だけど僕のほうは、季節や天気がどうのこうのと話している場合じゃなかった。

 板倉勇翔との結婚を考え直したほうがいいんじゃないか。
 それをどのタイミングで切りだすかで、いっぱいになっていたのだ。

 横断歩道を渡り切り、コンクリート舗装(ほそう)されたトウカエデ並木の歩道を、ゆっくりした足どりで歩いていった。

 おっとりしている小春さんは以前、『ニブイ印象を持たれがちなんです、わたし』とこぼしていたが、じつは場の空気や人の顔色を敏感に読める女性だ。

 いまだって僕のようすがおかしいことに気づき、いつになく押し黙っている。

 小春さんの足もとで黒いローヒールパンプスが、コッ、コッ、コッ、と心なしか沈んだ音を響かせている。

 この3年半で一度も感じたことのない重たい沈黙が、ふたりのあいだに横たわっていた。

 言え。肝心(かんじん)な話を早くはじめろよ。

 わかってる。だけどくちびるが固まって動かない。

 人生最大と言えるほどの強いプレッシャーにさいなまれ、ふっと意識が飛びそうになったとき、

「わたし……」

 と小春さんが口を開いた。

「この道を歩くのが好きなんです。トウカエデが芽吹く春、ぴかぴかした青葉が(しげ)る初夏……、涼しい木陰(こかげ)をつくってくれる夏、葉が真っ赤に染まる秋……、裸木(はだかぎ)になって冬の眠りにつくおもむきも……ぜんぶが好きでした」

 どこか(なつ)かしむような口ぶりだった。

 小春さんは僕のほうにそろりと目を向けると、おだやかな心情をそのまま顔に映したような笑みを浮かべた。

「今日の朝礼でミヤシタ課長から報告していただく予定ですけど……わたし、来月いっぱいで退職することになりました。
 有給休暇をすべて消化するように言われたので、こうしてこの道を歩くのもあと……17日ぐらいかと……。そう思うと、なんかさみしくなっちゃいます」

 小春さんのほうから、核心に触れる話をはじめた。

 僕はごくっと(のど)を鳴らして、(つば)を飲みこんだ。

「人づてに聞いたよ。結婚……するんだって? 相手は……ほんとに板倉主任?」

 小春さんの顔をまともに見ることができず、3メートル先の陰ったアスファルトをひたすら見つめて訊いた。

 彼女の口から、ちゃんと真実を聞かなければ。
 
 いや、だめだ。ほんとうは聞きたくない。

 ふたつの思いが、胸のなかでもみあった。

「はい、そうです。やっぱり……意外ですよね」

 小春さんは、くすりと笑った。

 いまだ。

 意を決し、僕は慎重(しんちょう)に言葉を(しぼ)りだした。

「水を差すようなことを言って申しわけないけど、板倉主任のあの噂を聞いたことは……」

「あ、いろんな女性に手を出してるとか、女癖が悪いとか? ……はい、しっかり耳に届いてます。
 でも、すべて過去のことですから。いまはなんとも思ってません。ぜんぜん大丈夫」

 妙に確信に満ちた言いかたに、出端(ではな)をくじかれるどころか、はっと胸を突かれ、彼女を見やった。