ひんやりとした空気が、いつしか随分と軽くなっていた。どうして夜の空気はもったりと重たいのに、早朝の空気はこんなにも軽いのだろう。
白んでいく空を仰いで、思い切り深呼吸をしてみた。濁りの無い爽やかな新緑の匂いが肺を満たす。
空気が美味しいって、こういうことを言うんだな。生きていて、初めて実感した感覚だった。
星が一つ、また一つと明るく塗られるキャンバスの彼方へと姿を隠していく。今日は幾ばくか気温が高くなりそうな気配がした。
「カーテンはどうする?」
「いえ、もういらないでしょう。今日の私はありのままです」
目の下を赤く腫らした彼女の表情は晴れやかだ。多分、俺も全く一緒だと思う。泣き擦りすぎて赤い隈が出来ているんじゃないだろうか。
それでも、心の内はとても穏やかだった。
彼女を背におぶって、長い丸太階段をゆっくり降りる。前に回した彼女の腕の俺を抱きしめる力は随分と弱々しく、とても熱い。
何が正解なのか、きっと誰にも分からない。そもそも、正解なんて無いんだと思う。
俺と彼女は出来るだけいつも通りの日常的な会話を広げた。それでも、未来の話はしなかった。
途中、コンビニに寄ってアイスだけ買った。もちろん、俺は青い棒アイスを、彼女はハーゲンのいちご味を。綺麗に半分ずっこにした。もう、濃い味が嫌いじゃなくなっている自分に驚きだ。彼女は俺の好き嫌いまで変えてしまう。
徐々に気温が高まる最中、すっかり一面の青空になった下で食べるアイスは格別だった。暗闇で食べるなんて、やっぱり勿体ない。
山を下り、そしてまた別の山に向けて登る。バスも出ていないような早朝の峠道は人通りはおろか、車通りもかなり少ない。それでも、二人きりの世界ではなくなってしまった事がちょっぴり残念だ。
「楽しみですね、みかん畑」
「普通、実が成ってる時を見たがると思うんだけどな」
彼女が身を乗り出し、横から俺の顔を覗き込む。
「だって、それは日影くんがもう見てしまったじゃないですか。でも、まだみかんの花は見ていませんよね? 私は日影くんと初めてを共有するのが楽しみなんです」
果たして、俺はちゃんと彼女と思いを共有することが出来るだろうか。実際にその時になってみないと分からない。
俺も彼女も、ずっと小さく震えていた。でも、二人ともそれについて触れなかった。
やっぱり、俺も彼女も物語の主人公にはなれそうもない。腹を括ったはずなのに、まだ恐怖を逃れられない。
でも、それでいいんだと思う。だって、これは人間的に当たり前の感情で、殺してはいけない弱い部分だ。彼女といることが出来て嬉しいのと同様、別れが悲しくて怖いのは自然なことなのだから。
だから、これでいい。押し殺さないで、我慢もしない。
今だけは、彼女にありのままの俺でいたいから。
「ほら、見えてきたぞ」
前方を指さす。錆びて古びた大きな看板と、直営所が道脇にそびえている。駐車場には一台だけ荷台のついた小型のトラックが、隅にぽつんと停められていた。
「おぉー、すぐにみかん畑がお出迎えするわけではないのですね」
彼女の言葉に少し笑いが零れる。
「どうしたんですか?」
「いや、初めて来たとき全く同じ感想だったなって」
「ふふっ、息ぴったりです」
直営所の逆さになったビールケースの上にはまだ何も置かれていない。
脇のドアをノックする。しばらくして、奥から床を雑に踏み歩く足音が聞こえてきた。がらっと勢いよくドアが開き、眉間に皺を寄せたおっさんが姿を見せる。大方、こんな朝っぱらに誰が来やがったとでも思っているのだろう。何なら、文句の一つも喉元まで用意していそうだ。
おっさんは俺の顔を見るや否や、少し驚いたように眉間の皺を緩める。
「なんだぁ? こんな早くにどしたんだ、坊主」
俺に尋ねながらも、その視線が背に担いだ彼女へと向く。そして、余計に首を傾げた。
「すんません、ちょっとお願いがありまして」
神妙な気配を察したのか、おっさんは難しそうな顔で白髭を擦る。そして、ややあって一言「入れ」と呟いて、背を向けた。
「やはり、ご迷惑でしたよね……」
彼女が囁く。
「いや、別にそんなことないだろ。何か結構機嫌良さそうだったし」
「ほ、本当ですか?」
「おっさんはああいう人間なんだよ」
確かに初対面の彼女には、ぶっきらぼうで愛想の無い人に見えるだろう。しかし、おっさんは言ってしまえば人見知りのようなものなのだ。慣れるまでは取り付く島が無い。
多分、五月の現在はまだニューサマーオレンジの収穫体験で忙しいだろうに、おっさんはすんなりといつものように倉庫に通してくれた。
「何だか訳ありっぽいじゃねえか」
「あー、まあ、そうっすね。何から話したらよいのか」
こうしている間にも、彼女は常に戦い続けている。いつ限界が来てもおかしくは無いのだ。その焦りが、思考をやたらとかき乱す。
「日影くん、私に説明させていただけますか?」
後ろ髪を掻く俺の手を彼女が握り、そっと降ろした。
「あ、あぁ……。そうだな、それがいい」
それから、彼女はおっさんに全てを伝えた。己の病気のこと、余命のこと、何をしにここに来たのかということ。時折、息が切れながらも彼女はひたむきに語った。それをおっさんは口を挟むことなくじっと、黙って聞いていた。
そして、全部を明け透けに話し終えると、おっさんは俺と彼女を見据えて、暫し思案するように顎をしきりに擦る。
もちろん、断られる可能性の方が高いだろう。少なからず、この場所には悪いイメージが付いてしまう。どれだけ沈黙を貫こうと、情報はどこかで勝手に漏れ出してしまうのだから。
しかし、最初は懐疑的だったおっさんも、彼女の熱意に当てられて真剣に考えてくれている。
俺はそんなおっさんの昔話を思い返し、そして、気が付けば口を開いていた。
「あの、今言うのも変かもですけど、」
そう前置き、一度唾を呑み込む。これが彼女の後押しになるとは限らない。それでも、俺はおっさんに伝えておきたかった。ずっと分からなかった疑問が解けたから。
「息子さん、自殺じゃないと思います」
おっさんの瞳が見開く。
「いや、自ら命を絶ったことには変わりないと思うっす。でも、遺書の『俺が俺であるために』って言葉、今ならどういう意味か分かるんすよ……」
おっさんの貧乏ゆすりがぴたっと止まる。小刻みに鳴り響いていた音が止まり、天井の高い倉庫に静寂が敷き詰められる。
「お、おい、それってつまり――」
「息子さん、多分私と同じなんだと思います」
そっと彼女が呟く。彼女が横目で俺をちらっと見るから、小さく頷いた。
おっさんは半開きの口を震わせ、言葉を失う。
「私は、私のために死にたい。自分じゃなくなってしまうのが怖くて、今こうして色んな人に迷惑をかけてここにいます。それでも、私は運命なんかに負けたくないのです」
彼女の真剣な眼差しにおっさんは動きを固めた。そして、額に手を当てうなだれるように顔を隠す。
「そうか……。そうだったか……あいつ、そんなことを考えて――」
その声は少し震えていた。
しばらくの沈黙の後、おっさんはゆっくりと顔を上げた。微かに潤んだ瞳が俺と彼女を捉える。
「全く、大馬鹿だな。あいつも、お前らも」
「やっぱり、ご迷惑ですよね……」
残念そうに顔を下げる彼女をおっさんが立って見下ろす。そして、どこか満足げに目尻を下げた。
「何してんだ、さっさと行くぞ。早くしねえと営業時間になって客が来ちまうからな」
そう言い残し、おっさんは踵を返した。すたすたと早足で倉庫の奥へと向かう。
「えっ……と?」
困惑する彼女の手を俺は優しく握り、ゆっくりと立たせる。
「ついて来いってことだよ。ったく、分かりにくいんだよな」
彼女はきょとんと目を丸め、ややあってようやく緊張の糸を解いたのか、安堵の息を吐く。
「歩けるか……?」
「はい、さいごは自分の足で歩みたいです。でも、私は寂しがり屋なので手は繋いでいてくれますか?」
「もちろんだよ」
震える足で懸命に彼女は立ち上がった。もう、足を上げることは叶わないらしく、すり足でゆっくりと一歩ずつ進む。俺の肩を借りるでもなく、寄りかかるわけでも無い。ただ、自分の足で確かに歩んだ。
息も随分荒い。額に滲む汗は明らかに身体の異常を示している。それでも、彼女は抑えきれない高揚感に満ち溢れていた。
おっさんも何も言わず、大きなシャッターの前でじっと待っていてくれた。その瞳は懐かしさを抱えているように思える。きっと、思い出しているのだろう。俺や彼女と同じくらいの歳だと言っていたし。
「この先が、俺の自慢のみかん畑だ」
薄暗い倉庫に、思わずしり込みしそうな大きなシャッター。ほのかに染みつく柑橘の香りが、この暗さには似つかわしくない。
ぎゅっと、触れるだけだった彼女の手に力が籠る。だから、俺は彼女の手を優しく握り返した。それが、合図だった。
おっさんがシャッターを勢いよく開ける。隙間から漏れ出した光を気にする間もなく、視界が開けた。強烈な日差しが真っ先に飛び込んで、視界を白く染め上げる。徐々に鮮明になっていく世界に、思わず言葉を失って立ち尽くしてしまった。
雲の一つない快晴な青空と、張り合うように煌めく水平線。そして、緩やかな斜面を等間隔に並ぶみかんの木々。遠くに見える山々よりもずっと青々と茂った新緑に純白の花が咲き誇っている。割けるように開いた白い花弁に、蜜蜂を寄せる黄色いめしべとおしべ。それらが一つの木にたくさんの宝石となって太陽の光を受けて輝いていた。
吹き抜ける風が白と緑を揺らし、甘い爽やかな香りが鼻腔を撫でる。
「すっげぇ……」
今まで、二度この場所から同じ景色を見渡した。青い果実が入道雲に映える時。太陽に負けない橙色の果実が色彩を明るく染め上げた時。どちらも、紛れもない感動があった。
それでも、思わず声が出たのは初めての事だった。ありきたりな言葉だけど、この光景を表すにはどんなに華やかな言葉を並べても形容することは出来ない。
初夏の空が、海が、満開のみかん畑が、俺の心を掴んで離さない。
ふと、隣の彼女に目を向けた。俺と同じように目を奪われ、自然と笑みを零していた。それは今まで見たどんな彼女よりも表情が生き生きとしていて、思わず見惚れてしまう。
気が付けば、二人とも手の震えが止まっていた。
「私、やっぱり来てよかったです」
「あぁ、俺も……」
おっさんが気を利かせて椅子を用意してくれた。二人で並んで、ずっとみかん畑を眺めた。薄暗い倉庫から眺める燦々と輝いた世界は、まるで映画を見ているようだ。
「今日は良い天気ですね」
「そうだな、この景色を見るのにぴったりだ」
いつの間にか、太陽がとても高い位置にある。倉庫にかかった時計を見ると、もう十二時を回っていた。
客が来ないことを見るに、多分おっさんが臨時で休みにしたのだろう。本当に頭が上がらない。
「少し、席を外す。おっさん、蛍琉のこと見ててやってくれ」
「おう、任せな」
倉庫を出て、直営所のビールケースに腰をかける。手の震えは止まったけれど、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
頬を強く叩く。ひりひりして、すごく痛かった。生きてるって、実感できた。
五分ほどその場で呼吸を落ち着かせ、戻るとおっさんは背を向けて肩を震わせていた。ぽたりとおっさんの足元に零れ落ちた雫が染みる。
「どうしたんだ?」
晴れやかな表情の彼女がにこっと俺に笑いかける。
「何でも無いですよ。ただ、少しお話していただけです。ねっ?」
おっさんは乱暴に作業着の袖で顔を拭い、俺と入れ替わるように外へと踵を返した。
「そうだな、何でもねえよ。でもな、坊主、嬢ちゃん。……ありがとうな。ようやく、息子のことが分かったよ」
そう言い残し、おっさんは外へと行ってしまった。一体、俺がいない間に何を話したのやら。きっと、彼女にしか伝えられないことがあったのだろう。
彼女の隣に座り直す。そして、またぽつりぽつりと会話を交わしながら、夢心地な景色に目を奪われた。
こんな時間がいつまでも続けばいい。月並みな思いを心の底から感じていた。
「やっぱり、さいごに日影くんとこの景色を見ることが出来て良かったです」
ゆっくりと彼女が立ち上がった。手を貸そうとして、彼女が緩やかに首を振る。
そのまま、彼女は一歩踏み出した。薄暗い倉庫から抜け出した白磁の腕が、制服が、太陽の陽射しを浴びて輝く。その様子を俺はただ眺めていた。
全身を太陽の下に晒した彼女が、まるで病気を感じさせない軽やかな動きで振り返る。10万ルクスの明かりを一身に受け止めて、同じように輝きを放つ少女がそこにいた。
「日影くん」
彼女が俺の名前を呼ぶ。
きっと、愛の告白でも、別れの言葉でも無い。だって、これは残酷で、幸せな、日常の最後の一ページなのだから。
「どうした?」
自然と口元が綻んでいた。
最高の笑顔に一筋の涙が零れ落ちる。それはとても美しくて、一ミリも悲しい気持ちになんてならなかった。
「私、日影くんに出会えて幸せでした! ――生きていて、本当に良かったです!」
この日、彼女は世界で一番輝いていた。
太陽のような10万ルクスの満面の笑顔と、1ルクスの輝く涙で、いつまでも俺を照らしてくれた。
この日のことを俺は一生忘れないだろう。俺にとって、彼女にとって、この日は人生で一番眩く輝いていた日だ。
――彼女の葬儀が執り行われたのは、それから三日後のことだった。
白んでいく空を仰いで、思い切り深呼吸をしてみた。濁りの無い爽やかな新緑の匂いが肺を満たす。
空気が美味しいって、こういうことを言うんだな。生きていて、初めて実感した感覚だった。
星が一つ、また一つと明るく塗られるキャンバスの彼方へと姿を隠していく。今日は幾ばくか気温が高くなりそうな気配がした。
「カーテンはどうする?」
「いえ、もういらないでしょう。今日の私はありのままです」
目の下を赤く腫らした彼女の表情は晴れやかだ。多分、俺も全く一緒だと思う。泣き擦りすぎて赤い隈が出来ているんじゃないだろうか。
それでも、心の内はとても穏やかだった。
彼女を背におぶって、長い丸太階段をゆっくり降りる。前に回した彼女の腕の俺を抱きしめる力は随分と弱々しく、とても熱い。
何が正解なのか、きっと誰にも分からない。そもそも、正解なんて無いんだと思う。
俺と彼女は出来るだけいつも通りの日常的な会話を広げた。それでも、未来の話はしなかった。
途中、コンビニに寄ってアイスだけ買った。もちろん、俺は青い棒アイスを、彼女はハーゲンのいちご味を。綺麗に半分ずっこにした。もう、濃い味が嫌いじゃなくなっている自分に驚きだ。彼女は俺の好き嫌いまで変えてしまう。
徐々に気温が高まる最中、すっかり一面の青空になった下で食べるアイスは格別だった。暗闇で食べるなんて、やっぱり勿体ない。
山を下り、そしてまた別の山に向けて登る。バスも出ていないような早朝の峠道は人通りはおろか、車通りもかなり少ない。それでも、二人きりの世界ではなくなってしまった事がちょっぴり残念だ。
「楽しみですね、みかん畑」
「普通、実が成ってる時を見たがると思うんだけどな」
彼女が身を乗り出し、横から俺の顔を覗き込む。
「だって、それは日影くんがもう見てしまったじゃないですか。でも、まだみかんの花は見ていませんよね? 私は日影くんと初めてを共有するのが楽しみなんです」
果たして、俺はちゃんと彼女と思いを共有することが出来るだろうか。実際にその時になってみないと分からない。
俺も彼女も、ずっと小さく震えていた。でも、二人ともそれについて触れなかった。
やっぱり、俺も彼女も物語の主人公にはなれそうもない。腹を括ったはずなのに、まだ恐怖を逃れられない。
でも、それでいいんだと思う。だって、これは人間的に当たり前の感情で、殺してはいけない弱い部分だ。彼女といることが出来て嬉しいのと同様、別れが悲しくて怖いのは自然なことなのだから。
だから、これでいい。押し殺さないで、我慢もしない。
今だけは、彼女にありのままの俺でいたいから。
「ほら、見えてきたぞ」
前方を指さす。錆びて古びた大きな看板と、直営所が道脇にそびえている。駐車場には一台だけ荷台のついた小型のトラックが、隅にぽつんと停められていた。
「おぉー、すぐにみかん畑がお出迎えするわけではないのですね」
彼女の言葉に少し笑いが零れる。
「どうしたんですか?」
「いや、初めて来たとき全く同じ感想だったなって」
「ふふっ、息ぴったりです」
直営所の逆さになったビールケースの上にはまだ何も置かれていない。
脇のドアをノックする。しばらくして、奥から床を雑に踏み歩く足音が聞こえてきた。がらっと勢いよくドアが開き、眉間に皺を寄せたおっさんが姿を見せる。大方、こんな朝っぱらに誰が来やがったとでも思っているのだろう。何なら、文句の一つも喉元まで用意していそうだ。
おっさんは俺の顔を見るや否や、少し驚いたように眉間の皺を緩める。
「なんだぁ? こんな早くにどしたんだ、坊主」
俺に尋ねながらも、その視線が背に担いだ彼女へと向く。そして、余計に首を傾げた。
「すんません、ちょっとお願いがありまして」
神妙な気配を察したのか、おっさんは難しそうな顔で白髭を擦る。そして、ややあって一言「入れ」と呟いて、背を向けた。
「やはり、ご迷惑でしたよね……」
彼女が囁く。
「いや、別にそんなことないだろ。何か結構機嫌良さそうだったし」
「ほ、本当ですか?」
「おっさんはああいう人間なんだよ」
確かに初対面の彼女には、ぶっきらぼうで愛想の無い人に見えるだろう。しかし、おっさんは言ってしまえば人見知りのようなものなのだ。慣れるまでは取り付く島が無い。
多分、五月の現在はまだニューサマーオレンジの収穫体験で忙しいだろうに、おっさんはすんなりといつものように倉庫に通してくれた。
「何だか訳ありっぽいじゃねえか」
「あー、まあ、そうっすね。何から話したらよいのか」
こうしている間にも、彼女は常に戦い続けている。いつ限界が来てもおかしくは無いのだ。その焦りが、思考をやたらとかき乱す。
「日影くん、私に説明させていただけますか?」
後ろ髪を掻く俺の手を彼女が握り、そっと降ろした。
「あ、あぁ……。そうだな、それがいい」
それから、彼女はおっさんに全てを伝えた。己の病気のこと、余命のこと、何をしにここに来たのかということ。時折、息が切れながらも彼女はひたむきに語った。それをおっさんは口を挟むことなくじっと、黙って聞いていた。
そして、全部を明け透けに話し終えると、おっさんは俺と彼女を見据えて、暫し思案するように顎をしきりに擦る。
もちろん、断られる可能性の方が高いだろう。少なからず、この場所には悪いイメージが付いてしまう。どれだけ沈黙を貫こうと、情報はどこかで勝手に漏れ出してしまうのだから。
しかし、最初は懐疑的だったおっさんも、彼女の熱意に当てられて真剣に考えてくれている。
俺はそんなおっさんの昔話を思い返し、そして、気が付けば口を開いていた。
「あの、今言うのも変かもですけど、」
そう前置き、一度唾を呑み込む。これが彼女の後押しになるとは限らない。それでも、俺はおっさんに伝えておきたかった。ずっと分からなかった疑問が解けたから。
「息子さん、自殺じゃないと思います」
おっさんの瞳が見開く。
「いや、自ら命を絶ったことには変わりないと思うっす。でも、遺書の『俺が俺であるために』って言葉、今ならどういう意味か分かるんすよ……」
おっさんの貧乏ゆすりがぴたっと止まる。小刻みに鳴り響いていた音が止まり、天井の高い倉庫に静寂が敷き詰められる。
「お、おい、それってつまり――」
「息子さん、多分私と同じなんだと思います」
そっと彼女が呟く。彼女が横目で俺をちらっと見るから、小さく頷いた。
おっさんは半開きの口を震わせ、言葉を失う。
「私は、私のために死にたい。自分じゃなくなってしまうのが怖くて、今こうして色んな人に迷惑をかけてここにいます。それでも、私は運命なんかに負けたくないのです」
彼女の真剣な眼差しにおっさんは動きを固めた。そして、額に手を当てうなだれるように顔を隠す。
「そうか……。そうだったか……あいつ、そんなことを考えて――」
その声は少し震えていた。
しばらくの沈黙の後、おっさんはゆっくりと顔を上げた。微かに潤んだ瞳が俺と彼女を捉える。
「全く、大馬鹿だな。あいつも、お前らも」
「やっぱり、ご迷惑ですよね……」
残念そうに顔を下げる彼女をおっさんが立って見下ろす。そして、どこか満足げに目尻を下げた。
「何してんだ、さっさと行くぞ。早くしねえと営業時間になって客が来ちまうからな」
そう言い残し、おっさんは踵を返した。すたすたと早足で倉庫の奥へと向かう。
「えっ……と?」
困惑する彼女の手を俺は優しく握り、ゆっくりと立たせる。
「ついて来いってことだよ。ったく、分かりにくいんだよな」
彼女はきょとんと目を丸め、ややあってようやく緊張の糸を解いたのか、安堵の息を吐く。
「歩けるか……?」
「はい、さいごは自分の足で歩みたいです。でも、私は寂しがり屋なので手は繋いでいてくれますか?」
「もちろんだよ」
震える足で懸命に彼女は立ち上がった。もう、足を上げることは叶わないらしく、すり足でゆっくりと一歩ずつ進む。俺の肩を借りるでもなく、寄りかかるわけでも無い。ただ、自分の足で確かに歩んだ。
息も随分荒い。額に滲む汗は明らかに身体の異常を示している。それでも、彼女は抑えきれない高揚感に満ち溢れていた。
おっさんも何も言わず、大きなシャッターの前でじっと待っていてくれた。その瞳は懐かしさを抱えているように思える。きっと、思い出しているのだろう。俺や彼女と同じくらいの歳だと言っていたし。
「この先が、俺の自慢のみかん畑だ」
薄暗い倉庫に、思わずしり込みしそうな大きなシャッター。ほのかに染みつく柑橘の香りが、この暗さには似つかわしくない。
ぎゅっと、触れるだけだった彼女の手に力が籠る。だから、俺は彼女の手を優しく握り返した。それが、合図だった。
おっさんがシャッターを勢いよく開ける。隙間から漏れ出した光を気にする間もなく、視界が開けた。強烈な日差しが真っ先に飛び込んで、視界を白く染め上げる。徐々に鮮明になっていく世界に、思わず言葉を失って立ち尽くしてしまった。
雲の一つない快晴な青空と、張り合うように煌めく水平線。そして、緩やかな斜面を等間隔に並ぶみかんの木々。遠くに見える山々よりもずっと青々と茂った新緑に純白の花が咲き誇っている。割けるように開いた白い花弁に、蜜蜂を寄せる黄色いめしべとおしべ。それらが一つの木にたくさんの宝石となって太陽の光を受けて輝いていた。
吹き抜ける風が白と緑を揺らし、甘い爽やかな香りが鼻腔を撫でる。
「すっげぇ……」
今まで、二度この場所から同じ景色を見渡した。青い果実が入道雲に映える時。太陽に負けない橙色の果実が色彩を明るく染め上げた時。どちらも、紛れもない感動があった。
それでも、思わず声が出たのは初めての事だった。ありきたりな言葉だけど、この光景を表すにはどんなに華やかな言葉を並べても形容することは出来ない。
初夏の空が、海が、満開のみかん畑が、俺の心を掴んで離さない。
ふと、隣の彼女に目を向けた。俺と同じように目を奪われ、自然と笑みを零していた。それは今まで見たどんな彼女よりも表情が生き生きとしていて、思わず見惚れてしまう。
気が付けば、二人とも手の震えが止まっていた。
「私、やっぱり来てよかったです」
「あぁ、俺も……」
おっさんが気を利かせて椅子を用意してくれた。二人で並んで、ずっとみかん畑を眺めた。薄暗い倉庫から眺める燦々と輝いた世界は、まるで映画を見ているようだ。
「今日は良い天気ですね」
「そうだな、この景色を見るのにぴったりだ」
いつの間にか、太陽がとても高い位置にある。倉庫にかかった時計を見ると、もう十二時を回っていた。
客が来ないことを見るに、多分おっさんが臨時で休みにしたのだろう。本当に頭が上がらない。
「少し、席を外す。おっさん、蛍琉のこと見ててやってくれ」
「おう、任せな」
倉庫を出て、直営所のビールケースに腰をかける。手の震えは止まったけれど、気を抜けば泣いてしまいそうだ。
頬を強く叩く。ひりひりして、すごく痛かった。生きてるって、実感できた。
五分ほどその場で呼吸を落ち着かせ、戻るとおっさんは背を向けて肩を震わせていた。ぽたりとおっさんの足元に零れ落ちた雫が染みる。
「どうしたんだ?」
晴れやかな表情の彼女がにこっと俺に笑いかける。
「何でも無いですよ。ただ、少しお話していただけです。ねっ?」
おっさんは乱暴に作業着の袖で顔を拭い、俺と入れ替わるように外へと踵を返した。
「そうだな、何でもねえよ。でもな、坊主、嬢ちゃん。……ありがとうな。ようやく、息子のことが分かったよ」
そう言い残し、おっさんは外へと行ってしまった。一体、俺がいない間に何を話したのやら。きっと、彼女にしか伝えられないことがあったのだろう。
彼女の隣に座り直す。そして、またぽつりぽつりと会話を交わしながら、夢心地な景色に目を奪われた。
こんな時間がいつまでも続けばいい。月並みな思いを心の底から感じていた。
「やっぱり、さいごに日影くんとこの景色を見ることが出来て良かったです」
ゆっくりと彼女が立ち上がった。手を貸そうとして、彼女が緩やかに首を振る。
そのまま、彼女は一歩踏み出した。薄暗い倉庫から抜け出した白磁の腕が、制服が、太陽の陽射しを浴びて輝く。その様子を俺はただ眺めていた。
全身を太陽の下に晒した彼女が、まるで病気を感じさせない軽やかな動きで振り返る。10万ルクスの明かりを一身に受け止めて、同じように輝きを放つ少女がそこにいた。
「日影くん」
彼女が俺の名前を呼ぶ。
きっと、愛の告白でも、別れの言葉でも無い。だって、これは残酷で、幸せな、日常の最後の一ページなのだから。
「どうした?」
自然と口元が綻んでいた。
最高の笑顔に一筋の涙が零れ落ちる。それはとても美しくて、一ミリも悲しい気持ちになんてならなかった。
「私、日影くんに出会えて幸せでした! ――生きていて、本当に良かったです!」
この日、彼女は世界で一番輝いていた。
太陽のような10万ルクスの満面の笑顔と、1ルクスの輝く涙で、いつまでも俺を照らしてくれた。
この日のことを俺は一生忘れないだろう。俺にとって、彼女にとって、この日は人生で一番眩く輝いていた日だ。
――彼女の葬儀が執り行われたのは、それから三日後のことだった。