僕がその男に意識を向けるようになったのは、学校の中庭で「あるある」な光景を目撃したからだ。
 その男——太田充は、高校二年生にしては高い身長をしている。その背中を少し屈めて、茶色く染めた髪をくるくるといじっていた。
 太田の目の前には、女子生徒が居た。名前は知らない。見たことが無い顔だから、うちのクラスの子ではないことは確かだ。同じ学年かもしれないし、違うのかもしれない。まぁ、僕には関係無いから、どうでもいいけども……。
 これ、たぶん、告白の場面だよね。
 迷惑な話だ。
 僕は、右手に持ったゴミ袋の結び目をなんとなくぎゅっと握り直した。どうして僕が中庭の中途半端な場所で立ち止まっているのかというと、このゴミ袋を捨てるゴミ箱が、ちょうど太田の真後ろにあるからだ。
 これは困った。今、このゴミ捨てという任務を遂行してしまえば、告白という重要イベントをぶち壊すことになる。それは、双方から恨まれそうだから避けたい。だから僕は、植えられた木の影に隠れてひっそりと立ち尽くしているのだ。
「わ、私……太田君のことが前から好きだったの! 付き合ってもらえるかな!?」
 あ、告白をしたのは女子だ。すごい。勇気があるな。太田の反応は……ここからじゃ、良く見えない。きっと付き合うんだろうな。なんとなく僕はそう思った。
 太田充という男は、クラスでも明るいグループに所属している。カーストって言われているのかな……その上位の方だと思う。いつも彼の周りには友人たちが居て、毎日を楽しそうに過ごしている感じ。僕とは正反対だ。別に、羨ましいとは思わないけども。
 そんなことを考えていると、太田は「うーん」と声を漏らした。そして、告白した女子に向かって言う。
「ごめん。俺、今は付き合うとかそういうのは考えられない」
 あれ? 付き合わないんだ。
 意外に思っていると、太田はゆっくりと目の前の彼女に言葉を紡ぐ。
「俺さ、誰かと特別になるより、今は大勢の奴らとワイワイしてるのが楽しいんだ。それに、もうすぐ受験だし?」
「受験って……まだ先の話じゃない!」
「そうだけどさ、もう高二の春だし。たぶんあっという間に受験になる。そしたらさ、せっかく好き同士になった彼女のことを一番に考えられなくなるかもしれない。俺、そういうの嫌なんだ。一番好きな子は、一番大切にしたいんだ俺。だからさユキちゃん、お互い今は将来に向けて頑張ろう? そんでさ、今日のこと、いつか笑い話にすればいいと思わない?」
「……なんか、太田君らしいね」
 告白した子、ユキちゃんはフラれたことを怒るどころか、くすっと笑った。
「あーあ。すっごい緊張したのに、簡単にフラれちゃった!」
「ごめんって」
「あはは! いいよ! それに、太田君は皆の太田君って感じだし、あたしが独り占め出来ないよね!」
「なんだよそれ」
「うーんっと、マスコットキャラ的な?」
「なんだよ、ウケるなそれ!」
 フった人間とフラれた人間の会話に思えない。もっと、こういうのは修羅場になったりしないのだろうか。僕にとって未知の世界だから分からない。
「それじゃ、あたしもう帰る! 太田君、バイバイ」
「ん。また明日」
 そう言って手を振り合って、ふたりは別れた。ふう、これでゴミを捨てに行ける、と思った。その時。
「覗き見、楽しかった?」
「っ!?」
 いつの間にか僕の隣に居た太田が、僕の耳元で囁く。驚いた僕は体勢を崩して転びそうになったが、太田の咄嗟の判断で、僕は彼に引き寄せられ、地面にダイブするのは免れた。
「あれ? 今井じゃん。もう放課後なのにまだ残ってんの? もしかして、覗きが趣味とか?」
「ば、馬鹿! 違うっ!」
 僕は太田から距離を取って、手にしていたゴミ袋を彼に見せた。
「今日は日直で、これを捨てに来たの! けど、誰かさんが告白されてたから空気を読んで邪魔をしなかったの!」
「ああ、ゴミ箱……それはどうもありがとうございます」
 わざとらしく太田は丁寧に頭を下げた。これ以上、太田に関わりたくなかった僕は、急足でゴミ箱に向かってゴミ袋を捨て、中庭を後にしようとした。したのに……!
「あれ? それ、ピアス?」
 太田に肩を軽く掴まれたので、僕は反射的に立ち止まった。
「な、なんのこと?」
「いや、今、髪が揺れた時に見えたから」
 僕は、両手で自分の耳を塞いだ。確かに、僕の耳にはシルバーの小さなピアスが付いている。けど、これは内緒のオシャレなのだ。誰かに知られるわけにはいかない。それなのに、太田という陽キャな奴に見られてしまうなんて……!
 とぼける僕に、太田はニヤリと笑って軽く僕の黒い髪をつついた。
「大人しそうに見えて、やるじゃん」
「っ……! ピアスなんて、知らないっ!」
 そう言って、僕は太田から逃げた。太田は僕を追いかけることもしないで「また明日なー」なんて僕の背後から声を掛ける。馬鹿。明日は土曜日だ。学校は休みだよ!
 早足で教室に戻る僕の脳裏に、太田が僕のピアスのことを皆に言いふらしたらどうしようという小さな心配がよぎった。
 別に……人生が終わるほど困らないけど。いや、先生に没収されたら困るけど……。
「……ああ、もうっ!」
 僕は小さく舌打ちをして、手洗い場でごしごしと手を洗った。もう身体の一部みたいになっているピアスが、ちくり、と痛んだ、気がする。変な感覚だ。
 土曜日と日曜日の間に、太田がピアスのことを忘れてくれたら良いのに。
 そんなことを考えながら、僕は手をハンカチで拭きながら、教室への道を急いだ。早く帰って、ピアスを外したい。そんな思いを始めて僕は抱いていた。