曇天な気持ちで帰宅すると、薄暗い廊下を硝子戸越しにリビングから漏れた光が照らしている。
親父はテーブルに着き、テレビやスマホを見るわけでも無く、ただぼーっと一枚の写真を眺めていた。俺と親父、そして母親の三人のものだった。確か、小学生大会を優勝した時に撮影したものだ。
写真に写る人物は、もう誰一人としてここにはいない。亡くなった母親、変わってしまった俺と親父。だから、その写真は懐かしいのではなく、別の家族が写っているに過ぎない。
一体、いつからそうしているのだか。手元に置かれた食べかけの夕飯は、見るからに冷めきっていた。
「おかえり」
俺に気が付いた親父が一言向ける。
「……おう」
久しぶりに返事をしたような気がする。だから、親父もいつもより俺をぼんやり見つめる時間が少しだけ長かった。
台所には親父がつくった料理がラップのかかった状態で置かれていた。生姜焼きに、豆腐とわかめの味噌汁。炊飯器は保温のランプが点灯している。
それらを盆に乗せ、俺はテーブルに腰を掛けた。
親父が俺の様子を窺うように覗き見する。今の親父に驚きという感情があるのかは分からないけど、少なくとも不思議に思っているようだった。
それもそうだ。中学生以来、親父と同じ卓上で食事をしたことはない。いつも避けるように自室へと籠っていたのだから。
どこか気まずさを覚えつつ、箸を進める。すると、親父も写真を傍に置き、ゆっくりと食事を再開した。
久方ぶりの会話なんてものはもちろん無い。
おかしな家族だ。
慣れ切ったはずの沈黙が何故か落ち着かなかった。
「あのさ……」
自分でも気づかないうちに口を衝いていた。
生気の薄い視線が俺に向けられる。その目をまっすぐに見れなくて、俺は手元の食器を眺め続けた。
「……俺が死んだらどう思う?」
どうしてこんな質問をしたのか、自分でもよく分からなかった。でも、多分ずっと前から気になっていたことだ。
親父は俺のことをどう思っているのだろう。母親を殺した憎い存在? ただ同じ屋根を共有するだけの隣人? いつもやたら自分に突っかかって来る嫌な奴?
どれもあり得そうで、それ以上は考えられなかった。
怖くて、静黙する親父の方を向けない。思わず、返事も聞かずに逃げ出しそうになった。
もしかしたら、親父にとって俺は既に息子じゃないかもしれない。あの時を境に家族というくくりから外されているのではないか。ずっと、そう思ってきた。
だからこそ、答え合わせをするのが恐ろしい。言葉にされれば、それで最後なのだから。
かちゃんという音に閉じた目を開ける。床を親父の箸が転がっていた。
「何やってんだよ。はやく洗ってこ――」
「――日影ッ!」
震えあがるほど大きな声だった。
テーブルを前のめりに、親父が俺の肩を強く掴む。テーブルがズレ動き、床を引きずるけたたましい音がリビングに響く。
反動で倒れたグラスの中身が零れ、卓上の写真を侵略するように濡らした。
「お、親父……?」
俺を見つめるその瞳に色んな感情が浮かんでいて、それ以上声が出せなかった。
そう言えば、いつぶりに名前を呼ばれただろうか。
「日影、変なこと考えてるんじゃないだろうな!?」
力のこもった言葉に、ふと懐かしさがこみ上げた。目の前にいるのは、紛れもなく俺の父親だ。
「な、何だよ、変なことって」
反射的に聞き返し、同時に理解した。
そんなつもりで言ったわけじゃない。そう伝えようとした刹那、親父が俺に凭れ掛かってうなだれる。
「頼む……」
切実な、小さい悲鳴だった。俺を掴む親父の手がすごく痛いのに、温かかった。
「俺にはもう日影しかいないんだ。お願いだから、俺の前からいなくならないでくれ……。お前までいなくなったら、俺はどうしたらいい……」
俺を掴む親父の指先は微かに痙攣していた。嗄れて、掠れた音が部屋に響く。親父の懇願が春にしては冷えた夜の空気に吸い込まれて溶け去ってしまう。
縋る親父はいつも以上に弱々しく見える。背中は余計に丸みを帯び、その小さな身体が今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「落ち着けよ……。俺はどこにもいかねえから」
親父が頭を上げる。顔は涙でぐちゃぐちゃに濡れ、無精髭が光を反射して艶めいて見えた。
「日影……」
やっと、親父のことを分かった気がした。苦く残る罪悪感と、大きな温もりが混ざり合って俺を包み込む。
こんなにも、俺のことを思っていてくれていたのか……。
濡れた写真を手に取る。そこに写る三人は紛れもなく明るい笑顔を浮かべていた。もう、この頃にはどうやったって戻れない。それでも、俺と親父はちゃんと家族だ。昔も、今も、これからも――。
「なあ、」
寂しそうに埃を被る花瓶が目に留まる。この部屋に物は随分減ったけれど、あの花瓶だけは何故か捨てられなかった。日課のように、母親がいつもそこにいたことを覚えていたから。
きっと、俺も親父と一緒で寂しかったんだ。どれだけ忙しくなっても忘れられないくらい、悲しかった。
誰も彼も、不器用だ。神様は人間をつくるのが下手なのかもしれない。もっと、ずっと単純でいいのに。寂しい、嬉しい、悲しい、好きだ、嫌いだ。そんな感情を、素直に言えるようにすれば良かったんじゃないか。
「今度、母さんの墓参り一緒に行こうぜ」
親父の濡れた瞳が見開かれる。
そういえば、墓参りも一緒に行ったことは無かったな……。
「……そうだな。うん、行こう……」
そう言った親父の声は少し震えていた。
「俺、母さんの好きな花知らないからさ、教えてくれよ」
あの事故から、四年も掛かってしまった。あっという間なようで、すごく長かった四年間。
ようやく、俺はあの時から一歩前進出来た気がした。
子供たちが走り回る公園の、梅の木の花が散ったのはもう随分前のことだ。毎年、桜も梅も気が付くと緑色の葉を茂らせているような。
あ、咲いてる。そう思った三日後には地面に鮮やかな絨毯を敷いている。そして、雑踏に無下に踏みつぶされ、やがて地面に同化して忘れ去られるのだ。
俺の記憶の中の桜と梅の花に違いはあまりない。多分、全然違うはずなのに。せいぜい、梅の花の方が色が濃かった気がする。その程度だ。
毎年、そこまで見る機会がないのだから仕方がない。
そうやって、知らないものは曖昧に纏められ、興味すら持たれない。人の記憶とは随分とあやふやで脆いものだ。
病室の前で、彼女の母親とすれ違った。俺のことに気が付かないほど、目を腫らして泣いているようだ。
声をかけようか悩み、やっぱりやめた。何を話せばよいのかも分からなかったから。
母親が来ていたというのに、病室は珍しく窓際のランプが薄衣を纏っていた。
「こんにちは、日影くん」
彼女は静穏な雰囲気を漂わせ、いつも通り俺を病室へと迎え入れた。昨日までと何も変わらないはずなのに、なぜか少しだけ緊張する。
大事な話とやらを意識しすぎているせいか、それとも彼女を纏う気配がやたら落ち着いているせいか。
「遅くなったな」
「そんなことはありませんよ。今しがたお母さんが帰ったばかりなので、ちょうど良いタイミングでした」
「さっき、すれ違った。随分疲弊しているみたいだったけど、また喧嘩でもしていたのか?」
彼女の目線がやや落ちる。その仕草が、今日の彼女にはよく似合ってしまっていた。
「いえ、仲直りしていたんです」
先ほどの光景が目に浮かんだ。
彼女の母親の姿には覚えがある。母親の葬式で泣いていた親父と同じだ。白地の棺桶に横たわった母親を見てもなお現実味が湧かなかった俺の横で、ひどく取り乱していた親父と、彼女の母親の姿が重なった。
「そんな風には見えなかったけどな」
「いえ、本当ですよ。ちゃんと謝りました。今まで色々迷惑かけたり、わがまま言ってごめんねって」
ずくんと胸が鈍痛に悲鳴を上げる。その言葉は、云わば最期の言葉で使われることが多い。
「……それなら、良かったな? で、いいのか?」
「はい、やっぱり私も本当に両親には感謝してもしきれないですし、反抗期はここいらでやめておこうかなと。どうせなら、後腐れなくお別れしたいじゃないですか」
やっと、彼女の今日の様相がいつもと違う理由が分かった。彼女は昨日言っていた通り、覚悟を決めたのだ。だから、その時に向かって準備を進めている。まるで、長い旅に立つ前に荷物を詰めたり、冷蔵庫の中身を空っぽにするように。
不意に泣いてしまいそうになった。そんなのは絶対に駄目だと分かっているから、必死に彼女に見えないように爪を肌に突き立てる。
端正な彼女の牡丹のような清麗とした雰囲気と、今にも消えてしまいそうな儚さに目が離せない。でも、それは彼女らしくない。彼女には無邪気に笑っていてほしい。
意地悪に俺のことをからかってくれ。そんなことを言えば、彼女は「やっぱり、変態さんですね」とか言って笑ってくれるだろうか。
蛍琉は死なない。微塵も根拠のないことを言えたならどんなに良かったのか。
しかし、それは覚悟を決めた彼女への冒涜だ。一番辛く、怖いのは彼女なのに、どうして俺がそんなことを言えようか。
「少しお話して、外が暗くなったら抜け出しましょうか」
「またかよ。見つからねえのか?」
彼女は振り返るように天井を仰ぐ。
「今さらそんなのがバレて私が怒られた所で、何になるというのですか。その時は私一人で外に出たということにするので大丈夫ですよ」
一瞬悩み、すぐに諦めた。今さら、大人に迷惑をかけるとか、そんな些細なことで彼女との時間をすり減らしたくない。
「そんな心配はしてねえよ。バレたら俺が土下座でも何でもしてやる」
きっと、俺たちは愚かだ。どうしようもない馬鹿で、救いようのない子供。自らの行いにろくに責任も取れやしない。
でも、暗闇の中で何年もずっと素直に大人しくしていた彼女は救われていないじゃないか。
彼女が病院を抜け出せるまでかなりの時間がある。一度、帰宅して支度を整えることにした。日曜日だと言うのに、彼女に制服に着替えて来てほしいとお願いされたからだ。その意図は俺にはよく分からない。だけど、彼女の頼みだから一つ返事で頷いた。
玄関を開ける。最近は廊下にもしっかり電気がついていることが多い。電気代が、何て言うつもりは毛頭ない。だって、帰ってきたときに家が暖かい明かりに包まれていた方が絶対に良いに決まっている。
「おかえり、日影。今日は早かったな」
相も変わらず、親父は吹けば飛んでいきそうな気配を漂わせている。ただ、少し、口数が増えた。その些細な変化が妙に心地よかった。
「この後、また出るけどな。帰り遅くなるはずだから、鍵掛けといて」
「分かった。危ないことはするんじゃないぞ?」
「しねえよ。危なくないために俺が付いてくんだよ」
親父は不思議そうに首を傾げていたが、反対はされなかった。
「夕飯つくっといたけど、それなら明日にしておくか?」
「いや、食べるよ。せっかく作ってくれたんだしな」
二人でテーブルを囲んだ。会話はまだ多いとは言えないけれど、親父は見るからに表情が豊かになった。それに、俺もいつの間にか親父の一挙手一投足に目くじらを立てることも無くなっていた。
少しずつ、絡まった糸がほどけていっている。そんな気がした。
花瓶に花はまだ飾られていないけれど、きっと近いうちにこの殺風景な部屋に彩りを添えるのだろう。
制服に着替え、和室の襖を開ける。微かに香木の匂いが鼻を衝く。和紙張りの照明が写真立てを照らしている。薄い暖色の明かりはやけに落ち着く。
久しぶりに母親に線香をあげた。今日はどうしてか、無性に顔を見ておきたかったから。
前回の反省を踏まえて持っていきたいものがたくさんあった。しかし、生憎普段使いするような大き目の鞄は持っていない。いつも、学校とバイト漬けで誰かとどこかへ行く機会なんて無かったし。
仕方が無いのでテニスバックに荷物を詰め込む。デカい分、むしろ随分と幅が余ってしまった。
五月の終わりは夜でも過ごしやすくて助かる。手が悴むことも、嫌な汗をかくこともない。冬や夏よりも、俺は圧倒的にこの季節が好きだ。
心地よい夜だというのに、道すがらずっと落ち着かなかった。風が吹いていないのにさざ波が立っているような、そわそわとした思いに駆られる。
彼女との時間を楽しみにしているけど、まだ大事な話とやらを聞いていない。だから、俺の心情は複雑だった。
非常口の近くで彼女はこの前同様、大きな遮光カーテンを頭から被って俺を待っていた。こんな姿、誰かに見られようものなら怪しまれるに決まっているというのに、隠れようともせず堂々と開けたスペースに座っているのは流石、肝が据わっている。
「待っていましたよ。三分遅刻です」
昼間と同じ彼女だった。物静かな所作が夜にぴったりだと思う。ただ、俺はあまり好きにはなれなかった。
「悪かったな。自転車だと思ったより遠いんだよな。急いだつもりだったんだけど」
「嘘ですよ。本当は約束の時間より早いはずです」
口元だけが、緩やかに微笑んでいた。
「それでは行きましょうか」
差し出す彼女の手を見つめる。
「どうしたんですか?」
「いや、行くのは構わねえ。ただ、」
「ただ……?」
後頭部を掻き毟る。どう言ったらいいのか、俺にもよく分からない。
俺を見上げる彼女は確かに雲母蛍琉だ。しかし、俺の知っている彼女ではない。
「なんつーか、いつも通りにしてくれよ。落ち着かねえから」
ややあって、結局俺はあまり考えずに思ったことを口にした。取り繕い、何かを隠して尻込む時間はもう残されていないのだから。
すると、彼女は俺をじっと見つめ、ようやく今日初めての小さな本当の笑顔をくれた。透き通った暗闇を穿つ、太陽のような笑みだ。それが今は独り占めだと思うと、何だか誇らしい。
「そうですね。日影くんにそのままでいて欲しいって言ったのは私なのに、私がこんな風に変わってしまってはズルいですもんね」
スイッチを切り替えたように声のトーンが上がる彼女は、カーテンにくるまったまま俺に凭れる。その身体にはやけに力が入っていない。
きっと、そういうことなのだ。終わりが近づいている気配がひたひたと後ろから迫る思いに、生唾を飲み込む。
俺は有無を言わさず彼女をおぶる。この前よりも軽くなっている。何となく、そう思った。
「それで、どこか行きたいところでもあるのか?」
「はい、お手数ですがあの山の上までお願いします」
彼女が指を差す先は、ほど近い距離に見える山道のてっぺんだった。近いと言っても、山を登ることには変わりないのだけど。
「それは本当にお手数だな」
多分、二、三時間ほど掛かるだろう。暗がりに包まれる長い道のりにどうしてか億劫な気持ちは一切無かった。だって、その分彼女と一緒に居られるのだから。
夜は長い。それでも、時間は平等に進むし、彼女の病もじわりじわりとその時に向けて詰め寄る。少しでも無駄にしたくなくて、俺と彼女は絶え間なく会話を続けた。どうでもいいことばかり話していた気がするけれど、その全てが暗闇をぼんやりと照らしていた。
「大丈夫ですか? せめて、荷物は私が持ちましょうか……?」
時折、彼女は俺を伺うように同じことを尋ねた。本来なら、彼女は誰かの手を煩わせることは嫌いなのだと思う。図々しく見せかけているだけで、出会った時から彼女は俺に自分で出来ないことしか頼まない。俺に頼みごとをするとき、彼女は飄々とした面持ちの裏に仄かな罪悪感を潜ませている。
本当なら、アイスは自分で買いに行きたいし、今も自分の足で歩きたいはず。でも、それが叶わないのだから、せめて彼女が気兼ねなく頼れる存在でありたい。そう思ってしまうのは、俺のエゴなんだろうか。
勾配が強い道を長い時間かけて登る。等間隔に並んでいた道路灯はいつしか姿を隠し、月明りの頼りない明かりだけを目印に歩いた。正直、少し前もろくに見えやしない。光源も無しにこんな道を歩くのはどうかしている。それにテニスバックは前掛けにしているから、歩きづらいことこの上ない。
やがて、何段あったかも分からない果てしない丸太階段が途切れた。どうやらここが所謂、何でもない山の頂上ということらしい。
開けた原っぱは暗闇でも分かるほど色彩が強く、まるで夏を先取りしたようにその新緑を夜風になびかせていた。視界を遮る木々は無く、解放感溢れる一面の野原はここが山の上だということを忘れてしまいそうになる。
「ここでいいのか?」
「はい、私の記憶通りの場所です」
彼女をゆっくり降ろす。手を離した瞬間、僅かによろける彼女の身体を慌てて支えた。
「ありがとうございます。実はもうあまり力が入らなくて」
「……ちょっと待ってろ」
原っぱの中心に持参したレジャーシートを敷く。夕方に降った雨の残り香でひんやりと湿っていたから、やっぱり持ってきて正解だった。
彼女の手を取り、座らせる。露で冷たくなった手が、余計に彼女の身体の高い熱を嫌でも感じさせた。この頃、彼女は二十四時間点滴を刺したままだったはず。そうしないと、常にこうして高熱に苛まれてしまうからだ。
「なあ、明日になったら点滴刺してなくてバレるんじゃねえのか?」
彼女は左腕を軽く擦り、若干戸惑いがちに視線を下げる。
「まあ、そうでしょうね……」
「結局、土下座は確定ってことか」
「ふふっ、迷惑ばかりかけてしまいますね。ごめんなさい」
「気にすんな。悪いことしてる自覚はあるんだ」
果たして、本当にそうだろうか。彼女を暗闇から救い出すことは、誰にとって悪いことなのだろう。少なくとも、彼女にとっては良いことに当たるはずだ。
人によってこの行為の善悪が違う。それなら、俺は他の人が何人指を差そうが彼女の味方になってやりたい。
彼女がまっすぐに俺を見つめ、そして緩やかに相貌を崩す。
「本当、日影くんは私にとっての王子様ですね」
何の冗談味も無く、彼女は言う。
「王子様って似合わな過ぎるだろ」
「それでも、日影くんは私をこうして幸せな気持ちにさせるんですから。紛れもなく、王子様ですよ」
彼女が俺の肩に頭を預ける。
やっぱり、王子様っていうのは歯がゆい。だって、今も彼女は戦っている。苦しんでいるはずなのに、俺は彼女に何もしてやれない。ただ、こうして隣にいてやることしか出来ない。彼女を蝕む根本から救い出してこそ、本当のヒーローなのではないのか。
「見てください。星が綺麗ですよ」
彼女が空を見上げ、指をさす。追いかけるように顔を上げた瞬間、俺は思わず言葉を失った。
視界を埋め尽くさんばかりの星々が、まるで宝石のように煌めいている。それはどんなイルミネーションにも満たない光だったけど、とても美しく、眩かった。
あまりの輝きに思わず、彼女の心配をしてしまったくらいだ。
百八十度広がる澄み切った初夏の夜空が、俺の瞳を掴んで離さない。そよぐ夜風と共に、星が静かに息をしているみたいだった。感動という言葉が本当に存在するのなら、きっと今がまさしく最適解なのだろう。
「幼い頃に見たこの景色が忘れられなくて、どうしても日影くんと見ておきたかったのです」
彼女の瞳がいくつもの星を映し、きらきらと輝いていた。
彼女はよろよろと弱々しく立ち上がり、身体に巻きつけたカーテンを取り払う。暗闇を衝く真っ白なブラウス、乱れの無いプリーツの紺色のスカート。胸元には明るい朱色の細いリボンが存在感を見せていた。
穢れを知らない制服姿の少女が満点の星空を背後に携え、そこにいた。周りの星が霞んでしまうほどに、彼女は眩かった。どんな一等星の輝きだって彼女には敵いやしない。まるで、夜に突如現れた太陽のようだった。
「えへへっ、一度着てみたかったんです。似合っていますか?」
「あぁ……。凄く似合ってる」
瞬間、視界がぼやける。彼女に気づかれたくなくて、星空を見上げた。
制服に毎日袖を通す。そんな俺たちにとっての当たり前な日常が、彼女にもあったかもしれない。
彼女は満足したのか、再び俺の隣に腰を降ろした。膝を抱え、覗き込むように俺を見る。
「これでお揃いですね。放課後デートというやつです」
「にしては時間が遅すぎるだろ」
「では、制服デートです」
俺が彼女と普通に出会えていれば、そんな未来もあったのだろうか。少し考え、俺は心の中でそっと首を振った。
きっと、俺と彼女はあの病院で、あの日偶然出会ったことが運命なのだ。ありきたりな出会いで無いからこそ、こうして今でも隣合っていられるのだから。
「私、本当に日影くんには心から感謝しているんです」
束の間の沈黙を彼女が破る。星空を見つめる彼女の瞳から、目が離せなかった。
「日影くんと出会う前の私って、実は鬱病だったんです。ちゃんとお医者さんにもそう診断されていました」
「蛍琉が?」
数年前の親父の姿が浮かんだ。彼女が鬱病だったなんて、想像したことも無い。だって、彼女は俺と出会った時からいつもこっちのことなんかお構いなしに明るくて、病気なんてそこまで気にしていない素振りだったのに。
「私も鬱病なんて無縁な人間だと思っていたんですよ。それでも、やっぱり太陽の光って偉大なんですね。暗闇が、私をじわじわ蝕んでいったんです」
確かにあの病室でずっと過ごすと考えたら、俺なら気が狂いそうだ。だから、彼女のことも最初はずっと疑問だった。どうしてこんな暗いところで生活しているのに、こんなにも彼女は明るいのだろう。今思えば、あの時の疑惑は間違っていなかったわけだ。
「何にもやる気が起きなくて、ひたすらベッドの上で黒い天井を眺め続けていました。普通にホラーですね」
「そこだけ聞くとな」
「眠たいのに寝れなくなったり、食事はよく戻していましたね。トイレの鏡に映った自分の顔が本当に酷くて、一晩中鏡を殴り続けたこともあります。まあ、割りたかったのに非力すぎて私の手が血だらけになっただけだったんですけれど」
彼女は恥ずかしそうに吐露する。しかし、その語り口調は随分と懐かしそうなものだ。まるで、そんな姿も今の自分の一部だと言いたげだった。
「お医者さんも、看護師さんも、両親も、もちろん自分も。全員嫌いでした。みんな死んじゃえばいいのにって思ってました。寄ってたかって私をこんな暗い場所に閉じ込めて虐める最低な人たちだ、なんて。……今、口に出してみると結構キツいですね」
そう言った彼女の表情は、どうしてか明るかった。そんな過去も今は笑って振り返ることが出来る。そう言うことなのだろうか。やっぱり、俺には想像しがたいものだった。
「俺と出会った時もその、鬱病ってやつだったんだろ?」
「そうですよ」
「でも、俺はあの時の蛍琉は普通に見えた……。いや、俺が鈍感だっただけなのかもしれないけどさ」
不意に彼女が星空から目を移し、俺を見た。吸い込まれてしまいそうな透き通った眼光は、やっぱり出会った時と変わっていない。あの日も、確かにこの瞳に見つめられていた。
「偶然にも、あの日は珍しくテンションが高かったですからね」
「そんな日があるのか……?」
親父は一日だって気分が良さそうな日は無かった。もちろん、精神的な病なのだから人によって症状は千差万別なのだろうけど。
「いえ、一度も無かったですよ。毎日、気分はどん底でしたね。でも、その日は特別だったんです」
「何か用事があったとか? それなら、悪いことをしたな」
用事と言っても、病室から出ることのできない彼女を考えると浮かぶものは多くない。
「いえ、特に何てことの無い日でしたよ」
「じゃあ、どうして……」
彼女は瞳を切なげに細めた。ちくりと小さく胸が痛んだ。
「死のうと思ってたんですよ」
きっぱりと彼女は言いのけた。その言葉の意味を理解するよりも早く、心臓が鐘を打つ。
「それって、つまり……」
「真夏の快晴の下、病院の屋上から飛び降りてやろう。そう思っていたんです。どうせ、長くても後数年しか生きられないんだし、何よりもう独りで暗いところにいることが耐えられなかったから」
ごろっと彼女は満天の星空に身を捧げるように寝転がる。そして、両手を握って空へと突き出した。
「よし、やってやるぞ! って意気込んで病室を出ようとしたとき、ドアの向こうから声が聞こえたんです」
ちらっと彼女が俺を見る。
「うんも……ね」
俺がわざとらしく呟くと、彼女はにんまり笑って「きららですよ」と答えた。
彼女が俺の制服を引っ張る。だから、真似してシートに背を付けた。視界を埋め尽くさんばかりの星が瞬いている。夜の空はとても高く、遠くに感じた。
きっと、この星の一つ一つに名前がついているのだろう。でも、俺には一つだって分からなかった。
周りから見れば、俺も彼女もこの星たちと同じようにただ一つの個でしかない。ちょっと輝きが強いとか、他のとは離れたところにいるな。そんな感想に過ぎないのだろう。
それでも、そんな有象無象にもたくさんのエピソードがあって、各々の人生がある。同じように、星にだってそれぞれ物語があるのだ。些細で、壮大で、嬉しいこと、悲しいこと、それぞれの沢山の想いがこの空には詰まっている。そんな気がした。
昼は太陽の独壇場なのに、夜はたくさんの星が個々に輝く。一際大きな月も、星を隠そうとはしない。だから、夜空は優しい気配がする。
「私もその時に初めて知ったんですけど、希死念慮って割と些細なことでぱっと消えてしまうんです」
「だから、俺に声をかけたのか」
彼女は小さく頷く。
「私の計画を狂わせたのだから、どうせなら退屈な時間もぶち壊してくれと思って」
あの時の彼女はそんなことを考えていたのか。病室へと招き入れる彼女に素直に手を引かれたのも、一件明かる気に振る舞う彼女の底を、色々なことへの劣等感ややるせなさを抱えていた俺が無意識に感じ取ったせいかもしれない。
少なからず、自分自身や周りへ飽き飽きしていたことは、程度の差はあれど同じだった。
「でも、あまり期待はしていなかったんですよ。なんせ、不思議に思って病室を覗く人はそれなりにいましたからね」
薄暗い一角を思い返し、納得する。病室を覗くのはどうかと思うが、誰しもが疑問に思うはずだ。
「私はその都度、部屋に招いては同じように会話を試みました。しかし、二度目も訪れてくれたのは日影くんだけでした。そもそも部屋に入る前に逃げられてしまったり、入ったはいいものの不気味な暗がりと私を恐れてか足早に退散したりと、まあそれが普通なんですけどね」
「その言い方だと俺が変な奴みたいじゃないかよ」
彼女はくすっと小さく声を上げた。
「実際にそう言ってますよ。日影くんは変な人なんです。人間、怪しいものには関わらないのが一番なんですから。じゃないと、こうして粘着されますよ」
彼女がゴロリと転がり、俺の上にのしかかった。制服越しにも分かる熱い身体が、いつしか無意識に震えていた俺の身体へと熱を伝える。
不意に実感してしまった。もう、本当に別れが近いのだと。
もちろん、そんなことずっと前から聞いていたし、彼女を見て分かっていた。それでも、俺はずっと心のどこかでそれを否定し続けていた。彼女は死なない。いつまでも、こうして触れ合っていられる。その思いは、今日ここに来てからも変わらなかった。
しかし、この瞬間、せき止めていた現実が濁流のように溢れて広がった。確かに彼女の身体が発する警鐘と、それを自覚した彼女の行動が、結びついて俺を縛り上げる。もう目を逸らすのも限界だった。
滲んでしまいそうな視界に、歯を食いしばって必死に耐えた。本当に泣きたいのは俺じゃない。俺が泣くなんて間違っている。
彼女の身体をぎゅっと抱きしめた。今この瞬間、彼女が抱える苦しみが熱と共に俺へと移ってくれればいいのに。
彼女が存在しない世界は俺には想像が出来ない。それくらい、俺の中で彼女の存在は大きく、今もなお膨らみ続けている。
彼女が死ぬくらいなら、俺が代わりに死んでやりたい。だから、強く、強く、願うように必死に抱きしめた。
後、何か月……何日こうしていられるのだろう。神様は俺たちに後どれくらいの猶予をくれたのか。それを知る術はどこにもない。
ずっと、俺と彼女は抱きしめ合った。彼女がぎゅっと力を入れれば、俺も黙って返す。どちらかがふっと力を緩めると、離すまいともう片方がより力を込める。二人の間に会話は無くて、清涼な夜風の囁きだけが間を奏でて去っていく。
長い間そうしていたような気がするけど、もしかしたらほんの数分だったかもしれない。
不意に彼女が耳元で囁く。
「日影くん。私、みかんの花が見てみたいです」
どちらからともなく背に回した腕が離れる。顔を上げた彼女は、いつかのように哀歓を秘めた瞳をしてはにかんでいた。
「……なら、俺が何とかおっさんに話を付けてやるから、近いうちに夜抜け出そう」
「いえ、私は太陽の下で輝くみかん畑が見たいです」
疑問を示す言葉すら出なかった。彼女なら、そう言うと無意識に思っていたからだ。
喉に何かが詰まったように苦しい。
「だ、駄目だろ……。そんなことしたら、今度こそ……」
「はい。多分、私の身体は耐えられないでしょう」
それが何を意味するのか、分かっているのか。そんな野暮なことは訊けない。
まっすぐに見つめる彼女から、思わず目を逸らした。先ほどまで凪いでいた鼓動が、突然荒れ狂った波を立てる。
「――っ……か、帰ろう。途中でアイスでも買ってよ、もちろん俺の奢りだ。だから、今日は――」
「日影くん」
彼女が俺の名前を呼んだだけ。なのに、俺は言葉を失ってしまった。もがくように舌が揺らぐ。
「お願いします。私の最後のわがままをどうか聞いてください」
「……だって、」
声が震えて、上手くしゃべれない。その続きを口にすることを俺は逡巡してしまった。彼女の視線が突き刺さり、背後の星空がぼやける。
「それはつまり……死ぬってことじゃ……」
その時、気が付いてしまった。視界は端で、彼女の手が震えていることに。
「きっと、私の身体は後、数日で本当に動かせなくなると思います」
彼女は静かに、まるで子供を諭すように語り始めた。
「そして、今日病院に戻れば抜け出したこともバレて、もう二度と外へは出られなくなるでしょう。もしかしたら、日影くんとも会えなくなってしまうかもしれません」
そのことは容易に想像できた。そして、彼女はまた独りであの暗闇の中に逆戻りだ。近づく死の恐怖に怯えながら過ごす日々を、彼女以外には理解しきれないだろう。
「もう暗いところに独りでいるのは嫌なんです。どうせ数か月後には私は死んでしまうでしょう。あの暗闇で死を待つことは生きていると言えるのでしょうか。ゆっくりと腐っていくくらいなら、私はさいごに思いっきり輝いていたい。――太陽になりたいんです!」
痛いくらい、彼女の感情がなだれ込んでくる。その瞳は真剣で、とてもじゃないが否定することは出来なかった。
俺にしか頼めないことなのは分かっている。それでも、やっぱり踏ん切りがつかなかった。彼女には一日でも長く生きてもらいたい。そう、思ってしまっている。
そんな自分が大嫌いだ。これじゃ、周りの大人たちと一緒じゃないか。
「自暴自棄になっているわけじゃないんですよ……。もちろん、死ぬのは怖いです。本当はもっと生きたい。日影くんと色々なところへお出かけして、一緒に大人になって。ちゃんと、日影くんに好きだよって言いたい。……でも、それは叶わないんです」
ぽたりと俺の頬に冷たいものが落ちた。白磁の頬を伝う一筋の雫が、月明かりを受けてきらりと光る。彼女の涙だった。
「えっ……?」
彼女も気づいていなかったのか、自分の頬に手を当てて小さく声を漏らす。そして、食いしばった口が少し開くと、糸が途切れたようにぐしゃりと顔を歪ませた。
溢れ出す大粒の涙が彼女と俺の顔を濡らす。その瞳は夜空の星を反射して、まるで空が泣いているみたいだった。
「死にたくない……。死にたくないけど……! でも、死ぬのなら私らしく死にたい……。あんな暗闇で終わるなんて、絶対に嫌なんです……!」
その思いを皮切りに彼女は脇目もふらずに啼泣した。
気が付けば、俺の視界も歪んでいた。世界の輪郭がぼやけて、うるうると揺らぐ。喉の痙攣は収まることなく、それに呼応するように涙がこぼれだした。
「俺だって……! 蛍琉に死んでほしくない……! 生きて欲しいに決まってるだろ! ――っ……くそっ!」
二人で声が枯れるまで泣き続けた。山風がぴたりと止まり、俺と彼女の悲愴な叫びが一帯を響いて包む。
神様なんていない。
この世界に綺麗な物語なんて存在しない。
だから、自分たちで決めるしかないんだ。この恋の終わりを、彼女のさいごを。
互いに胸に刻み込むように、いつまでも子供の様に声を上げた。どれだけ泣いても、涙は枯れることなく溢れてくる。はち切れた感情が全て涙となって体現してしまっているみたいだ。
「ごめんなさい、覚悟してきたつもりだったんですが……。やっぱり、駄目ですね。怖くて、恐ろしくて、止められませんでした」
彼女の頬を透明な雫が流れ星のようにすっと落ちる。月明りに照らされたそれは確かに輝いていた。炎や照明よりもずっと弱く、でも繊細に。暗い夜の草原と、悲しみに満ちた二人の間を通り抜けたそれが、俺には1ルクスの輝きに思えた。
「……付き合うよ、さいごまで。どこへだって、俺が連れて行ってやる」
気が付けば、口を衝いていた。それが俺の出した答えだった。
頬を濡らしたまま、彼女がゆっくりと破顔する。哀歓の入り混じった、とても綺麗なものだった。
「ありがとうございます……。私は今、とても幸せです」
「……同情だよ」
いつかの冗談を口にする。もちろん、嘘だ。
俺と彼女は二人で見合って同時に笑いを洩らした。すっと、空気が軽くなった気配がする。
空が明るくなるまで、二人でちょっと泣いて、たくさん笑い合った。優しい月と星の明かりだけが、俺と彼女をいつまでも照らしてくれていた。
ひんやりとした空気が、いつしか随分と軽くなっていた。どうして夜の空気はもったりと重たいのに、早朝の空気はこんなにも軽いのだろう。
白んでいく空を仰いで、思い切り深呼吸をしてみた。濁りの無い爽やかな新緑の匂いが肺を満たす。
空気が美味しいって、こういうことを言うんだな。生きていて、初めて実感した感覚だった。
星が一つ、また一つと明るく塗られるキャンバスの彼方へと姿を隠していく。今日は幾ばくか気温が高くなりそうな気配がした。
「カーテンはどうする?」
「いえ、もういらないでしょう。今日の私はありのままです」
目の下を赤く腫らした彼女の表情は晴れやかだ。多分、俺も全く一緒だと思う。泣き擦りすぎて赤い隈が出来ているんじゃないだろうか。
それでも、心の内はとても穏やかだった。
彼女を背におぶって、長い丸太階段をゆっくり降りる。前に回した彼女の腕の俺を抱きしめる力は随分と弱々しく、とても熱い。
何が正解なのか、きっと誰にも分からない。そもそも、正解なんて無いんだと思う。
俺と彼女は出来るだけいつも通りの日常的な会話を広げた。それでも、未来の話はしなかった。
途中、コンビニに寄ってアイスだけ買った。もちろん、俺は青い棒アイスを、彼女はハーゲンのいちご味を。綺麗に半分ずっこにした。もう、濃い味が嫌いじゃなくなっている自分に驚きだ。彼女は俺の好き嫌いまで変えてしまう。
徐々に気温が高まる最中、すっかり一面の青空になった下で食べるアイスは格別だった。暗闇で食べるなんて、やっぱり勿体ない。
山を下り、そしてまた別の山に向けて登る。バスも出ていないような早朝の峠道は人通りはおろか、車通りもかなり少ない。それでも、二人きりの世界ではなくなってしまった事がちょっぴり残念だ。
「楽しみですね、みかん畑」
「普通、実が成ってる時を見たがると思うんだけどな」
彼女が身を乗り出し、横から俺の顔を覗き込む。
「だって、それは日影くんがもう見てしまったじゃないですか。でも、まだみかんの花は見ていませんよね? 私は日影くんと初めてを共有するのが楽しみなんです」
果たして、俺はちゃんと彼女と思いを共有することが出来るだろうか。実際にその時になってみないと分からない。
俺も彼女も、ずっと小さく震えていた。でも、二人ともそれについて触れなかった。
やっぱり、俺も彼女も物語の主人公にはなれそうもない。腹を括ったはずなのに、まだ恐怖を逃れられない。
でも、それでいいんだと思う。だって、これは人間的に当たり前の感情で、殺してはいけない弱い部分だ。彼女といることが出来て嬉しいのと同様、別れが悲しくて怖いのは自然なことなのだから。
だから、これでいい。押し殺さないで、我慢もしない。
今だけは、彼女にありのままの俺でいたいから。
「ほら、見えてきたぞ」
前方を指さす。錆びて古びた大きな看板と、直営所が道脇にそびえている。駐車場には一台だけ荷台のついた小型のトラックが、隅にぽつんと停められていた。
「おぉー、すぐにみかん畑がお出迎えするわけではないのですね」
彼女の言葉に少し笑いが零れる。
「どうしたんですか?」
「いや、初めて来たとき全く同じ感想だったなって」
「ふふっ、息ぴったりです」
直営所の逆さになったビールケースの上にはまだ何も置かれていない。
脇のドアをノックする。しばらくして、奥から床を雑に踏み歩く足音が聞こえてきた。がらっと勢いよくドアが開き、眉間に皺を寄せたおっさんが姿を見せる。大方、こんな朝っぱらに誰が来やがったとでも思っているのだろう。何なら、文句の一つも喉元まで用意していそうだ。
おっさんは俺の顔を見るや否や、少し驚いたように眉間の皺を緩める。
「なんだぁ? こんな早くにどしたんだ、坊主」
俺に尋ねながらも、その視線が背に担いだ彼女へと向く。そして、余計に首を傾げた。
「すんません、ちょっとお願いがありまして」
神妙な気配を察したのか、おっさんは難しそうな顔で白髭を擦る。そして、ややあって一言「入れ」と呟いて、背を向けた。
「やはり、ご迷惑でしたよね……」
彼女が囁く。
「いや、別にそんなことないだろ。何か結構機嫌良さそうだったし」
「ほ、本当ですか?」
「おっさんはああいう人間なんだよ」
確かに初対面の彼女には、ぶっきらぼうで愛想の無い人に見えるだろう。しかし、おっさんは言ってしまえば人見知りのようなものなのだ。慣れるまでは取り付く島が無い。
多分、五月の現在はまだニューサマーオレンジの収穫体験で忙しいだろうに、おっさんはすんなりといつものように倉庫に通してくれた。
「何だか訳ありっぽいじゃねえか」
「あー、まあ、そうっすね。何から話したらよいのか」
こうしている間にも、彼女は常に戦い続けている。いつ限界が来てもおかしくは無いのだ。その焦りが、思考をやたらとかき乱す。
「日影くん、私に説明させていただけますか?」
後ろ髪を掻く俺の手を彼女が握り、そっと降ろした。
「あ、あぁ……。そうだな、それがいい」
それから、彼女はおっさんに全てを伝えた。己の病気のこと、余命のこと、何をしにここに来たのかということ。時折、息が切れながらも彼女はひたむきに語った。それをおっさんは口を挟むことなくじっと、黙って聞いていた。
そして、全部を明け透けに話し終えると、おっさんは俺と彼女を見据えて、暫し思案するように顎をしきりに擦る。
もちろん、断られる可能性の方が高いだろう。少なからず、この場所には悪いイメージが付いてしまう。どれだけ沈黙を貫こうと、情報はどこかで勝手に漏れ出してしまうのだから。
しかし、最初は懐疑的だったおっさんも、彼女の熱意に当てられて真剣に考えてくれている。
俺はそんなおっさんの昔話を思い返し、そして、気が付けば口を開いていた。
「あの、今言うのも変かもですけど、」
そう前置き、一度唾を呑み込む。これが彼女の後押しになるとは限らない。それでも、俺はおっさんに伝えておきたかった。ずっと分からなかった疑問が解けたから。
「息子さん、自殺じゃないと思います」
おっさんの瞳が見開く。
「いや、自ら命を絶ったことには変わりないと思うっす。でも、遺書の『俺が俺であるために』って言葉、今ならどういう意味か分かるんすよ……」
おっさんの貧乏ゆすりがぴたっと止まる。小刻みに鳴り響いていた音が止まり、天井の高い倉庫に静寂が敷き詰められる。
「お、おい、それってつまり――」
「息子さん、多分私と同じなんだと思います」
そっと彼女が呟く。彼女が横目で俺をちらっと見るから、小さく頷いた。
おっさんは半開きの口を震わせ、言葉を失う。
「私は、私のために死にたい。自分じゃなくなってしまうのが怖くて、今こうして色んな人に迷惑をかけてここにいます。それでも、私は運命なんかに負けたくないのです」
彼女の真剣な眼差しにおっさんは動きを固めた。そして、額に手を当てうなだれるように顔を隠す。
「そうか……。そうだったか……あいつ、そんなことを考えて――」
その声は少し震えていた。
しばらくの沈黙の後、おっさんはゆっくりと顔を上げた。微かに潤んだ瞳が俺と彼女を捉える。
「全く、大馬鹿だな。あいつも、お前らも」
「やっぱり、ご迷惑ですよね……」
残念そうに顔を下げる彼女をおっさんが立って見下ろす。そして、どこか満足げに目尻を下げた。
「何してんだ、さっさと行くぞ。早くしねえと営業時間になって客が来ちまうからな」
そう言い残し、おっさんは踵を返した。すたすたと早足で倉庫の奥へと向かう。
「えっ……と?」
困惑する彼女の手を俺は優しく握り、ゆっくりと立たせる。
「ついて来いってことだよ。ったく、分かりにくいんだよな」
彼女はきょとんと目を丸め、ややあってようやく緊張の糸を解いたのか、安堵の息を吐く。
「歩けるか……?」
「はい、さいごは自分の足で歩みたいです。でも、私は寂しがり屋なので手は繋いでいてくれますか?」
「もちろんだよ」
震える足で懸命に彼女は立ち上がった。もう、足を上げることは叶わないらしく、すり足でゆっくりと一歩ずつ進む。俺の肩を借りるでもなく、寄りかかるわけでも無い。ただ、自分の足で確かに歩んだ。
息も随分荒い。額に滲む汗は明らかに身体の異常を示している。それでも、彼女は抑えきれない高揚感に満ち溢れていた。
おっさんも何も言わず、大きなシャッターの前でじっと待っていてくれた。その瞳は懐かしさを抱えているように思える。きっと、思い出しているのだろう。俺や彼女と同じくらいの歳だと言っていたし。
「この先が、俺の自慢のみかん畑だ」
薄暗い倉庫に、思わずしり込みしそうな大きなシャッター。ほのかに染みつく柑橘の香りが、この暗さには似つかわしくない。
ぎゅっと、触れるだけだった彼女の手に力が籠る。だから、俺は彼女の手を優しく握り返した。それが、合図だった。
おっさんがシャッターを勢いよく開ける。隙間から漏れ出した光を気にする間もなく、視界が開けた。強烈な日差しが真っ先に飛び込んで、視界を白く染め上げる。徐々に鮮明になっていく世界に、思わず言葉を失って立ち尽くしてしまった。
雲の一つない快晴な青空と、張り合うように煌めく水平線。そして、緩やかな斜面を等間隔に並ぶみかんの木々。遠くに見える山々よりもずっと青々と茂った新緑に純白の花が咲き誇っている。割けるように開いた白い花弁に、蜜蜂を寄せる黄色いめしべとおしべ。それらが一つの木にたくさんの宝石となって太陽の光を受けて輝いていた。
吹き抜ける風が白と緑を揺らし、甘い爽やかな香りが鼻腔を撫でる。
「すっげぇ……」
今まで、二度この場所から同じ景色を見渡した。青い果実が入道雲に映える時。太陽に負けない橙色の果実が色彩を明るく染め上げた時。どちらも、紛れもない感動があった。
それでも、思わず声が出たのは初めての事だった。ありきたりな言葉だけど、この光景を表すにはどんなに華やかな言葉を並べても形容することは出来ない。
初夏の空が、海が、満開のみかん畑が、俺の心を掴んで離さない。
ふと、隣の彼女に目を向けた。俺と同じように目を奪われ、自然と笑みを零していた。それは今まで見たどんな彼女よりも表情が生き生きとしていて、思わず見惚れてしまう。
気が付けば、二人とも手の震えが止まっていた。
「私、やっぱり来てよかったです」
「あぁ、俺も……」
おっさんが気を利かせて椅子を用意してくれた。二人で並んで、ずっとみかん畑を眺めた。薄暗い倉庫から眺める燦々と輝いた世界は、まるで映画を見ているようだ。
「今日は良い天気ですね」
「そうだな、この景色を見るのにぴったりだ」
いつの間にか、太陽がとても高い位置にある。倉庫にかかった時計を見ると、もう十二時を回っていた。
客が来ないことを見るに、多分おっさんが臨時で休みにしたのだろう。本当に頭が上がらない。
「少し、席を外す。おっさん、蛍琉のこと見ててやってくれ」
「おう、任せな」
倉庫を出て、直営所のビールケースに腰をかける。手の震えは止まったけれど、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
頬を強く叩く。ひりひりして、すごく痛かった。生きてるって、実感できた。
五分ほどその場で呼吸を落ち着かせ、戻るとおっさんは背を向けて肩を震わせていた。ぽたりとおっさんの足元に零れ落ちた雫が染みる。
「どうしたんだ?」
晴れやかな表情の彼女がにこっと俺に笑いかける。
「何でも無いですよ。ただ、少しお話していただけです。ねっ?」
おっさんは乱暴に作業着の袖で顔を拭い、俺と入れ替わるように外へと踵を返した。
「そうだな、何でもねえよ。でもな、坊主、嬢ちゃん。……ありがとうな。ようやく、息子のことが分かったよ」
そう言い残し、おっさんは外へと行ってしまった。一体、俺がいない間に何を話したのやら。きっと、彼女にしか伝えられないことがあったのだろう。
彼女の隣に座り直す。そして、またぽつりぽつりと会話を交わしながら、夢心地な景色に目を奪われた。
こんな時間がいつまでも続けばいい。月並みな思いを心の底から感じていた。
「やっぱり、さいごに日影くんとこの景色を見ることが出来て良かったです」
ゆっくりと彼女が立ち上がった。手を貸そうとして、彼女が緩やかに首を振る。
そのまま、彼女は一歩踏み出した。薄暗い倉庫から抜け出した白磁の腕が、制服が、太陽の陽射しを浴びて輝く。その様子を俺はただ眺めていた。
全身を太陽の下に晒した彼女が、まるで病気を感じさせない軽やかな動きで振り返る。10万ルクスの明かりを一身に受け止めて、同じように輝きを放つ少女がそこにいた。
「日影くん」
彼女が俺の名前を呼ぶ。
きっと、愛の告白でも、別れの言葉でも無い。だって、これは残酷で、幸せな、日常の最後の一ページなのだから。
「どうした?」
自然と口元が綻んでいた。
最高の笑顔に一筋の涙が零れ落ちる。それはとても美しくて、一ミリも悲しい気持ちになんてならなかった。
「私、日影くんに出会えて幸せでした! ――生きていて、本当に良かったです!」
この日、彼女は世界で一番輝いていた。
太陽のような10万ルクスの満面の笑顔と、1ルクスの輝く涙で、いつまでも俺を照らしてくれた。
この日のことを俺は一生忘れないだろう。俺にとって、彼女にとって、この日は人生で一番眩く輝いていた日だ。
――彼女の葬儀が執り行われたのは、それから三日後のことだった。
肌寒そうな枝木に薄桃色の花が咲き誇り、そして、やっぱりあまり目に留めることもなく散った。
それでも、昨年よりは記憶に残ったはずだ。最近は意識的に草花に目を向けることが増えたから。
スマホを見ながら、ぼんやり歩くことは無くなった。ブルーライトから発せられる何ルクスかの明るさは、太陽と違ってすごく身体に良くない気がして。
変わらない趣味の悪い応援を遠巻きに、観客席からコートを見下ろす。約七十九坪のフィールドを、ネットを挟んで二人が駆ける。
青を塗りたくった空から陽射しが二人を穿つように照り付け、白熱する試合により熱をもたらしている。
激しく行き交う蛍光色の球の行方を、俺は固唾を呑んで見守っていた。
「ファイトーッ!」
気が付けば、自然と大きな声を張り上げていた。遠巻きに眺める人たちは声を出していない人が多かったこともあり、周りから視線が集まる。だけど、そんなこと関係なかった。心の底から、とにかく、彼に勝ってほしかったから。
一時間近くに及ぶ長丁場の試合の最後は、彼のネット前でのプレーで締めくくられた。迫真という表現が正しい、ポール際のダイビングボレーだった。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 6-5」
審判が審判台から降りるのを見て、俺はそっとその場を後にした。思ったよりも長引いた試合に、今日は休みを取ってきて正解だと心の中で独り言ちる。
隣県から電車で帰ってたんじゃ、夕方の納入にも間に合わなかっただろう。それに、おっさんも気兼ねなく行って来いと言ってくれたし。
最後の試合が終わり、設備の整った広いテニス場はいつもと違う、哀愁を感じる空気が漂っていた。テニスコートが立ち並ぶくせに、球を弾く音が一切聞こえないのは変な感覚だ。同時に部活終わりの懐かしさもこみ上げてくる。
夕照に染まりつつある橙色の景色が、笠木の優勝を持って一日の幕を降ろす準備をしているみたいだった。
「――先輩!」
ふと背から声がかかる。バレずに帰るつもりだったが、彼を相手にはそうもいかないらしい。汗だくで息を切らした笠木が、ラケットを手放すことも忘れてそこにいた。
「おう、東海大会優勝おめでとさん」
「ありがとうございます! あ、えっと、応援ありがとうございます!」
全部ひっくるめて一言で良いのに。相変わらず、律義な性格なのだ。
「最後、ちゃんと先輩の声聞こえたっす!」
「あの状況で? お前、すげぇな」
にかっと歯を見せて笑う笠木。当たり前っすよ、と言いたげだった。
「次は全国だな」
「はい! 先輩の分まで、俺が頑張ってきます!」
「俺はもう卒業して部員じゃねえんだけどなぁ」
「気の持ちようっすよ」
それなら、まあ別にいいか。
俺もあの時、笠木の分まで、と意気込んでいたわけだし。
「応援来てくれるっすか?」
「仕事の休みが取れたらな。まあ、大丈夫だろ。七月はそこまで忙しくないしな」
数か月先の約束をするのは、実はあまり好きではない。人生何が起きるか分からないんだ。だから、どうせおっさんは休みをくれるんだろうけど、断言はしないでおいた。
会場に設置された音響設備から、大会の閉幕を告げるアナウンスが流れる。見る見るうちに人が捌けていく最中、俺は胸の疼きをずっと感じていた。
斜陽で寂しそうになったコートから、目がなかなか話せない。
少しくらい、欲を出しても良いだろうか。
「なあ、」
「どうしたっすか?」
「一試合、やらね?」
ようやく息の整った笠木の表情が一気に明るくなる。まるで、花が咲いたみたいだ。
「はい! もちろんっすよ!」
ネットを挟み、コート上で笠木と向かい合う。遠慮はいらないと言っておいたけれど、果たしてどうだろうか。
その疑問は、すぐさま消え失せた。内側から抉るような猛烈なファーストサーブが飛んできて、俺はラケットを振る間もなく息を呑む。
「どうしたんすか、どんどん行きますよ!」
もちろん、試合はコテンパンにされた。それでも、久しぶりに一心不乱にコートを駆ける時の昂る気持ちと、得点を取った時の高揚感にどうしようもなく痺れた。
次第に、思考が目の前のことだけに支配されていく。他の何もかもが頭の隅に塵となって消え、今はただ、眼前のことだけしか考えられない。
ラリーを交わしながら、自然と笑みが零れ落ちる。激しく打ち鳴らす鼓動が心地よかった。
もうどうにも間に合わない最後の一球まで、全力で追いかけた。届かないと分かっていても、懸命に腕を伸ばした。
「ゲームセット、ウォンバイ 笠木 7-1っす」
大の字でコートに倒れ込む俺に笠木が手を差し出す。俺はその手をありがたく取って、身体を起こした。まだ、うるさいくらいに心臓が暴れている。
「はぁー、お前強すぎんだよ」
「1ゲームも渡すつもりは無かったんすけどね。やっぱり、先輩は流石っす!」
その言葉に皮肉は混じっていない。笠木の純然たる俺への感想だった。
やっぱり、過大評価だ。そう思ったけど、口には出さないでおいた。こんな俺でも、誰かの道しるべになれているのなら、わざわざ自分で否定する必要も無いのだから。
「先輩、また試合してくれますか?」
コートを見渡す。風にそよぐネット、土をつけた蛍光色の球。自分だけがヒーローになれる、強く輝ける場所。
なあ、母さん。蛍琉。俺はやっぱり――
「あぁ、もちろん。俺、テニス好きだからさ」
まだ車通りの少ない山岳道路の朝は、窓を開けながら走行すると軽い空気が存分に感じられる。運転中にも随分余裕が出来た証拠だろうか。とはいえ、まだ免許を取って数か月。まだまだ、親父にもおっさんにも危なっかしいと言われる日々だ。
この辺りは民家が少なく、もちろんマンションなどはあるはずもない。コンビニだって、五分前に通り過ぎたのが最後だ。
日の出がすっかり早くなった五月は、朝の七時でも高く太陽が昇っている。朝のさわやかな空気にわずかな熱を感じ、今日は暑くなりそうだなと思った。
駐車場の隅に車を止める。主要道を脇に逸れたここは、車のドアを閉める音がよく響く。
農繁期もだいぶ落ち着き、ようやく怒涛ともいえる日々に余裕が生まれてきた。とはいえ、ウチの職場はニューサマーオレンジの栽培、収穫体験も行っているため、あと半月くらいは閑散期とは言えない。
今日もこれから前日に収穫したニューサマーオレンジの選果、それから農協への持ち込みから始まる。長い一日になるだろう。
直営所のドアを鍵で開け、そのまま中へ入る。おっさんの持ち家だが、同時に俺の職場でもある。だから、合鍵を持たされていた。
そのまま倉庫に向かうと、おっさんはニューサマーオレンジが積まれたコンテナに手をかけているところだった。まだ就業時間ではないのに、どうやら、一足先に仕事を始めるつもりだったらしい。どこまでも仕事熱心な人だ。
「おはざいまーす」
俺の挨拶でようやく存在に気が付いたのか、皺の深い顔を向ける。
「おう、今日はちょっと早えじゃねぇか、日影」
「おっさんがいつも、こうやって先に仕事始めちまうからっすよ」
おっさんは罰が悪そうな顔で手を動かす。これまで奥さんが亡くなるまでは夫婦で、それからは一人でここを切り盛りしてきたせいか、どうも始業と終業の感覚が分からないらしい。とはいえ、別に俺以外に従業員はいないわけだし、こうして面と向かって苦言出来る間柄だから、さほど問題でもない。今日、早く来たのは、実際はただの気分だ。
手早く荷物を降ろし、仕事に取り掛かる。つい最近までは毎日のように怒鳴られていたけれど、ようやく一年を通しての仕事にも慣れてきた。
「ったく、毎度律義なやつだな。早くに始めたからって、給料は増えねえぞ?」
「仕事以外ここでやることないっすよ」
「かぁー、生意気なやつだこんちくしょう。バイトの時にゃあ、もう少し可愛げがあったってのに」
そんなことを言いながらも、おっさんはやけに楽しそうだった。まるで、息子と会話している。そんな風に思えた。ただの俺の思い込みかもしれないけど。
昨年の五月。俺はおっさんに頼み込んでバイトとして雇ってもらった。迷惑をかけたというのも理由の一つだけど、おっさんの仕事への熱意に感銘を受けて働いてみたくなったからだ。後は、まあ、何かをしていないと辛い時期だった。
高校三年は就活組にとっては時間が有り余る。夏には部活も終わり、自由登校日が増える。だから、俺はその分、おっさんの下でバイトをしたり、免許を取ったり、なるべく暇な時間をつくらないようにしていた。
就活はしなかった。元々、おっさんに卒業と同時に雇ってもらえるように頼んでいたからだ。
コンテナから黄色い果実を取っては、傷や汚れなどのチェックをして大きさ別に仕分ける。倉庫を漂う爽やかな酸味の強い香りにふと思う。
「ニューサマーはあんまり太陽っぽくねえな……」
独り言におっさんが手元から目を離し、俺を一瞥する。
「あぁ、いや、特に意味はないっすよ。ただ、みかんはどんな果物とか野菜よりも太陽みたいだって言ってたやつがいて」
「面白いこというな、そいつ。そんでもって、変なやつだ」
「やっぱり、そう思うっすよね」
今でも、鮮明に姿が蘇る。目を爛々と輝かせ、話していた彼女が。
手が止まりそうになり、強引にかき消す。なぜかおっさんが俺をじっと見つめていたけれど、気が付かないふりをして選果を続けた。
選果を終え、トラックにニューサマーオレンジを積み込む。農協へはおっさんが午後に向かうらしい。とりあえず、今日の分はひと段落だ。
「そうだ、日影」
「なんすか?」
「お前、今日は午後休な」
「はい? なんでっすか、急に。昨日も休みだったのに」
時計を見る。もう短針がてっぺんを超えていた。今日はまだやることがあったはずだが、一体どういう風の吹き回しなのだろう。
「いいから、今日はもうお前は仕事すんな。後、一つ話すことがある」
昼休憩中は滅多なことじゃ立ち上がりもしないおっさんが、重い腰を上げる。そのまま、何を言うでもなくみかん畑に繋がるシャッターの前まで歩いて行く。
「昨日、咲いたんだよ」
がらっとシャッターが開く。燦々と降り注ぐ陽射しを受けたその景色に、思わず涙が出そうになった。
斜面をどこまでも並ぶみかんの木に満開の白い花が咲いていた。
偶然か、雲一つない快晴。遠くに見える水平線に小さく船が見えた。多分、ぼうという汽笛を鳴らしているんだろうな。何となく、そう思った。
一年前と全く同じ光景だ。俺が、彼女が、世界で一番好きな景色。
違うことがあるとすれば、俺の隣にはもう彼女がいないということだ。
この景色を独り占めするのは、とても寂しい。一緒に綺麗だねって、今年も言いたかった。
「もう一年経ったのか……。早いな……」
今も俺はこうして呼吸をして、心臓を動かしている。起きたら死んでいるんじゃないかと思うくらい、絶望のどん底を味わったのに、まだやっぱり生きている。
噂を聞いた周囲の反応が、一年という月日が、あの時の決意と選択を濁らせる。
なあ、蛍琉。俺たち、本当に正しかったんだよな……?
その答えは、もちろんみかん畑からは帰ってこない。
「そうだ、一年経った。だから、嬢ちゃんとの約束の時なんだよ」
「えっ……?」
おっさんは懐かしそうに目を細め、そしてスマホを取り出した。慣れない手つきで画面を操作し、俺に手渡す。
「嬢ちゃんに頼まれちまったんだよ。日影くんは実はとても繊細で、傷つきやすくて、自分を責めちゃう人だから、一年後にこれを見せてあげて欲しいってな」
「何を言って……」
おっさんが首でスマホを見ろと合図する。不思議に思いながら目を落とすと、真っ暗な画面の中心に動画の再生ボタンがあった。
何故か、手が震えた。ちょっぴり、再生するのが怖い。
一年間、押し殺した思いがざわめく。
ジャスミンのような甘い匂いが風に吹かれて香った。
覚悟を決め、再生ボタンに触れる。
『早く、早く! 日影くんが戻って来ちゃいます』
暗い画面越しに、懐かしい声が聞こえた。ずっと、ずっと渇望していた彼女の声だ。それだけで、目頭がじんわりと熱くなった。
『お、おい、俺はあんま慣れてねえんだよ』
おっさんの声と共に、画面がぱっと色づく。
満開のみかん畑を背後に添え、太陽の下で制服姿の彼女が立っていた。思わず、スマホを前に掲げる。まさに、今目の前に彼女がいる。そんな錯覚に陥った。
『大丈夫です。そのまま持っていてください』
『お、おう』
彼女が空を仰ぎ、大きく深呼吸をした。身体の隅々まで行き渡らせる様な、長い呼吸だった。そして、すっと目線がこちらを向く。
『私の愛する人たちへ。
遺書なんてものは書きませんよ。お互いに悲しい気持ちになっちゃいますからね。
だから、私はこの動画を残します』
彼女が静かに目を閉じる。画面の中と、目の前で、同時に強く一陣の風が吹き抜け、みかんの木を揺らした。
そして、一瞬の静寂が訪れる。まるで、時間が止まったみたいに、世界から音も動きも無くなった。
ゆっくりと彼女が口を開く。
『みかんの花が 満開で――』
いつか耳にした、あの曲だ。
視界がぼやけ、喉が震える。大粒の涙が頬を伝う冷たい感覚だけを残して、膝に染みをつくった。
嗚咽が漏れそうになり、我慢した。彼女の輝きを邪魔したくなかったから。
彼女の優しい歌声が、いつまでも俺を包んで離さなかった。
本当に今すぐ画面から出て来そうで、手を伸ばす。暗がりを突き抜けた俺の腕を、太陽が照らす。
「俺が先に歌わなきゃ、歌わないんじゃなかったのかよ……」
気が付けば立ち上がって、俺はみかん畑へと飛び出していた。10万ルクスの陽射しが俺に容赦なく降り注ぐ。
彼女が瞼を上げると、確かに目が合った。その透き通る宝石のような瞳が、俺を見ていた。
『私はちゃんとさいごまで生きたよ!
辛いことも多かった。でも、やっぱり楽しかった!
たくさん、迷惑かけてごめんなさい。
……ううん。そうじゃないよね』
彼女の顔がほころぶ。
会心の笑顔だった。
『――いっぱい、ありがとう!』
動画はそこで終わっていた。ふっと、暗くなる画面に雫が垂れる。いくら拭っても、止まらなかった。
静かになったみかん畑に、嗚咽が漏れる。胸が痛いくらいに苦しくて、俺は声を上げて泣いた。
「くそっ! くそっ……! うぅっ……くそっ!」
とにかく、大声で叫んだ。太陽なら、全部持っていってくれる気がしたから。
強く、風が吹いた。みかんの花びらが俺を慰めるように一面を舞う。その景色があまりにも美しくて――
「俺の方こそ、ありがとう!」
いつの間にか、涙は止まっていた。
潮風に濃紫色のスターチスが靡く。
親父が墓石に柄杓で水をかけると、滑らかな御影石を陽射しが反射し、ちかっと輝いた。それが母親からの反応に思えるのだから、俺も多少は変われてるんじゃないだろうか。
潮の香りと、線香の匂いが混ざり合い、鼻腔を優しく刺激する。揺らめく一筋の煙が、ゆっくりと天に昇っていくのを、俺は黙って見ていた。
「母さんはとにかくスターチスが好きでな、特にこの色の濃い紫がお気に入りだったんだよ」
親父は合掌を解き、ゆっくりと腰を上げる。
家の花瓶にスターチスが飾られていたかと言えば、やっぱり覚えてはいない。でも、小さな花がいくつも集まって支え合う姿は俺も好きになれそうだ。
「今度は俺が一番好きな花を供えてあげようかな。今日は一人分しか摘んでこれなかったんだ」
抱えた白い花束に親父が視線をくれる。
「よし、じゃあ父さんも今から好きな花を探してみよう。スターチスだけじゃ、寂しいもんな」
「それがいいよ。俺たちは三人で家族なんだから」
五月の中旬にしては、今日はやけに蒸し暑い。まるで、早い夏が来たみたいだ。じりじりと照り付ける太陽に汗がじんわりと滲む。
「それじゃあ、父さんは車に戻っているけど、日影はまだ用があるんだろ?」
親父には彼女のことについて詳しくは話していなかった。ただ、一年前にある人の葬儀に出席したこと。それから、定期的に母親以外の墓参りに行っていることは伝えてあった。
「今度、ちゃんと話すからさ。聞いてくれるか……?」
すると親父は一瞬母親へと目を向け、そして何故か嬉しそうに笑った。だから、きっと母親も今笑っているんだと思う。
「もちろんだ。日影がこんなにも執着する人なんだ。それは是非、父さんも母さんも知りたいな」
そう言われると、途端に恥ずかしくなった。多分、二人には色々とバレているんだと思う。親に隠し事をするっていうのは存外難しいものなんだなと改めて思う。
一人になった後、水平線が一番近い端まで移動した。そこに彼女は眠っている。この墓地で一番日当たりが良く、やけに眩しいところだ。
彼女にぴったりの場所だと思った。むしろ、彼女にはこの場所以外考えられない。
一回忌の今日は先客がいた。
「こんにちは」
喪服姿の女性に声をかける。顔を上げてこちらを見た女性は頬を軽く濡らしていた。
「……こんにちは。来てくださったのね」
「はい。お邪魔じゃ無ければ、線香を上げさせていただきたいです」
「もちろんよ、この子も喜ぶに決まっているわ」
持ってきたみかんの花を供える。それを見て、隣の女性はまた少し涙ぐんだ。
「私はまだあなたのことを、やっぱり許せないでいます……」
線香に火を付けようとして、一度離した。女性が俺をじっと見つめていたから。
「俺がしたことは紛れもない事実です。だから、許してもらえるとは思っていません。あの日も、そういう覚悟で彼女と一緒にいました」
「それでも、あの動画に映っていたあの子の表情は、今まで見たことがないくらい明るくて、幸せそうだったわ。あの子にあんな表情をさせてくれたのは、あなたなのでしょう? 本当に感謝しているわ」
あの日の後、俺は彼女の家を訪れ、門前払いをくらいそうになりながらも彼女の動画を彼女の両親に見せた。
私の愛する人たちへ。それには彼女の両親も入っているに違いないからだ。
「私や夫では、あの子のあんな嬉しそうな顔は引き出せなかった。だから、まだ許せない思いももちろんあります。だけど、葬儀での失言は謝罪するわ。ごめんなさい」
深々と頭を下げる彼女の母親に、俺は頭の後ろを無意識に掻いていた。やっぱり、子供は親に似るんだと再認識する。
「今年はもう花が散ってしまいますけれど、良ければ来年、俺の働くみかん畑に来てください。俺と彼女が見た景色を、ご両親にも見てもらいたいですから」
彼女の母親は少し意外そうな顔をしていた。ややあって、その表情が綻び、悲しみの残滓が頬を伝った。
「そうね。是非、伺わせていただくわ」
また、彼女に俺は救われたんだと思う。あの動画が無ければ、俺と彼女の両親との関係はあの葬儀の時から変わることは無かっただろう。
いつだって、彼女は俺の中心で明るく輝いている。それは昔も、今も、変わることはない。
「あの子ね、最後に話した時に言ってたのよ。日影くんは私にとっての太陽なんだ。だから、私も誰かの太陽になりたいって……」
俺が彼女の太陽に。
なれていたのだろうか。……いや、なれていた。確かに、彼女にとって俺は太陽だっただろうし、俺もまた彼女に救われている。
「なれていますよ。それも太陽どころじゃない、10万1ルクスに輝いて」
「……そうよね。あの子はちゃんと輝いていたわ」
彼女の母親を見送り、ようやく線香に火を付けた。すっかり静まり返った辺りに、心が落ち着く。
手を合わせ、目を閉じると彼女の姿が浮かぶ。とても明るくて、輝いていた。
俺は今も輝くことが出来ているだろうか。やっぱり、彼女のようには中々いかない。
大層な物語のように、驚きの結末も、奇跡もない。
でも、それでいいんだと思う。俺も彼女も普通の人間で、普通の人生を歩んでいる。その中で精一杯、輝き続けるだけだ。
だから、まだ彼女ほどの輝きは出来なくとも、これからも俺は全力で足掻こうと思う。この理不尽で、平凡な世界を。
空を仰いだ。遥かてっぺんで、太陽が見下ろしていた。
その姿はやっぱり傲慢に思える。
だけど、ちょっとだけ好きになれそうだった。
(了)