1.

 紬と出会って四十八日目――水族館デートから一週間ほどがすぎた三月下旬の夜 。
 紬に内緒で描いていた、イラストコンテスト用の作品が完成した。
 今期テーマは『再生』。なかなかテーマに見合った渾身のイラストが描けたとは思うが、相変わらずモノクロに近い絵であることが際立っていて、おそらく初期の段階で審査を落とされるだろうことはもちろん自覚していた。
 それでも、自分を奮い立たせるためにも、完成したファイルを思い切って送信し、応募を完了する。
 もしも少しでもいい結果が出れば、きっと紬が喜んでくれると思うし、彼女の創作魂にも火をつけられる気がする。そう考えれば『やる』という選択肢以外なかった。
 結果が出るのは三〜四週間後。僕は少しの達成感と、期待というよりは大きな不安を抱えたまま、神の審判を待つことにした。



 その三日後 には学校の終業式を迎え、僕は春休みを迎える。
 休み期間に入ってすぐ、特にこれといった予定のない僕は、再び紬を見舞うことにした。
 思えばここ最近、リハビリを進めて順調に回復に向かう僕とは真逆に、紬の不調が目立ち始めている気がしている。
 例えば、部屋に入って行っても気づかずにぼーっとしていたり、いつものように頭を寄せ合って互いにノートや手帳を広げて創作活動に入ろうとしても、彼女だけペンを走らせていない時間が増えていたり。
 はたまた一緒に病院内を歩いていても、すぐに休憩を提案されて移動もままならなかったり、以前に増して彼女の口数が減ったうえ、少し痩せてきたようにも思う。
 もはや〝スランプ〟というには目に余る、明らかな不調。
『体の調子が良くないの?』
 一言そう聞けば済む話なのかもしれないが、僕はいまだにそれを口にすることができなかった。
 それを尋ねて答えを聞いてしまったら、『余命三ヶ月』を現実のものとして受け入れなければならない気がして、どうしても口にできなかったのだ。
(でも、大事なことだし……ちゃんと向き合わないと)
 ため息をつきながらも自分の気持ちに区切りをつけ、紬がいる病室の前に立つ。
 出会って間もない頃は相部屋だったけれど、ここ最近、個人部屋に移ったらしい。
 それが意味するところは――と、いらぬ詮索をしかけたところでバキッ、と、何か硬いものが割れるような音が扉の奥から聞こえてきた。
「『小説なんて』だなんて言わないで!」
 続いて聞こえた、大きく張り上げられた紬の声。
 僕は慌てて扉に触れ、そっと隙間を開けて中を覗く。すると、
「わ、わかってるわ。で、でもね、紬。あなたのそれは『スランプ』なんかじゃなくて、脳の病気による記憶障害みたいなものだから、無理したってどうにもならないのよ」
「……っ」
「今はお薬の影響もあるし体の調子も良くないんだから、脳や体を休めることを最優先して、創作活動は少しお休みしたほうがいいと思うの」
 室内には悲痛な表情で紬を宥める母親の姿と、ベッドに座ったまま涙目で母親に懇願している紬の姿、そして壊れて床に散らばった薬のケースと散乱した薬が見えて、僕は頭を棒で殴られたような衝撃を受けた。
「ずるいよ! そうやって今までもやりたいことを諦めたり、大きな手術だって我慢して何度も受けてきたのに、一度だって病気が良くなったことなんてないじゃない!」
「そ、それは……」
「治療したって休んだって何したってどうせ悪化しかしないんだったら……もう治療なんてしなくていい。小説が書きたい。私は千隼くんとの夢を叶えたい」
「紬……」
「私にとっては小説が……千隼くんとの夢だけが……生きる希望なのに……。どうしてそれすら許してもらえないの」
「……。あの千隼くんって子だって、話せばきっとわかってくれるはずよ。だから、そんなにムキにならないで。今は先生のおっしゃる通り、薬の量を増やし――」
「いや……。もう薬も手術もいやだよ……」
 その悲愴な訴えは、僕の心を深く抉った。
 僕にとっての紬は、強くて、凛としていて、おっとりして見えるけど根は頑固で、『死』を前にしてもその定めに屈さない潔さみたいなものを抱え、スマートに病魔に立ち向かう健気な少女として印象付けていた。
 思えば出会った頃の紬は、どこか達観したようにも見えていたし。
 だから僕は、ずっと錯覚していた気がする。
 紬は強い子で、きっと『余命三ヶ月』なんていう悲運は持ち前の気丈さで吹っ飛ばしてくれるんじゃないかって。
「死にたくない」
 ――だが、現実は違った。
 泣きじゃくる紬の口から放たれるその言葉の中には、彼女の本心と生々しい現実しか存在していなくて、僕はようやく現実を受け入れる。
「生きたい……」
 紬は死と向き合い、必死に抗っている。
 色のない世界で孤独に病魔と闘い続けてきた十六歳の少女が、余命を宣告された死の間際まで強く居続けられるはずがなかったのだ。
「ごめん、ごめんね紬……母さんが……母さんがもっと元気な体に産んであげれば……ううん、母さんが代わってあげられたらよかったのに……」
 声をあげて泣く娘を必死に抱きすくめて宥める母親。そんな彼女もまた、幾重もの涙をこぼして泣いていて、当然のように僕は、室内に入っていくことなどできなかった。
「……」
 彼女のために絵を描いたり、励ましの言葉を送ったり、気分転換に図書館や水族館に連れ出したり。
 少しでも何かの力になれていたならいいな……なんて都合のいいことを思っていたけれど、そんな甘くて調子のいい幻想は、全て僕の独りよがりだった。
 そりゃあ多少の息抜きぐらいにはなれたかもしれないけれど、それはあくまで、彼女の病気と向き合っていない能天気な僕と、不安を押し殺した状態の彼女が、夢見心地な時間を共有していただけの話。
 本当は、きちんと彼女の病気と余命を受け入れた上で、彼女と向き合わなければならなかったのに。
 本当は僕が、もっと彼女の苦しみや辛さを受け止めた上で、体への負担を考慮しつつ創作活動の制御をしてあげなければならなかったのに。
 僕は結局、彼女のために何一つできていなかった。
 きっと紬は、ずっと独りで病気や現実と闘い続けていたのだ。
 急に自分が、ひどく不甲斐ない生き物に思えた。
 わずかに開いた扉の隙間から漏れ聞こえてくる彼女の泣き声が、不自由なく明日を生きていける自分の胸を締め付けるようで、僕はしばらく奥歯を噛み締めてその場に立ち竦んでいた。