8月28日。
寮にて。
甲子園終了から8日たった。
ただひたすらに、最上級生は忙しそうだった。
次世代への引継ぎ、これからの進路。
悲しむ暇も与えられない。
悔しがっていられるのは、もう誰もいない。
けど、どこかでみんな同等の感情を片隅に宿している。
それは、東峰も大概だった。
エースだから。時期主将候補だから。
そんなものに縛られながらも、悔しいものはやはり悔しい。
顔は悲痛に歪んだものだった。
「ひでぇ顔してんな。」
「...誰のせいだと。」
二人の間にも、ふざけて笑い会えるようなゆとりはあった。
今の会話も、その一種。
けれど、話題がひどくその空気を感じさせない。

「なぁ。」
キャッチボールしねーか?
キャッチャーミットではない。古汚いグローブを胸元に掲げ、言い放った誘い文句。
「それだけのためにわざわざここに来たんスカ?あんた。」
呆れた男だ。もう橋本は寮にいなくてもいいのにもかかわらず、その誘い文句を言うためにここまで来たのかと思うと。
「そうだよ。」
お前を誘うために来たんだよ。
そういった言葉も、東峰の脳内には無惨に響いていくだけだった。
悔しいような、悲しいような、それでもすこし嬉しいような、そんなすべてをひっくるめた顔を全面に表して。
それでも、東峰は笑顔を貼り付ける。
いままで縁のなかった、感情の仮面をつけて。
「いいっすよ!!」
東峰は、そう精一杯答えるしかなかった。




「お前もうまくなったな。」
「そうでしょうそうでしょう。」
「一番最初にキャッチボールしたときは、俺が構えたところに投げなさすぎて、こいつ投げる気あんのかって思ったよ。」
「あのときは!!!!未熟だったから、しょうがなくないっすか。」
「それでも、おれがいままで受けてきたどんな球よりも取りづらかったぜ?小学生でももっとましな球投げるわな。」
「むむ...。」
「でも、マウンドにたってみりゃ、バッターは打ちづらいは、こっちも取りづらいは、また大変で大変で。」
なにも言えない。事実なのだから。
「いまでは、その球がお前の1番の武器ときたもんだ。」
「でしょう!?やはり俺の感覚は間違ってはいなかったんですよ!!」
「高らかに言ってんじゃねぇよ。」
「でも、まぁ、俺が戦力なのは事実でしょう?」
「そりゃ、そうだけども。
「じゃあもう一件落着でしょう。」
「まだま課題はあんだろ?投手としても、エースとしても。」
「ありまくりに決まってんじゃないですか。」
東峰の球が打たれた。
それは、劇的サヨナラでもなければ、1番の決め球だったわけでもない。
いつも普通に打たれている球だ。
これはしょうがないと、割り切れる球。
けれど、結果がこれなら、最悪以外の何物でもないだろう。
完全敗北や、サヨナラ負けよりもたちがわるかった。
一生残る、持ち玉の一種。
そのため、排除することはできなくて。
「もう、しょうがないで片付けられるものじゃなくなったんだ。これから、努力して努力して、先輩がぷろに行ってる頃には、それが1番の決め球にしてさしあげましょう。」
そうニカッと笑った。
広角は上がり、目尻はさがり。
「まぁ、お前は努力で這い上がってきた立派な選手だ。また上ってこい。」
さらなるエースの道を。
その言葉を聞いて、下唇を噛み切りそうになった。
認め、られていると思ってしまう。
「眼の前に立ちはだかった壁にも立ち向かって、道端に落ちている小石にも目を向けて、磨いて、それを武器にする。圧倒的なヒーローでも、勇者でもないお前の戦い方。けど、ひどく憧れ、身近にいた。そんなお前が好きだった。」
たまる。
海水が、たまる。
いや、満ちていく。
「バカで、まっすぐで、コントロールも効かなくて、涙もろくて、はたから見ればただの勇者に助けられてる子どもだった。けど、なぜかいつも、俺達の前にはお前がいて、お前の背中は支えてやりたくなるような背中だった。」
そんな、対等な高校生勇者にみんな憧れて。
「そんなお前に、俺は、おれの初恋を捧げたんだよ。」
溢れた。
こぼれた。
海は、津波を引き起こし、東峰を襲った。
けれど、それは、ひどく暖かく、不思議と息がしやすかった。
「...俺を殺さないでくださいよ。」
「うん。」
いっぽ。またいっぽと距離を詰めていく。
今までの距離は、18.44。
さっきまでの距離は、7。
これからの距離は、一体どのくらいだろうか。
いまは、そこまで近づくことはできないけれどせめて、61センチは許してほしい。
「俺は、」
「うん。」
「ずっと、あんたしか見てなかった。眼の前にはいつもあんたがいて、頼もしく構えてて、すごい、嬉しかったんだ。」
「うん。」
「けど、あんたのことが好きだってわかったとき、おれは、どうしたらいいかわからなかった。」
あんたにとどける球が、穢れるような気がして。構えてくれる、そのミットに飛び込む球に、そんな思い込めていいのかって不安になった。
だから、気づかないふりをした。
一生懸命、見栄張って、本心わかってんのに、わかってないふりをして。
そしたら、本当に行方不明になっちまった。
けど、それでも見失えなかった思いがあって。
好きだという気持ちが、俺を縛ったんだ。
「でも、たとえ特別な関係じゃなくても、あんたとする野球は楽しくて。」
「うん。」
「それで満足してる自分もいた。」
それでも、終わりがきて、苦しくて、嬉しくて、それよりも悔しかった。
だから。
「ありがとう。」
そして、
泣きながら、顔を歪めながら。それでも、心は笑っていて
「先輩を好きでよかった。」
だから、
だから、
「俺は、」
もういい。
そうことばを遮るように、抱きしめあった。
「ありがとな、東峰。」
お互いの肩、自分の気持ちも、公開も、全部のせ、俺たちは誓った。