子供たちが走り回る公園の、梅の木の花が散ったのはもう随分前のことだ。毎年、桜も梅も気が付くと緑色の葉を茂らせているような。
 あ、咲いてる。そう思った三日後には地面に鮮やかな絨毯を敷いている。そして、雑踏に無下に踏みつぶされ、やがて地面に同化して忘れ去られるのだ。
 俺の記憶の中の桜と梅の花に違いはあまりない。多分、全然違うはずなのに。せいぜい、梅の花の方が色が濃かった気がする。その程度だ。
 毎年、そこまで見る機会がないのだから仕方がない。

 そうやって、知らないものは曖昧に纏められ、興味すら持たれない。人の記憶とは随分とあやふやで脆いものだ。

 病室の前で、彼女の母親とすれ違った。俺のことに気が付かないほど、目を腫らして泣いているようだ。
 声をかけようか悩み、やっぱりやめた。何を話せばよいのかも分からなかったから。

 母親が来ていたというのに、病室は珍しく窓際のランプが薄衣を纏っていた。

「こんにちは、日影くん」

 彼女は静穏な雰囲気を漂わせ、いつも通り俺を病室へと迎え入れた。昨日までと何も変わらないはずなのに、なぜか少しだけ緊張する。
 大事な話とやらを意識しすぎているせいか、それとも彼女を纏う気配がやたら落ち着いているせいか。

「遅くなったな」

「そんなことはありませんよ。今しがたお母さんが帰ったばかりなので、ちょうど良いタイミングでした」

「さっき、すれ違った。随分疲弊しているみたいだったけど、また喧嘩でもしていたのか?」

 彼女の目線がやや落ちる。その仕草が、今日の彼女にはよく似合ってしまっていた。

「いえ、仲直りしていたんです」

 先ほどの光景が目に浮かんだ。
 彼女の母親の姿には覚えがある。母親の葬式で泣いていた親父と同じだ。白地の棺桶に横たわった母親を見てもなお現実味が湧かなかった俺の横で、ひどく取り乱していた親父と、彼女の母親の姿が重なった。

「そんな風には見えなかったけどな」

「いえ、本当ですよ。ちゃんと謝りました。今まで色々迷惑かけたり、わがまま言ってごめんねって」

 ずくんと胸が鈍痛に悲鳴を上げる。その言葉は、云わば最期の言葉で使われることが多い。

「……それなら、良かったな? で、いいのか?」

「はい、やっぱり私も本当に両親には感謝してもしきれないですし、反抗期はここいらでやめておこうかなと。どうせなら、後腐れなくお別れしたいじゃないですか」

 やっと、彼女の今日の様相がいつもと違う理由が分かった。彼女は昨日言っていた通り、覚悟を決めたのだ。だから、その時に向かって準備を進めている。まるで、長い旅に立つ前に荷物を詰めたり、冷蔵庫の中身を空っぽにするように。

 不意に泣いてしまいそうになった。そんなのは絶対に駄目だと分かっているから、必死に彼女に見えないように爪を肌に突き立てる。
 端正な彼女の牡丹のような清麗とした雰囲気と、今にも消えてしまいそうな儚さに目が離せない。でも、それは彼女らしくない。彼女には無邪気に笑っていてほしい。
 意地悪に俺のことをからかってくれ。そんなことを言えば、彼女は「やっぱり、変態さんですね」とか言って笑ってくれるだろうか。

 蛍琉は死なない。微塵も根拠のないことを言えたならどんなに良かったのか。
 しかし、それは覚悟を決めた彼女への冒涜だ。一番辛く、怖いのは彼女なのに、どうして俺がそんなことを言えようか。

「少しお話して、外が暗くなったら抜け出しましょうか」

「またかよ。見つからねえのか?」

 彼女は振り返るように天井を仰ぐ。

「今さらそんなのがバレて私が怒られた所で、何になるというのですか。その時は私一人で外に出たということにするので大丈夫ですよ」

 一瞬悩み、すぐに諦めた。今さら、大人に迷惑をかけるとか、そんな些細なことで彼女との時間をすり減らしたくない。

「そんな心配はしてねえよ。バレたら俺が土下座でも何でもしてやる」

 きっと、俺たちは愚かだ。どうしようもない馬鹿で、救いようのない子供。自らの行いにろくに責任も取れやしない。
 でも、暗闇の中で何年もずっと素直に大人しくしていた彼女は救われていないじゃないか。

 彼女が病院を抜け出せるまでかなりの時間がある。一度、帰宅して支度を整えることにした。日曜日だと言うのに、彼女に制服に着替えて来てほしいとお願いされたからだ。その意図は俺にはよく分からない。だけど、彼女の頼みだから一つ返事で頷いた。

 玄関を開ける。最近は廊下にもしっかり電気がついていることが多い。電気代が、何て言うつもりは毛頭ない。だって、帰ってきたときに家が暖かい明かりに包まれていた方が絶対に良いに決まっている。

「おかえり、日影。今日は早かったな」

 相も変わらず、親父は吹けば飛んでいきそうな気配を漂わせている。ただ、少し、口数が増えた。その些細な変化が妙に心地よかった。

「この後、また出るけどな。帰り遅くなるはずだから、鍵掛けといて」

「分かった。危ないことはするんじゃないぞ?」

「しねえよ。危なくないために俺が付いてくんだよ」

 親父は不思議そうに首を傾げていたが、反対はされなかった。

「夕飯つくっといたけど、それなら明日にしておくか?」

「いや、食べるよ。せっかく作ってくれたんだしな」

 二人でテーブルを囲んだ。会話はまだ多いとは言えないけれど、親父は見るからに表情が豊かになった。それに、俺もいつの間にか親父の一挙手一投足に目くじらを立てることも無くなっていた。
 少しずつ、絡まった糸がほどけていっている。そんな気がした。

 花瓶に花はまだ飾られていないけれど、きっと近いうちにこの殺風景な部屋に彩りを添えるのだろう。

 制服に着替え、和室の襖を開ける。微かに香木の匂いが鼻を衝く。和紙張りの照明が写真立てを照らしている。薄い暖色の明かりはやけに落ち着く。
 久しぶりに母親に線香をあげた。今日はどうしてか、無性に顔を見ておきたかったから。