2.

 病室の扉を開けることができないままその場を立ち去った僕は、日を改めた翌日 、朝一で再び病院へ向かった。
 今の僕に何ができるのかなんて結局わからないままだけれど、一目でいいから紬に会いたい。会って、少しでも彼女の心を支えたい。
 浅はかな願いだとは思ったが、いてもたってもいられなくて足早に訪れた面会窓口に顔を出す。すると、
「あら、千隼くん。紬ちゃんのお見舞いかしら?」
「あ、はい」
「ごめんなさいね。彼女は今、脳外科で検査中なのよ。その後も診察があるから、午前中は病室に戻らないと思うわ」
 見舞いに通いすぎてもはや顔馴染みとなった看護師の山田さんが、通りがかりに丁寧にそう教えてくれた。
「そう……ですか」
 僕は持っていたビニール袋――中には見舞い品であるいつもの紙パックレモンティが入っている――を握りしめ、俯く。明らかに元気のない顔をしていたのだろう。見かねた山田さんが、取り繕うような笑顔を浮かべて励ましの言葉をくれた。
「お部屋に多分、親御さんが残っていらっしゃると思うから、お土産だけでも渡していったらどうかしら? 紬ちゃん、きっと喜ぶわよ」
 優しい笑顔が身に染みる。せっかくそう言ってくれてるのだし、僕は小さく頷き、丁寧に礼を述べてから紬の病室に向かうことにした。
 
 *

 病室の前にやってきた僕は、半開きになっていた扉に気づき、歩みを止める。
 ネームプレートを確認してから中を覗くと、室内には紬の両親と担当医と思しき白衣の先生が、声を顰めて何やらやり取りを交わしているところだった。
「先生、無理は百も承知です。でも……何か、何かそれ以外の方法は……」
「お母さん、お気持ちはわかりますが、もう今の我々にはそれ以外にどうすることもできないんです」
 神妙な声色に、ドキッとする。
 声の主は、懇願するような眼差しを送る紬のおばさんと、優しく諭すように説明する医師。
 聞いてはいけない話だろうかと一瞬尻込みしたものの、正直、内容が気になってしまって足が動かない。
 紬のおばさんは手に持ったハンカチを握りしめたまま、続けた。
「ですが先生、あの子には……紬には今、『小説を書く』ことだけが唯一残された生きがいみたいなものなんです。これ以上お薬を増やして、その影響でそれすらもできなくなってしまったら、あの子はいったいどうしたら……」
「お気持ちはお察しいたします。しかし、このままでは紬ちゃんの記憶障害が進んでしまいます。体の負担を考えながら少しずつ薬剤の処方を増やし、病の進行を遅らせることが現段階での最善策といえますので……」
「で、でも……」
「まあ、副作用といっても、必ずしも脳を使った作業ができなくなるといったわけじゃありません。紬ちゃんの努力次第にはなりますが、無理のない程度であれば書き物をすることも可能だと思いますので、今は前向きにこの治療法を検討された方が彼女のためになるのではないかと……」
「……」
 話の内容は、分かりたくもないのになんとなく理解ができてしまうような内容で、何よりおばさんの苦悩に満ちた表情が痛ましく、腹の中に重い鉛が落ちたような気持ちになった。
 おばさんは隣にいる紬のおじさんにもたれ、感情を押し殺すように啜り泣いている。
「わかってるんです、それはわかってるんです……けど……。生まれてからずっと無理ばっかり押し付けてきて……あの子はずっと我慢してきたのに、病気は悪くなるばかりだし、最近は目に見えてあの子も参ってきていて、いったい私たちはどうしたら……」
 おばさんの悲痛な声が、僕の胸を押し潰すほどに締め付ける。
 孤独に闘う紬と共に、おばさんたちもまた、懸命に紬の病と闘っているのだ。
 その場で呆然と立ち尽くしたまま、僕は、肩に下げていたスクールバッグを……そこにつけていたクラゲのキーホルダーを、強く握りしめる。
 それは、先日行った水族館の帰りに、紬とお揃いで買ったものだった。
 もちろん、僕の町のしょぼくれた公営水族館にはクラゲなんて気の利いた刺胞動物はいなかったけれど、いつか病気が良くなったら本物を見に行こうと気前よく話しながら、一番安価で、でもそこにある商品の中でどれよりも顔立ちが良さそうなクラゲを選んで――厳密には紬が選んだのだけれど――思い出と共に持ち帰っていた。
「……」
 僕は、唇をかみしめて顔をあげる。
 いつもの僕なら、ここで踵を返していたと思う。でも、今日の僕は違った。
 コンコンとノックし、返事を聞く間もなく半開きの扉を開ける。
「失礼します」
「……っ!」
 紬のおじさんとおばさん、それから紬の担当医が驚いたような顔で同時にこちらを振り返った。
「き、君は……」
「千隼……くん?」
 僕は何度も紬の病室を訪れていたため、すれ違ったり顔を合わせれば挨拶を交わすぐらいには、おじさんおばさんと面識があった。
 二人は僕たちが創作活動をしていることも知っているし、応援してくれているかどうかまではわからないけれど、特に何か文句を言われたことはないので、僕らの趣味を見守ってくれているのかな、と勝手に思っている。
「おじさん、おばさん、すみません。その、立ち聞きするつもりはなかったんですが」
 言いながらも、盗み聞きしていたことは丸わかりの状況だ。
 おばさんは慌ててハンカチで目元を拭い、必死に苦笑してその場を取り繕おうとしている。
「あらやだ、聞かれちゃったかしら。その、これはね……」
「大丈夫です。紬ちゃんには何も言いません」
「千隼くん……」
「一つだけ教えてください。紬は……紬ちゃんの病状は、あまりよくないんでしょうか」
「……」
 僕の問いかけに、おばさんからの返事はわずかな沈黙と、肯定を意味するような苦笑だけが返ってきた。
 ぐ、っと。締め付けられるように胸が痛む。
 うまく言葉が出てこない。束の間の静寂。言葉を濁すおばさんと、真剣な顔の僕を交互に見やったおじさんが、それを打ち破る。
「君は、いつも紬の見舞いに来てくれている千隼くんといったね?」
「はい」
「紬がいつもお世話になっているようだし、隠していてもわかってしまうだろうから正直に話すが……紬の病状は良くない。一見元気には見えるんだけどね。おそらく君が思っている何倍も、病気は進行している」
 僕は無言で唇を噛み締め、クラゲのキーホルダーを強く握りしめる。
 おじさんは目にうっすらと涙を浮かべながらも、毅然とした口調でさらに続けた。
「もちろん、だからといって望みを捨てているわけではないんだが、元々紬の病気は突発的に悪化する恐れのある病気で、いつ、どこで何が起こってもおかしくはない覚悟だけはしているんだ。だから今までも、できる限り可能な範囲で紬には自分のやりたいことをやらせてきたんだけど……」
「……」
「聞いての通り、君たちが励んでいる創作活動については、今後、脳の病気や薬の影響で弊害が出てきてしまう可能性が高いんだ。今は本人にも有耶無耶に説明してなんとか誤魔化しているが、病気ときちんと向き合うためには、そのことを本人にもきちんと話して納得させなければならなくて……」
 その先を言い淀むおじさん。
 言いたいことはわかる。今の紬にとって創作活動は唯一の生き甲斐であり、辛うじて生きる気力を保つ生命線のようなものだと認識している。
 治療のためとはいえ彼女からそれすらも奪うということは、延命だけして魂は殺すというのも同義。そんなこと、当然紬の両親にとっても本意ではないはずで……。
 苦渋に満ちた表情で項垂れるおじさんと、静かに涙を流すおばさん。
そして、それを鎮痛な面持ちで見守る担当医。
「……」
 僕はどうするべきか、必死に思いを巡らせた。
 僕はまた、彼女のために何もできないのだろうか。
 僕はまた、何もできないまま大切な人を失うのだろうか。
(そんなのは……いやだ)
 散々思い悩んだ末……顔をあげ、僕は吹っ切るような口調で切り出す。
「そのことでちょっと相談があるんですが」
 彼女の〝病気〟と〝現実〟をようやく受け入れた三月の下旬。
 紬のいない静まり返った病室で、僕は〝ある提案〟を口にした。