「わたしが必要だって言ってくれたんです。人生のパートナーは小春しか考えられないって、プロポーズしてくれて。
わたし、そのとき覚悟を決めたんです。どんなにつらいことがあっても、ぜったい乗り越えてみせる。
わたしを選んでくれたこの人と、一生添い遂げようって」
小春さんは凛とした眼差しで僕を見やると、充実感がうかがえる自然体の笑みを満面にたたえた。
僕の目の錯覚じゃない。
彼女の全身はほのかに輝いて見え、頭のてっぺんから足のつま先まで、幸福という名のオーラに包まれていたのだ。
馬鹿だ。
俺は大馬鹿者だ。
どうして勇気をだして、一歩を踏みださなかったのか。
そうしたら、いまとは違う未来が待っていただろうに。
取り返しのつかない後悔に打ちのめされ、平衡を保って歩くのがせいいっぱいだ。
完全に失うとわかったとたん、喉から手が出るほど欲しくなっている。
この激しい執着はなんなのか。
悪あがきのどす黒い手が、背中を押している。
奪いたい。
板倉勇翔から小春さんを奪いたい。
じぶんのなかにあるとは思えない、狂おしい感情が腹の底からとめどなく湧きあがっている。
だけど。
だけど、本心を伝える言葉が、どうしても出てこない。
そのあと小春さんとなにを話したのか。
僕はおぼろにしか覚えていない。
* * * * *
「林葉主任。おはようございます」
駅前の歩道で信号待ちをしている僕に、小春さんが挨拶をくれた。
「おはよう。とうとう最終日だね」
感情を表立てないようにして、彼女に言った。
小春さんの勤務は今日がラストだ。
終業後には送別会がもよおされる。
トウカエデ並木の歩道をこうして並んで歩くのも、ほんとうに最後だった。
秋らしい、澄みきった空の光が、今朝は妙に目に沁みる。
まさに“小春日和”になりそうだ。
「今年はここの紅葉を見られないのが残念です。あと2週間もしたら、みごとなほど真っ赤に染まるんでしょうけど」
小春さんのもの寂しげな声に、
「大阪でもすてきな景色が見られるよ、きっと」
僕はエールを送るように言った。
すると小春さんのまっすぐな眼差しが、僕に向けられた。
「わたし……林葉主任のそういうやさしさ……ぜったい忘れません」
小春さんの思いのこもったやわらかな声に、不覚にも気持ちが揺れ動きそうになった。
なにかあったら、いつでも連絡して。僕でよければ話を聞くから。
口にのぼりそうになったずるい言葉を、ぐっと飲みこんだ。
小春さんは覚悟を決めたと言ったのだ。
だから、よけいなことは伝えるな。
じぶんをぶん殴る勢いで、叱りつけた。
「じつは僕もこの道を通るのは最後なんだ。明日、引っ越すんで。休み明けからは、支店まで徒歩1分の駅を利用するからね」
「えっ、そうなんですか」
小春さんはつぶらな目をまんまるくした。
僕にとって容易いのは……小春さんをあきらめることではなく、いつまでも思いつづけていくこと。
だから小春さんがずっと幸せでいられるように、強く願を掛けるつもりで、あえて難しい道へ進むと決めたんだ。
僕はきみを忘れる。
忘れる努力をする。
きみが全身全霊を傾けて板倉勇翔を愛し抜くと、信じているから。
二宮小春さん。きみは、そういう人だ。
あれからじぶんなりに考えて、たどりついた答えがある。