海での撮影の日は、予報通りの晴天だった。スマホで気温を調べたら、日中の最高気温は三十五度。家を出た朝の六時の空は、真っ青でまぶしくて、今日は猛暑になりそうだ。
全身にしっかり日焼け止めを塗って、帽子をかぶって、バッグにはスポーツ飲料とハンディファン。日差しと熱さ対策だけはバッチリ整えて、自転車で地元の最寄り駅へと向かう。
駅に着くと、一番乗りはあやめだった。ストレートロングの髪をひとつに纏めて、淡い水色のワンピースに身を包んだあやめの今日のコーディネートはおとなっぽくて涼し気だ。
対するわたしは、髪を帽子が被れるように下の方でおだんごにまとめて、電車や海での動きやすさ重視でTシャツにデニムの短パンという格好。撮影するときに、大晴の映画のヒロインのイメージに合わせて白っぽいワンピースに着替えるけれど、それもあやめの私物を借りる予定だ。
制服や部活のユニフォームのときは、そこまで違いを感じないのに、私服のときのあやめはわたしよりもぐんとおとなっぽくなる。もともと美人なうえに、メイクが上手だから余計にそう見えるのかもしれない。
ほんとうはわたしよりもあやめのほうが映画のヒロインのイメージに合っていたんじゃないかな。
最初に大晴に見せてもらった大学の映画部が作ったプロモーションビデオのヒロインの姿を脳裏に思い浮かべていると、スマホから顔をあげたあやめがわたしに気が付いた。
「陽咲、おはよう」
「おはよう。あやめ、早いね」
「ちょっと前に来たとこだよ。陽咲の家って藤川くんちと同じマンションだよね。一緒じゃなかったの?」
「あー、うん。特に約束はしてないし、ひとりで来ちゃった」
「そういえば、最近、陽咲と藤川くんてあんまり一緒にいないよね」
スマホをバッグにしまいながら、あやめが何気なくと言ったふうに聞いてくる。
「そう? 結構一緒にいると思うけど。この夏休みなんて、部活以外は大晴の気まぐれ映画撮影に付き合わされてるし」
「たしかに、そういう意味では一緒にいるけど……。前までの感じとなんか違わない? ちょっと前まで絶対付き合ってるよねってくらい距離近かったのに、最近はなんかヘンに距離があるっていうか……。藤川くんのほうが、遠慮して陽咲に近付きすぎないようにしてるって感じがする」
「そう、かな……?」
あやめはそう言うけれど、わたしには大晴との距離が前と違うというような実感はなかった。小さい頃から変わらずわたしに対して遠慮がないし、一緒にいる時間やラインのやりとりをする頻度だって変わらない。
「そういえば、結局、藤川くんからの告白の返事ってどうしたの?」
考えていると、あやめがまだ他のメンバーが来ていないことを確認してからわたしに訊ねてきた。
「それは、まだ……」
「そうなの? それが原因で、藤川くんは陽咲とちょっと距離をとってるのかな。なんでまだ返事してないの? 迷わずオッケーでしょ」
同じ中学出身のあやめは、わたしが大晴の告白を断る理由がないと思っている。わたしは、大晴が好きだなんて一度も言ったことがないのに、あやめの中でわたしと大晴は勝手に両思い認定されているのだ。
だけど、あやめの言うように「迷わずオッケー」なんてことはない。
大晴とふたりで出かける夏祭りの日に返事をするつもりではあるけど、わたしはまだ答えを迷っている。
「返事はまだできてないんだけど、今度……」
「陽咲ー、深澤さん、おはよう」
大晴から夏祭りに誘われていることを話そうとしたとき、涼晴が手を振りながらこちらに向かって歩いてきた。
「あれ、大晴は?」
「ああ。たいせーは、蒼月くん誘っていくっておれより先に家出たよ。まだ来てない?」
ひとりきりでやってきた涼晴が、わたしに聞き返してくる。
「来てないよ。先に改札に入ってるとかじゃなければ……。ね、あやめ」
「うん、わたしが一番乗りだと思うんだけどな」
「ていうか、大晴はなんでわざわざ蒼月のこと誘いに行ったの? 逆ならわかるけど」
真面目な蒼月は、基本的に人との待ち合わせに遅刻するようなタイプじゃない。連絡もなく約束の時間に遅れてきたりするのは、どちらかというと大晴のほうだ。
「さあ、おれもわかんない。たいせー、夏休みに入ってからほぼ毎日ってくらい蒼月くんのところに行ってるんだよね」
「毎日?」
涼晴から聞かされた事実に驚いた。小学生のときのホタル事件以降、わたしが蒼月とあまり話さなくなってからも、大晴と蒼月は変わらず仲が良かった。
といっても、いつも一緒にいるわけではなくて、お互いが必要のあるときにだけ一緒にいるという感じ。付かず離れず。わたしからしてみればうらやましく思えるような幼なじみの関係でふたりは繋がっていた。
一番仲が良かった小学校のときですら、ふたりが毎日一緒に遊ぶようなことはなかったのに……。そんなふたりが、毎日会っていて、しかも、大晴のほうが蒼月の家に頻繁に遊びに行っているなんて……。
「大晴は、蒼月の家に何しに行ってるの?」
「さあ……? おれもそこまでは。夏休みの課題でわからないところを教えてもらってるんじゃないって母さんは言ってたけど」
「そうなんだ……」
特進科の蒼月は頭がいいけれど、大晴だって勉強ができないわけじゃない。うちの高校の普通科で大晴は成績上位だし、蒼月に毎日教えてもらうような課題なんてないはずだ。
やっぱり大晴と蒼月は、ふたりで何かを隠してる。少し前からそんなふうに感じていたけれど、涼晴の話を聞いてその思いは強くなった。
でも、何を――? 今やっている映画撮影に関係のあることだろうか。
「あ、来たんじゃない?」
考えていると、あやめがそう言った。
顔をあげると、リュックを背負った大晴が笑顔で手を振って歩いてくるのが見えた。
「おはよう。お待たせ」
今朝も、大晴の声は変わらず元気だ。それに対して、大晴の斜め後ろを歩いてくる蒼月は無表情であきらかにテンションが低かった。
それだけでなく、蒼月はなんだか微妙なデザインのTシャツを着ている。わたしの知る限り、蒼月の私服はいつもそれなりにおしゃれだったはず。それが、今日はまるで、起きたてを部屋着のまま連れて来られたみたいな格好だ。
「おはよう」
ふたりに声をかけると、蒼月がわたしのことを真顔でじっと見てきた。挨拶を返そうともしない蒼月に、今日はそっけない日なんだなとがっかりする。
公園で花火の撮影をした日、せめて映画撮影のあいだだけはふつうに接してほしいとお願いしたのに。蒼月も気をつけると言ってくれたのに。数日前に交わしたばかりのわたしとの会話を忘れてしまったのだろうか。
ため息を吐きたくなる気持ちを飲み込むわたしの前で、眉間にシワを寄せた蒼月が指先で少しメガネを押し上げる。その仕草に、ふと、わたしは何かを忘れていることがあるような気がした。
数日前の会話を忘れるほど記憶力は悪くないはずなのに。喉まで出かかっているの言葉がはっきりと思い出せない、すっきりしない変な感じがする。
どうしてだろう。喉元に手をあてて考えていると、スマホを見ていた大晴が「あ!」と大きな声をあげた。
「みんな急げ。あと三分で電車来る!」
そう言うなり、大晴がリュックのサイドポケットからIC定期を取り出して改札に走っていく。
「あ、え? ちょっと、たいせー……」
ひとりで改札を抜けていく兄を、涼晴が慌てて追いかける。
「みんな、あと三分だって」
少し呆気にとられていたあやめとわたしも、改札を抜けながら振り向いた涼晴に声をかけられて、急いで定期を取り出した。
「蒼月も行くよ」
そっけない態度をとられたショックはまだ残っているけど、蒼月が電車に乗り遅れたら困る。ヒロインの恋人役を演じる蒼月は、今日の撮影に必要不可欠だ。
ぼんやりしている蒼月を引っ張って改札を抜けると、エスカレーターのほうに向かって走る大晴、涼晴、あやめの後を追う。エスカレーターの左側を必死に駆け上がっていると、電車がホームに入ってくる音が聞こえてきてちょっと焦った。急ごうとして、エスカレーターを降りる直前で足がもつれて躓く。
「陽咲っ……」
その瞬間、後ろから焦ってわたしを呼ぶ声がして、転びそうになったところを蒼月に助けられた。そのまま、蒼月がわたしを後ろから抱えられるようにしてエスカレーターから降りる。
ふたりして転ばないようにするための、咄嗟の判断だったのだろう。わかっているのに、蒼月がわたしから離れたあとも、まだ胸がドキドキした。
「ありがとう……」
振り向いてお礼を言うと、「急ごう」と蒼月がわたしを促す。わたしを追い越して大晴たちのところに走る蒼月の態度は、さっきまでと変わらずそっけない。
わたしひとりだけが、バカみたいにドキドキしている。
わたしがみんなのところに追いついたところで、ちょうど停車した電車のドアが開く。
朝早いから、車内は空いている。蒼月の横を追い抜いて電車に乗り込んだわたしは、あやめと一緒に並んで席に座った。
わたし達の向かい側の席に、大晴が涼晴と蒼月と一緒に並んで座る。席に座ると、蒼月は斜め掛けカバンからスマホを取り出して、しばらくそれをじっと見つめていた。画面の上に置いた指をゆっくりと動かす蒼月の眉間に徐々にシワが寄っていく。指でメガネの鼻のあたりを押さえながらスマホを睨む蒼月は、険しい顔をしていた。
蒼月をいったい何を見て――。いや、読んでいるんだろう。
気になって見ていると、大晴が蒼月の腕を軽くつっつく。大晴が笑いながら話しかけると、振り向いた蒼月の表情が少しやわらいだ。おろして膝に乗せていたリュックから薄いノートのようなものを取り出した大晴が、それを蒼月に渡す。大晴がコンビニのコピーサービスで作って、わたしたち全員に配ってくれた映画の台本だ。
渡された台本の表紙のタイトルを眺めてから、蒼月が台本を開く。読むのは初めてではないはずなのに、蒼月はやけに真剣な目をして台本を読み始めた。ときどき顔をあげたかと思うと、隣に座る大晴に話しかけて、また台本に視線を落とす。その様子を見つめていると、あやめがわたしの顔を横から覗き込むように見てきた。
「陽咲、どうかした?」
「べつに、なんでもない。早起きだったから、ちょっとぼーっとしてた」
「そうだよね。わたしも少し眠い……。次の乗り換えまで寝てようか」
「そうだね」
口元に手をあててあくびしたあやめが、目を閉じる。睡眠モードに入ってしまったあやめの隣で、わたしは向かい側の席に座る蒼月のことをぼんやりと見ていた。
全身にしっかり日焼け止めを塗って、帽子をかぶって、バッグにはスポーツ飲料とハンディファン。日差しと熱さ対策だけはバッチリ整えて、自転車で地元の最寄り駅へと向かう。
駅に着くと、一番乗りはあやめだった。ストレートロングの髪をひとつに纏めて、淡い水色のワンピースに身を包んだあやめの今日のコーディネートはおとなっぽくて涼し気だ。
対するわたしは、髪を帽子が被れるように下の方でおだんごにまとめて、電車や海での動きやすさ重視でTシャツにデニムの短パンという格好。撮影するときに、大晴の映画のヒロインのイメージに合わせて白っぽいワンピースに着替えるけれど、それもあやめの私物を借りる予定だ。
制服や部活のユニフォームのときは、そこまで違いを感じないのに、私服のときのあやめはわたしよりもぐんとおとなっぽくなる。もともと美人なうえに、メイクが上手だから余計にそう見えるのかもしれない。
ほんとうはわたしよりもあやめのほうが映画のヒロインのイメージに合っていたんじゃないかな。
最初に大晴に見せてもらった大学の映画部が作ったプロモーションビデオのヒロインの姿を脳裏に思い浮かべていると、スマホから顔をあげたあやめがわたしに気が付いた。
「陽咲、おはよう」
「おはよう。あやめ、早いね」
「ちょっと前に来たとこだよ。陽咲の家って藤川くんちと同じマンションだよね。一緒じゃなかったの?」
「あー、うん。特に約束はしてないし、ひとりで来ちゃった」
「そういえば、最近、陽咲と藤川くんてあんまり一緒にいないよね」
スマホをバッグにしまいながら、あやめが何気なくと言ったふうに聞いてくる。
「そう? 結構一緒にいると思うけど。この夏休みなんて、部活以外は大晴の気まぐれ映画撮影に付き合わされてるし」
「たしかに、そういう意味では一緒にいるけど……。前までの感じとなんか違わない? ちょっと前まで絶対付き合ってるよねってくらい距離近かったのに、最近はなんかヘンに距離があるっていうか……。藤川くんのほうが、遠慮して陽咲に近付きすぎないようにしてるって感じがする」
「そう、かな……?」
あやめはそう言うけれど、わたしには大晴との距離が前と違うというような実感はなかった。小さい頃から変わらずわたしに対して遠慮がないし、一緒にいる時間やラインのやりとりをする頻度だって変わらない。
「そういえば、結局、藤川くんからの告白の返事ってどうしたの?」
考えていると、あやめがまだ他のメンバーが来ていないことを確認してからわたしに訊ねてきた。
「それは、まだ……」
「そうなの? それが原因で、藤川くんは陽咲とちょっと距離をとってるのかな。なんでまだ返事してないの? 迷わずオッケーでしょ」
同じ中学出身のあやめは、わたしが大晴の告白を断る理由がないと思っている。わたしは、大晴が好きだなんて一度も言ったことがないのに、あやめの中でわたしと大晴は勝手に両思い認定されているのだ。
だけど、あやめの言うように「迷わずオッケー」なんてことはない。
大晴とふたりで出かける夏祭りの日に返事をするつもりではあるけど、わたしはまだ答えを迷っている。
「返事はまだできてないんだけど、今度……」
「陽咲ー、深澤さん、おはよう」
大晴から夏祭りに誘われていることを話そうとしたとき、涼晴が手を振りながらこちらに向かって歩いてきた。
「あれ、大晴は?」
「ああ。たいせーは、蒼月くん誘っていくっておれより先に家出たよ。まだ来てない?」
ひとりきりでやってきた涼晴が、わたしに聞き返してくる。
「来てないよ。先に改札に入ってるとかじゃなければ……。ね、あやめ」
「うん、わたしが一番乗りだと思うんだけどな」
「ていうか、大晴はなんでわざわざ蒼月のこと誘いに行ったの? 逆ならわかるけど」
真面目な蒼月は、基本的に人との待ち合わせに遅刻するようなタイプじゃない。連絡もなく約束の時間に遅れてきたりするのは、どちらかというと大晴のほうだ。
「さあ、おれもわかんない。たいせー、夏休みに入ってからほぼ毎日ってくらい蒼月くんのところに行ってるんだよね」
「毎日?」
涼晴から聞かされた事実に驚いた。小学生のときのホタル事件以降、わたしが蒼月とあまり話さなくなってからも、大晴と蒼月は変わらず仲が良かった。
といっても、いつも一緒にいるわけではなくて、お互いが必要のあるときにだけ一緒にいるという感じ。付かず離れず。わたしからしてみればうらやましく思えるような幼なじみの関係でふたりは繋がっていた。
一番仲が良かった小学校のときですら、ふたりが毎日一緒に遊ぶようなことはなかったのに……。そんなふたりが、毎日会っていて、しかも、大晴のほうが蒼月の家に頻繁に遊びに行っているなんて……。
「大晴は、蒼月の家に何しに行ってるの?」
「さあ……? おれもそこまでは。夏休みの課題でわからないところを教えてもらってるんじゃないって母さんは言ってたけど」
「そうなんだ……」
特進科の蒼月は頭がいいけれど、大晴だって勉強ができないわけじゃない。うちの高校の普通科で大晴は成績上位だし、蒼月に毎日教えてもらうような課題なんてないはずだ。
やっぱり大晴と蒼月は、ふたりで何かを隠してる。少し前からそんなふうに感じていたけれど、涼晴の話を聞いてその思いは強くなった。
でも、何を――? 今やっている映画撮影に関係のあることだろうか。
「あ、来たんじゃない?」
考えていると、あやめがそう言った。
顔をあげると、リュックを背負った大晴が笑顔で手を振って歩いてくるのが見えた。
「おはよう。お待たせ」
今朝も、大晴の声は変わらず元気だ。それに対して、大晴の斜め後ろを歩いてくる蒼月は無表情であきらかにテンションが低かった。
それだけでなく、蒼月はなんだか微妙なデザインのTシャツを着ている。わたしの知る限り、蒼月の私服はいつもそれなりにおしゃれだったはず。それが、今日はまるで、起きたてを部屋着のまま連れて来られたみたいな格好だ。
「おはよう」
ふたりに声をかけると、蒼月がわたしのことを真顔でじっと見てきた。挨拶を返そうともしない蒼月に、今日はそっけない日なんだなとがっかりする。
公園で花火の撮影をした日、せめて映画撮影のあいだだけはふつうに接してほしいとお願いしたのに。蒼月も気をつけると言ってくれたのに。数日前に交わしたばかりのわたしとの会話を忘れてしまったのだろうか。
ため息を吐きたくなる気持ちを飲み込むわたしの前で、眉間にシワを寄せた蒼月が指先で少しメガネを押し上げる。その仕草に、ふと、わたしは何かを忘れていることがあるような気がした。
数日前の会話を忘れるほど記憶力は悪くないはずなのに。喉まで出かかっているの言葉がはっきりと思い出せない、すっきりしない変な感じがする。
どうしてだろう。喉元に手をあてて考えていると、スマホを見ていた大晴が「あ!」と大きな声をあげた。
「みんな急げ。あと三分で電車来る!」
そう言うなり、大晴がリュックのサイドポケットからIC定期を取り出して改札に走っていく。
「あ、え? ちょっと、たいせー……」
ひとりで改札を抜けていく兄を、涼晴が慌てて追いかける。
「みんな、あと三分だって」
少し呆気にとられていたあやめとわたしも、改札を抜けながら振り向いた涼晴に声をかけられて、急いで定期を取り出した。
「蒼月も行くよ」
そっけない態度をとられたショックはまだ残っているけど、蒼月が電車に乗り遅れたら困る。ヒロインの恋人役を演じる蒼月は、今日の撮影に必要不可欠だ。
ぼんやりしている蒼月を引っ張って改札を抜けると、エスカレーターのほうに向かって走る大晴、涼晴、あやめの後を追う。エスカレーターの左側を必死に駆け上がっていると、電車がホームに入ってくる音が聞こえてきてちょっと焦った。急ごうとして、エスカレーターを降りる直前で足がもつれて躓く。
「陽咲っ……」
その瞬間、後ろから焦ってわたしを呼ぶ声がして、転びそうになったところを蒼月に助けられた。そのまま、蒼月がわたしを後ろから抱えられるようにしてエスカレーターから降りる。
ふたりして転ばないようにするための、咄嗟の判断だったのだろう。わかっているのに、蒼月がわたしから離れたあとも、まだ胸がドキドキした。
「ありがとう……」
振り向いてお礼を言うと、「急ごう」と蒼月がわたしを促す。わたしを追い越して大晴たちのところに走る蒼月の態度は、さっきまでと変わらずそっけない。
わたしひとりだけが、バカみたいにドキドキしている。
わたしがみんなのところに追いついたところで、ちょうど停車した電車のドアが開く。
朝早いから、車内は空いている。蒼月の横を追い抜いて電車に乗り込んだわたしは、あやめと一緒に並んで席に座った。
わたし達の向かい側の席に、大晴が涼晴と蒼月と一緒に並んで座る。席に座ると、蒼月は斜め掛けカバンからスマホを取り出して、しばらくそれをじっと見つめていた。画面の上に置いた指をゆっくりと動かす蒼月の眉間に徐々にシワが寄っていく。指でメガネの鼻のあたりを押さえながらスマホを睨む蒼月は、険しい顔をしていた。
蒼月をいったい何を見て――。いや、読んでいるんだろう。
気になって見ていると、大晴が蒼月の腕を軽くつっつく。大晴が笑いながら話しかけると、振り向いた蒼月の表情が少しやわらいだ。おろして膝に乗せていたリュックから薄いノートのようなものを取り出した大晴が、それを蒼月に渡す。大晴がコンビニのコピーサービスで作って、わたしたち全員に配ってくれた映画の台本だ。
渡された台本の表紙のタイトルを眺めてから、蒼月が台本を開く。読むのは初めてではないはずなのに、蒼月はやけに真剣な目をして台本を読み始めた。ときどき顔をあげたかと思うと、隣に座る大晴に話しかけて、また台本に視線を落とす。その様子を見つめていると、あやめがわたしの顔を横から覗き込むように見てきた。
「陽咲、どうかした?」
「べつに、なんでもない。早起きだったから、ちょっとぼーっとしてた」
「そうだよね。わたしも少し眠い……。次の乗り換えまで寝てようか」
「そうだね」
口元に手をあててあくびしたあやめが、目を閉じる。睡眠モードに入ってしまったあやめの隣で、わたしは向かい側の席に座る蒼月のことをぼんやりと見ていた。