野口主任はさらに、僕をいたぶって悦に入るような薄笑いを浮かべ、しゃべり立てた。
「お相手は誰だと思う? なんと、板倉主任ですって! ねー、びっくりよねー! 誰だって驚くわ、そりゃ。天地がひっくり返るような組み合わせだもの。
てっきり“できちゃった婚”かと思ったけど、そうじゃないんですって。でも人の好みってわからないものねー。板倉主任、ああいうマジメな地味子ちゃんが趣味だったとは。
わたしね、あなたと二宮さんが仲良く話してるところを見てて、あらーいい雰囲気じゃなぁい。もしかして付き合ってるのかしらぁ、なんて思ってたのよ。
名前だって『春』つながりで、運命的でしょ?
ほんっと、林葉主任とくっついたほうがぜったい幸せになれるのに、二宮さん、なにを血迷ったのかしら。
あーんな女癖が悪い板倉主任と結婚するなんて。浮気されるに決まってるじゃない! 林葉主任だって、そう思うでしょ!?」
「…………!」
僕の目が釘付けになるのと同時に、思考と息がぴたっと止まった。
すうっ……と心臓が冷えていく。
野口主任の背後、給湯室の手前に、表情を失った小春さんが棒立ちしていたからだ。
小春さんは放心状態の無の面持ちから、ふいに無理してこしらえたような笑みを浮かべると、ふっと僕の視界から足早に消えていった。
板倉勇翔は僕と同い年だが同期ではなく、2年半前に大手ゼネコンから転職してきた。
前職同様、営業を担当している。
都会的なクールさと好青年のさわやかさをあわせ持った顔立ちで、背がすらりとし、細身のスーツを格好よく着こなしている。
仕事ができて、何事においてもスマートかつ、あか抜けた男。
そういう印象を当初は誰もが持っていた。
しかし、やがて彼のいただけない一面を支店中の人間が知ることとなった。
合コンやマッチングアプリで知り合った女性を、とっかえひっかえして遊んでいる。
それどころか、派遣やアルバイトの女の子にも手を出している。
そんな悪い評判が立ち、前の職場もじつは男女関係のもつれが原因で辞めるはめになったのだと、真偽の怪しい噂まで流れてきた。
すべてが事実ではないにしろ、野口主任が指摘したとおり、女癖が悪いのはたしかなのだ。
板倉はこの夏、時期はずれの人事異動で大阪の支店に転勤した。
あの板倉と──小春さんが結婚?
それがほんとうなら、小春さんは板倉勇翔に騙されているんじゃないか。
そんな気がしてならなかった。
誠実さに欠ける男と結婚なんかしたら、ぜったい悲しい目にあうに決まっている。
思いとどまらせなきゃだめだ。
これまでの人生で、僕がもっとも奮い立った瞬間だった。
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翌朝、駅前の歩道で信号待ちをしていると、
「おはようございます。林葉主任」
憂いのかけらもない笑顔で、小春さんは僕の左隣に並んだ。
彼女はいつもと変わらない態度で接してくれていたのに、
「あ……、お、おはよう」
挨拶を返した僕の声色は変にくぐもって、ぎこちなさが漏れ出ていた。
「今朝はちょっと肌寒いですねー」
小春さんはいつものように天候の話題のトスを上げ、
「これから秋が深まっていくんですね……」
と、しんみりしたトーンでつぶやいた。
やさしい青空があますところなく広がるなか、たしかに空気は秋の気配を深めて首のあたりにそぞろ寒さを感じさせる。