あたたかい優しい香りに顔を上げれば、お弁当を持った文香が後ろに立っていた。

「おかえり」

 口にしてから、久しぶりの言葉に体がむず痒くなる。文香はためらいもせずに「ただいま」と微笑んで、両手のお弁当を持ち上げた。覗き込めば、ハンバーグやパスタ、おいしいものを詰め合わせた大人のお子様らんちのようなお弁当だ。

「一緒に食べよ! 休憩しても、大丈夫?」

 不安そうに尋ねるから、大きく頷く。締切のうちの一つはこれで、完成させられた。あとは、最終確認をして提出をするだけだから、大丈夫。もうひとつの締切は、まだ迫っているけど。

「大丈夫、お腹すいたから食べよ」
「うん、食べよ食べよ」

 パソコンを一旦片してから、お弁当を広げる。まるで作りたてのようなあたたかさで、デミグラスソースの匂いが鼻に突き刺す。

「出来立てをね、詰めてくれるんだって」
「すごいね、おいしそう」

 それでも、お弁当は普通の量。むしろ、多いぐらい詰め込まれている。文香は食べ切れるだろうか? 考えてることが伝わったのか、私の開けた蓋の上にごはんやハンバーグが次々に置かれていく。

「食べれたらでいいんだけど、食べて欲しい、な?」
「もちろん、お腹ぺっこぺこだから嬉しい!」
「よかった! お腹は空いてるけど、まだ普通には食べれそうにないから助かる」
「任せておいて。夜はホテルのバイキング付いてるから。食べれるだけ食べようね」

 文香は「うん」と返事をしてから、恐る恐るハンバーグを口に運ぶ。見つめすぎても食べづらいだろうから、私もお弁当に手をつけた。

 今出てきたようなくらい、あたたかい。ハンバーグは肉汁がたっぷりで濃いめのデミグラスソースに合っているし。ごはんはほかほかで粒が立っていた。

 付け合わせのフライドポテトは、中はしっとりめの太いやつ。私が一番好きなタイプだった。嬉しくなってほくほくと頬張れば、蓋の上にポテトが増えていく。

「好きでしょ?」
「覚えてたの?」
「忘れてたけど、顔見たらわかった」

 そんなに嬉しそうな顔で頬張ってたのか、と恥ずかしくなりながら、ありがたく貰う。お弁当の半分くらいを私に渡して、文香は食べ切った。ジンギスカンの時から比べれば、だいぶ食べられてる方だと思う。

 私も文香からもらった分も合わせて、胃の中に落としていく。身体の中心からあったまって、今なら、なんでもできそうな気がした。

「ごちそうさまでした」

 二人で手を合わせれば、文香はゴミを片付けて、また立ち上がる。

「また観光?」
「うん、ちょっとだけ見てこようかな」
「車、運転するなら鍵渡すよ」
「大丈夫、歩ける範囲だけ行ってくる。ホテルのお土産屋さんも面白そうだったし」
「一緒に行けなくてごめんね」
「気にしなくて大丈夫!」

 文香は「じゃーね」と小さく手を振って、部屋を出る。私は先ほど片付けたパソコンをもう一度開いて、睨めっこし始めた。ちょうど、取引先からのメールが届く。開けば、つい、眉間に皺が寄ってしまう。

 若い女の子だから、とか、未経験でしょ? とか。最初の方に言われたことを引きずってしまうのは、私の良くない癖だ。ドロドロとした感情を飲み込んで、返信と今日作った動画のURLを送りつけた。

 パタンっとわざとらしく、音を立ててパソコンを閉じる。青々とした湖は変わらず広く、穏やかだ。私の心も同じくらい、ずっと穏やかでいられたら良いのに。小さいことに心を乱して、まだまだだな、私。

 目を閉じれば、急に眠気が襲ってきた。文香とはいえ、ずっと誰かと居たから疲れてるのかもしれない。もう一つの締め切りは、明後日までだし。まだ、少しだけ余裕がある。

 ある程度の形は出来ているから、文章を盛って、面白く読めるようにするだけだし。少しだけ、眠ってしまおうか。

 欲に忠実で抗えない怠惰な人間。嫌になるくらい、ダメだ。

 ベッドに移動して、目を閉じ直す。あの頃の文香とのやりとりばかりが、思い出のような、夢のような。淡い色で、浮かび上がっていた。

「あれ、寝てんのー?」

 文香の声に目を上げれば、窓の外はもう、うっすらと夜を連れてきている。軽く寝ようと思っただけなのに、ぐっすり眠ってしまっていたらしい。

 起き上がろうとすれば、頬にふわふわの何かが触れた。手探りで掴めば、細長い、ぬいぐるみ?

 目の前に持ち上げれば、茶色のおこじょのぬいぐるみ。何か聞こうと文香の方を見れば、文香の手元には白いおこじょ。

「なにこれ」
「私ね、欲しかったんだよねぇ。このぬいぐるみ」
「修学旅行の時から?」
「そう!」

 私の前で操るように横に揺らして、にししと口元を緩める。そっと撫でてみれば、文香みたいだなと思う。つぶらな瞳でまっすぐこちらを見つめている。少しだけ遠慮がちに手を伸ばして。

 可愛くなってうりうりと撫でてから、文香の方に差し出せば首を横に振られた。

「え?」
「それは、結梨の」
「はい?」
「色違いの、お揃いに、しない?」

 こんな年になって、とも思ったけど。ぬいぐるみは嫌いではない。寂しい一人旅の相方にするのもいい。文香と別れたら、助手席に座らせてやろう。

「ありがとう」
「なんか、高校生っぽくない? 色違いのお揃い」

 ふわりと浮かぶ記憶。いるかのキーホルダー。お揃いの缶ケース。たくさん、たくさん、お揃いのものがあった。文香とだけ。文香はいろんな友達とお揃いを作っていた。匂い付きのペン。同じ機種のケータイ。後ろに貼られたプリクラ。

 ちょっとだけ羨ましさと、憧れはあったけど。私はそんなことに時間を使うなら、ゲームをしていたかったし、家に居たかった。部屋だけが、私の居場所で、学校は修行の場だったから。

「懐かしいね」

 曖昧に笑って誤魔化す。懐かしい気持ちと、さもしい気持ちが、交互に迫ってきて、おかしくなりそうだった。思ったよりも私は、寂しかったんだろう。一人でしかいられないのに、一人でいるのが寂しい。馬鹿げた自分の考えに、泣き出したくなった。

 あの頃から、何も成長してない。何も変わってない。

「結梨、大丈夫?」
「え、大丈夫だよ」
「ごめん、間違えた。話せることなら、話して。聞くくらいなら、今の私にだってできる」

 文香の言葉に、息を飲み込む。文香は、いつだって優しくて、暖かくて、羨ましい。そして、私は嫉妬して、そんな自分が嫌になる。でも、文香とだけ。文香なら、一緒に時を刻める。そんな事実が、胸を締め付けた。