*  *  *

 外はオレンジ色に染まっていた。北海道は夏だというのに、夕方は少しだけ肌寒い。すんすんっと自分の肩を嗅げば、獣臭がする。すっかり、体にジンギスカンの匂いが染み付いてしまった。

「温泉でも行く?」

 思いついたまま口にすれば、文香は小さく頷く。温泉がどこにあるかはわからないけど、定山渓温泉と登別温泉だけは知ってた。私が温泉好きだから、選んだというのもあるけど。

 温泉はいい。体のコリも疲れも、そして、心までほぐしてくれるから。

 スマホで検索すれば、定山渓温泉の方が近いようだった。車で約四十分。登別温泉も念の為に、検索する。来た時の青い看板に書いてあったから、多分戻ることになってしまうけど。

 案の定、遠いようで一時間半と表示されてる数字を見つめる。文香に決めてもらおうか、考えて顔をあげた。

「登別と定山渓どっちがいい?」
「んー、結梨の好きな方でいいよ」

 文香のために聞いたのに。一瞬そんな考えが浮かんだけど、文香らしいとも言える気がした。いつだって、他人を優先してくれる、優しい人だから。

 じゃあ、近い方がいいかと定山渓のホテルを勝手に取る。当日だというのに、そこそこの空きが見つかるのは平日だからだろうか。助かった、と思いながら和室の部屋を予約し終えた。

 文香はそわそわと周りを見ながら、私の後ろに隠れるように近づく。

「誰かいた?」

 いるわけもないか。ずいぶん遠くの土地に来たんだから。文香は首を横に振って、「ジンギスカンの匂いがする」と答えた。ふざける元気があるのか、と思いながらクスリと笑う。

「文香も一緒。行こう!」

 手を引いて、車に乗り込む。小さな、痩せ細った手に、また少しだけ悲しみが浮かび上がった。

 車を発進させれば、渋滞に巻き込まれる。来る時に通った豊平川沿いにたどり着くまで、ゆっくりとしか車は動かなかった。

 豊平川の横をしばらく走れば、山が見えてくる。夜景を見るのも、アリかもしれない。大人らしい楽しみ方、だと思う。

「夜景でも、見る?」

 助手席の文香に問い掛ければ「大丈夫」と断られる。大丈夫ってどっちにも、取れる言葉なのに。断られたことがわかるくらいには、私たちはまだ繋がってるんだろうか。

 そんな些細なやりとりに、私は勝手に嬉しくなってしまう。連絡をどれだけ取らなくても、私たちは親友なんだと思える気がしたから。

 山の横を走っていれば、先ほどまでの渋滞が嘘だったかのようにスムーズに車を走らせられた。どこまで行っても目に入るのは、山。山。

 むしろどんどん、山奥に近づいて行ってる気がする。

「なんか、すごい山奥だね」

 ぽつりとこぼせば、文香はふっと小さく笑いながら頷いた。

「山の奥にある、みたいだからね」
「温泉といえばそんなもんかぁ」
「そういうところも、多いのかもね?」

 普通に会話できるようになってきたことに、私はすっかり心を緩めてしまった。文香に再会した時から張り詰めていた緊張の糸が解れたように。

「文香がちょっとずつ元気出てきたならよかった」
「そう?」

 不安そうな、震える声。また間違えた。元気なんか出ていないのかもしれない。

「私そんなに、ヤバかった?」
「うーん、元気は無さそうだなって感じだった」
「そっか」

 それ以来、文香はまた黙り込んでしまう。何がダメだったか、わからない。聞いたらまた、文香を傷つけてしまう気がする。

 だから、私もただ黙り込んで、前を見つめる。だたった広い道を進めば、定山渓温泉という看板が目に入った。

「そろそろ着くみたい」
「うん」

 予約したホテルの名前を見つけて、入れば係員に誘導された。指定されるまま車を停めれば、「お待ちしておりました」と優しい声色で迎えられる。

 ジンギスカンも食べたからと、夕飯はセットじゃないプランにした。けど、まだ少し早い時間だから後悔してしまいそうだ。近くにコンビニもあったし、最悪コンビニで何かを買えばいっか。

 そう思いながら、案内されるがままに部屋へと向かう。そこそこの広さの和室には、すでに布団が敷かれており、そのまま寝転がりたい気持ちを抑えた。

「まずはジンギスカン臭なんとかしないとね」
「私は、あとで行くから結梨、先に行っていいよ」
「一緒に行かないの?」
「準備があるから」
「それくらいなら、待つって」

 文香は力なく、首を横に振る。どうしても一緒に行くつもりはないらしい。しつこくするのもどうかと思って、「じゃあ先行ってるね」とだけ伝えた。温泉は、三箇所あるとフロントで教えてくれた。

 せっかくなら、最上階の温泉に行こう。部屋を出かけてから、一度戻った。どこに行くか伝えておかなければ、温泉で文香がひとりぼっちになってしまう。

「私は、最上階の方行くからね」

 小さい「はーい」が聞こえてきたから、安心して温泉に向かう。