ホテルのロビーは高級そうな光で満ちていて、あの時泊まったホテルの名前を覚えていないけど、ここな気がした。文香も同じだったようで、キョロキョロと見回してから私の目を見つめる。

「ここだよね?」
「やっぱり?」
「十キロ歩かされたとこ、近いのかな」
「絶対歩かないよ!」

 修学旅行に組み込まれた十キロウォーク。思い出すだけで、胃がひっくり返りそうだ。ぜぇはぁと疲れ切った私たちは、ごはんもそこそこにホテルでずっと寝ていた気がする。

 洞爺湖に泊まったくせに、観光の記憶は一ミリもない。うそ。一部の生徒が木刀を買ってきていたことだけ、覚えてる。洞爺湖と掘られた茶色の木刀。

 チェックインをして、部屋へ向かう。広々とした部屋には、二つのベッド。ソファや、テーブルも完備されていて、温泉宿は充実しているなと実感してしまう。

 荷物を置けば、文香は私の方を窺うように見つめた。

「どうした?」
「ちょっとだけ、観光してこようかな。買ってきて欲しいものとか、ある?」

 一瞬悩んでから、自分のお腹と相談する。朝ごはんはホテルでいっぱい食べてきたけど……時計を見上げれば、お昼はもうとっくに過ぎ去っていた。

「ごはん、かな」
「探してくる! 仕事、しててください」

 うやうやしい感じで、両手をずいずいと差し出す。気を遣ってくれてることに気づいて、吹き出しそうになってしまった。元々の文香に戻ったみたい。戻った、というより、元気を取り戻したのかもしれない。

「ありがと」

 私の言葉を聞いて、すぐ文香は部屋を飛び出す。窓から見える湖の青さを目に焼き付けてから、ノートパソコンを開いた。

 在宅ワークを選んで転職したきっかけが、脳裏によぎる。思い出さなくて良い。自分で過去の傷を抉るようなバカな真似。もうしないって決めたから。

 イヤホンを耳に挿して、流れてくる音声を書き出す。テロップを入れながら、どうしても思考がブレる。集中しなくちゃいけない。わかっているのに、どうしても、違う人生へ想いを馳せてしまう。

 もっと我慢して、あそこに居たら、今はない。だから、転職したことは良かったこと、なはず。不安定だし、次の仕事が続くかは、恐怖に晒されるけど。

 ため息を吐き出して、イヤホンを外す。目の前に広がる湖は、大きくて、飲み込まれたら、消えてしまいそうだった。

 文香は楽しく観光してるだろうか。わたしもついていけばよかった、かな。ううん、締切が待ってるからそんなことしてる暇はない。

 無理矢理に前を向いて、作業をなんとか終わらせる。いつもだったら、一時間で終わる量なはずが、全然進んでいない。

 時計を見ないようにして、ただ、ただ、パソコンの画面を見つめた。