それから放課後までの時間は、あっという間だった。
 僕は授業の内容がほとんど頭に入らないまま、それまでの時間を過ごした。早退して逃げてしまおうか、とも思ったけど、嘘の体調不良をうったえる勇気も持てず、結局だらだらとしている間に放課後になった。
「……はぁ」
 僕は息を吐いて、ちらりと太田の方を見た。彼は教室の出入り口のところで、他のクラスの誰かと会話をしている。誰だろう。なんだか、派手な感じの男子生徒。名前は、知らない。ま、そんなもんだろう、学校内の人間関係なんて……。
 なんとなくスマートフォンで、僕は今日のこれからの天気を見た。夜から、雨。ああ、今日は傘を持ってきていないけど、まぁ、夜からなら降る前に帰れるだろうな……。
「い、ま、い、君?」
「……っ!」
 背後から声を掛けられて、僕は飛び上がる。僕を脅かしたのは太田だった。彼は驚いた僕を見て、けらけらと笑っている。
「ごめん……っは、良い反応!」
「う……! 普通に声を掛けろって!」
「えー。普通って何?」
「な……」
「普通にやるのが一番難しいじゃん」
 言いながら、太田は僕の腕を掴んだ。まるで、逃さないとでも言うかのように。
「ほら、早く行かないと混むから」
「……分かった」 
 覚悟を決めて、僕は荷物をまとめて教室を出た。
 触れてもいないピアスが、ずきんと痛んだ気がした。
 
 ***
 
 誘ったのは自分だ、と言って、太田は五百円のハンバーガーとポテトとドリンクのセットを奢ってくれた。それをふたり分トレイに乗せて、太田は僕が座っている席に大股でやって来た。僕は周りを見渡す。店内は僕たちと同じ制服を着た人間が多かった。
「なんか、意外」
「え? 意外って?」
 席に座るなり、太田は自分のコーラの入った容器を手に取り、プラスティックのストローを刺した。
「今井は、アイスコーヒー派かと思った」
「なんで?」
「なんとなく」
 太田は僕に対して、どんなイメージを持っているんだろう。そう思いながら、僕はオレンジジュースにストローを刺す。ひとくち飲んでから、僕はポテトに手を伸ばした。こういうのは、揚げたてが美味しい。
「でさ、今日、今井をこの宴に招待したのには理由がある」
「宴……」
 太田の言葉に僕は吹き出す。
「うん。そうじゃなきゃ、奢ってくれないよね」
「まぁ、な」
 頷きながら、太田はすっと僕の耳元に手を伸ばした。そして、髪の隙間から僕のピアスを覗き見る。僕は咄嗟にその手を掴んだ。
「い、いきなり触らないでよ……」
「ああ、ごめん……その、実は俺、今井のピアスに興味があってさ」
「……え?」
「どこで買ったん?」
「えっと……」
「いくらぐらい?」
 どうやら、本当に太田の興味は僕のピアスに向けられているようだ。このピアスのことを他人に言いふらしたりは……しないだろう。きっと。きらきらした太田の目を見たら、なんとなくそう思った。
「……買ったの、だいぶ前だから、もう同じのは売ってないと思う……というか、売ってなかった。予備に同じの買いに行ったら、そのショップ自体が無くなってたんだ」
「えー!? なんだ、そうなのか……」
 太田は残念そうに眉を下げて、大袈裟に息を吐きながらポテトをつまむ。
「今井のピアス、めっちゃ格好良いからさ、真似したくなったんだよね」
「……それは、どうも。今日の太田のピアスは、なんというか、綺麗だよね」
「え? やっぱそう思う?」
 太田は少し誇らしげに自分のピアスに触れた。
「安いんだけどな、気に入ってるんだ」
「どこで買ったの?」
「商店街のアクセサリー屋」
「商店街? アクセサリーのお店があるんだね」
「あるぜ。隠れ家的な……今度、一緒に見に行こう。値段も安いしさ、バイトの給料入ったら、また誘うわ」
 太田はアルバイトをしているのか。偉いなぁ、と思った。僕は家族の意向でそれを禁止されている。学業に支障が絶対に出ると言われてしまい、毎月渡されるお小遣いで、どうにかやりくりしている身だ。
「どんなバイトしてるの?」
「コンビニ」
「へぇ……すごいね。僕も見習いたいな」
「別に、偉くも何も無いから。ただ、親の金で自分のものを買ったり食べたりするのに抵抗があってさ……」
 一瞬、太田の表情が曇った。
 だが、彼は一瞬で明るい顔になる。
「今井もバイトやる? 紹介しようか?」
「あー……僕は、家族に反対されてるから無理だな。成績が落ちるだろ、って」
「そうなん? それも意外」
 意外、意外、と言う太田だが、僕も彼のことを「意外」だと感じていた。
 きらきらしたタイプの太田と、普通のタイプの僕。絶対に話は合わないと思っていたけど、今、こうやって普通に会話が出来ている。
 ここに来る前は、逃げ出そうと思うくらいに嫌だったのに、どうしてだか今は、居心地の良さを感じてしまっていた。
 僕みたいなタイプの人間にも、普通に話してくれるって……意外と、良い奴なんだ。
 バイトもやっていて、偉い。
 僕は、太田のことを、もう少しだけ知りたくなった。
「……ピアス以外に好きなものあるの?」
「え? ピアス以外に?」
 太田は少し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「……勉強、とか?」
「え? 勉強?」
 僕が首を傾げたのを見て、太田は大袈裟に息を吐いた。
「今、嘘だーって思っただろ?」
「え、いや、思ってはない……よ?」
「嘘だー」
 太田は僕の頬を軽くつついた。綺麗に整えられた爪を見て、思わずどきりとする。
「俺さ、K大に行きたいんだよね。そんで、日本の文学を勉強したい」
「え? そうなの?」
 そういえば、告白の現場に遭遇した時、受験があるからって言って断っていたっけ。あれは、適当な理由ではなく、本当の理由だったんだ。
「太田は、美容師とかミュージシャンとかの学校に行くと思ってた」
「え?」
 僕の言葉に、太田は目を丸くする。
「俺、そんなイメージ?」
「まぁ……オシャレだし」
 僕はポテトを一本つまむ。
「僕もさ、日本の文学を大学では勉強したいと思ってる」
「マジで!? じゃあ、俺ら同じとこ受けたら良くね!?」
「いや……」
 自分の成績に自信の無い僕は俯く。
「一年の終わりから、成績があまり伸びなくて……」
「ほう、ほう」
「なんか、もう何処にも行けない気がして、ちょっと落ち込み中」
「なるほどー」
 太田は言いながら、ハンバーガーの包み紙を開いた。
「でも、まだ時間あるし、肩の力を抜いてみたら? それこそ、ピアスなんかでオシャレして気分転換してさ」
「うん……」
「なぁ、一緒の大学受けようぜ。そんで、勉強とか一緒にやったら、たぶん成績も超上がると思う!」
 そう言って、太田はハンバーガーにかぶりついた。僕もそれの真似をする。中に入っているケチャップが、ちょっと酸っぱくて美味しいと思った。
「……太田は、どんな作家が好き?」
「ん?」
「日本の文学が勉強したいんでしょ? だから。推しの作家とかいるのかなって思って」
「推しの作家……あんまり詳しくないけど、夏目漱石とか良くない?」
「ああ、教科書にも載ってるよね」
「そうそう。俺、告白する時に月が綺麗だねーって言うのが夢! その意味を分かってくれる子と結婚する!」
「ふふ……面白い理由で結婚するんだね」
「今井は? 推しはいるん?」
 太田の質問に、僕は苦笑する。
「いや……あんまり深く考えたことないんだけど……うーん……日本語で書かれた文章を読んで、いろいろ考えるのが好きなのかもしれない。僕なら、こう思うとか。こう書くとか」
「へぇ……なんか学者っぽい! 大学院行けば?」
「そんな……そういうのは受かってから考えないと」
「……」
「……」
 僕たちは、目を合わせてから同時に吹き出した。楽しいな。こんなに明るい放課後は初めてかもしれない。また、こんなふうに過ごせたら良いのにな……なんて、思ってしまう。
「じゃ、明日から放課後は勉強会をしましょう!」
「でも、太田はバイトがあるんじゃない?」
「あー……じゃ、都合の合う日にお勉強!」
 どうやら、太田は本気らしい。けど、僕も誰かの視線があった方が勉強が捗る気がしたので「うん」と頷いた。
 それから、太田に小声で言う。
「あのさ、僕のピアスのことは、誰にも言わないでね」
「え? なんで?」
「これは、内緒のオシャレなんだ」
「内緒のオシャレ……」
 僕の言葉を繰り返し、太田はくすっと笑った。
「なんか悪いことしてるみたいな響きで良いな……分かった。誰にも言わない。俺だけが知ってる今井の秘密な」
 そう言ってウィンクする太田の顔を、僕はなぜだが、どきどきする心で見つめていた。