3.

 気になる本を手にした僕たちは、その後移動してフリースペースの二人掛けデスクを陣取る。
 単に読みたい本を選定していただけかと思いきや、彼女は新作の着想を得るために参考となる本を手にしてきたようで僕は驚いた。
 さっきまであんなにも落ち込んでいたというのに、まさかもう次なる目標に向かって立ち上がる気になったとは。
 でも、あまり余計なことを言って水を差すのも良くないだろうと思い、あえて何も言わずに黙って見守ることにする。
 机の上にボロボロの手帳を広げ、取ってきた本と手元の手帳を交互に見つつ黙々とプロット作成に励む彼女と、持参したノートを広げたまま、近くの棚で偶然見つけた有名イラストレーターのカラーイラスト集を精読する僕。
 しばらくはそうして思い思いに本と向き合っていたのだが、
「ねえ、千隼くん。絵を描くようになったきっかけってなんだった?」
 ふと、そんな質問が飛んできた。
 いったいどんな話のプロットを練っていてその質問につながったのか。そこが微妙に気になりつつも、絵を描くようになったきっかけかあ……と、僕はその問いかけに真摯に向き合うことにする。
「絵を描くこと自体は、小さい頃から元々好きだったって母さんが言ってた。意識して描くようになったのは……小学校低学年の頃に出会った親友の影響かな」
「お友達の?」
「うん。クラスにめちゃくちゃヤンチャな奴がいてさ。あんまりにも騒がしい奴だからずっと倦厭してたんだけど……ある時、そいつが振り回してた自慢の自作落書きに、うっかり給食のカレーをこぼしちゃったことがあって……」
 言いながら僕は、当時のことを思い返した。
 僕とは正反対の、ヤンチャでクラスの人気者だった英太。
 給食前の忙しい時間に、なんだかよくわからない落書き――多分、戦隊モノのヒーローの絵だったんだと思う――を振り回して架空の敵と戦っていたアイツと、給食当番として真面目に配膳を行なっていた僕は、思いもよらない衝突をする。
 そのはずみで僕は手に持っていたカレーをアイツの力作の上にぶちまけてしまい、自慢の絵を台無しにされた英太は大激怒。
 あわや決闘を申し込まれそうになったが、僕は基本的に揉め事を避けたいタイプの人間なので、代わりに僕の絵を提供すると約束したことで、ことなきを得た。
「……それで、ダメにしちゃった絵の代償として、そいつがリクエストしたヒーロー戦隊の絵を描いて渡したんだ。そしたらソイツがめちゃくちゃ喜んでくれて。その日から頻繁にヒーローものの絵を描いてってせがまれるようになって、自分でも喜んでもらうのが嬉しくて毎日描いてたら、いつの間にかそれが趣味になってたって感じかな」
 今思い出してもだいぶ間の抜けたエピソードである。
 それでも、あの時、自分の絵を喜んでくれた英太の顔は一生忘れられないぐらい胸の中に残っているし、今でも、英太の時のように紬を喜ばせたいという気持ちが強くて、筆を握っているといっても過言ではなかった。
 紬は僕の昔話に目を細めて「そっか」と相槌を打つと、さらに興味深そうに聞いてきた。
「男の子は好きだよね、ヒーロー。千隼くんもヒーローになりたかったの?」
「いや、僕には無理だよ。そんな柄じゃない」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。……まあ、なれたら格好いいだろうなとは思ってたけど、本気でヒーロー目指してた親友ほど運動神経が良い方でもなければ、人望が厚いってわけでもなかったし」
「本気でヒーロー目指してた……?」
「そう。親友は本気でなりたかったみたい。僕はどちらかというと、ヒーローになりたいとかヒーローごっこよりはヒーローの絵を描いてる方が……って、どうした?」
「あ、ううん。ちょっと気になったんだけど、千隼くんって小学校どこだった?」
 急に意味深なトーンで、探るようにこちらを見てくる紬。
 僕は首を傾げつつも、素直に答える。
「へ? 前は隣町に住んでたから花坂第二小学校だけど……」
「やっぱり。ちなみにその親友の子って、今どうしてる?」
「?? ヒーローが好きだった奴のことだよね? えっと、そいつは……」
「学校の帰り道、いじめっ子にいじめられていた女の子のために、川に飛び込んで命を落としてしまった……じゃないかな?」
「え。どうして紬がそれを知ってるの?」
 僕は今まで、彼女に英太の話をしたことは一度もなかった。だから困惑するように目を瞬くと、彼女は苦笑するように言った。
「そのいじめられてた女の子、私なの」
「え」
「助けてくれた子の名前は〝木島英太〟くん。いじめてた子は、今、私たちと同じ学校に通っているちょっと問題のある浅間くん」
 ――間違いない。
 あの時、少女をいじめていたヤツの名前は浅間で、新入生歓迎会で披露するはずだったヒーロー活劇『ブルー役』を僕に押し付けてきた『因縁あるクラスの問題児』も、同一人物。
 唖然とするように押し黙る僕に、紬はいつも使っているボロボロの創作用手帳を僕に向けて差し出して見せた。
「それ……」
「うん。いつも創作のメモをするときに私が使っている手帳。これはね、闘病仲間から受け継いだ大事な形見の手帳なの」
「……!」
「あの時私は、浅間くんにこれを取り上げられて、川に投げ捨てられて、ずっと泣いてたの。そこへ幼稚園の頃から顔馴染みだった英太くんが通りがかって、状況を察するなり、『俺に任せとけ!』って、あっという間に川に飛び込んじゃって」
「……」
 知っている。いや、知っているも何も、僕もその現場にいたわけで……。
「それで、岩に引っかかっていたこの手帳を必死に掴んでくれたまでは良かったんだけれど、結局、彼はそのまま川に流されてしまって……」
 俯いて辛そうに呟く紬を見て、僕はようやく震える息を吐き出す。
(ああ、そうか……)
 まだちょっと驚きで動悸がおさまらないけれど、僕の頭の中では長年解けなかった謎がようやく解けて一本の線で繋がっていくような、そんなすっきりとした気持ちになっていた。
 確かに英太は、ヒーローになりたい理由を『好きな子のため』だと豪語していた。
 その好きな子が誰なのかまでは聞いたことがなかったけれど、幼稚園の頃からずっと思い続けていて、その子が『病気で休みがちの体の弱い子』だからこそ、自分が強くて頼れるヒーローになりたいのだということだけはなんとなく聞いていた。
 英太の好きだった子が、幼稚園時代から顔馴染みだった病弱な少女・紬であるならば、全てが一本の線に繋がる。
 良いところを見せようと、英太が躊躇いもなく川に飛び込んだ理由。
 飛び込む前に、泣いている少女を宜しく頼むと、僕に託した理由。
「そうか、紬だったんだ……」
「え?」
「あ、いや、こっちの話」
 僕は普段、スピリチュアル的なことは信じないタイプだけれど、この数奇な出会いには運命を感じざるを得なかった。
 色が見えない彼女と、色を失った僕。
 英太がずっと恋焦がれていた少女と、その少女を託された僕。
 あれから十年近く経った今、生き残った彼女と僕が偶然出会うことになるだなんて――。
『なあ千隼! オレ、ちょっと行ってくる。あの泣いてる子のこと、宜しく頼むな!』
 英太と交わした最後の会話が脳裏に蘇り、ひょっとしたら僕と紬の出会いは、英太が引き合わせた縁だったのかもしれないな……なんて、柄にもなくそんなことを思ってしまった。
「どうかした?」
「あ、ごめん。実はその時、僕もその現場にいて全部見てたからちょっとびっくりして……」
「そうだったの?」
「うん。いつも英太と一緒に下校してたから。僕が止めていれば良かったんだけど、アイツ、止めるま間もなく飛び込んじゃったから結局何もできなくて。ずっと後悔してたんだ」
「それは私も同じだよ。いくら大事なものだったとはいえ、手帳を諦めていれば英太くんも死なずに済んだのにって」
 ひどく落ち込んだように呟く紬。
 なるほど、だから彼女は、英太が取り戻してくれたそのボロボロの手帳をいつも大切そうに持ち歩いていたんだと納得すると同時に、そんな大事なものを川に投げ捨てた浅間の無責任な行動に、今さらながら改めて強い憤りを感じた。
 まあ……本当に今さら、なんだけれど。
「それにしても、まさか千隼くんと小学生の頃に出会ってたなんて驚いたよ」
 そんな僕の苛立ちを吹き飛ばすような、穏やかな声色に耳を傾ける。
「それは僕も。でも不思議だよね。お互いに全く認識してなかったなんて」
「知らなくて当然だと思う。だって、あの頃の私、今以上にほとんど学校に通えてなくて、同じクラスの人にさえはっきり顔を覚えられていないような状態だったもの。事故後なんかは特に、体調が悪化してしばらく長期入院してたし……」
「そうか……」
 かくいう僕も、英太の死後は塞ぎ込むようになって家に閉じこもり気味だった。
 結局、その後は母さんの配慮もあって隣町のアパートに引っ越し、学校も転校していたから、彼女と顔を合わせる機会がないばかりか名前もわからないまますれ違っていたことに、なんら不思議はなかったが。
「きっと、英太くんが引き合わせてくれたんだね」
 やはり紬も、同じように思ったみたいだ。
「そうかもね。紬、あいつと幼稚園から一緒だったんでしょ?」
「うん。よく助けてもらってたの」
「知ってる。なかなか笑ってくれない子がいて、ヒーローになった暁にはいつかその子を笑わせたいんだって言ってたの覚えてるんだけど……それ多分紬のことだよね?」
「へっ? 私?」
「うん。たしかそれ、『病気で体がすごく弱くて幼稚園を休みがちだった子』って言ってたから、そうじゃないかなって」
「あ……それなら多分私だと思う。病弱で幼稚園を休みがちだった子って私ぐらいだったし、英太くん、いつも面白いこと言ったりふざけたりして、私を笑わせようとわざわざ違う教室まできてくれてたぐらいだから」
「やっぱり……」
「でも私、その頃はもっと卑屈な性格だったから、うまく笑えなくて……。悪いことしちゃったな」
「気にしなくていいよ。あいつ、割とそれを自分の中の使命みたいに思ってて、生き甲斐にしてたみたいなところあったから」
「生き甲斐ってそんな大袈裟だよ。でも英太くん、本当にヒーロー感溢れる子だったもんね。治療が辛かったり病弱な体がイヤで、学校で隠れて泣いてた時なんかさ、摘んだお花とか、拾ったキラキラする石とか、色々プレゼントしてくれて……」
 目を細めてボロボロの手帳を撫でながら、懐かしそうに語る紬。
 ふと、その指が手帳の真ん中で止まる。
「あ、そうだ」
「……ん?」
「前に『昔に一度だけ色が見えた気がした』って話したじゃない? その時の絵も、英太くんがくれたプレゼントの一つなんだよ」
「あいつが?」
「うん。ほら、これ……」
 彼女はそう言って、ボロボロの手帳から綺麗に折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
 綺麗に、といっても、それは折り目だけで紙自体はものすごくヨレヨレのボロボロだったけれど。
 川に投げ落とされた時から手帳に保管されていたものであれば納得のいくくたびれ具合だが、十年近く経った今でも原型を留めて保管されていたのであれば、それはそれですごいしぶとさだ。
 いったいどんな絵が彼女の心に『色』を届けたのだろうかと気になって、破れないよう慎重に紙を開いていく彼女の手元をじっと見つめていると――。
「川に落ちた時に濡れちゃったから、だいぶボロボロになっちゃったし、色も掠れちゃってるんだけど……」
 やがて広げられた一枚の画用紙に書かれた絵。
(え……)
 一瞬、息が止まった。
 いや、本気で止まるかと思った。
 その紙に描かれていたのは、カラフルな色のクリスマスツリーと天使の絵。
 幼い子どもが描いたのだろう拙いタッチだけれど、生き生きと自由に、力強く、のびのびと、色彩豊かな色鉛筆で、十年近く経った今でも執念で命を繋げるように、そこにはっきりと色を灯している。
 僕はその絵に、見覚えがあった。
「小学校一年のクリスマスの時にね、英太くんにもらったやつなの」
 ――知っている。
 なぜならそれは、小学校一年の時の僕が描いた絵だからだ。
「その頃の私、本当に体調が優れなくて、いつ死ぬんだろうって毎日が絶望しかなくてさ。学校でも沈んだ顔ばっかりしてたから、いつものように英太君が気を使ってくれたんだと思う。違うクラスだったのにわざわざ教室にまで来てくれて、『これクリスマスプレゼント』って」
「……」
「絵自体は同じクラスの絵が上手い子に描いてもらったものらしいんだけど、絵の脇に綴られたポエムは自分が考えたものだからって。英太くんには悪いんだけど、ポエムよりもその絵があまりに感動的に綺麗で、本当に色が見えたような気がして……あの時は本当に嬉しかったな」
 当時を思い出しているのか、懐かしむよう微笑む彼女。
 もちろん僕は、何も言えなかった。
 英太が勝手に書いたポエムに対するツッコミはもちろん、自分が描いた絵であることすらも。
 改めてまじまじと見やれば、今とは全くタッチが違う。未熟さゆえに粗さも目立つが、それでも……恐れるものは何もない、真っ白な紙に堂々と散りばめられた色達は、自由と活気と希望、そして生命力に溢れていた。
「…………」
 当然、小学一年生の絵と高校一年生の僕の絵では、画力のレベルが違いすぎるし色付けされた絵と単なる線画じゃ見え方も違うので、僕が描いた絵であることに気づかれなくて当然だと思う。
 気付かれなくて当然、なんだけど――。
「残念ながら色が見えた気がしたのはもらった直後の一瞬だけで、それ以降は見えてないんだけどね。でも、その時からずっと頭の中と目に焼き付いてるんだ」
 たとえ気のせいで、それが一瞬の幻想だったとしても。
幼い頃、彼女の世界に色を届けたのが自分であったことが、僕は嬉しくてたまらなかった。
「……? 千隼くん?」
「あ、いや。小学生にしてはなかなか味のある絵を描くやつがいるんだなと思って……」
 さも初めて対面したような感想を口にすると、紬は得意げに笑って言った。
「でしょう?」
 その笑顔を見て、僕は無性に胸が締め付けられるような気持ちになった。
 ――この頃の気持ちを取り戻したい。
 恐れることなく、誰に遠慮することもなく、自由に絵を描き、楽しんで色を塗り、無邪気に自分の世界を表現していたあの頃の自分の感性を取り戻したい。
 今の自分の世界には色も、自由も、活気もないことが、こんなにも悔しく、惨めで、もどかしく感じるだなんて。
「ねえ、紬」
「……うん?」
「このイラスト、ちょっと携帯で写してもいい?」
 僕の問いかけに、彼女は一瞬きょとんとしたけれど、すぐさま快諾してくれた。
 僕は自分の携帯電話で、過去の自分が描いた絵の写真を撮る。
 別に自画自賛するためじゃない。この頃の気持ちをずっとそばに置いておきたくて、自分の世界を見失わないよう、戒めとして保管しておきたかったのだ。
「ありがとう」
「ううん。もしかして、小学生に触発された?」
「そうだね、だいぶ」
「それは良かった」
 くすりと笑う紬に、僕は静かに目を細める。
「ところで……新作の構想は進んだ?」
「んー、まあ、ぼちぼちかな。千隼くんと話してたら、ちょっと前向きな設定を思いついた」
「そっか」
 いつかまた、この時のように世界に色を灯し、彼女を笑顔にしてやる。
 切実にそう願いながら、僕は、僕が描いた絵を彼女に戻す。
「……そろそろ時間も時間だし、帰ろうか」
「わ、本当だ。そうだね、早く帰らないと看護師さんに怒られちゃう」
 今の自分にできることはただ一つ、失われた色と向き合いながら絵を描き続けること。
 僕と紬の夢を叶えるためにも、英太との約束を果たすためにも、僕にはやらなければならないことがあるはずだ。
 覚悟を決めた僕は、相槌を打った紬を引き連れて図書館を後にした。