消えていく君のカケラと、進まない僕の時間

「花火、どれに火をつけようか」

 たくさんの花火を前に迷っていると、ふらりとそばにやってきた蒼月が、「じゃあ、これ」と、一本手に取った。

 細い棒の周りに火薬がついていて、火をつけると、パチパチとスパークする。よく、お店の誕生日ケーキとかに刺さっているやつだ。

「これ、綺麗だよね。大きめの線香花火みたいで、わたし、好き」

 そう言って蒼月の持っている花火に手を伸ばすと、彼がわずかに目を伏せる。

「僕も、好き……。これ……」

 花火を受け取って火をつけるわたしの耳に、蒼月の言葉が時間差で届いた。

 僕も、好き……。

 蒼月が好きなのは、わたしが手に持っている花火。わかっているのに、なぜか胸がきゅっとなる。

「陽咲〜、合図出したら花火に火をつけて」

 ぼんやりしていると、少し離れたところから大晴の指示が飛んできた。

 ヒロインと恋人の幽霊がふたりで花火をするこのシーンは、今回の映画の見せ場にもなる。台本でも、とても綺麗に繊細に、ふたりの心の動きが描かれていて、初めて読んだとき少し泣きそうになった。

 わたしが花火に火をつける準備をして待っていると、カメラの位置を決めた大晴が合図を出してくる。

「3、2、……」

 カンッ――。

 火のついた花火が、わたしの手元でパチパチと鮮やかにスパークする。

『見て、蒼月。きれい』
『うん、すごく綺麗。今日は晴れてよかったね』 

 花火を手にして子どもみたいにはしゃぐ恋人を見つめて、蒼月(ヒーロー)がふっと優しく微笑む。ひとつ目の花火が消えると、陽咲(ヒロイン)はふたつ目の花火に手を伸ばす。

『次行くよ〜』

 さっきとは違う種類の花火が、パチパチと火花を散らす。

『あ、色変わった』

 赤、黄色、オレンジ。微妙に色を変えていく花火を、わたしはひとりで楽しんでいる演技をする。あんまりうまく笑えていないと思うけど、それは、夜の闇と大晴の編集技術でうまくごまかしてもらいたい。

 五本目の花火に火をつけたところで、陽咲(ヒロイン)は、蒼月(ヒーロー)がさっきから自分をじっと見ているだけだと気付く。

『蒼月は? 花火しないの?』

 不思議そうに首をかしげる陽咲(ヒロイン)を、蒼月(ヒーロー)が哀しそうな目で見つめる。質問に、どう答えたらいいのか迷っているから。

 幽霊の蒼月(ヒーロー)は、花火に触れない。記憶をなくしている陽咲(ヒロイン)は、デートのときにふつうに彼と手を繋いだり、彼の腕に触れたりできていると思っているけど、それは陽咲(ヒロイン)の脳内だけで起きている錯覚で。幽霊になった彼には、ただ陽咲(ヒロイン)のそばに存在するだけで実際にはなにもできないのだ。

『蒼月……?』
『僕は……、見てるだけでいいよ』
『そんなの、つまらないでしょ。一緒にやろうよ』

 笑顔で花火を差し出す陽咲(ヒロイン)。でも、蒼月(ヒーロー)はそれを受け取らない。少し眉をさげて、困ったように陽咲(ヒロイン)を見てくる。

『ほら、蒼月。持って』

 陽咲(ヒロイン)が強引に押し付けた手持ち花火は、蒼月(ヒーロー)の手をすり抜けて落ちる。

『え……?』

 ぽとりと地面に落ちた花火に驚く陽咲(ヒロイン)。そんな彼女を、蒼月(ヒーロー)が悲しそうに見つめてくる。

『陽咲。僕、ほんとうは――、』

 蒼月(ヒーロー)が自分の正体を陽咲(ヒロイン)に告白しようとしたタイミングで、パチパチッと音がして、後ろに置いてあった噴射花火に火が付く。仕込んであった花火に、火をつけたのは涼晴だ。

 振り向いた陽咲(ヒロイン)たちの視線は赤や黄色に色を変えて煌めく花火に釘付けになる。

『……綺麗だね』

 花火を見つめながらつぶやく陽咲(ヒロイン)の耳に、蒼月(ヒーロー)の告白は実はちゃんと届いている。

『僕、ほんとうはもう、この世にいないんだ……』

 けれど、陽咲(ヒロイン)わざと聞こえていないフリをする。彼の言葉が信じられなかったし、受け入れられないから。

 台本では、ここで蒼月《ヒーロー》が陽咲(ヒロイン)に頬見かける回想が入る。その笑顔を思い浮かべながら、陽咲(ヒロイン)なにかとても大切なことを忘れているのではないかと思う。

 わたしは、なにか忘れてる……。すごく大切なこと。

 噴水のように上がって弾け飛ぶ、眩しい光。茫然と見つめるわたしのこめかみが、ふいに、キーンと痛くなる。

 今は撮影中なのに……。

 指で軽く押すようにしながら、花火を見つめて目を細める。

「カーットッ!」

 噴射花火の火が消えると、夜の公園に大晴の声が響いた。

「ありがとう、涼晴。そっちの花火、もう回収していいよ」
「オッケー!」

 大晴に声をかけられた涼晴が、噴射花火が燃えていたあたりで腕で大きく丸のサインを作る。
「ぼくたちも片付けようか」

 ぼんやり立っていると、蒼月がしゃがんで手持ち花火のゴミを拾い始めた。

「ああ、うん。そうだね」

 蒼月と一緒に燃えかすになった花火を拾い集めていると、撮れた動画の確認を終えた大晴がこっちに駆けてきた。

「ありがとう、ふたりとも」
「うまく撮影できた?」

 わたしが訊くと、大晴が嬉しそうに歯を見せて笑う。

「うん。あとで編集かけるけど、かなりいい感じに撮れたんじゃないかな。陽咲の最後の演技も、雰囲気出ててよかったと思う」
「最後の演技……?」
「ほら、花火が消える間際、なんだか悩ましそうに頭抑えてた」
「ああ、あれは……」

 べつに演技していたわけじゃない。花火を眺めていたら、映画のヒロインの気持ちが自分に同調(シンクロ)するような。そんな感じがしたのだ。

 映画のヒロインと同じで、わたしも夏休み前に事故に遭った。そして、事故当日のことを覚えていない。

 ヒロインと違ってわたしには恋人なんていなかったし、記憶がないのも事故当日のことだけ。共通点は事故に遭ったってことだけなのに、花火のシーンで妙に感情移入してしまったのはどうしてだろう。

 ぼんやりしていると、撮影に使った噴射花火を回収してきた涼晴がわたし達のそばにやってきた。

「陽咲も蒼月くんもお疲れ。あ、まだ花火残ってる。たいせー、これ、やっていい?」

 涼晴が、撮影に使わずに残った手持ち花火を指差す。

「いいよ。余してもしょうがないし、みんなでやっちゃおう」

 そう言って、大晴が余っている手持ち花火をわたしや蒼月にも手渡してきた。全員が花火を手に持つと、チャッカマンを持っていた涼晴が自分の花火に火をつける。

「涼晴、おれにも火ちょーだい。はい、陽咲と蒼月も」

 涼晴から火種を分けてもらった大晴が、わたし達のほうに花火を差し出してくる。

「ありがとう」

 大晴の花火に持っている花火の先端を近付けると、チリチリッと燃える音がして、花火がスパークする。

 蒼月が「好き」だと言った、大きめの線香花火みたいなスパーク花火。わたしの花火に火がつくと、シューッと勢いよく火花を散らしていた大晴の花火が終わった。

「あれ、もう終わりじゃん。蒼月は陽咲から火もらって。おれももう一本持ってこよ」

 続けて蒼月に火種を移そうとしていた大晴が、笑って歩いて行ってしまう。ふと視線を上げると、花火を持って待っていた蒼月と目が合った。

「ああ、じゃあ……。火、もらってもいい?」

 なぜか遠慮がちに訊ねてくる蒼月に、わたしは「どーぞ」と笑いかける。

 蒼月が持っていたのは、わたしと同じスパーク花火。蒼月の花火の先端がわたしの花火の火に触れると、ほとんどすぐに火がついた。並んでパチパチと燃える花火の火で、わたしと蒼月の周りが明るくなる。

「そうだ、写真撮っとこう」

 ふと思い付いて、片手でバッグからスマホを出すと、手元の花火を写す。何度かシャッターを押したところで、わたしの花火が先に終わった。

「ああ、終わっちゃった……。もう一本やろうかな。蒼月もいる?」

 訊ねると、蒼月がまだ火のついた花火を見つめながらうなずく。

「うん。じゃあ、同じの」
「了解」

 わたしは燃え切った花火を遊び終わった花火をまとめてあるところに置くと、新しい花火を取りに行った。

 少し離れたところで、大晴がススキ花火を両方の手に一本ずつ持って、ぐるぐる回していた。大晴が腕を回すと、綺麗な丸い光の円ができて、それを涼晴が笑いながら動画に撮っている。

 高校生になっても、大晴のところは兄弟仲がいい。子どもみたいに騒いでいる大晴たちを微笑ましく眺めてから、わたしはスパーク花火を二本持って蒼月のところに戻った。

 わたしが戻ると、蒼月はすでに一本目の花火を終えていて、花火をぐるぐる回したり、走ったりしている大晴たちのことを見ていた。

「はい、二本目」
「ありがとう」

 花火を渡すと、蒼月がわずかに目を細める。暗がりの中でもわかる蒼月のやわらかな表情に、トクンと胸が鳴る。こんなふうにおだやかに笑いかけてくれるときの蒼月は、小学生のときの印象のまま。変わらない。

「火、つけるね」

 チャッカマンを持ってきていたわたしが、ふたつの花火に火をつける。一秒ほどの時間差で順番に燃え始めたふたつの花火は、わたし達の周りをまぶしいほどに明るく照らした。

「もう一回、写真撮っとこう」
「僕も、撮っとこうかな」
 
 わたしがスマホを取り出すと、蒼月もスマホを取り出す。

「うん、撮っときなよ」  

 笑って顔をあげると、蒼月がわたしのほうにスマホのカメラを向けたシャッターを切った。ピカッと目の前でフラッシュが光って、びっくりする。

「え、うわ、なに……? 今、わたし写った?」
「うん、写った」
「え、やめてよ。不意打ちはムリ。消して、消して!」  

 恥ずかしくなって顔の前で手を振ると、蒼月がスマホの写真を見ながらメガネの奥の瞳をいたずらっぽく細めた。

「大丈夫。いい笑顔で写ってるよ」
「ウソだ……」
「ほんとだって」
「うそ。ちょっと見せて」

 蒼月の隣に近付いてスマホを覗き込むと、嬉しそうに笑うわたしが写っていた。不意打ちだったのに、蒼月の言うとおり、いい笑顔で写ってる。  

 蒼月と話してるときのわたしは、こんなふうに笑ってるんだ……。そう思ったら、なんだか恥ずかしくなる。 

「……あとで消しといてね」

 照れ隠しで、ちょっと頬をふくらませながら言うと、蒼月がふっと笑う。

「一生残しとくね」
「……やめて」
「この写真があれば、思い出せるかな」

 スマホの画面に視線を落として、蒼月がひとりごとみたいにつぶやく。

「思い出せる、って?」

 わたしが聞き返すと、蒼月がハッとしたように顔をあげた。

「いや、べつに。あ、陽咲! 花火終わってる。今度は僕が取ってくるよ」

 スマホを雑にボディバッグに押し込むと、蒼月が走って行ってしまう。その背中を、わたしはしばらくじっと見つめた。

 花火が全部なくなると、みんなで火の始末をして公園を出た。わたしと大晴、涼晴は同じマンションに住んでいるけど、蒼月だけは途中で帰る方向が違う。

「じゃあ、また」
「あ! 次の八月七日の撮影では、後半の海のシーンを撮るから。できれば覚えといて」

 手を振って別れ道を別の方向に帰ろうとする蒼月に、大晴が確認するように声をかける。そうしたら、

「八月七日……?」

 蒼月が、わたしのほうにちらっと視線を向けてきた。

 撮影中の映画の後半では、ヒロインと幽霊の恋人が海にデートに行くシーンがある。

 公園で一緒に花火をしたときに、彼から『もうこの世にはいない』と言われたが、ヒロインはその言葉を信じていない。

 もしかしたら、彼は自分に好かれて迷惑に思っているのではないか。自分が事故で部分的に記憶をなくしているから、優しくしてくれているだけなのかもしれない。だから彼は自分が『この世にはいない』なんてウソをついたんじゃないか。そんなふうに思い悩むけれど、ヒロインが彼を好きな気持ちは止められない。

 彼の気持ちを確かめたいと思ったヒロインは、彼を海でのデートに誘う。夕方まで遊んだあと、彼に「好き」だと告白をするヒロイン。そのまま彼に抱きつこうとした瞬間、今まで触れることができたはずの彼がヒロインの腕からすり抜ける。悲しそうに見つめる幽霊の恋人。そのまなざしを見つめ返すヒロインの頭の中で、忘れていた記憶が蘇る――。

 それが、映画の後半のストーリー。

 この映画の一番の見せ場にもなるシーンを、大晴は絶対に本物の海をバックに撮りたいらしい。それだけでなく、メンバー全員で集まって海での撮影をしたいというのも大晴の希望だ。 

 わたし達の住む街から、撮影に使えそうな海がある場所までは電車を乗り継いで一時間以上。移動も含めたら、一日がかりの遠出になる。  

 映画撮影メンバーの部活や塾の予定を照らし合わせると、全員が集まれそうなのは八月七日しかなかった。

 だから、台風でも来ない限り、撮影はこの日に決行。わたし達映画撮影メンバーは、海での撮影日に絶対他の予定を入れないようにと大晴にしつこく言われている。

 ちなみに八月七日はわたしの誕生日で、部活が休みだから、お母さんと買い物に行っておいしいランチでも食べようと約束をしていた。でも、映画撮影を優先したほうが良さそうなので、残念ながらお母さんとの約束はキャンセルだ。 

 海での撮影日は、全員で集まって決めたから蒼月だって、当然知っているはず。そう思っていたのに……。

「海、行くんだ……?」

 大晴の話に、蒼月が驚いたように目を見開いた。まるで、海での撮影の話を今初めて聞いたみたいな反応だ。

「え……、海で撮影する日は、絶対全員参加だから予定空けとけって大晴からしつこく言われてたよね? 映画撮影のグループチャットにも連絡来てるでしょ」 

 わたしがそう言うと、蒼月がボディバッグからスマホを取り出す。

「あ……、えーっと……。そう、だっけ……。そうだよね……」

 鼻の頭に指をのせてメガネを上げながらスマホを触る蒼月は、いつになく焦っているように見えた。その様子をじっと見ていると、蒼月がメガネをあげるフリをして手で顔を隠しながら横を向く。あきらかに動揺を隠せていない蒼月のことを不審に思っていると、横から出てきた大晴が蒼月の肩をぽんと叩いた。

「蒼月、昔から、おれが送ったメッセージを適当にしか読まないよな」
「そんなことないけど……」

 気まずげに首を横に振る蒼月を見て、涼晴がわたしの隣でケラリと笑う。

「蒼月くん、塾とか学校の夏期講習でおれらよりも忙しいもんな。たいせーからのメッセージなんてゆっくり読んでる暇ないよ」
「いや、読んでよ」

 大晴が蒼月の肩に腕を回してもたれながら、けらけら笑う。涼晴は蒼月に絡みにいった大晴を見て笑っていたけれど、わたしからしてみると、大晴の蒼月への声の掛け方には違和感しかなかった。海での撮影のことを忘れていた蒼月を、大晴が上手に庇ったように感じたのだ。

 小さな頃から記憶力が良くて、映画の台本を毎回きちんと覚えてくる蒼月が、何度も大晴から確認されていた予定を覚えていないなんて信じられない。

 いぶかしく思っていると、

「陽咲、どーした? 怖い顔して」

 ふと振り向いた大晴が、わたしの眉間のシワを指摘するように自分の額をトンッと指でつついた。

「べつに、怖い顔なんて……」
「あ、もともとか」  

 大晴が、ケラケラと笑ってわたしをからかう。大晴にからかわれることなんて、昔からしょっちゅうだけど……。なんだか、今は、大晴がわたしから蒼月への気をそらすためにからかってきたような気がする。大晴自身は気付いてないかもしれないけれど、わたしをからかう声がちょっと固い。小さな頃からずっと一緒にいるからわかる。

 大晴は——、違う。大晴と蒼月は、たぶんわたしに何か隠し事をしている。

 大晴と蒼月にとって、女子のわたしは幼なじみとはいえ、異性だから。男の子同士、気が合うことや話し合うことだってあるんだってことはわかってる。でも、そういうのとは違って、最近の大晴と蒼月からは、わたしが絶対に入り込んじゃいけないような。そういう空気を感じるときがある。

 大晴と蒼月は、いったいどんな秘密をふたりで共有しているのだろう。

「蒼月、またな」
「バイバイ、蒼月くん」

 考えているうちに、蒼月が手を振って家のほうへと帰っていってしまう。

「じゃあ、おれらも帰ろう」

 蒼月の背中を見送ったあと、わたし達は三人でマンションへと歩いた。

 わたしの家が五階で、大晴達の家は六階。

「じゃあ、また海での撮影のときにね」
「じゃあね〜」

 先にエレベーターを降りると、大晴と涼晴に手を振る。
 家に帰って、部屋のベッドに寝そべると、なんだか急に眠くなってきた。 

「陽咲ー、帰ったならお風呂に入っちゃってよ〜」

 ドアの向こうから聞こえてきたお母さんの声に「はーい」と答えて、そのままウトウトと目を閉じる。瞼の裏には、まだ公園の花火が残像に残っていて、赤や黄色の光がチカチカと点滅する。それに混じって、ときどき蒼月の笑う顔がちらつく。

 どうして、蒼月――?

 寝ぼけた頭で考えていると、ピリリッと耳元でスマホが鳴った。スマホを手で手繰り寄せて、うっすらと目を開けて見ると、大晴から電話がかかってきていた。

 さっき別れたところなのに、いったい何の用だろう。

「もしもし……?」
「陽咲? 寝てた?」

 電話に出たわたしの掠れた声を聞いて、大晴がククッと笑っている。

「んー、ちょっと。ウトウトしてた。なに、大晴。何か用事?」

 寝転んだまま気だるげな対応をするわたしに、「おれの扱い雑だろ」と大晴が文句を言ってきた。

「それは、お互い様でしょ」

 ふっと笑うと、大晴が「あのさー」と言ったきり、しばらく無言になる。

「ん?」

 用もないのにかけてきたとかはないよね。なんだか、目が覚めてきた。不審に思いながら、ゆっくりとベットから身体を起こしたとき。

「来週末……、十二日の土曜日なんだけど、ふたりで地元の夏祭り行かない?」

 少し緊張しているみたいな大晴の声が耳に届いた。その声の雰囲気で、夏休み前に告白されたときのことを思い出す。

 告白してきたときの大晴は、夏休み中にデートをしたいからそれまでに返事がほしいと言っていた。わたしもそのつもりでいたけれど、大晴が映画撮影のことを持ち出してきたことで、告白の返事はできないままになっていた。夏休みが始まっても、大晴は告白の返事を催促してこないし、デートにも誘ってこない。

 だから、わたしは少し安心していた。もしかしたら、このままうやむやになってしまえばいいと心のどこかで思っていたのかもしれない。

 でも、忘れていたわけではなかったんだ。何も言わないだけで、大晴はわたしからの告白の返事を待っている。そう思うと、トクトクと、脈が速くなっていく。

「おれとふたりじゃ嫌?」

 黙っていると、大晴がわたしに訊ねてくる。明るくて奔放な大晴にしてはめずらしい、不安そうな声。それを聞いたら、告白の返事をうやむやにしてしまおうとしていたことが申し訳なくなった。

 生まれたときからずっと一緒だった幼なじみ。わたしに告白しようと決めたとき、大晴はきっと、長年幼なじみとして築いてきたわたし達の関係が崩れてしまうことも覚悟していたはずだ。その覚悟に、わたしもちゃんと向き合わないといけない。

「嫌じゃないよ。ふたりで行こう」

 わたしが言うと、「よかった」と、大晴が電話越しにほっと息を吐く。

「楽しみにしてる。でも、まずは二日後の海での撮影だな」 
 わたしの返事を聞いて緊張が解けたらしい。電話越しに聞こえてくる大晴の声が、明朗になる。

「予報通り、晴れるといいね」
「大丈夫だろ。きっと、いい映画ができるよ。何度忘れても思い出せる」
「え……? 何を?」
「ん? おれの編集に期待しててってこと」

 大晴がそう言って、ふっと笑う。大晴の自信たっぷりな言葉に苦笑いしながら、わたしは何か大切なことを誤魔化されているような気がしていた。
 海での撮影の日は、予報通りの晴天だった。スマホで気温を調べたら、日中の最高気温は三十五度。家を出た朝の六時の空は、真っ青でまぶしくて、今日は猛暑になりそうだ。

 全身にしっかり日焼け止めを塗って、帽子をかぶって、バッグにはスポーツ飲料とハンディファン。日差しと熱さ対策だけはバッチリ整えて、自転車で地元の最寄り駅へと向かう。 

 駅に着くと、一番乗りはあやめだった。ストレートロングの髪をひとつに纏めて、淡い水色のワンピースに身を包んだあやめの今日のコーディネートはおとなっぽくて涼し気だ。

 対するわたしは、髪を帽子が被れるように下の方でおだんごにまとめて、電車や海での動きやすさ重視でTシャツにデニムの短パンという格好。撮影するときに、大晴の映画のヒロインのイメージに合わせて白っぽいワンピースに着替えるけれど、それもあやめの私物を借りる予定だ。

 制服や部活のユニフォームのときは、そこまで違いを感じないのに、私服のときのあやめはわたしよりもぐんとおとなっぽくなる。もともと美人なうえに、メイクが上手だから余計にそう見えるのかもしれない。

 ほんとうはわたしよりもあやめのほうが映画のヒロインのイメージに合っていたんじゃないかな。

 最初に大晴に見せてもらった大学の映画部が作ったプロモーションビデオのヒロインの姿を脳裏に思い浮かべていると、スマホから顔をあげたあやめがわたしに気が付いた。

「陽咲、おはよう」
「おはよう。あやめ、早いね」 
「ちょっと前に来たとこだよ。陽咲の家って藤川くんちと同じマンションだよね。一緒じゃなかったの?」
「あー、うん。特に約束はしてないし、ひとりで来ちゃった」
「そういえば、最近、陽咲と藤川くんてあんまり一緒にいないよね」

 スマホをバッグにしまいながら、あやめが何気なくと言ったふうに聞いてくる。

「そう? 結構一緒にいると思うけど。この夏休みなんて、部活以外は大晴の気まぐれ映画撮影に付き合わされてるし」
「たしかに、そういう意味では一緒にいるけど……。前までの感じとなんか違わない? ちょっと前まで絶対付き合ってるよねってくらい距離近かったのに、最近はなんかヘンに距離があるっていうか……。藤川くんのほうが、遠慮して陽咲に近付きすぎないようにしてるって感じがする」
「そう、かな……?」

 あやめはそう言うけれど、わたしには大晴との距離が前と違うというような実感はなかった。小さい頃から変わらずわたしに対して遠慮がないし、一緒にいる時間やラインのやりとりをする頻度だって変わらない。

「そういえば、結局、藤川くんからの告白の返事ってどうしたの?」

 考えていると、あやめがまだ他のメンバーが来ていないことを確認してからわたしに訊ねてきた。

「それは、まだ……」
「そうなの? それが原因で、藤川くんは陽咲とちょっと距離をとってるのかな。なんでまだ返事してないの? 迷わずオッケーでしょ」

 同じ中学出身のあやめは、わたしが大晴の告白を断る理由がないと思っている。わたしは、大晴が好きだなんて一度も言ったことがないのに、あやめの中でわたしと大晴は勝手に両思い認定されているのだ。

 だけど、あやめの言うように「迷わずオッケー」なんてことはない。

 大晴とふたりで出かける夏祭りの日に返事をするつもりではあるけど、わたしはまだ答えを迷っている。

「返事はまだできてないんだけど、今度……」
「陽咲ー、深澤さん、おはよう」

 大晴から夏祭りに誘われていることを話そうとしたとき、涼晴が手を振りながらこちらに向かって歩いてきた。

「あれ、大晴は?」
「ああ。たいせーは、蒼月くん誘っていくっておれより先に家出たよ。まだ来てない?」

 ひとりきりでやってきた涼晴が、わたしに聞き返してくる。

「来てないよ。先に改札に入ってるとかじゃなければ……。ね、あやめ」
「うん、わたしが一番乗りだと思うんだけどな」
「ていうか、大晴はなんでわざわざ蒼月のこと誘いに行ったの? 逆ならわかるけど」

 真面目な蒼月は、基本的に人との待ち合わせに遅刻するようなタイプじゃない。連絡もなく約束の時間に遅れてきたりするのは、どちらかというと大晴のほうだ。

「さあ、おれもわかんない。たいせー、夏休みに入ってからほぼ毎日ってくらい蒼月くんのところに行ってるんだよね」
「毎日?」

 涼晴から聞かされた事実に驚いた。小学生のときのホタル事件以降、わたしが蒼月とあまり話さなくなってからも、大晴と蒼月は変わらず仲が良かった。

 といっても、いつも一緒にいるわけではなくて、お互いが必要のあるときにだけ一緒にいるという感じ。付かず離れず。わたしからしてみればうらやましく思えるような幼なじみの関係でふたりは繋がっていた。

 一番仲が良かった小学校のときですら、ふたりが毎日一緒に遊ぶようなことはなかったのに……。そんなふたりが、毎日会っていて、しかも、大晴のほうが蒼月の家に頻繁に遊びに行っているなんて……。

「大晴は、蒼月の家に何しに行ってるの?」
「さあ……? おれもそこまでは。夏休みの課題でわからないところを教えてもらってるんじゃないって母さんは言ってたけど」
「そうなんだ……」

 特進科の蒼月は頭がいいけれど、大晴だって勉強ができないわけじゃない。うちの高校の普通科で大晴は成績上位だし、蒼月に毎日教えてもらうような課題なんてないはずだ。

 やっぱり大晴と蒼月は、ふたりで何かを隠してる。少し前からそんなふうに感じていたけれど、涼晴の話を聞いてその思いは強くなった。

 でも、何を――? 今やっている映画撮影に関係のあることだろうか。

「あ、来たんじゃない?」

 考えていると、あやめがそう言った。

 顔をあげると、リュックを背負った大晴が笑顔で手を振って歩いてくるのが見えた。

「おはよう。お待たせ」

 今朝も、大晴の声は変わらず元気だ。それに対して、大晴の斜め後ろを歩いてくる蒼月は無表情であきらかにテンションが低かった。

 それだけでなく、蒼月はなんだか微妙なデザインのTシャツを着ている。わたしの知る限り、蒼月の私服はいつもそれなりにおしゃれだったはず。それが、今日はまるで、起きたてを部屋着のまま連れて来られたみたいな格好だ。

「おはよう」

 ふたりに声をかけると、蒼月がわたしのことを真顔でじっと見てきた。挨拶を返そうともしない蒼月に、今日はそっけない日なんだなとがっかりする。

 公園で花火の撮影をした日、せめて映画撮影のあいだだけはふつうに接してほしいとお願いしたのに。蒼月も気をつけると言ってくれたのに。数日前に交わしたばかりのわたしとの会話を忘れてしまったのだろうか。

 ため息を吐きたくなる気持ちを飲み込むわたしの前で、眉間にシワを寄せた蒼月が指先で少しメガネを押し上げる。その仕草に、ふと、わたしは何かを忘れていることがあるような気がした。

 数日前の会話を忘れるほど記憶力は悪くないはずなのに。喉まで出かかっているの言葉がはっきりと思い出せない、すっきりしない変な感じがする。

 どうしてだろう。喉元に手をあてて考えていると、スマホを見ていた大晴が「あ!」と大きな声をあげた。

「みんな急げ。あと三分で電車来る!」

 そう言うなり、大晴がリュックのサイドポケットからIC定期を取り出して改札に走っていく。

「あ、え? ちょっと、たいせー……」

 ひとりで改札を抜けていく兄を、涼晴が慌てて追いかける。

「みんな、あと三分だって」

 少し呆気にとられていたあやめとわたしも、改札を抜けながら振り向いた涼晴に声をかけられて、急いで定期を取り出した。

「蒼月も行くよ」

 そっけない態度をとられたショックはまだ残っているけど、蒼月が電車に乗り遅れたら困る。ヒロインの恋人役を演じる蒼月は、今日の撮影に必要不可欠だ。 

 ぼんやりしている蒼月を引っ張って改札を抜けると、エスカレーターのほうに向かって走る大晴、涼晴、あやめの後を追う。エスカレーターの左側を必死に駆け上がっていると、電車がホームに入ってくる音が聞こえてきてちょっと焦った。急ごうとして、エスカレーターを降りる直前で足がもつれて躓く。

「陽咲っ……」

 その瞬間、後ろから焦ってわたしを呼ぶ声がして、転びそうになったところを蒼月に助けられた。そのまま、蒼月がわたしを後ろから抱えられるようにしてエスカレーターから降りる。

 ふたりして転ばないようにするための、咄嗟の判断だったのだろう。わかっているのに、蒼月がわたしから離れたあとも、まだ胸がドキドキした。

「ありがとう……」

 振り向いてお礼を言うと、「急ごう」と蒼月がわたしを促す。わたしを追い越して大晴たちのところに走る蒼月の態度は、さっきまでと変わらずそっけない。

 わたしひとりだけが、バカみたいにドキドキしている。

 わたしがみんなのところに追いついたところで、ちょうど停車した電車のドアが開く。

 朝早いから、車内は空いている。蒼月の横を追い抜いて電車に乗り込んだわたしは、あやめと一緒に並んで席に座った。

 わたし達の向かい側の席に、大晴が涼晴と蒼月と一緒に並んで座る。席に座ると、蒼月は斜め掛けカバンからスマホを取り出して、しばらくそれをじっと見つめていた。画面の上に置いた指をゆっくりと動かす蒼月の眉間に徐々にシワが寄っていく。指でメガネの鼻のあたりを押さえながらスマホを睨む蒼月は、険しい顔をしていた。

 蒼月をいったい何を見て――。いや、読んでいるんだろう。

 気になって見ていると、大晴が蒼月の腕を軽くつっつく。大晴が笑いながら話しかけると、振り向いた蒼月の表情が少しやわらいだ。おろして膝に乗せていたリュックから薄いノートのようなものを取り出した大晴が、それを蒼月に渡す。大晴がコンビニのコピーサービスで作って、わたしたち全員に配ってくれた映画の台本だ。

 渡された台本の表紙のタイトルを眺めてから、蒼月が台本を開く。読むのは初めてではないはずなのに、蒼月はやけに真剣な目をして台本を読み始めた。ときどき顔をあげたかと思うと、隣に座る大晴に話しかけて、また台本に視線を落とす。その様子を見つめていると、あやめがわたしの顔を横から覗き込むように見てきた。

「陽咲、どうかした?」
「べつに、なんでもない。早起きだったから、ちょっとぼーっとしてた」
「そうだよね。わたしも少し眠い……。次の乗り換えまで寝てようか」
「そうだね」

 口元に手をあててあくびしたあやめが、目を閉じる。睡眠モードに入ってしまったあやめの隣で、わたしは向かい側の席に座る蒼月のことをぼんやりと見ていた。

 電車を二本乗り継いで、約一時間半。目的地の駅で降りて五分ほど歩くと、海岸が見えてくる。

 大晴が映画の撮影地として選んだのは、日帰りで行って帰って来られる距離にある海。遊泳禁止だが、景色がいいことで有名なスポットで、海岸沿いの道路におしゃれなカフェも点在しているから、浜辺を歩いたり、波打ち際で遊んでいる観光客が思ったよりもたくさんいる。

「もっと朝早いほうが、人が少なかったかなあ。映り込んじゃう人は、編集アプリで消しちゃえばいっか」

 到着するなり、海に向けてスマホのカメラを構えた大晴が、それを左から右にゆっくりと動かす。

 大晴のスマホに映る海の景色を眺めながら、そんなことができるんだとわたしはちょっと感心した。

「じゃあ、最初はセリフなしで蒼月と陽咲が浜辺で歩いてるシーン撮ろう。あとで余裕があれば、向こうの道路沿いも歩いてもらおうかな。道沿いのカフェもおしゃれだし」
「ここに歩いて来るまでに、おしゃれなお店がいくつかあったよね。せっかく来たし、どこかでランチ食べたい」

 撮影の指示を出して来る大晴にわたしが提案すると、「賛成」とあやめがニヤリと手を挙げた。

「いいよ。じゃあ、女子ふたりでどこ行きたいか決めといて」
「やったあ」

 わたしとあやめは顔を見合わせると、バドミントンの試合で得点を決めたときみたいに片手でハイタッチした。

 天気が良くて、すでに日差しが暑いけれど、ランチのご褒美があるなら頑張れる。ウキウキしながら、あやめとふたりでさっそく近くのカフェを調べていると、大晴がわたしを指さしてきた。

「あ、でも、陽咲はその前に服。深澤さんに貸してもらうんじゃなかったっけ? さすがに、今日撮るシーンでその格好はない」

 大晴が、Tシャツにデニムの短パン姿のわたしをダメ出ししてくる。今日のわたしの格好は海で遊ぶには最適だけど、映画のヒロインがもつ「儚さ」はゼロだ。

「わかってるよ。着替えてくる……」

 はっきりとダメ出ししてくる大晴に、少しだけムッとする。昔から知っているだけあって、大晴はわたしに間違いを指摘するときは容赦ない。

 仮にもわたしのことが好きなら、「その格好はない」ってはっきり否定せずに「その格好も可愛いけど、着替えて」とマイルドな言葉を選んでくれたらいいのに。まあ、そういうところも含めて大晴は大晴だから仕方がない。

 わたしはあやめが持ってきてくれた白のワンピースを受け取ると、海岸のトイレに向かった。

 借り物のワンピースを汚さないように上からかぶって着替えると、トイレの個室を出る。手洗い場の鏡の前で髪をほどいて整えながら、撮影前にメイクをなおさなきゃいけないなあと思った。何度か撮影をしていて気付いたのだが、やっぱりしっかりとメイクをしているほうがカメラ映りがいい。

 みんなのところに戻ろうとすると、反対側の男子トイレから出てきた蒼月と鉢合わせた。さっきまで着ていた微妙なデザインのTシャツを、白のTシャツに着替えてズボンも綺麗めなものに履き替えている。

「蒼月も大晴にダメ出しされたの?」

 爽やかな印象になった蒼月に声をかけると、彼がちょっと気まずそうに目を伏せた。

「ダメ出しっていうか、朝、ゆっくり準備してる時間がなくて……。出かける前に、大晴に言われてあわてて詰め込んだんだ」

 よく見ると、蒼月は片方の肩に大晴のリュックをひっかけている。自分のリュックに荷物を用意する余裕もなかったってことだろうか。

「寝坊? めずらしいね」
「まあ、そんな感じ……」

 何をするにも楽観的な大晴とは反対に、蒼月は小さい頃から心配性だった。だから、五分どころか十分前行動なんてあたりまえだったし、忘れ物をしているところもあまり見たことがない。そんな蒼月が、みんなで出かける約束をしていた日に朝寝坊なんて、ほんとうにめずらしい。

「最近、勉強忙しいの? 寝不足で起きられなかったとか」

 特進科の蒼月は、学校の夏期講習と並行して塾にも行っている。まだ高二とはいえ、特進科の生徒達は普通科よりも大学受験に向けて早めに動き出すと聞くし……。お兄さんみたいに現役での医学部合格を狙うなら、寝る間も惜しんで勉強しないといけないのかもしれない。

 ほんとうは、大晴の『映画制作(思い出作り)』に付き合っている暇なんてないんじゃないかな。

 心配になって訊ねると、蒼月がメガネを指で押し上げながら恥ずかしそうに笑った。

「いや、最近、勉強はそこまで……。ほんとうに、シンプルに起きられなかったんだ」
「ふーん、蒼月でもそういうことあるんだね」
「そりゃ、あるよ」

 質問に受け答えする蒼月の態度が思ったよりもやわらかくて、少しほっとした。

 駅で会ったときの態度がそっけなかったのは、寝起きで頭が回っていなかっただけかもしれない。わたしも、それでたまにうまく人に対応できないときがある。

 今日は一日中一緒にいるから、ずっと素っ気ない態度をとられたらつらいなと思っていたけど……。この感じなら、大丈夫そうだ。

「それなら、今日もよろしく。いつもと違って周りに人が多い中での撮影ってちょっと恥ずかしいけど……。ラストシーン、セリフ間違えないように頑張るね」

 にこっと笑いかけると、蒼月もそれに応えるように口角を引き上げた。

「僕も、なるべく間違えないように気をつける。電車の中でずっと台本を読んでたけど、全部覚えられてるかどうかはあやしい……。今回のシーンは、きっと映画の中で一番大事な場面なんだよね」

 自信なさそうに眉をハの字に下げた蒼月が弱気な発言をするのが、わたしには意外だった。

「そんなこと言って、蒼月は毎回演技もセリフも完璧でしょ。撮影中も、毎回、全然カンペ見てないし」

 謙遜する蒼月を笑うと、彼が「そうなんだ」と他人事みたいにつぶやく。

「だとしたら、昨日までの僕はすごいな。今日の僕は、話の内容を理解するまでに結構時間がかかったよ」
「え……?」

 蒼月との会話が、なんだかうまく噛み合わない。

 話の内容を理解するまでに、ってどういう意味だろう。ストーリーについては初めに蒼月に説明されているし、夏休みに入ってから何度か撮影もしている。毎回、演技もセリフも完璧な蒼月が、ストーリーの内容を理解していないなんてことがあるだろうか。

 地元の駅で電車に乗ってから、蒼月は海に着くまでずっと真剣な顔つきで台本を読んでいた。今日撮影するシーンだけじゃなくて、台本の一番最初から。ときどき前のページに戻って内容を確かめるようなこともしていたと思う。

 電車に乗っているあいだのほとんどを眠るかあやめとのおしゃべりに費やしていたわたしは、台本を読み耽っている蒼月のことを熱心だなあと感心していた。

 わたしはてっきり、蒼月が自分の役の気持ちをより理解するために台本を読み直しているのだとばかり思っていたけど……。違ったのだろうか。

「戻らないの?」

 考えていると、蒼月が大晴たちのほうを気にしながらわたしに訊ねてきた。

「ああ、うん。戻ろうか」

 先に歩き出した蒼月を追いかけて隣に並ぶと、彼がわたしを振り向いてまぶしそうに目を細める。そのまなざしに、左胸のあたりが少しざわつく。勘違いかもしれないけれど、わたしを見つめる蒼月のまなざしがすごく優しいような気がする。

「どうかした?」

 照れ隠しで両手を頬にあてると、蒼月が首を横に振ってふっと笑う。

「いや、なんか……。夏休みに陽咲と海にいるって変な感じだなって」
「たしかに。大晴が映画撮影しようなんて言い出さなければ海なんて来なかったかもね」

 わたしがそう言うと、蒼月が海の方に視線を戻しながら「どうだろう」とつぶやいた。

「映画撮影がなくても、陽咲は海に来てたんじゃない?」
「どうして?」
「誰かとデートで、とか……」

 太陽に反射して輝く海をまぶしそうに見つめてつぶやく蒼月は、とくにわたしを揶揄っているふうでもない。事実をあたりまえみたいに述べるときみたいな、そんな顔をしている。

 もしかして蒼月は、わたしが大晴に告白されたことを知っているのかも――。

 そう思った瞬間、手のひらにじとっと汗をかいた。大晴から告白されたことを蒼月に知られていたらどうしよう。そんなふうに思って、焦ったのだ。

 今まで気に留めていなかったけれど、よく考えてみたら、大晴が蒼月に告白のことを話していてもおかしくはない。ふたりはわたしの知らないところでずっと交流があるし、最近はよくふたりで会っているらしい。

 大晴と蒼月が、このところふたりで何か隠し事をしていることも、わたしの目にはあきらかだ。その隠し事に、大晴から告白されたことは関係していたりするんだろうか。

 横髪を指で掬って、耳にかける。

「ねえ、蒼月。もしかして――」

 さりげなく聞き出すか、直球でいくか。迷って言葉を探していると、

「陽咲〜、蒼月〜! しゅうごーうっ!」

 浜辺に立った大晴が、大きな声でわたし達を呼んだ。頭の腕で両腕を振り回して、にこにこしている大晴は、夏の日差しに負けないくらいに元気で明るい。

「今日も暑苦しいくらいに元気だな」
「そうだね」

 蒼月がぼやく声に、わたしは思わず笑ってしまう。だけど……。

「そういえば、小学校の海洋体験のときの大晴もあんな感じだった。グループ仕切って『しゅうごーう!』って。全然変わらない」

 そのあとに続いた蒼月の話が、わたしにはあまりピンとこなかった。

「海洋体験……」
「小五のときの宿泊学習」
「ああ、うん。そういえば、あったね……」

 わたし達の小学校では、六年生でいく修学旅行以外に、五年生でも宿泊の行事があった。県内にある野外活動センターに一泊して、自然体験をするのだけど……。わたしには、六年生のときの修学旅行の記憶ばかりが残っていて、五年生のときの宿泊学習の記憶は薄い。

 六年生のときは大晴と蒼月と同じクラスで、大晴とはグループも同じだった。大晴がお土産に木刀を買ってたことも覚えてる。

 でも、五年生のときの大晴が海ではしゃいでた姿は記憶にない。ただ、想像はつく。大晴のテンションがあがるポイントは、小さな頃からあまり変わってない。

「わたし、海洋体験のときの大晴のことはあんまり記憶にないかも。同じクラスだったはずだけど、グループ違ったのかな」

 何気なくそう言うと、蒼月が「え……?」と口を開いた。

「海洋体験、僕と大晴と陽咲でグループは同じだったよ」

 そうだっけ。蒼月の言葉に、ぽかんとなる。わたしがしばらく固まっていると、蒼月がハッとしたように首を横に振った。 

「あ、ああ、ごめん。もしかしたら、僕の記憶違いかも……。あのとき、陽咲は僕や大晴とは別のグループだったと思う」

 わたしが忘れているだけなのか、蒼月の勘違いなのかはわからない。でも、ひとつだけわかるのは、少し早口になった蒼月の話し方が不自然だってこと。

 わたしと蒼月の記憶。正しいのはどっちだろう。
 わたしと蒼月が戻ると、大晴がそれぞれの服装を確認して「うん」と満足そうに頷いた。

「ふたりとも、ちゃんとデートっぽい。じゃあ、最初はふつうに浜辺を歩いてるところをとって、それから海でいちゃいちゃするシーンも撮っとこう」
「いちゃいちゃ!?」
「何すればいいの?」

 動揺するわたしの隣で、そう訊ねる蒼月の声は冷静だ。あまりの落ち着きぶりに、過剰反応してしまった自分が恥ずかしい。

「そうだなあ。ベタだけど、浅瀬で水かけ合ったりとか、波打ち際で走ったりとかがいいんじゃない?」
「あと、浜辺でお城作ったり、砂浜に棒で絵を描いたりとか?」

 大晴の話に、涼晴が横から口を挟んでくる。

「じゃあ、とりあえずそういうの全部やってみよっか」

 わたしと蒼月にスマホのカメラを向けると、大晴がニヤリと笑った。

 浅瀬で水をかけ合ったりとか、波打ち際で走ったりとか……、って。そんなの、恋愛ドラマか少女マンガでしか見たことないんですけど。

 心の中でつっこんでみるけど、反論したところでどうにもならない。大晴が「やってみよう」と言えば、やらなければいけないのだ。

「適当にしゃべってくれていいから、ふたりのタイミングで自然に歩き出してみて」

 わたしと蒼月から離れた大晴が、スマホのカメラを構える。別の角度からは涼晴がカメラを撮っていて、あやめはふたりのアシスタントだ。

「恋人同士っぽくね〜」

 少し離れたところから大晴のよく通る声で指示が飛んできた。

 恋人同士っぽく。かつ、自然に歩くってどんな感じなのだろう。

 ちらっと横を見ると、無表情の蒼月が振り向く。目が合って、反応に困った。だけど、いつまでも棒立ちでいるわけにもいかない。

「と、とりあえず、大晴のカメラのほうに向かって歩こうか」

 わたしの提案に、蒼月が「そうだね」と頷く。けれど、不自然なくらいのカメラ目線で、一歩、二歩と砂浜を歩き出したわたしの動きはギクシャクとしていた。もちろん、隣の蒼月との会話はない。

 無言で十歩ほど進んだところで、ザザッと少し大きめの波が打ち寄せてきた。それが波打ち際に近いほうを歩いていたわたしの足にかかり、ロングスカートが膝のあたりまで濡れる。

「うわ、やっちゃった……」

 わたしがスカートをつまんで裾をひらひらとはためかせると、またザザッと大きめの波がくる。

「わ、また来たっ……!」

 慌てて逃げようとすると、蒼月に手を引かれる。

「陽咲」

 名前を呼ばれたような気がするけれど、波の音が聴かせた幻聴だったかもしれない。蒼月が早めに手を引っぱってくれたおかげで、わたしはそれ以上濡れずにすんだ。

「……ありがとう」

 照れ笑いしながらお礼を言うと、蒼月が伏し目がちに頷く。それからわたしと左右場所を入れ替わると、手を繋いだまま歩き始めた。

 軽く手のひらが触れ合うように繋がれた手。振り払おうと思えばすぐに振り払えるくらいの力でゆるく握られている蒼月の手を、わたしは自分から離せなかった。

「手、もう離しても大丈夫だよ」

 蒼月に決断をゆだねるように声をかけると、彼が肩越しに振り向いた。

「なるべく、恋人っぽく見えるように歩いたほうがいいんだよね?」

 ハの字に眉を下げた蒼月が、わたしに不安そうに訊ねてくる。ふいに困り顔を見せた蒼月に、わたしはおもわず「くふっ……」と変な笑い声をあげてしまった。

 大晴の支持を落ち着いた顔で聞いていた蒼月も、「いちゃいちゃするシーンを撮ろう」と言われて、内心では動揺していたのかもしれない。蒼月が素の表情を見せてくれたおかげで、わたしの緊張がほどける。

「恋人同士っぽい歩き方ってどんなだろうね。わたし、これまで誰かと付き合ったこともないし、海デートなんてしたこともないから、どういうのが自然なのかわかんないんだけど」

 カメラが回っていることも忘れて、笑ってふつうにそう言うと、蒼月が鼻筋に指をあててメガネを押しあげた。

「僕も」

 その言葉に妙に安心している自分がいた。蒼月も今まで誰とも付き合ったことがない。それがわかって、ちょっと嬉しかったのだ。同類意識としてではなくて、もっと別の意味で。

 そこからは肩の力が抜けて、それまでよりも自然に歩けた。蒼月とゆるく繋いだままの手にドキドキさせられる以外は。

「オッケー、いいよ」

 大晴との距離が一メートルほどまで近付いたところで、彼がカメラを止める。

「途中で手繋いだのは、どっちのアイデア。そこからすごく雰囲気がよくなった」

 大晴の言葉に、ドキッとする。その瞬間、蒼月の手がわたしからするっと離れていった。

「別に狙ったわけじゃないよ。陽咲が波でスカート濡れないか気にしてたから助けただけ」
「ふーん」

 蒼月の説明に頷いた大晴が、ちらっとわたしを見てくる。蒼月が言ったことは事実で、やましいことなんて何もないのに、わたしは何だか気まずくて目を伏せた。

 そのあとも、蒼月とふたりでの撮影は続いた。海に少し入って遊んだり、浜辺で砂遊びをしたり。わたしと蒼月がふたりで遊ぶシーンを撮ったあと、みんなで海岸沿いのカフェにお昼を食べに行った。

 あやめとリサーチしていたお店の料理はどれもおいしくて、シェアして食べたしらすのピザが最高だった。お腹いっぱいになったあとは、みんなで海沿いの道を散歩した。

 ときどき撮影もしながら歩いていたら、気になるカフェやベーカリーを見つけて。ランチでお腹いっぱいになったことも忘れて、みんなで入ってしまった。

 クーラーの効いた涼しいカフェで海を眺めながら過ごすのは快適で、みんなドリンク一杯しか頼んでいないのに、ダラダラといつまでも居座ってしまう。

 大晴と涼晴は、お互いに今日撮影した動画を見せ合っていて、そこに蒼月を巻き込んで、どのシーンが使えそうかあれこれ話している。

「陽咲も見る?」って聞かれたけど、断った。自分が演技してる動画のチェックなんて恥ずかしい。最後に完成したものを一度だけ見せてもらえたら充分だ。

 大晴たちが撮影動画をチェックしているあいだ、わたしはあやめとSNSの投稿動画を見て時間を潰した。同世代の子達のダンス動画を見ていたら、近付いて来た店員さんがわたしの前に何か置く。

 追加の注文は何もしていないはずだけど。不思議に思って顔をあげると、店員さんと目が合って、にこっと笑いかけられた。

「お誕生日おめでとうございます」
「え……?」

 目の前に置かれているのは、イチゴのショートケーキ。白いプレートの余白部分には、チョコレートで「Happy Birthday Hisaki♡」の文字が描かれている。

「え、ええ〜。なに……?」
「陽咲、お誕生日おめでとう! みんなからプレゼント」

 大晴が、にっと笑いながらパチパチッと拍手する。それにつられるように、他のみんなも「おめでと〜」と拍手をくれた。

「え〜、うそ。ありがとう……!」

 まさか、こんなタイミングでサプライズがあるなんて。
 何の予想もしていなかっただけに、嬉しくてちょっと泣きそうだ。

「え、陽咲、泣いてる?」

 目の周りをパタパタ手のひらであおぐと、と、あやめがからかうように笑う。

「泣いてない。泣いてない。ちょっとびっくりしちゃって……」
「びっくりして泣いちゃった?」
「違うってば。あ、ねえ、写真撮ってもらおう」

 みんなで店員さんに写真を撮ってもらってから、わたしはフォークを手にとった。

 最初はひとりだけケーキを食べるのはちょっと申し訳ないなって気持ちもあったけど、ひとくち食べると、程よい甘さの生クリームがおいしくて。二口目、三口目と、どんどんケーキに手が伸びてしまう。

「陽咲って、ケーキ食ってるときが一番幸せそうな顔してるよな」

 わたしがケーキに夢中になっていると、大晴の隣で頬杖をついた涼晴が、ふとそんなことを言い出した。

「小学校の何年のときだっけ? 大晴と蒼月くんが、陽咲にナイショで誕生日ケーキ買いに行ったの覚えてる? あのときのホールケーキ、陽咲がひとりで半分食ったよな」
「そ、そんなことあったっけ……?」

 涼晴の話はイマイチ、ピンとこない。

「あったよ。小四くらいじゃない? サプライズするつもりで蒼月とふたりでこっそりケーキを買って帰ってきたら、仲間はずれにされたと思った陽咲が大泣きしてて大変だったよな」
「誕生日ケーキを見せたら、すぐ機嫌治ったけどね」

 大晴と蒼月が、顔を見合わせてクスクスと思い出し笑いする。ふたりに笑われて、わたしは手のひらに変な汗をかいた。

「そ、そうだったかな」
「陽咲、ケーキには目がないもんね。美味しいケーキ屋さん情報、よくチェックしてるし」

 大晴たちの昔話を聞いたあやめも笑う。みんなにいろいろ言われて、わたしの心が乱れる。

 恥ずかしいからじゃない。なぜか、今聞かされた子どもの頃の話に覚えがなかったからだ。

 大晴と蒼月だけじゃなくて、涼晴まで覚えているような話をわたしが覚えてないなんてあるだろうか。それも、自分の誕生日のときの話だ。

 そういえば、着替えを済ませたあとで蒼月と雑談していたときも似たようなことがあった。蒼月が覚えていた海洋体験のできごとをわたしが覚えてなくて、ちょっと変な空気になった。もっと前は、バドミントンの試合で対戦した相手のことを覚えてなかった。

 人の記憶なんて曖昧だし、家族や友達との思い出も、わたしが覚えてて相手が覚えてないことはある。もちろん、逆のパターンも。だから、たまたま、みんなが覚えていることをわたしが覚えていないだけかもしれない。

 そうであってほしいけど……。こんなふうに立て続くことがあるだろうか。

 夕方までカフェで時間を潰したあと、わたし達は再び浜辺に向かった。まぶしいくらいの明るい青色だった空は、陽が落ち始めてグレイシュッブルーへと変化している。

「もうちょっと太陽が落ちてきたら撮影しよう」

 スマホカメラが映す海と空の色を確認しながら、大晴がわたし達に指示を出す。

 いつ撮影が始まってもいいように、わたしと蒼月は波打ち際で向かい合うようにして立った。

 水平線を見ながら無言で立つ蒼月の前髪を海風が微かに揺らす。

 蒼月の顔なんて小さな頃から見慣れているはずなのに、静かに佇んでいるときの蒼月の横顔にはおとなっぽい雰囲気が漂っていてドキドキした。それでなくても、これから映画の大事なシーンの撮影が控えているから、余計に意識してしまうのかもしれない。

 このあと、沈む夕日をバックに撮ろうとしているのはヒロインの告白のシーンだ。

 デートの最後にヒロインが幽霊の恋人に「好き」だと伝えるが、その言葉は彼にとってはタブー。ヒロインは事故で忘れていた記憶を思い出して、恋人はヒロインの前から姿を消してしまう。ヒロインが忘れていた現実を突きつけて。

 何も知らないままだったら、「好き」と伝えなければ、ふたりは空想の中でずっと一緒にいられたかもしれないのに。

 このシーンを台本で読み返す度、わたしはとても複雑な気持ちになってしまう。

「よーし、いい感じに太陽沈んできた。そろそろいける?」

 空とずっとにらめっこをしていた大晴が、わたし達を振り向いて合図を出す。

「こっちはいいよ〜」
「カンペもオッケー!」

 涼晴とあやめが、両腕で大きく丸を作って返事する。

「蒼月と陽咲は?」
「大丈夫〜」

 蒼月と目配せしあってから、わたしが頭の上にオッケーサインを作る。

「じゃあ、すぐ始めるよ〜。夕日最優先だから、なるべくセリフの失敗なしで! 3、2、……」

 カンッ――。

 合図を聞きながら、浅く息を吸い込む。このシーンの始まりは、ヒロインの陽咲のセリフからだ。

『今日はありがとう。すっごく楽しかった!』
『僕も……』

 ふっと笑った蒼月の横顔にオレンジ色の光があたる。その表情がとても綺麗で、役の中の陽咲とともに現実のわたしの胸もドクンと鳴った。

『あのね、わたし、蒼月にずっと伝えたかったことがある』

 陽咲(ヒロイン)が思いきって切り出すと、蒼月(ヒーロー)の表情はわずかに曇る。

『わたし、蒼月のことが好き……。前からずっと……』

 わたしは、少し離れたところに立っているあやめのカンペを見ながら陽咲(ヒロイン)のセリフを言った。

 少し声が震えて硬くなったのは、セリフを忘れたからじゃない。映画のヒロインのセリフだとわかっていても、幼なじみの蒼月に告白をするのは恥ずかしかった。

 人生でまだ一度も告白なんてしたことがないのに、初めての告白が映画で演じる役のセリフなんて。女優でもないのに、こんな経験をしている高校生は、なかなかいないだろう。

 羞恥心を取り払うために、すぐに大声で叫びたいけど、カメラが回っているのでなんとか堪える。

『うん……。僕も陽咲が好きだよ』 

 陽咲(ヒロイン)の告白に、蒼月はうっすらと微笑んでそう答える。

 蒼月が台本通りのセリフを読んでいることはわかっているのに、胸がドキッとした。蒼月が『好きだ』と言ってくれた陽咲が、映画のヒロインのことなのか、わたし自身なのか一瞬よくわからなくなったのだ。

(こんなセリフ、前にもどこかで言われなかった――?)

 そんなことあるはずもないのに、妄想的な既視感がわたしの胸を締め付けて苦しくさせる。

 どうして、わたし、蒼月から前にこのセリフを言われたなんて思うんだろう。夏休みの前にわたしに告白してくれたのは、蒼月じゃなくて大晴だ。

 妙な既視感に囚われてしまったのは、蒼月のセリフが大晴に告白されたときの記憶に重なったせいかもしれない。こんなときに、わたしはなにを考えているんだろう。

 しばらく無言になったわたしに、少し離れたところに立ったあやめがカンペを振って見せてくる。不自然に黙ったわたしが、セリフを忘れたと思ったらしい。

 あやめの動きを横目に見ながら、わたしは映画のヒロインを演じることに集中する。

 台本だと、ここで陽咲(ヒロイン)蒼月(ヒーロー)と両想いになったことを喜んで笑顔になる。それから、衝動的に彼に抱きつかなければいけない。

『よかった……。嬉しい……!』

 頑張って作った笑顔を張り付けて、正面から突進するみたいに蒼月に抱きつく。だが、陽咲(ヒロイン)の両腕は虚空を切り、蒼月(ヒーロー)の身体をすり抜けてしまう。(ここは、大晴がうまく編集するらしい)

 夕陽が沈むのをバックに撮影するこのシーンは撮り直しがきかない。蒼月にとびつくとき少しぎこちない動きになってしまった気がするけれど、大晴のカットはかからなかった。

『え……?』

 何が起きたわからず驚く陽咲(ヒロイン)蒼月(ヒーロー)が泣きそうに笑いかける。

『僕も陽咲が好きだよ。すごく好き……』

 蒼月(ヒーロー)がせつなそうな目で陽咲(ヒロイン)を見つめる。そのまなざしも、苦しそうに話す声も全部演技なはずなのに、シンプルな告白の言葉が陽咲(ヒロイン)だけでなくわたしの胸をも締めつけた。

 ぎこちないわたしと違って、蒼月の演技はやっぱりすごい。まなざしや声のせつなさが真に迫ってきて、本気で告白されているみたいに胸がドキドキする。

 台本を読んでいるわたしは、このあとの展開がどうなるかがわかっているのに。ヒロインの陽咲の気持ちで、蒼月の告白を喜んでしまう。

 もしこれが映画の台本じゃなくてほんとうの告白だったら、素のわたしはどんな反応をしていただろう。

 ふわふわとした気持ちで余計なことを考えていると、不意に蒼月のまなざしが険しくなった。

『だけど、ごめん……。僕にはもう、君を抱きしめる術がない。僕はもうこの世にはいないんだ……』

 蒼月の口から紡がれたセリフに、わたしはハッとして、頭の中のスイッチをリアルな自分から映画の陽咲(ヒロイン)へと切り替えた。

『ウソ、何言ってるの……? 冗談だよね? だって、さっきまでふつうに触れてた』

 ストーリーの結末は、悲しいけれどハッピーエンドではない。混乱する陽咲(ヒロイン)に、蒼月(ヒーロー)は残酷な現実を告げる。

『今まで触れ合えたように感じたのは、陽咲の脳の誤作動によるものだよ』
『どういうこと?』
『陽咲が僕のことを生きている人間だと思い込んでいたから、触れ合えているように感じでただけ。今の僕は、陽咲にしか見えていない。陽咲への未練と執着だけが残した幽霊なんだよ』 

 耳を塞ぐようにして頭を抱えた陽咲(ヒロイン)に、事故で忘れていた記憶が徐々に蘇ってくる。(このあたりは、大晴が編集して回想シーンを入れるらしい)

 数ヶ月前に、蒼月(ヒーロー)とともに事故に遭ったこと。陽咲(ヒロイン)を庇った彼が重傷を負って亡くなったこと。そのショックで、陽咲(ヒロイン)が部分的に記憶喪失を起こしていたこと。

 すべてを思い出した陽咲(ヒロイン)の目からは涙がこぼれる。

 この演技がうまくできるか、それがとても心配だった。うまく泣けなければ、大晴に編集で涙を足してもらうつもりだった。

 でも……、ヒロインの陽咲の気持ちに浸りきったら、自然に泣けた。わたしも、少しは演技力がついたらしい。

 泣いている陽咲(ヒロイン)に、蒼月(ヒーロー)が愛おしそうに手を伸ばす。

『神様に猶予をもらったんだよ。陽咲が僕を思い出すまで、そばに居させてくださいって。陽咲と過ごせた時間は幸せだった。ありがとう……』

 涙でぼやける蒼月の目にも、涙が溜まっているような気がする。わたし達、お互いになかなか演技派かもしれない。

 大晴の「カット」の声がかかると、わたしと蒼月は顔を見合わせてお互いにふっと笑った。

 映画の役柄を通して、わたし達の気持ちも繋がってる。そんなふうに思った。

 大事なシーンの撮影が終わったあと、空が完全に暗くなるまでみんなで浜辺で遊んだ。昼間に比べると水温はかなり下がっていて、海に入ると冷たくて寒い。

 大晴と涼晴は、お互いに海の水をかけ合っては、「つめてー」と悲鳴をあげていた。それを見て、あやめはケラケラ笑っている。

 みんなが楽しそうに遊ぶ様子を、わたしは大晴のスマホを借りてこっそり動画に撮ったおいた。あとで気付いた大晴が、エンディングにでも使ってくれたらいいと思う。

 スマホのカメラを回していると、海に入って遊ぶ三人から離れたところで蒼月が砂山を作っていた。おとなしい蒼月は、子どもの頃から、ふと見ると集団から離れてひとり遊びをしていることがよくあった。

「何してるの?」

 近付いて行って、砂山を挟んで向かい合うようにしゃがむと、蒼月がおもむろに顔をあげる。それから、きょろきょろと周囲を見渡すと、そばに落ちていた割れた貝がらを砂山のてっぺんに無造作にのせた。

「お誕生日おめでとう」

 唐突に言われて、頭の上に疑問符が浮かぶ。けれどしばらくして、目の前の砂山がケーキで、上に置かれた貝がらはイチゴがロウソクに見立てられているのだと気が付いた。

「ありがとう。ケーキだ……! いただきまーす」

 ふたりだけの秘密のお誕生日会みたいで、ちょっと嬉しい。子どもの頃におままごとしたときのように「パクパク〜」と食べたフリをして、手で砂山を崩す。

「甘くておいしかったです」

 最後に手を合わせて「ごちそうさま」をすると、蒼月が唇を歪めて苦笑した。

「なに? 先におままごと設定を持ちかけてきたのは蒼月じゃん」

 わたしの対応をバカにするとは……。軽く憤慨していると、蒼月が鼻筋に指をあてながら「ごめん」と笑う。

「ふつうにのってくれると思わなかった。僕も陽咲にケーキをあげたかったなって……。食べてくれてありがとう」
「ケーキなら、カフェでサプライズしてくれたでしょ」
「あれは、全部大晴の提案だから」

 悔しそうに眉を寄せる蒼月に、わたしはちょっと笑ってしまった。

「蒼月って結構負けず嫌いだよね」
「違う」
「そうだよ。でも嬉しかった。ありがとう」

 そっけない態度をとられる時もあったけど、誕生日ケーキのサプライズで大晴に対抗心を燃やすくらいには、蒼月もわたしを気にかけてくれている。そのことが、なんだかとても嬉しかった。

 今日は、最近では一番に蒼月に近付けている気がする。頬に手を当てて少しニヤけていると、「そういえば……」と蒼月が口を開いた。

「さっき、藤澤さんに週末の夏祭りに誘われた」

 淡々とした口調で話す蒼月は、まるで他人の話でもしているみたい。でも、文脈的にあやめに誘われたのは他の誰でもなくて蒼月本人だ。

 そういえば、ケーキを食べたカフェから浜辺に戻ってくるとき、あやめが蒼月となにか話していたような気がする。

 あやめと蒼月は映画撮影前から顔見知りだけど、ふたりが特別仲が良かったという印象はない。それなのに夏祭りに誘うなんて、あやめは蒼月のことが好きなのだろうか。

 幼なじみと親友の恋の可能性に、胸がざわついた。

「で?」

 少し尖った声で詰めると、蒼月がゆっくり首をかしげる。

「で、って?」
「誘われて、どうしたの?」
「断ったよ。たぶん、行けないと思うから」

 蒼月が足元の砂を握って、ぱらぱらと落とす。白砂が砂時計のように蒼月の手から落ちていくのを見つめながら、わたしは密かにほっとしていた。

 人見知りな蒼月は、昔からほんとうに行きたいと思う誘いにしかのらない。

 親友の恋が応援できないなんて薄情だけど、蒼月があやめの誘いを断ってくれてよかった。そう思ってしまうわたしは、性格が悪いのかもしれない。

「そ、っか。お祭りの日も夏期講習なの?」
「確認してみないとわからない。でも、僕には先の約束はできないから」

 蒼月が、なんだか悲観的な言い方をする。それは、蒼月が自分の誕生日について語るときのトーンと同じだった。

「そんな大げさな。明後日の話だよ」
「うん。でも、今日と明日は繋がってない」

 ぼそりとつぶやく蒼月が自嘲気味に笑う。また、蒼月がわけのわからないことを言っている。

「陽咲は行かないの? 今年の夏祭り」

 眉根を寄せたわたしに、蒼月が何気なくと言ったふうに訊ねてきた。

「あー、えっと……、わたしは……」

 大晴との約束が頭をよぎる。つい言い淀んだのは、大晴との約束を碧月に知られたくないと思ってしまったからだ。

「陽咲は大晴と行くの?」

 だから、蒼月のほうから訊かれてヒヤッとした。子どものときに、悪いことをして親にバレたときみたい。実際のわたしはなにか悪いことをしてるわけでもないのに、指先から血の気が引いていく。

「なんで、知ってるの……?」
「なんとなく、そうかなって。大晴と楽しんできてね」

 手のひらで握った砂をぱらぱらと落としながら、蒼月が下を向いて口角だけで笑う。顔も見ずに突き放すような言い方をされて、胸がズキンとなる。蒼月の言葉に少し傷ついたし、彼の言葉についイラッとした。

「蒼月は、わたしが誰と夏祭りに行こうとどうでもいい?」

 ついそんなふうに言ってしまって、慌てて口を押さえる。

 ものすごく傲慢な聞き方だと思った。こんなの、蒼月がわたしに興味がないことを責めているみたいだ。

 わたしと蒼月が恋人なのは映画の中の話で、現実ではわたし達の気持ちが交わることなんてない。そもそもわたしは蒼月とは昔みたいに友達に戻れたらと思っていただけで、それ以外の感情で彼を縛りたいわけじゃない。それなのに、どうしてあんなことを言ってしまったんだろう。

 ずっと、最近の蒼月の様子が少し変だと思っていた。でも、少し変なのはわたしのほうじゃないか……。

「ごめん、今のは忘れて……」

 指で横髪を掬って耳にかけながら、作り笑いで誤魔化す。そんなわたしを見て、蒼月がふっと儚く笑いかけてきた。

「心配しないで、ちゃんと忘れるから。陽咲は大晴に告白されてるんだもんね」

 蒼月の言葉に、ドキッとする。

 やっぱり、蒼月はわたしが大晴に告白されたことを知っていたんだ。大晴と蒼月は、この頃ふたりでいることも多かったみたいだし。正直者の大晴が、蒼月に言わずにいられるはずがない。

「そのこと、大晴に聞いた?」
「……うん」
「……どう、思った?」

 そう口にしてから、何を聞いているんだとまた反省する。

 大晴への告白の返事を、わたしはまだちゃんと決めきれていない。だからと言って、蒼月に意見を求めたってどうしようもないのに。

「ごめん、やっぱり――」
「いいんじゃないかな」

 質問を取り消そうとしたとき、蒼月が笑いながらそう言った。

「ふたりとも昔からすごく仲良いし、似合ってると思う」
「それって、蒼月はわたしが大晴と付き合ったほうがいいって思ってるってこと?」

 即座に聞き返したわたしの目元が、じわっと熱くなった。急に涙が浮かんできた理由を、自分でもうまく説明できない。よくわからないけれど、蒼月にわたしと大晴が付き合うことをあっさりと「いいんじゃない?」と肯定されたことが嫌だった。

 だからといって、大晴とのことを否定されたり反対されたかったわけでもない。だけど、少しくらいは悲しそうな顔をしたり、困ったりしてほしかった。そんなことを蒼月に望んでしまうのは、どうしてだろう。

 涙目で睨むと、蒼月が困ったように瞳を揺らす。

「だって……、陽咲が聞いてきたんだよ。どう思うか、って」
「そうだけど……。でも、前に相談したときは、蒼月はわたしに――」

 そこまで言いかけて、ふと言葉に詰まった。

 相談って、わたしはいったい何を言っているんだろう。大晴からの告白のことを蒼月と話すのはこれが初めてなのに。

 違う。そうじゃない。わたしは、なにかとても大切なことを忘れてる気がする。

 急にズキンと頭が痛くなって、こめかみを押さえる。そんなわたしを、蒼月が狼狽えた様子で見つめてきた。

「陽咲、どうしたの? もしかして……。事故の前のこと何か思い出してる……?」
「思い出すって、何を?」

 やっぱり、わたしは何かを忘れてるんだ……。それが何かはわからないけれど、胸がざわざわする。

 こめかみを指で押しながら視線をあげると、蒼月が小さく震えるように首を横に振った。

「……あ、いや。ごめん、なんでもない」

 蒼月の顔は、薄闇の中でももわかるくらいに青ざめていて「なんでもない」という感じではない。

「教えて。事故の前のことって……」

 それがわかれば、すべてのことに説明がつく気がする。蒼月があやめに夏祭りに誘われたと知ってモヤモヤしたことにも、大晴と付き合うことを肯定されて涙が出てしまったことにも。

 だって、この気持ちはきっと蒼月への嫉妬と焦燥で。わたしはたぶん――。

「どうした、ふたりとも。なんかもめてる?」

 蒼月に食い下がろうとしたとき、頭上からそんな声が聞こえてきた。

 わたしの隣にすとんと腰をおろして、蒼月との会話に割って入ってきたのは大晴で。彼の登場にほっとしたように、蒼月の表情がゆるむ。

「いや、大丈夫だよ。僕、ちょっと海で手を洗ってくる」

 立ち上がった蒼月が、手を叩いて軽く砂をはらう。

 渇いた砂を触っていた蒼月の手は、そこまで汚れているふうではなかったのに。都合の悪いことから逃げるための口実なのか、わたしを大晴とふたりきりにして歩き去ってしまう。

 蒼月は、絶対にわたしに何かを隠してる。そして、おそらく大晴も。

「ふたりして深刻そうな顔してたけど、何話してたの?」
「たいしたことじゃないよ」

 大晴に訊かれて、わたしは崩れた砂のケーキを横目に見ながら笑った。

 何を話してたかなんて、大晴に言えるわけない。だって、気付いてしまった。自分の気持ちの矛先が、どこを向いているのか……。

 そのあとは、蒼月と全く話ができなかった。

 海を出て電車の駅まで歩くときも、電車の中でも、蒼月は大晴と涼晴のそばにずっといて、話しかけるタイミングをつかめなかった。というより、蒼月はわたしとふたりになることを避けていた。小学生のときの『ホタル事件』以来、蒼月には何度も避けられているから、そういう空気はすぐわかる。

 蒼月と最後に目を合わせて交わした言葉は、別れ際の「バイバイ」だった。
 その日、家に帰ってから訊いてみた。

「ねえ、お母さん。わたしの頭、事故の日の記憶がない以外は異常なかったんだよね?」
「……、そのはずだけど。なにかあったの?」

 お母さんが質問に答えるまでに、微妙な間があった。蒼月と大晴だけでなく、わたしはお母さんにも何か隠し事をされているのかもしれない。

「話したら、お母さんが知っていることをちゃんとわたしに教えてくれる?」

 お母さんはしばらく考えるように黙りこんだあと、「わかった」と頷いた。

「陽咲に何か気になってることがあるなら、教えてほしい」

 お母さんに言われて、わたしは最近何度か感じている違和感について話した。

 友達と一緒にいるときに、ときどき自分がまったく覚えていない話をされることがある。

 中学生のときのバトミントンの試合の対戦相手を覚えていなかったことや、小学生のときの海洋体験でのできごと、大晴や蒼月との思い出の一部が欠けていてまったく思い出せないこと。

 日常生活を送るのに困るわけではないが、みんなの思い出話と自分の記憶にあまりにも乖離があると不安になることなどを訴えると、話を聞いてくれたお母さんが「うーん……」と考え込んだ。

「病院で目を醒ましたあなたに事故当日の記憶がないとわかったとき、検査では脳に異常がなかったの。前にも話したとおり、事故の日の記憶はいつか思い出すかもしれないし、このまま思い出さないかもしれない。それから……」

 その話は、前から聞いている。わたしが知りたいのは、たぶんそこから先のこと。

「もしかしたら、頭をぶつけた後遺症でほかにも記憶障害が出ることがあるかもしれない。お医者さんからは、そういう話も少しされたの」
「そうなの?」
「そう。でも、ちょっとした物忘れって誰にでもあるでしょう? お医者さんに言われたのはあくまでも可能性の話で、何も起きてないのに陽咲に余計な心配をさせたくなかったから黙ってたのよ。ごめんね」

 お母さんが申し訳なさそうに目を伏せる。

「ううん、わたしのこと心配してくれてありがとう」 

 お母さんの言うとおり、「あなたの記憶はこれからだんだん消えていくかもしれません」といきなり宣告されていたら、もしかしたら毎日眠れないくらい不安になっていたかもしれない。

 わたしの記憶はわたしが知らないうちに欠けていく。いつ、どの記憶が消えたのかもわからない。誰かと共有していた記憶でなければ、自分の記憶がなくなったことにも気付けない。それが、絶対に忘れたくない大切な記憶だったとしても。

 もしかしたら、もっと他にも消えてしまった記憶があるのかもしれない。そう思うと、ぞっと背筋が寒くなった。

「気になるなら、精密検査を受けに行ってみる?」

 お母さんが、青ざめるわたしの方にそっと手をのせる。

「お医者さんからは、万が一、生活に支障をきたすような物忘れ症状が現れたら相談に来てくださいって言われてる。どうしようか……」

 生活に支障をきたすような物忘れって、どの程度だろう。わたしが覚えていない記憶は、それを忘れているからといってものすごく困るわけじゃない。だけど、蒼月と一緒にいて苦しい気持ちになるのは、わたしが事故の日の記憶を忘れているからだ。

 七月七日。蒼月の十七歳の誕生日。学校帰りに事故に遭って、蒼月に助けてもらったその日に、忘れてはいけない大切な何かがあったのだと思う。精密検査を受けたら、それを思いだすことができるんだろうか。

「……少し、考えてみる」
「わかった。なにかあれば、すぐに相談してね」

 お母さんの心配そうな顔を見つめ返しながら、わたしは小さく頷いた。