに聞こえた気がする。
「僕はまだ何もしてないよ」
「そんなことないよ……」
「そんなことあるって。でも、今にきっと、紬の小説の表紙にふさわしい最高のカラーイラストを描いてあげるつもりでいるからさ。楽しみに待ってて」
「うん」
「じゃあ、体を最優先するって約束」
「ん……」
小指を差し出せば、彼女はそこに自分の小指を絡める。
目が合えば、紬は頬を涙に濡らしながらも顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。
紬の笑顔は僕の心をいっそう奮い立たせる。
互いが指を話した時、大観覧車はすでに頂点を超えて地上へと向かっていた。
僕たちはほとんど外の景色なんて堪能できなかったけれど、あれだけ辛そうにしていた彼女が、今は少し吹っ切れたように笑ってくれているのが何より嬉しかったし、まあいいかと思うことにする。
「ねえ。今の動画もう一回見せて」
「いくらでもどうぞ」
「ふふ。なんだか書籍化通り越してメディア化した気分」
それから紬は、僕が献上したプレゼント動画を何回も再生しては嬉しそうに頬を緩め、時折僕のスマホを抱きしめては浸るように目を瞑っていた。
やがてゴンドラが地上に戻ると、淡く儚い夢の時間が終わりを迎える。
夜はまだ少し風が冷たく肌寒い三月の下旬。
少しだけ寒いね、と、肩を寄せ合った僕と紬は、お揃いのもふもふカチューシャを揺らしながら夜の遊園地を後にした。